北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
「単経たちは喜んでいるようですな、李師殿。あなたの、思惑通りに」
「いや、私は彼女等を喜ばそうとしたわけではないさ」
僅かな余裕と、疲労。
それらを滲ませながら、李師は軽く肩を竦めた。
「公孫伯圭の反抗期作戦ですか。どうにも語呂が良くありませんな?」
「言わないでくれ。そこまで考えている暇がなかったんだ」
従順な質である公孫瓚は、治世の君としてならば極めて良質な器を持っている。だが、いつまで経っても『李師が言うなら正しいんだろうな。理屈も通ってるし』では良くない。
自分の意志で、李師の意見を跳ね除けるような強さがなければ乱世で生き抜くことは難しいのだ。
「それにしても、あなたが己から動くとは意外ですが、タネはどうしたのです?」
「彼女の生い立ちは、そりゃあ悲惨だった。身分の卑しさの為に周りによってたかって虐められてたものさ」
「…………なるほど、董卓と己を重ねたわけですか」
李師は受動的な人間であるということは、諸歴史学者の一致する見解である。
彼は主導で乱を起こそうとはしないし、軍事行動を起こしたことがない。一見主導的に見えても裏、或いは前後する出来事への対策として行われた物がほとんどであり、それは彼の野心のなさと双璧を構成し、アキレス腱とでも言うべきものになっていた。
彼が主導的に動くことはない。何者かが動き、ドミノでも倒していくようにそれが結果的に彼に結びつく。
今回彼が一見主導的に動いたのも、その例から漏れぬものだった。
「……まあ、彼女は私にとって教え子のようなものだからね。成長させてやりたい親心のようなものが、あるわけだ」
「単経のこともありますしな」
「うん?」
本気で眼中になかった人間特有の疑念と驚きをごっちゃにしたような呻きを上げ、李師は適当に頷く。
「あぁ、そうだね」
「まあよろしいですが、時に目の前の小石を見ることを覚えられたほうが良いと思いますぞ」
「ああ、覚えておく」
手をひらひらと振ってこれからも考える気がないことを如実に示し、彼は執務に戻り、趙雲は練兵場へと戻る。
その、直後のことであった。
「李師様、お客です」
「客?」
取り敢えず使用人には通すように言ったが、正直なところ候補者が居ない。家中の者であれば使用人は実名を言うだろうし、如何にすれ違いざまとはいえ不審者を趙雲が素通りさせるとは思えない。
さあ誰だ。
そう思った彼が応接間へ足を運ぶと、そこには既に二人の女性が鎮座していた。
(あれは華雄じゃないか)
この時点ですでに嫌な予感しかしない彼は、黙って彼女らの前に座る。
それを見計らってと言わんばかりに、二人が同時に頭を下げた。
「無能非才の身にどうか智慧を、お貸しいただきたく存じます」
「お願い致します」
「…………」
帽子を右手でもって外し、左手で頭を掻く。
どうすればいいか思案するときの、彼特有の動作であった。
「えー、董卓軍の名将たる張左将軍と、同じく董卓軍の驍将たる華偏将軍。どうなされましたか?」
「敬語はやめていただきたいのです、李師殿」
華雄からの懇願にも似た頼みに圧され、ひとつ頷く。
彼は、彼を無邪気に頼ってくる人間を無碍に放逐させることができるほど冷血ではなかった。
そして、ついつい世話を焼いてしまう。結果として、巻き込まれる。
彼の人生はこれによって成り立っていると言っても良い。
「で、二人は僅かな供回りだけ率いて幽州に来た。それはわかる。冀州牧の印綬を持ってきてくれたんだろう?」
「はい」
田偕をして内密に董卓軍に味方する旨を伝え、その一環として冀州牧の印綬を要求した。
これは民を納得させる為であり、袁紹という大義を身に纏った敵と戦うには必須であることを重ねて趙雲に説明させ、公孫越をして冀州牧に任ずることになったのである。
だから印綬を運ぶためにこちらに使者が来ること自体は変ではない。むしろ歓迎すべきことだ。
しかし何故、主戦力たる二人が来るのか。そこが彼にはどうにも解せない。
「……何故、お二方が来られる?」
「敬語はやめていただきたい」
「来るんだい?」
さっさと辞儀をただして敬語を直させる華雄に代わり、口を開いたのは張遼。字は文遠。官職は左将軍で真名は霞。
董卓軍一の宿将にして智勇兼備の名将というべき将軍である。
「知恵を借りたいんや。単刀直入に言うと、ウチらと一緒に汜水関に来てほしいねん」
「……いや、私も北方から袁紹を威圧しその補給線を絶たしめるという役割があるんだけどね」
彼の立てた作戦の概ねは、『楽して勝とう』というものだった。
自分たちは異民族に攻められたと偽って不参加を決め込む。
袁紹も馬鹿ではないから主力の一部を冀州に残さざるを得ない。
ここで烏丸の頭目丘力居に并州を攻める素振りをしてもらう。
冀州に残す部隊とは別な一隊を、袁紹は并州にも残さざるを得ない。
必然的に、動かない曹操にも手を打たねばならないから、ここも兵を分けることを強いられる。
ここで袁紹軍の兵力は悪くても三分の二まで、良ければ半減する。半減しても四万あるが、十万よりはマシだった。
そして、ここではじめて公孫越が冀州牧の任辞を受け、袁紹へ冀州の返還を要求する。
袁紹は、経済面においても軍事面においても断らざるを得ない。
公孫瓚が袁紹の非を鳴らし、攻め込む。ここで袁紹は『偽の勅令である』というかもしれないが、それは容易に対処が可能だった。
それと同時に烏丸の頭目丘力居も、并州に攻め込む。
董卓軍は連合軍を引き付け、兵糧が尽きるのか、冀州が併呑されるのを待つ。
勝った。連合軍解散。
殆どが『せざるを得ない』状況に追い込んでいるあたりに彼の戦略家としての手腕の一部が垣間見れるが、これには成功条件があった。
まず、冀州牧の印綬を得ること。これがなければ公孫瓚は冀州に攻め込めず、大義の得ようがなくなる。
そして第二に各勢力の行動を調整して連携を円滑化させ、不測の事態に対しては高度な柔軟性を持って臨機応変に対処できる調整役を得ること。
これは、李師こと李瓔があたる。
ハズだった。
因みに他の面々は単経は軍事面から一歩踏み出すと思考の硬直を招く公算が大であり、田偕は異民族を蔑視している為論外。唯一それができる厳綱は重病で激務に耐えられるとは思えない。
董卓軍の面々では張遼がその任に耐えるが、連合軍に攻められる為に外部との連携が困難。
趙雲ならばできなくもないが、階級が低いし軍歴も浅い。諸将の賛同は得られないだろう。
「……そんなことは知っとる。宦官のお歴々が作戦計画立てた奴がおらんと心配やー言うて煩いんや。だからまあ、形だけやな。断ってくれてええで」
「え?」
驚いている華雄を他所に、張遼はざっくばらんにそう打ち明けた。
董卓陣営は一枚岩ではない。己の弱みを吐き出したことこそが公孫瓚陣営に対しての誠意であり、彼女の上に立つものが無能ではないことの証左であろう。
「……賈文和殿は涼州一とも言われる智者。それがなんの動きも見せないとはおかしいと思っていたが」
内部抗争と、司隷を含む河内の政務。忙殺されるには充分過ぎる程の質量と密度を含んだ重石だった。
このような仕事を一手に引き受けざるを得なければ、当然外部からの目に見えぬ悪意などに鈍化せざるを得ないだろう。
「それにしても、まだ河内・司隷には内政官の任に耐える名士が居たはずだ。後知恵だが、彼等彼女等に任せてしまうことはできなかったのか?」
「……奴らは逃げました。涼州の蛮人の下風になど立てぬと言って」
華雄の言葉に、思わず彼は頷いた。
さもありなん。そう言えるだけの説得力が、その言葉にはあったからである。
涼州とは、古来脈々と受け継がれる叛乱の震源地。最前線と言えば聞こえはいいが、漢民族というよりは異民族の血の方が濃いとすら言われる僻地でしかない。
彼自身は征北将軍として并・幽・冀の三州の兵を統合し、野心に燃える南方の豪族等も糾合して戦ったことがあるから差別意識はないが、中原から出たことのないような名士たちからすれば、涼州人たる董卓に仕えるなどその血と気位が許さないのも無理はなかった。
(だから袁紹陣営が充実してきたのか。このことも考えてこの度の反董卓の檄を発したとすると、袁紹の知謀は深く、広い。或いは何も考えてないが故に、感情と自陣営の欠損部を補えたのか……わからないが、そう上手くはいかなそうだな)
一先ず二人を『考える時間をくれ』と下がらせ、件の征北将軍時代の部下を指を鳴らして呼ぶ。
背後に呂布がいない時、天井裏には彼女が居るのが通例だ。
今回も、それを裏切ることはないだろう。
「お呼びでしょうか」
「袁紹の策略で董卓陣営に赴くことになるもしれない。参加諸侯に対する情報を集めてきてくれ」
「はい―――」
陰謀渦巻くこの戦乱の世。
誰が仕掛けたかを特定するのは難しいができないこともないだろうと、李師は静かに考えた。