北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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空白

年が明け、186年1月。

本来は新年祝賀の式典の主催者であるべき公孫瓚が幽州内の意思統一と軍の目的意識の統一に奔走し、単経・田偕らが真面目に取り組んでいる時、公孫越と李師は袁紹領である并州と幽州領の境にまで来ていた。

 

結局のところは豪族連合国である公孫瓚陣営で、李師は孤立を囲っている。

豪族という名士から見ればくだらない誇りと縄張り意識に塗れた人間たちと、その理解者であり領袖である単経・田偕たちが彼に功績を独占されることを望まなければ、彼は豪族たちの力を借りることができない。

 

当初はこの消極的ボイコットによって自分たちの都合を通そうとしていた彼等も、李師が彼等の誇りや意地を心の底からどうでもいいと判断し、『理解を得なくても勝てる』とばかり豪族等の兵力を必要とせずに勝ち続けていることがわかると、この消極的ボイコット作戦を止めた。

 

つまり、名士と豪族の全面対決に入ってやろうと試みたのである。

 

名士側の領袖は、本人には不本意ながら李瓔。参加者は新参者が多く、韓浩・劉馥・杜畿など彼個人の名声によって公孫瓚陣営に加入した者と、審配ら最前線の指揮を任される指揮官。それに李師軍団の構成員と言うべき呂布と趙雲と田予。

 

豪族側の領袖は単経と田偕。構成員には王門・李雍・范方・文則・鄒丹・関靖ら、百を超える豪族達が名を連ねる。

 

整理すると、こうなった。

 

名士派には李瓔(全軍総司令官)、田予(全軍副司令官)、韓浩(降兵宣撫・民政担当)、劉馥(財政・築城担当)、杜畿(後方支援・兵站担当)、呂布(親衛騎隊長)、趙雲(私兵統括)、審配(漁陽太守)。

 

豪族派の領袖は単経(冀州方面司令官)、田偕(并州方面司令官)、王門・李雍・范方は并州方面司令官直卒の部隊を率い、文則・鄒丹・関靖らは冀州方面の部隊を率いる。

 

中枢神経と末端神経が正面衝突しかけていることが、公孫瓚陣営の最大の弱点だった。

両者の溝からなる対立は袁紹陣営や曹操陣営にも見られたが、お互いに尊重し合っているところがある為に決定的なところまでは進んでいない。

 

だが、公孫瓚陣営は袁紹・袁術による情報操作や扇動によりその溝が更に深く掘り下げられている。

更には戦意過多・能力過小の単経と戦意過小・能力過多の李瓔こと李師の相性は最高に悪かった。

 

李師にとっての戦いとは純粋に数値と心理学的な物だが、単経にとって戦とは何よりも必勝の信念が肝要なものであり、その信念に欠けながらも敗けることのない彼は憎悪すべき対象でしか無かったのである。

「公孫越殿、では状況に応じて高度な柔軟性を以って臨機応変に対処するようお願いします」

 

所謂名士派に属する公孫一族である公孫越と、李師は親しい。というよりも、自分と親しもうとする人間と彼は親しかった。

 

これは別に彼が己に阿る人間を好むとか、そういうこととイコールではない。純粋に人付き合いが苦手で、向こうから声をかけてくれないとどうにも初対面の人間とは打ち解けられないのである。

 

だからこそ公孫述・公孫続は豪族派に、公孫越・公孫範は名士派に流れた。

単経も、『私は遼西の豪族、その元締めなのだから向こうから来るべき』というスタンスを崩さず、それに対して李師が『関わり合いたくないならそれでいいや』と放置していた結果によってこうなっている。

 

親しい人間以外には心を開かない閉鎖的なところと個人の誇りとか矜持とかに付き合おうとしない性質が、彼の人間関係に齟齬を生んでいた。

 

「そちらこそ、御武運を。言わぬようにとのことでしたが、あなたが家中で疎まれておられることに対し、姉は色々と手を回しておられます。帰ってこられる頃には、幾分かマシになっているかと」

 

并州と幽州の州境まで送りに来てくれた公孫越に一礼しつつ、李師は帯同する呂布と趙雲と田予を含む五千の兵と輜重を帯同して并州をしずしずと抜けていく。

彼は、この出兵には反対だった。幽州から司隷に至るまでの補給線の構築は困難であるし、何よりも袁紹が五千もの兵をやすやすと素通りさせるとは思えない。

 

しかし、纏まった兵力がなければ援軍にはなりえない。そこをどう解決するか、彼は悩んでいたのである。

 

出発する、前までは。

 

「……そう巧くいきますかな?」

 

「いく、筈だ。少なくとも理論上、我々が通る道は戦力の空白地となっているからね」

 

援軍には纏まった兵力がなければならない。

纏まった兵力は敵性地帯を抜けられない。

 

この二つの難問にすっかり頭を悩ませてしまった彼を単経ら豪族派がニヤニヤと面白げに見つめ、公孫瓚が『やっぱり援軍はやめよう』と助け舟を出そうとした瞬間、彼は閃いた。

 

「補給線の構築を放棄した以上、恒久的にこの道を確保する必要はない。少なくとも并州を抜けるこの十五日間の間に敵の戦力が空白、ないしは希薄であればいいわけだ」

 

袁紹本軍に并州軍が合流せんと進発したと時を同じくして州境に待機させていた五千の軍に進発を命じ、并州に待機した敵の予備兵力を烏丸の侵攻によって北に貼り付け、予め曹操の不参加を喧伝することによって冀州方面―――南に貼り付ける。

中央部の兵力を限りなく薄くし、もっとも重厚な兵力を保持していた中央部を突き破って進むという魔術めいた方法が、彼の言う『戦力の空白化による一定期間の間の道の借用』だった。

 

「とは言いますが、結局董卓袁紹の軍との衝突は避けられないではありませんか」

 

「もっともな懸念だね。しかし、それには及ばない」

 

赤兎馬に騎乗した呂布の後ろに乗っているというなんとも情けない格好を晒している李師は、常の温和な体を崩さずにふわりと喋る。

およそ武将らしからぬ風貌は、彼の特徴の最たるものだった。

 

「その頃袁紹は董卓軍の出城を攻めている。補給線の構築と、その確保の為に、ね」

 

「つまり、集結した連合軍は真っ直ぐ汜水関には向かわない、と?」

 

「そりゃあ、後ろで蠢動されたんじゃ戦にならない。そう、田豊や沮授あたりが進言するだろう」

 

事実、彼の言う事は当たることになる。

真っ直ぐ汜水関に向かおうとした袁紹を諌め、田豊が補給線の構築を提言。『雄々しく華々しい戦いには下準備が肝要です』ということで、補給線の構築に邪魔となる城を囲み、或いは攻めていた。

 

これが後方に曹操という不確定要素を抱えていない状況だったのならば、或いは一直線に汜水関へと驀進したことだろう。

しかし、曹操の不戦は領地の関係上、『行けなくはないが補給線が細くなる』ことを意味していた。

 

その細くなった補給線は、切断することが容易である。

史実ならば幾重にも作れたであろう補給線は、曹操によって一本に絞り込まれてしまっていた。

 

「そこまで折り込んで曹兗州を?」

 

「位置的要素・人材的要素・物質的要素。この三点に於いて曹操陣営という存在が脅威ならば、これを不活性化さしめれば敵は位置的要素・人材的要素・物質的要素の三種において浅からぬ傷を負う。子供でもわかることさ」

 

結果だけ見れば、袁紹は補給線の構築を後回しにして遮二無二汜水関へと赴き、公孫瓚陣営と董卓陣営との合流を防ぐほうが良かったと言える。

だが、この時の一般的な見方からすれば公孫瓚陣営が地理的にも人員的にも有効な援軍にはなりえないこと。

 

これを加味すれば、田豊のとった術策は決して間違ったことではなかった。

 

現にこの時、『公孫瓚陣営は援軍足り得る』と読み切れたのは、『あの魔術を弄す李仲珞ならば何とかするだろう』と見ており、その為の工作に乗らざるを得なかった曹孟徳ただ一人だったのだから。

 

そして彼の魔術と称されたこの策は『援軍として赴く』。ただそれだけの為のものであり、補給を董卓に任せっきりにしていては到底正規の策とは言い難い。

尤もこれは董卓側に物資的余裕があり、地理的暴虐に抗しがたい彼としての窮余の策としか見ていなかったのだが。

 

「……よぉこれたな、自分」

 

一応、指定された十五日後に指定された地点で待機していた張遼の第一声がそれだったあたり、彼の行軍方法が当時の常識を破壊しているものだというところが伺えるだろう。

 

尤もこの策は胡散臭すぎて、なお且つリスクと指揮の難度が高すぎて誰もやろうとしないようなことを思いつき、よくもまあやり遂げられたものだという『奇策』に類していた。

補給線の構築を投げ棄てるのは悪しき先例となりかねず、できれば彼はこれをやりたくはなかったのである。

 

「あ、いやいや!違う違う」

 

窮地を救ってくれたことに対する礼より、異次元から味方が現れたかのような自体に対する驚きが先に立ってしまった張遼は、慌てて首を横に振った。

 

「ありがとう、ホンマに。この恩は一生忘れん」

 

「味方するよう言い出したのは公孫幽州様です。私はその実行者に過ぎません」

 

「それでも、な。北から牽制してくれるだけでも有り難かったんやけど、こっちには伝わらへんから……正直、目に見える形で来てもらえば、兵たちの士気も違ってくるんや」

 

あくまでも己を実行者に徹し、李師は公孫瓚の意思に拠るところが多いことを明確にしめす。

彼からすればこの征旅における驍名も悪名も、あくまで帰するところは公孫瓚という一個人であり、その帰する名をいかに高いものにするかが己の手腕として問われていると、彼は思っていた。

 

しかし実際のところ公孫瓚の名は彼女自身の行動によってしか上がりようも下がりようもなく、ここで精妙な巧緻さを以って得た驍名と負けっぷりによる悪名は彼に帰する。

そして董卓陣営の好意というべき感情もまた、彼に帰するのだ。

 

ここは彼が軍の体系と君主と臣下の体系とを同一視していたからこその錯誤であり、彼が望むところが己の名を上げるような意思に欠けるからである。

そしてこの征旅が更に彼の名を高めることになり、一旦埋もれた彼の名を世の人々の意識に再度植え付けることになろう。

 

なにせ、今回隠れ蓑というべき総大将を担ぐことはできないのだから。

 

「ほな、こっからはウチらの縄張りやからな。苦労はあんましないと思うで」

 

「そう有りたいものです」

 

彼と呂布が乗る赤兎馬と、張遼が乗る黒捷。

稀代の名馬二頭が馬主を並べて董卓陣営の最前線となるであろう汜水関に到達したのは、186年1月下旬のことであった。

 

汜水関。中原と呼ばれる広大な平野を紐で括ったように狭くなった通路に壁を差し込んだかの様な狭隘な地形に設けられた関である。

 

この関は本来、それほど壁は高くもなかった。董卓陣営が『袁紹と戦うことになる』と判断した時に応急的に補修され、大した仕掛けもないままに壁を積み上げて防御としていた。

 

董卓陣営の主力である騎兵が展開しにくいものの、守るには易く攻めるには難いと言えるだろう。

 

公孫瓚陣営の援軍を加えた董卓陣営は、一先ずここで連合軍を迎え撃つことになるであろうことは誰の目にも明らかだった。

 

 


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