北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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暗闘

呂布は、むくりと上体を起こした。

軽く柔らかい布を使った胡服状の寝間着に包まれた身体は、ものの二秒とかからずに覚醒する。

 

横で目隠しを巻きながら無警戒に爆睡している男と、同じ生物とは考えられない程に彼女のそういった感覚は優れていた。

 

「…………」

 

この男を起こすか、起こさないか。起こしても戦力にはならないが、逃がすことはできる。

しかし、逃がしてふらふらと歩き回らせてもどうせ死ぬような気も、しなくもない。

 

寝ている時と起きている時の反応の差を鑑みても何の差も見られないが、それでも回避行動くらいは取れるかもしれなかった。

 

「嬰、起きる」

 

「……あと十刻」

 

一日の約八分の一を追加の睡眠時間として要求した李師の驚嘆すべき怠惰っぷりはいつものことであったが、この時ばかりは真っ当な要求であると言える。

なにせ、まだ太陽が昇るには早い丑三つ時なのだから。

 

「だめ」

 

「……あと九刻、いや、七刻。四刻でもいいから寝かせてくれ」

 

完全に言葉が眠そうで朧気なものであることに一種の安堵と日常的な温かさを感じながら、呂布は明確に拒絶した。

 

「だめ。起きる」

 

「……今何時?」

 

「まだ暗い」

 

正確な時間がわからない呂布の解答に返す言葉も持たず、遂に呂布の分の布団をも引っ張りながら身体を布団に包み、更に惰眠を貪ろうとした瞬間、呂布は李師を起こすことを断念する。

 

足音が近い。もう起こそうとする努力よりも、敵を殺す努力に精励すべきだった。

 

もちろん、近づいてくる足音は常人どころか練達の兵士にもわからぬほど極微小なものである。

それを苦もなく察知できるあたりに、呂布の常人離れした能力が伺えた。

 

「……うるさい」

 

ヒタヒタヒタヒタ。そんなに足音を鳴らせば李師が起きる。

いっとき前までは己が起こそうとしたことを棚に上げ、呂布は可能な限り小声で、目の前の隠密に伝わる程度に呟いた。

 

部屋に入ってきた瞬間に距離を詰めて首を左手で鷲掴み、肺への酸素供給を絶って、殺す。

血の臭いで李師を不快にさせることなく殺すには、これが一番手っ取り早い。

何より、死した後の遺留品が一つに纏まってくれれば、処分もやりやすかった。

うっかりすると首の骨を折ってしまうから力加減が重要だが、その力加減は彼女の得意とするところである。頸骨を折ることなく気道のみを潰し、すみやかに敵手を絶息させた。

 

もっともその絶息は永遠に続くものだったが。

 

「……!」

 

無惨に殺された同僚の屍体を見て無言の気合を放った後続の三人と、天井からの二人。

剣と暗器で武装した精鋭五人を血の一滴も流すことなく制圧し、呂布は念の為に李師の無事を確認する。

 

「……」

 

暗闘の物音など意に介すことなく、彼女の保護者は未だ睡眠の揺籃に揺られていた。

頭を使うのも疲れるし、何よりも宦官という寄生虫が臆面もなく己を呼び出そうとしたことが、彼の精神の疲労を誘っていたのだろう。

 

もしこれが一連の策謀ならば袁紹はその楽天的で周到な君主という評価の陰に、誰から気づかれることのない『人類史上屈指の謀略家』という名を冠すに相応しかったが、これは単なる偶然の一致であった。

 

一先ずの、脅威は去った。

そう判断した呂布は四半刻(五分)に満たない時間を活用して寝間着を脱ぎ、彼女の保護者が買ってくれた特徴的な革の戦闘装束に身を包む。

 

次なる来訪者が訪れたのは、それからすぐのことであった。

 

「隊長、李師殿は無事ですかい?」

 

「馬鹿だなお前。形だけでも隊長の心配も―――」

 

他と比較しなくとも良質だとわかる美声だとはいえ、彼女がうるさいと形容したあの侵入者より数百倍はうるさい二人組が顔を出し、襟元引っ張られて肉体言語で窘められる。

 

そしてこの辺りで、李師の意識は睡眠の揺り籠から叩き落とされていた。

 

「李師殿も隊長も、ご無事で何よりです」

 

脳天に強かに打ち下ろされた拳を軽く喰らい、形式とばかりに痛がっている二人から更に一歩前に出つつ、副官たる彼は僅直さを崩さず安堵を伝える。

 

それを見た二人もついでとばかりに姿勢を正し、辞儀を正しながら主君の言葉を―――形式上は主君ではないが―――待った。

 

「…………何があった?」

 

「……侵入者」

 

呂布の言葉は常に簡潔さを失わない。一言に要点を含ませ、問われたことを的確に示す。

 

「…………なるほど」

 

彼女の装束、三人の持つ武器から滴り落ちる血。

呂布の努力が無になったことを彼は悟り得なかったが、散乱する五人の死体とそれらの非常事態を思わせる光景を視認したあたりで意識を覚醒させた。

 

といっても、常の明敏さがあるわけではない。まだ鈍いし、不審者に名を呼ばれたらうっかり立ち止まってしまうほどには意識の明度が沈んでいる。

 

「……で、私は何をすればいいんだい?」

 

「寝てていい」

 

「死人と同室になるのは、墓の下だけにしたいものだな」

 

相変わらず言葉の端に冗談とも皮肉ともつかないものを漂わせている李師の意志を明確に汲み取り、四人の卓越した戦士は無言の内に決断した。

 

「高順が後ろ、成廉が右、魏越が左、恋が前」

 

各員一様に了解を返し、武器を構える。

兵卒とは思えぬ武技の平均値を誇る親衛騎においても一際見事なものを持つ四人が前後左右を固めれば、千くらいならば無傷で李師を護衛しきれるという自負があった。

 

流石に呂布でも、千人が一斉に護衛対象を狙って矢を放てば負傷は避けられない。百人くらいならば何とかなるかもしれないが。

 

「李師殿。次回の戦で吾々の出番はありますかね?」

 

「全力を尽くさないと勝てない以上、精鋭を遊ばせておくほどの余裕を、私は持ち合わせていないな」

 

彼は兵の練度を軍隊機動の精密さに対する期待値には含むが、兵力差を覆す値としては含まない。

つまり、『呂布は一騎当千。だから一人で千人に勝てる』という計算式は彼の中で成立しないのである。

 

特定の個人の、或いは集団的な戦闘能力の非凡さに凭れ掛かることはしなかった。

それは彼の個人的な拘りかもしれないし、将としての矛盾かもしれない。

 

「なら何故前回使ってくれなかったんです?

吾々は百で千に勝てる。こいつは誇張であっても虚構ではないと思いますが」

 

いつもの彼ならば二秒のところを十秒かけ、鈍化した思考に鞭を入れるでもなく、彼は暫しの沈黙の後に口を開いた。

 

「私は個人や特定の部隊の非凡さ、優秀さを基盤にして作戦を立てたくはないと思っている。誰でも出来るようなことを非凡な部隊に任せれば被害は減るし、非凡でなくとも想定内に収まるわけだからね」

 

「なるほど。その結果吾々には回す役が矢を放つという誰でも出来るようなことだった、と」

 

「そういうことになる」

 

李師はとりあえずといった形で魏越が呈した疑問の前者に答え、李師はあまり活性化しているとは言い難い頭を回転させる。

「それに、君。君たちは『君たちなら強いから百倍の敵に勝てる。だから行ってこい。策は特にない』というような将を正気で担げるのかい?」

 

「少なくともあなたが言い出したら、吾々は何かの策かと思って担いでしまうでしょう。敵を騙すには、まず味方からとも言いますから」

 

「過度な信頼は事故の元だと、私は思っている。指揮官の頭の中身を疑うのも部下の仕事さ」

 

頭の動作が鈍いなりに冗談と皮肉のスパイスを利かせて答えを返す李師に、刃は迫ることはなかった。

敵の隠密も勝てない奴に挑むほど無能ではないし、あくまでも彼の暗殺は副次的な目標に過ぎなかったのである。

 

「おぉ、しぶとく生きておられましたか」

 

「そちらも相変わらず、殺しても死にそうにないことだな」

 

「当たり前でしょう。なにせ私は李師殿が何をやらかすかを見届けた後に二百まで生き、孫に『この婆いつ死にやがる』と厄介者扱いされながら好きな時に死ぬと決めておりますからな。戦死は柄ではありません」

 

「私ほど大人しく、温和で敬虔な人間もざらにはいない。君が三百まで生きたとしても、見届けるどころかやらかすところを見ることすらできないさ」

 

「ご冗談を」

 

角を曲がった先で三叉槍を担いだ趙雲と出会した末に皮肉をやりとりし、彼は皮肉をさらりと流して一行のメンバーに加える。

この時点で二千人が大挙して襲ってきても問題ない警護体制になっていることに、李師以外の誰もが気づいていた。

 

「それにしても皆様は忠義に厚いものですな」

 

「……少し、息が切れてる。子龍も大概」

 

部屋の割り当て的に真反対の距離から、五番目に駆けつける。

しかも、身嗜みを整えた末で。

 

「子龍、素直じゃない」

 

反論を封じる一手を放った末にほとんど完封で口達者な趙雲を黙らせ、不用意に嘴を突っ込んできたことを軽く後悔させるという偉業を達成した呂布は、その偉業に気づくことなく辺りに意識を飛ばす。

 

彼は楽毅の如き軍事能力と言われているが、彼女から見れば耿弇と岑彭を混ぜたような人物に見えた。

 

耿弇は光武帝二十八将の第四位。二十一歳の初陣から三十一歳で引退するまでほぼ常勝不敗。名門の御曹司という出自ながら、前線で騎馬隊を率いて各地を転戦。四十六郡を平定し、陥落させた城は三百。

敵群雄の一人、斉王・張歩との戦で方面司令官を務めた時は、情報操作を多用して五、六万の兵で二十万の張歩軍を壊滅させ、光武帝から国士無双・韓信の二代目と評価されている。

岑彭は光武帝二十八将の六位。もとは新王朝に仕えた地方役人。

水が関わる戦場に強く、光武帝の兄の一人と姉、その子供達を討ち取った。

その罪滅ぼしか、新王朝崩壊後、光武帝に仕えてからは征南大将軍として、敵が争って降伏してくる仁将として活躍した。蜀の公孫述軍が誇る水軍も完封。

また神出鬼没な軍の運用から『所向無敵(向かうところ敵無し)』と

歴史書に表現された最初の人物でもあった。

 

名門の御曹司でありながら最前線に立ち、不用意とは言え騎兵を率いて未だ不敗、というよりも負ける光景が浮かばない陸戦における指揮の卓越さ、引退の迅速さは耿弇に似ている。

幽州の河賊を束ねて兵站運用に活かし、水軍として運用。水のそばで戦う時は殆ど確実に大勝することの出来る運用の巧みさを持ち、陸路水路を適確に組み合わせた神出鬼没ぶり、無敵っぷりは岑彭に近かった。

 

何よりも岑彭に似ていると思うのは、その最期が暗殺に終わる可能性が極めて高いであろうと感じさせるところである。

岑彭はまともに戦ったら勝てないと見られ、逃亡奴隷を偽った敵の刺客に討たれた。

 

恐らくは、彼もそうなると理性は言う。

だが、同時に彼は不敗で、なおかつ不死の存在であるという信仰があった。

 

何倍の敵軍に囲まれても何やら愚痴を言いながら生き延び、死んだと思っても頭を申し訳無さげに掻きながら戻ってくる。

そんな幻想が現実であろうと信じる心と、幻想は幻想であろうということは歴史が証明しているということ。

 

彼の内にも蟠居している矛盾が、呂布の内部にも住んでいた。

 

「私たちはどこに行けばいいのかな?」

 

「とりあえず周幼平殿と合流し、親衛騎の面々を加えれば問題はないでしょう」

 

まだ目覚めきっていない彼の問いに、クリーム色と金髪を溶かして混ぜたような髪を持つ高順が答えた。

軍という大集団を率いるには最適な人格は、隠密との戦いに向いているとは言い難いらしい。

 

「では、そうしようか」

 

ポツポツと、親衛隊が集まり始めている。

大集団となっても城内での進退に困る可能性があるから小集団にわけて敵の撃退に向かわせているが、所在がないというのは彼としても不安らしかった。

 

「……こういう時は、下手に動かない方がいい」

 

「一人の時は?」

 

今言おうとする原則を、自ら現在破るような愚を彼女は犯さない。

その信頼があったからこその読み取りに、呂布はこくりと頷く。

 

「ん。位置、掴まれる」

 

武の階梯を登り、上層に至った極一部のものならば彼の不用心で不用意な足音から場所を掴むなど容易だった。

 

「なら、お前もわからないんじゃないのかい?」

 

「?」

 

匂いでわかる。

別に意識して口に出していないわけではないが、呂布は目の前にいる影を見て口をつぐんだ。

 

チリン、と。鈴が鳴る。

 

武器を構え、相対し、勝ち目がないと悟って逃げた孫呉の隠密の、それは僅かな残滓だった。

 

そして、明朝。

誰もが予想していなかった一軍が、汜水関に姿を見せることになる。


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