北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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墓碑

到着の後に軍容を整え、宛てがわれた部屋を起居するに相応しい場所へとすべく僅かな手直しを加えながら、夏侯淵は一人で部屋にいた。

彼女は基本的に社交的と言っても良い。人間関係に粗雑さを見せないし、渉外役としても有能さを見せる。

 

しかし、それは交流を好むこととイコールではないし、内面を全てさらけ出してしまえるような相手を持っているわけでもない。

 

彼女には敬愛すべき姉が居るが、肉親だからこその遠慮と配慮とが、その複雑な内面を表に出せない要因となっていた。

 

同僚も配下もそれを何となく察し、彼女の私室に入ってくることはない。だからこそ彼女は何回か扉を叩かれたことを、僅かな驚きで向える。

 

側近中の側近である典韋すら滅多に叩かぬ扉。それを叩く者は何者か。

 

さしあたり、この軍に知り合いも居ないし友も居ない。心当たりも、有りはしなかった。

 

「やあ」

 

開いた扉の先には、いまいち知性とか、颯爽さとかを見出し難い容貌をした男。

整ってはいる顔立ちだが、一際目立つわけでもない。しかし、温かみのある雰囲気が彼の身体を覆っている。

 

彼のことは、知っていた。

 

「李師殿か」

 

「如何にも。入ってもいいかな?」

 

「拒む理由もありません」

軽く頭を下げ、半開きの扉を開ける。

敵軍五万を過小な犠牲でもって悉く葬り去った智将を、夏侯淵は敬意で以って静かに迎えた。

 

「ありがとう。あと、敬語はいい」

 

「これは、失礼した」

 

少し、己は動揺したらしい。内面にも外面にも表れはしない程の微細なものだが、このような失態を犯すとはそういうことだろう。

 

静かに己の過失と心理を洞察しつつ、夏侯淵は一応持ってきた軍需品の酒と、道楽の為の杯とを見せた。

 

「貴官は、いける口か?」

 

「人世の友を拒むほど、狭量ではないつもりさ」

 

単身訪ねてきたことには触れず、李師は椅子に反対に跨る。

非公式なもの、気楽さを求めるものということかと、夏侯淵は見て取った。

 

彼は登竜門の孫。己は夏侯嬰の裔。

今どちらがより貴門なのかはわからないが、どちらも所謂貴族的な儀礼を身に着けていることは疑いない。

 

(いや、春蘭と同じ口ということも、あるな)

 

礼儀を知ろうともせずに我が道を驀進していた姉を思い浮かべ、苦笑する。

礼儀を知っててもやらないのか、礼儀を知らないのか、それはわからないが、己の敬愛する姉とかけ離れたタイプである尊敬すべき智将が同一項を持つことは、彼女にとって面白いと思えることだった。

 

「乾杯」

 

「乾杯」

 

腕を組み合わせて一杯目を乾し、戻す。

礼儀を知らないわけでは、なかった。動きの端々に気品がある。

 

「私はこちらから行くと、言ったはずだが」

 

「それでは礼を失する。同格の者に二度もご足労願っては、私は傲慢で鼻持ちにならない名族となってしまうからね。それは御免蒙りたい」

 

「そういうことならば、こちらにも非礼があったことになる」

 

問答の節目に釘を打ち、互いに謝して彼等はこれを収めた。

これから始まるのは礼儀のやり取りではなく、実を伴った言葉の撃ち合いである。

 

「正直なところ、貴官はこの戦どのくらい勝ち目があると思う?」

 

「二割」

 

もう何回もシミュレートしたのであろう。李師の解答は速かった。

 

「二割。案外と低い」

 

「期待値を抜けばこれくらいさ。蜀の東州兵が思った以上に強い」

 

「指揮官がいいのか、兵がいいのか」

 

薄く淹れた紅茶の色の瞳が鋭く光り、解答と或いは思案とを求める。

精鋭だけで勝てはしないし、名将だけで勝てはしない。そのようなことはお互いわかっていた。

 

「厳顔という攻守に優れた良将が、魏延という猛将を抑え、それを法正という軍師が管理している。中々に勝つのは難しそうだ」

 

「だが、負けはしない」

 

「ああ、負けはしない。貴女も居るし、勇将たる張遼も居る。負けることはないだろうね」

 

夏侯淵が空になった杯に酒を注ぎ、返しとして李師が彼女の杯に酒を注ぐ。

互いに容易に心を開かないからこそ、その会話は軽い鎧に包まれていた。

 

「戦略的には、劣勢。戦術的にはどうなるかわからないが……どうあれ私は貴官の指揮に従おう」

 

「それは嬉しい。曹兗州殿の旗下にあり、双璧と謳われた貴女を使いこなせるかは、わからないが」

 

酒を乾し、再び注ぐ。

悠々と互いに酒を味わい、胃に流し込んでいく時間が僅かに経った。

 

彼が訪ねてきた目的は、既に達成されているのだろう。つまり、指揮系統の統一と、感謝と。それを伝える為にここに来た。

 

「貴官は天下でも……そうだな、三指に入る用兵家だ。華琳様―――曹孟徳を一文で動かせなくし、五分させての各個撃破。見事なものだ」

 

「お褒めに預かり光栄だな。その三指の内の二人は貴女と曹兗州殿と、じゃないか?」

 

「その通りだ」

 

勇に傾いた曹操と、智に傾いた李瓔と、均衡がとれている夏侯淵。

彼女の中では、この中華において己の敬意に値する人間はただの三人しか存在し得ない。

 

姉と、主と、目の前の男である。

 

「貴官から見て、私はどうだ」

 

「というと?」

 

「私は、何だということだ」

 

軽く酒を満たした杯を傾け、夏侯淵は仄かな酔いを感じながら問うた。

己の中に蟠った疑念と、迷宮の如き複雑さが露出したと言っても良い。

 

これは相当に珍しいことであるし、少なくとも初対面ではないにせよ、それに近い相手に吐露するような人間ではないのである。

 

これは、とある一人の男が関係していた。

 

「北郷がな」

 

「それは真名かい?」

 

「姓らしい。真名はなく、名は一刀」

 

「珍妙でなくとも、異端ではあるな」

 

夏侯、など。二文字で姓となる人間も居るには居る。

だが、ホンゴウ、という響きにはどこか異国の響きがあった。

 

「それは天の御遣いかい?」

 

「そうだ」

 

別に漏らして構わないであろう情報が、夏侯淵の口から漏れる。

その天の御遣いというのは、彼女の中では大した比重を占めていない。だからこそ情報を漏らし、仮想敵に情報を与えていた。

 

「その天の御遣いは、人当たりがいい。社交性に富む、という枠に収まらない程に」

 

「羨ましいことだ。私なんかは、日々同僚との不和に悩まされているよ。単経とか、田偕とか」

 

「基本的に不用心で、貴官とは違い無鉄砲で積極的だからな。向かわれた方も、悪い気はしないのだろう」

 

言葉の端々に『自分は違う』とでも言うべき陰を忍ばせながら、夏侯淵は杯を乾す。

その動作の節々から不和の匂いを―――つまるところ、常日頃己が嗅いでいるのと同等のものを察知し、李師は黙った。

人間関係に対して偉そうに講釈を垂れることが出来るほど、己は優れた人間だと信じていなかったのである。

 

「私の姉とも仲が良い。主とも―――まあ、仲が良い。素直ではないがな」

 

「何かあったなら、訊くよ。有効策を示せるかどうかは甚だ疑わしいけどね」

 

「この中華において一二を争う智謀の持ち主も、人間関係に対しては楽にはいかないらしい」

 

「何せ、屈指の名将たる夏侯妙才殿も攻めあぐねていることなのだから、当然さ」

 

基本的には馬が合う二人の中で軽い冗談が飛び交ったのは、この時が初めてだった。

打ち解けてきたとも言えるし、互いに打算と利害を含めども理解しようとしているのが、大きい。

 

基本的には追いかけられるか、軽くやる気をなくして相手に向かって歩いているような人間関係の構築しかしてこなかった二人が、殆ど猛然と合流すべく走っているのだから。

 

「彼は貴官を恐れている。そして、私にも距離がある。恐れているまではいかずとも、避けている」

 

「私たちが同類に見えるというのなら、一体全体どこを共通項としているのか……と、いうことかい?」

 

「そこだ。私もそこがわからない」

 

口に出そうか、出すまいか。

しばらく逡巡するでもなく出たことに驚きつつ、同時に悪くないと思う自分が居る。

 

(華琳様とは、別な器か)

 

あくまでも苛烈な燎原を思わせる火の器と、静謐を保つ森か山かといった風情を持つ器。

こちらが話そうと一度思えばとことん話を引き出すような性格と、それが不快ではない風韻。

 

周りを魅せながら一生を燃やし尽くすというより、大樹となって他を堅固に支えていくと言った感じだった。

 

「我ながら、喋りすぎた。いつもはこんなことはないのだが」

 

「本音を吐露しないと鬱屈し、蟠る。毎日喋り過ぎるのも良くないが、喋り過ぎないのも良くはないんじゃないかな」

 

別に情報を引き出そうとしているわけでは、ない。

彼からすれば、夏侯淵と天の御遣いとの間は他の諸将と天の御遣いとの間とは少し違うと隠密から聴いた時にその不穏さは悟り得ているし、何よりも彼が己を警戒しているのも掴んである。

 

面と向かって『お宅の将は私を敵と見なしているようだ』と言えば、夏侯淵との円滑な協力関係の構築の妨げとなるから言わないだけだった。

だが、疑っている方からそれとなく切り出してくれたのならば蟠りはなくなる。なくなるとまではいかずとも、少なくなる。

 

少なくとも夏侯淵の態度には、今のところ敬意と観察と懊悩の意志しか見て取れないのだから。

 

「三ヶ月遅く、三ヶ月早ければ、か」

 

再び夏侯淵が口を開いたのは、三刻(一時間)が経った後だった。

その間に彼女の中で如何な葛藤のせめぎあいがあったのかはわからないが、飲み相手が口を開いた以上無視を決め込むわけにもいかない。

 

何より、この手の相手との会話は嫌いではない。

 

「……私が三ヶ月早ければ、何が起きるのか。貴官が三ヶ月遅ければ、何が起きたのか」

 

「そもそも、何を早めるか、何を遅めるか。それすらわかっていないのだろう?」

 

「そうだ」

 

断片的にしか、天の御遣いが彼女について漏らしたという言葉は夏侯淵には伝わってきていない。

彼も完全に疑ってかかっているわけではなく、少し苦手と警戒が混じっている程度な態度でしかないのだから、風聞となるには未だ青い。

 

何よりも、天の御遣いは不用意に人に対する天の知識を漏らさないという今までの評判が大きかったのである。

彼が今までやったことは讒言でもなければ予知でもなく、区画整理と警邏隊の創設、人材のリストを作っての提出といった地味な作業であり、三番目に至ってはその功績が知られてすらいないのだから。

 

「……貴女の言を聴くに、彼が警戒しているのは貴女ではないのではないかな?」

 

「どういうことだ?」

 

己を疑っているならば、夏侯淵とて嫌いようもあった。

しかし、その表現は微妙に色を異なるものにする。

 

疑っているというより、変化を好まない。それが一番しっくり来るような扱い方なのだ。

 

「これは『天の御遣い』の噂を聴き、言動を聴いた上で暖めていた例え話なんだ」

 

少し頭を掻き、姿勢を糺す。

決して侮ってならず、ヒントを探し当てることに卓越した男の、それは予言めいた予想だった。

 

「この世界が劇だとする。この世界にいる人間の全ては役者で、脇役から主役まで幅広く網羅している、と。世界と言う名の舞台の支配人は、演技の美しさと色鮮やかさを望む。

だが、吾々は台本は今やるべき一文しか読めないんだ。少なくとも、普通に生きている限りは」

 

「……だが、そうでないものも居る。私や孟徳様、貴官のように」

 

「そう。一部の目敏い役者は次にやるべき一文が読める。次の次も読めるかもしれない。しかしそれは役者としての延長線上にあることには変わりない。そうだろう?」

 

「ふむ……」

 

杯に注がれた酒を回しつつ、夏侯淵は視線と言葉とで先を促す。

 

「それで?」

 

「だが、天の御遣いは台本の全てを読める。全文を、全員分。だからこそ貴女が何をするかを知っており、それを変えようと注意深く見ている―――そうは、考えられないかな」

 

断片から全体を予測し、細部の精度を高めていくというのは彼の得意とするところであるが故に、その見方は概ね合っていた。

 

「……かも、しれんな」

 

「不本意かい?」

 

「と言うよりも、己が役者でしかないのは不満だ。どうせなら―――」

 

らしくない失言を言い放ちそうになり、夏侯淵は切り上げるように口を閉じる。

どうにも、彼と話していると口が滑った。内面が透ける、というのか。

 

不思議ではあるが、不快ではない。

 

「忘れてくれ」

 

「何も聴いてはいないから、忘れようもないな」

 

離間の計は彼の好むところではなく、決定的に非情になりきれないところに限界がある。

田豊も、沮授も。袁紹という巨人が持つ破壊力に指向性と智慧を与えている両者への信を失わせることなど、できた。

 

全知全能を以って、策と戦を両立させた上で全力を余すところなく駆使して叩き潰す曹操に、彼が明確に劣る点である。

 

「……それにしても、私はどのような死に方をするのか気になるところだ。己の意志と決意によって進んだ道の果てに死が私の命を刈り取ることを、願わずにはいられない」

 

「貴女が死ぬ時の舞台の名は、『名将の死』、といったところだと思うんだが、どうだろう?」

 

「単純ながら雅味があり、余計な装飾がない。誰かが私に死を与えるまで、その名に相応しい能力と精神とを保持しておきたいものだな」

 

空に近い杯に僅かに残った酒を傾け、夏侯淵は悪戯っぽい光をガーネットの瞳に宿しながら、返した。

 

「今、貴官の退場回の題目は決まった」

 

「是非とも、聴きたいな。あまり実現したいとは思わないが」

 

「魔術師還らず。これだろう」

 

「魔術師還る、と題目の変更を求める。私は自宅で死ぬと決めているんだ」

 

「それを言うなら私もだろう」

 

「どこで死のうが、死は死としか表せない。名将である限りはどこで死のうが名将の死、じゃないか?」

 

一本取られた。

そんな苦味と会話の楽しさが混ざった酒を、彼女は一息に飲み干した。




サブタイがこうなったら二人は死ぬ(明言)

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