北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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汜水関前哨戦・前編

一騎打ちで連合軍の将尽くが、少なくとも今は歴史上における呂布の引き立て役に過ぎないということを悟ったものはどれほどいるのたろうか。

少なくとも諸葛亮と鳳統と田豊、周瑜は悟ったであろう。

 

だが、そんなことを悠長に悟る前に彼女等にはやらねばならないことがあった。

 

配下の兵たちの動揺を収斂することである。

 

幸いにして。敵はこちらの数の利を誰よりもよく知っている名将。そう軽々と出てきはしないだろうし、向こうからすれば汜水関に籠もっていればまず安心なのだから出てくる理由がない。

 

連合軍は一万の兵を喪ったその日の夜の内に十里ほど陣を退かせ、軍の再編と動揺の収斂にあたっていた。

 

だが、その中にはやはり『もしかしたら華雄あたりが突っ込んでくるのではないか』と予想を立てるものも居る。

李師としては彼女を戦略予備、或いは決戦兵力と呼ばれる役割を配しているのだが、敵からすれば突撃してくるのはいつも華雄。

 

先鋒となって突撃してくるのは華雄だと、そう警戒する土台が築かれてしまうのも無理はなかった。

 

まあともあれ、華雄の兵力は大雑把に見て四千から五千くらいだと見積もった連合軍は、それなりの備えをした。実数は三千だが、突破力に関しては四千から五千と見立てられても少ないくらいなので、結果的には過小に見積もるよりも幾分か、マシになる。

 

 

しかし実際に来襲したのは、三万に及ぶ大軍であった。

西暦186年11月のことである。

 

 

「敵は鶴翼の陣形を取りました」

 

「では、こちらも鶴翼だ」

 

進出してきたが、自分から攻め立てる気はない李師がそう田予に指示すると、すぐさま左右が開いて翼となった。

 

中央部は李瓔、左翼は張遼。右翼は夏侯淵。兵力的には五分の一ほどの勢力が堂々と布陣して、進出しながらも待ち構えている光景を見て、田豊は頭を悩ませる。

 

これではこちらに勝ち目がある。今まで勝ち目が無かったものを、汜水関に籠もっていれば勝てるものを捨てて進出するだけの理由が、敵にはあるのか。

それが、田豊にはわからなかった。

 

「何を悩んでおられるの、元晧さん」

 

「何故敵は野戦に打って出たのかと言うことを、考えておりました」

 

「そんなことはどうでもいいでしょう?

穴蔵にこもっていた熊が出てきたのですから、これ幸いと討ち果たすべきですわ!」

 

それはそうだろう。しかし、何かが臭う。

野戦で以って少数で大軍を破るという戦術家にありがちな美意識と夢想に、敵が囚われたとも思えない。何せ、これまでの行動からしてそんなものとは対極にあるということが、彼女にはわかっていた。

 

「麗羽様、ここは一旦―――」

 

「全軍、前進。数の利を活かし、一息に揉みつぶしてしまいなさい!」

 

献策とも言えぬ疑念を呈さずに終わったことを喜ぶべきか、悲しむべきか。

現場の指揮から外され、幕僚となった田豊は、不安げな目線で前を見つめるのみであった。

 

袁紹の判断は、単純ながら正しいはずなのである。三万を相手に策を警戒して退いてはこんどこそ連合軍は崩壊するし、対陣したら敵が野戦陣地を構築し始めるだろう。

もう構築し終えたならば攻めないという選択肢もあるが、増加する戦力を手をこまねいて待つことなど、いまの諸侯にはできないのだ。

 

(選択肢が、一つしかない)

 

つまり自分たちは戦略的優位を保有しながら戦術上では崖の端にまで追い込まれている。そうではないのか。

不吉な予感とは裏腹に、一日目の戦闘は平穏な小競り合いに終わり、二日目になってようやく全戦線に渡って開始された。

 

「敵歩兵軍団接近、子の刻方向!」

 

「いよいよ、はじまったな」

 

寄せ集めとは思えないほどの素早さで、連合軍は鶴翼から鋒矢の陣形に切り替わる。

二日目の作戦方針は、まずは中央部を突破し、一気に決着をつけようというのものだろうか。

 

「よし、例の歩兵を横陣に展開。婉曲させて衝撃を受け流し、弓兵に掩護させろ」

 

「はっ」

 

さらさらと陣形が変わり、敵の突撃の衝撃でひしゃげたかの様に横形陣が曲がった。

半円のようになって抵抗する李師指揮下の歩兵部隊は、槍と盾とで武装している。つまり、完全に盾役として使われることが編成された時点で決定していた。

 

「戦局が安定しました。敵歩兵軍団、停止。李師様、圧し返させますか?」

 

「いや、こちらも半弦陣を整理。盾と槍とで防御に徹し、その防御陣の隙間から弩兵隊に攻撃させよう」

 

五万ほどの軍を相手にするはずが、七万ほどを傾けられている。

つまり連合軍は私の首にそれほどの値をつけたということか―――

 

そんな悠長な考えをなんの緊張もなく口から漏らし、田予と呂布に心配そうな目を向けられて、李師は黙る。

別に心配してほしいと思ったわけではなく感想として喋ったもので、それは謂わばジョークだった。

そのジョークが、恐ろしく下手なのが彼なのであるが。

 

戦線の維持に意識を傾け、的確に掩護と補填の指示を下していく傍ら、李師は次なる一手をいつ実行に移すかを考えていた。

 

圧し込まれているように見えるのは、とても良いことだろう。だが、一日目からの兵たちの疲労を考えれば長時間維持できるとも思えない。

 

「予備の歩兵は、あとどれくらい居る?」

 

「現在防いでいるのが千五百。残りは二千となっております。弩兵の射撃と防衛戦闘に徹させることによって未だ被害は微小ですが、すでに戦闘が開始されてから二日。疲労も溜まり始めているかと」

 

「なら、そろそろかな」

 

何故この時機に裏道があることを知らせるような形で奇襲をし、息をつかせる間もなく野戦に踏み切ったか。

それは、戦術的な理由というよりも彼が得意とする心理学的な要素が濃いであろう。

 

「華雄率いる予備隊以外の騎兵を八部隊に分け、呂旗を掲げて突撃させろ。派手な宣伝も忘れないように」

 

「……なるほど」

 

田予を通過した命令は濾過されたかの如く整然と、雑味なく実行に移された。

如何に策を講じても、部隊運用の名人たる彼女が居なければ十倍という馬鹿みたいな戦力差を前にして互角になど戦えはしない。

 

もっとも彼女も部隊運用の名人がいても戦えず、策を次々に立案する智将が居なければ十倍という馬鹿みたいな戦力差を前にして互角になど戦えはしないと、思っている。

 

互いが互いの価値を認め、十倍という戦力差をロマンチズムのメガネを通して見ていないところに、この組合せの秀逸さがあった。

 

「出撃用意完了」

 

「ただちに出撃させてくれ」

 

勿論、八部隊全てに呂布がいるはずも無い。アタリは一部隊のみである。

だがしかし、もうその旗を見るだけでも連合軍の意気は挫けた。

 

彼等彼女等は、昨日一万の兵を殲滅させられた後に行われた撤退戦において、門近くにまで追撃を行った五部隊が彼女一人に悉く撃退されていく様を見ていたのである。

殺した物が馬か牛ならば向こう三年は食うに困らないほどの肉を量産していく彼女を見た者は、昨夜出た夜食で滅多に食えない肉料理を他者にくれてやるほどの衝撃と恐怖を受け、明確な殺戮を齎す死と暴虐の化身を崇めるような気持ちすら感じていた。

 

結論として、呂布と相対することは彼等の中で死と直結したのである。

昨日ではなく一昨日起こったのだということが、尚更それを助長した。

 

経験から発する憎悪混じりの恐怖は一日を経て、死の象徴という形で記憶となっている。

 

あわせても千に満たない八方向から呂布に突っ込まれた二万の歩兵軍団は、八方向悉く綻び、崩れる。

単騎の戦闘能力を戦術に組み込むことを首肯することはできないが、それを元手にした名前だけで怯ませ、恐慌状態に陥らせることはどうやら良いらしかった。

 

彼の心理の迷宮を様々な言行から復元した、後世の歴史家は自ら造ったその迷宮の中で彷徨う。

その末にわかったこともあったし、その考察は的を射ていることもあったが、これに関しては明確な答えが出なかった。

遂にはそれは、人の行動とその原理を明確に言葉にすることができないことの証左として使われることになるのである。

 

ともあれ、二万の歩兵軍団は呂布という人間の持つ価値と戦術的な価値と有機的に結合した李師の智略で以って潰乱した。

そしてそこに、まだかまだかと出番を待っていた華雄が一点集中射撃を殆ど零距離で放ちながら捨身としか思えない勢いで突っ込む。

 

突っ込んだ瞬間弩しか持ってないという異常事態にも関わらず、最早撥ね飛ばしているのではないのかというほどの凄まじさが、華雄隊の犠牲を減らしていた。

 

前衛部隊は四千の被害を李師に、二千の被害を同士討ちで喪って撤退。

馬蹄に踏み潰され、恐慌にあてられた兵が転んだ兵を地面として踏み敷いて逃げた結果である。

 

「華雄隊を突撃時の円運動に合わせて下がらせて趙雲隊を出せ。一当てし、敵の後ろを叩いて敗走を潰走に変えて敵陣を乱す」

 

「華雄隊を下がらせ、趙雲隊を前に出す。歩兵第一集団から第五集団は右方向に、第六集団から第十集団は左方向に、趙雲隊は前方に直進し、華雄隊は敵左側面を侵しながら円運動によって右に突き抜け、歩兵第六から第十集団の撤退を同時に掩護させ、両部隊を撤退させよ。歩兵第一集団から第五集団は潰乱した敵に目もくれず動けば充分に間に合うはずだ」

 

要旨は述べられているがそれでもアバウトな命令を正確に理解し、田予は適切に噛み砕いて指示を下した。

まさしく彼女は、巨大な頭脳を持つ巨人を歩かせる為の掛け替えのない脚であったのである。

 

だが、この攻勢に移ることが許可された二日目において最も勇戦したのは、左翼の張遼であった。

彼女は常に、忸怩たる思いを抱えていた。

 

援軍の将にばかり負担をかけ、友軍の弱さが更にその負担を加速度的に増させている。

自分は戦争以外能がない。ならば野戦において、誰よりも働くしかないではないか。

 

名将にはありがちなことだが、張遼は己の部隊の末端、一兵卒に至るまでこの決意を行き渡らせていた。

故にその士気は三軍中最も高く、その指揮ぶりはこの時、英雄的颯爽さを極めている。

 

「全軍を二百から三百の兵からなる小集団にわけ、順次突撃。突撃し終えた順から更に次の部隊を突撃させ、常に攻勢の手を奪ったるんや」

 

その凄まじき攻勢は、袁術軍の名将たる紀霊をしてこう評された。

 

『奴ら、気が狂ってやがる』

 

正しく恐怖と言う二文字を斬り捨て、満身を勇気と報恩の念で満たした一万は、暴風雨となって袁術軍をズタズタに斬り刻む。

 

ただしその暴風雨の風は騎馬であり、雨は矢であったが。

 

「撤退しつつ陣形を立て直せ。側面に重歩兵を配置して勢いを殺してしまえば、奴らは側面からの三百たらずで突っ込んでくる自殺者の集団に過ぎん」

 

紀霊がそう命令し、鉋で幾度となく削られたように磨り減ってしまった袁術軍が再編を計った瞬間、張遼は鋭く命令した。

 

「全隊、集結して紡錘陣形!」

 

突撃が止み、嵐の後の静けさの中で袁術軍は安堵する。

陣形の再編が終われば、すぐさま反撃に転ずることができる。そうすれば奴らも最期だ。

 

そんな言葉が出る前の気の緩んだ間隙を、張遼は貫く。

 

「今や!」

 

烈迫の気合いが陣を切り裂いたが如く、馬の旗が敵陣へ進む。突撃前の騎射によって再編を阻害された袁術軍は真っ二つに切り裂かれた末に一万からなる、抜き用のない楔を叩き込まれた。

張遼は、全騎の持つ力を一点に叩きつける方法を知っている。

 

「敵の一部が後方に迂回せんとしております。このままで、退路が絶たれる可能性があります」

 

「ひたすら直進して前の敵を突き破った後、後ろに反転してやりゃあええねん。ただひたすらに前を片付けることだけ考えるんや」

 

あれは陽動だと、張遼は一目見て判断していた。動きに鋭気がなく、その脚は鈍い。将の指揮ぶりにも活力がなく、後方を扼して突進を押し留めようという腹であることは明確だった。

 

馬の旗と共に自ら陣頭に立ち、張遼は紀霊率いる二万の軍を真っ二つに切り裂き、張勲率いる二万の軍をもその爪牙にかけた。

中央部をへの攻勢が収まったが為に、両翼への攻めが苛烈となっている。

そのことを示すような兵力の集中策を個人的な戦術能力と兵たちを束ねる統率能力によって見事に破砕してのけた張遼は、間違いなく勇将の名に相応しかった。

 

だが、所詮は一万である。攻勢にも限界が有り、兵の体力にも限りがある。

張遼の名を勇将として人々が記憶するところとなったのは、突破できるというとこで孫家の兵に止められた時の判断であった。

 

「退くで。逆撃態勢は崩さず、来た奴は遠慮なくぶっ殺したれ」

 

攻撃だけでないと証明するかのごとく、張遼隊は整然と退いていく。

袁術軍はこの戦いで六千の兵を喪い、張遼隊は一万の兵のうち八百を喪った。


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