北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
「目標。敵軍中央」
「狙点、固定!」
二日目に引き続いて攻めに出た李師は、田予の力を借りて横陣形をとった敵に向けて射線を束ねる。
この一点集中射撃が、両翼に対する攻撃の合図だった。
「撃て!」
号令一下、頭上と左右斜めと正面から一点を目指して三千の弩と二千の弓が敵の中央を切り崩す。
三日目の戦いは、二日目における立場を逆転させた形で発生した。
「親衛騎、突撃。敵中央部に空いた穴の補填を阻害し、広げてくれ」
「……ん」
待ち侘びたと言わんばかり、呂布率いる親衛騎が数十倍の敵にも怯まず、果敢に突撃をかます。
数の差を嘲笑うかのような突撃ぶりに怯んだのは、逆に敵の方だった。
「田豊様。このまま呂布の突撃を許せば、我が軍は中央突破を許してしまいます。中央突破を許せば―――」
「分断される。わかっているわ」
この突撃能力を持っている敵と相対するからこそ、横陣形をとったのである。
李師と夏侯淵はもうどうしようもないが、騎兵―――張遼と華雄は止められるはずなのだ。
そして同じ騎兵である、呂布も。
「麴義の隊を前に出して対応させなさい」
「昨日敵がやったように、弩兵を背後につけて掩護させては?」
「あれは訓練してるからできるのよ。できても急造な私達では、突撃で焦った冀州兵が麴義隊を背後から撃ち殺すことになりかねないわ」
練度の差という苦い物を感じつつ副官の祖鵠にそう答え、田豊はすぐさま頭を振る。
「とにかく、迎撃!」
「はっ」
その指示と僅かに時間差をつけて用意された盾と槍による防御陣を見た呂布は、すぐさま馬首を返して横腹を麴義隊に向けた。
後ろに弩兵が居ないことを、彼女はそのすぐれた視力で認識したのである。
ならば、突っ込まずとも鈍重な重歩兵からは逃げることができた。
突撃せざるを得ない理由とは、要は横を見せたり後ろを見せたら追い打ちを喰らうというところだけなのだから。
「田豊様、麴義の左に布陣した高幹隊が突破されました。高幹様は呂布の脇を固めていた男のうち一人に討たれ、戦死。包囲陣は崩壊しました」
「中央突破を許すことに比べれば易い。目標を固定して欲を出さず、防いで消耗戦を強いなさい」
「承知いたしました」
敵は、何を考えているのか。
それに、指揮官の限界を逸脱した武勇とそれに伴う恐怖を加味すれば華雄よりも突破力が有りかねないあの呂布隊を、こんなにも早く使ってしまっていいのか。
(明日が本番、ということかしら)
田豊が頭を必死に働かせている時、あくまでも温厚柔和そうな顔を崩さない李師は華雄と趙雲を呼び出していた。
「子龍。あの正面の麴の旗がある陣に本気で仕掛けて、物の見事に負けてくれ。華雄。君もだ。撤退時の指揮に関しては、趙雲の言うことをよく聞くように」
「委細承知」
「はっ」
二隊合わせて四千ほど。これを無為に磨り潰せば、敗ける。
多大な責任を背負わされたにも関わらず、趙雲はいつもの頼もしげな調子を崩さず大仰に頷き、華雄の手綱を握ることを了承した。
李師としては、敗退の演技が演技でなくなってもよい。ただ、犠牲は可能な限り減らしたいのである。
故に、趙雲を指揮官とした。
華雄を加えたのは、軍師以外に『あの呂布が避け、華雄すら突破できなかったと思わせる為』であり、軍師に『明日何かしてくると思わせる為』。
更には、一点集中射撃を自重する。自重し、明日が本気であることを先の読める人間にそれとなく悟らせる為だった。
勿論、悟らせたからとって本気でそれは信じないだろう。しかし、警戒はする。その警戒が、明日には必要なのだ。
「秋蘭様。李師様が劣勢に陥り、こちらもまた優勢であるとは言えません。どうしますか?」
「敵が強い。無理もないな」
「秋蘭様!」
「そう怒鳴るな」
典韋を宥め、夏侯淵は肘掛けを指で何回か叩く。
彼女としても、こんな無様な戦いを己がしていることが腹立たしい。が、作戦なのだから仕方なかった。
「それにしても、敗けるのがこれほど難しいとはな……」
「じゃあ、勝ちましょうよ……」
「いや、ここは仲珞に倣って引き分ける。攻勢中断、一時撤退」
目の前の青二才の攻勢を軽々凌ぎ、黄忠の老巧卓抜な指揮による挑発と誘引を一顧だにせず持ち場に戻る。
穴だらけの攻勢を見た夏侯覇が出撃を願い出る度に押し留め、まるで見当違いな、されど被害が少なく済み、敵の攻勢を鈍らせるポイントに突撃させながら言った一言が、彼女の今日の気持ちを如実に表していた。
「夏侯妙才に青二才と老人が引き分けるなど、己は何があったのかと後世の冷笑の的にならぬようにしたいものだ……」
この引き分けが布石になったならば、それはいい。しかし、引き分けさせておいてただ敗けるのは御免被りたいというものである。
しかもそれが、己が目論んだ戦でないならば、なおさら。
だがしかし、この戦の総指揮は、勝つと言ったら勝つ奴だし、自分でも勝つことができないであろう男なのだ。
疑ってはいなかったが、こんなことを冗談にしても呟くものではない。配下に良からぬことを企ませることにも、なりかねない。
「流琉」
「はい?」
「今のは冗談だ」
そういうことにしてくれ、という語気を何となく察し、真名を呼ばれた典韋は静かに一つ頷きを返す。
三日目の戦いは、両者の攻守を逆転させながらも、両軍に過小な被害と硬直事態とを齎した。
しかし、この日にはすでに勝負が決まっていたことを、連合軍は後に苦い思いを味わいながら知ることになる。
そして、その夜。
「また夏侯妙才殿と呑まれるので?」
「ああ。話が合うし、戦略もわかる。話していて学ぶところもあるわけだし―――何より、誘ってきたのは向こうだ。私を責めるのはおかしいんじゃないかな」
「別に責めてはおりませぬ。鈍いなと言っているだけです」
「あぁ?」
本気で何かに注力している間に虚を突かれた時に出る間の抜けた声が、李師の口から漏れた。
「向こうは曹操軍だというのに、やけに主に好意的ではありませんか?」
「あぁ、男が嫌いらしいね。奴さんの陣営は」
というよりも、女が好き過ぎて男の地位を相対的に低くしているというのが実際のところであろう。
曹操は限りなく女好きに近いニュートラルだが、その筆頭軍師がタカ派もタカ派、その中でも更に過激派なので、ほとんどの男からは曹操一派も全員がそうであろうと見られていた。
「つまりですな。私が言いたいのは―――」
「のは?」
「……無粋なのでこれ以上は。ともあれ、互いに良い年をした男女が夜更けまで共に居るということでできる風聞はよろしくないのではありませんかな?」
心の底から不本意という顔をしながら、趙雲はやる気無さげにそう提言する。
政治的センスと、味方に嵌められるという感覚がないのが彼の弱点であることを、これまでの言動から趙雲には容易につかむことができた。
「何故?」
「単経がまた五月蝿く言うでしょう」
「私は公人として働いている間に私人としての友誼を優先せるようなことはしていない。向こうも、それくらいわかるだろう」
「私は常ならばこのようなことに口を挟まず諌めもせず、却って油を注ぐ人物でしょう。この私が無念を噛み締めてそう言っていることを加味し、どうかご一考いただきたい」
確かにそうだな、と。李師は一人で頷く。
趙雲ならばそうでなくともそれらしく騒ぎ、偽情報を確定情報の如く騒ぎ立ててしかるべきだった。
「……どうすればいいかな?」
明らかな政戦能力の欠如を思わせる丸投げな問いに、趙雲は李師が執務をしていた机を叩いて大仰に述べる。
「単経を殺しなされ。別に私は夏侯妙才との伝手を作ることを諌めているわけではなく、政敵を放置することを諌めているのです。権力を握り、公孫伯圭殿の信頼を盾に邪魔者を排除なさい。それが主の最良の道です」
「……単経は別に、罪をおかした訳じゃないだろう。それに、嫌いだからといって殺すのは良くない」
はぁ、と溜息をつき、趙雲は白い帽子を取った。
彼女の頭には、既に次善の策も用意されていたのである。
「罪をおかさぬ以上は、排除なさらないのですな?」
「ああ」
「わかりました」
一礼して去っていく趙雲の面白げな笑みが、彼の眼に映ることはなかった。