北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
一連の戦いでの対連合同盟軍の死者は、約三万五千の内の四千。
反董卓連合軍の死者は、約二十五万の内の十万。降伏者は三万五千。
内訳としては陽人の戦いにおいて五万を、この汜水関の戦いで五万を。それぞれ失ったことになる。
更に、袁紹軍の残存戦力の三万が降伏。
キルレシオにして1対33という凄まじい大勝を齎した男は汜水関に帰る前、安堵したような顔で一言呟いた。
「……なんとか、勝てたな」
側で聴いていた趙雲からすれば汜水関を出る前はともかく出てからは極めて論理立てた戦闘の連続で、無駄な戦闘を一回もすることなく、無駄な流血を起こすことなく、最後は勝つべくして勝ったと言う印象が強い。
既に周りの者は降伏者の武装解除と袁紹軍幹部の禁錮を終えた兵たちが口々に興奮冷めやまぬ勢いで今回の一連の戦いの趨勢と明かされた魔術のタネについて喋っている。汜水関に帰れば、酒でも飲みはじめるだろう。
案の定、帰ってきた汜水関にいる人間は疲れを忘れた兵士と絶望感に浸る捕虜と、己がこの歴史的な戦勝に関われたと言う喜びを噛み締める将と、このどこか陰鬱な感じな総司令官に分かれていた。
「捕虜は丁重に扱ってくれ。あと、食事も出してあげてくれ」
「りょうかいしましたぁー!」
気楽な感じで厨房に走っていく華雄を目で追い、無言で食べ物を頬張っている呂布と『吾、快なり』とでも言うかのように酒を飲む張遼を視界に入れ、隣にあって静かに料理を食べている田予を見て、猫と戯れつつ飲みやすい酒を飲んでいる周泰を見る。
いずれも、陰鬱な表情とは程遠い。
「何処に行かれるので?」
「花を摘みに」
凄まじくテンションの低い受け答えに対して皮肉を仕込むほど空気の読めない女ではない趙雲は、さり気なく呂布に視線をやって押し留めた。
一人になりたい時も、ある。
内面が入り組んでいる人間ならば、特に。
(思想家であり、将であったのがその複雑さを構成している。その内面の複雑さは魅力としてある、が……)
その内面の複雑さが、能力の全てを発揮させることを阻んでいるのではないか。
戦勝に高揚している心を酒で冷ましながら、趙雲は一人ごちる。
「……難儀な方だ」
恐らくは稀代の戦争の名人でありながら、誰よりも戦争を倦んでいる。誰よりも犠牲を、死を嫌っている。誰よりも、戦争の愚劣さを知っている。
その難儀な方は、兵たちが喜んでいる様を見物しながら人気のない場所を探していた。
まだ酔いきっていない何人かの兵が慌てて礼を示して敬意を表すが、それを手で抑えてただ歩く。
誰よりもこの勝利の栄光を誇り、その余光と言うべき歓喜と興奮を得るべき男は、ひたすらな陰鬱さと嫌悪を己に篭めて歩き、誰もいない庭で胡座をかいた。
「……十四万、か」
一人に、二人の兄弟と親が居たとする。
悲しむのは四人。怒るのは四人。五十六万人もの人間が、少なくともそれくらいの人間は自分に怒りと怨みと憎しみを向けているのだ。
この上で、まだ殺す。
小さな五稜星の金印が付いた帽子で顔を覆い、李師は後頭部で手を組んで枕代わりにごろりと寝転がった。
「いつになく、沈鬱な顔をしているのか?」
「妙才、君は空気を読めるのか読めないのかわからないな」
少し離れた縁側に腰掛けているのは、月に照らされた蒼の名将。
彼が伝えなければならないことがあると考え、探そうとしていた人物である。
「で、魔術どころか奇跡を起こした李仲珞殿はこんなところで何をしておられる?」
「大量虐殺をした私には天が雷を落としてくるかもしれない。他人を巻き添えにしたくないから離れてみたのさ」
「この世界がそんな便利な仕組みで動いているものだったならば、戦争等は起こらん。大量虐殺者が裁かれないから戦争を起こそうと思うのだろうな」
雷を任意に落とせるならば、まず魔術師と言って良いが、彼にそんな力はない。この世のどこにも、そんな力を持ったものは居ないのだ。
「それでもやはり、戦争は起こるさ。平和は、多少なりとも長引くだろうけどね」
「全く以って、人間というものは度し難い。だが、だからこそだという、気もする」
傍から見たような意見を聴いて目を瞑り、李師は大地に投げていた身体をゆっくりと起こす。
「私はぜんたい、流した血に値するだけの何かをやれるのだろうか……」
「貴官ならば、やる気と己の行動に対する一貫した明確な指針があればやれる。尤も、その席の座り心地は悪いものだろう。
なんなら私が担いでやっても良いが」
ともすれば謀叛の誘いのような文言を呑み込み、再び聴かなかったことにした李師は、頭の中身を切り替えた。
もうあまり時間がないのだから、やれる時にやれることをやっておくべきであろう。
「穏やかな誘いじゃないな」
「ああ、『全てが掌の上などという』質と感性のない冗談の意趣返しなのだから、それは当たり前だ」
「その冗談は計らずも冗談ではなくなったわけだが?」
「それを問うか。意趣返しだと言っただろう?」
髪に隠れた片眼を野心で妖しく光らせながら限りなくグレーに答える彼女に眉を顰めつつ、李師は目の前のあらゆる均衡が―――恐らくは野心と覇気と才能までもが―――取れた戦友の字を呼んだ。
「妙才」
「うん?」
「私は君を友だと思っている。君が私をどう思っているかは知らないが、忠告として聴いてくれると幸いだ」
字を呼び捨てにし合っているだけでそう判断しても良さそうなところを、彼は持ち前の慎重さと冷静さであくまでも一歩ずつ踏み締めるような形で進んだ。
無論、夏侯淵からすれば彼は珍しく素を見せながら語らえる貴重な人間である。
友であると、言っても良かった。
「では、智略豊かな友の忠告として聴かせてもらおう」
「……捕虜と袁紹軍の幹部から情報を収集した。袁紹軍の卓抜した情報工作には、商人が関わっていたらしい」
「それで」
「袁紹が頼んだ結果、勿論対価を要求されたらしい。しかし、普通土地に縛られている商人が何故、都合の良い情報を他の領内に効率の良く信じさせることができたんだ?」
行商人であろうと、当時は思っていた。しかし、訊き出した『噂を広め始めた時』と『広まるまでの時』が符合しない。
どう考えても行商しながら進んだ場合到達できない地点に、到達できないであろう時に噂が及んでいる。
これは定期的に周囲を探らせていた周泰からの情報であり、極めて信憑性が高かった。
「……おかしいと言えば、おかしい。しかし、商売よりも移動を優先させたならば無理はあるまい?」
「君もわかっているはずだ。噂を広めるには長期間滞在せねばならないということを」
「なら、どういうことになる?」
「商人が横で繋がっているのではないか、ということさ。勿論全員ではないが、一部の行商人と一部の店を構えた商人の間には、見えぬ紐帯が結ばれている。だからこそ、こんなにも迅速に噂が広まった」
一聴すれば、ただの夢想であろう。商人が横で繋がり、特定の家の為に働いているなど。
だが、事実として噂の広まる速度が速すぎた。広まった後、鎮火しようにもできないほどに根強く、執拗な物を短期間で植え付けられるとも思えない。
「彼等は少なくとも今は、袁紹に全面的に協力している」
「ふむ」
「兵数と装備の質は、二州で賄えるものではなかった。経済的な援助も受けている。恐らくは、だが」
夏侯淵は、首を傾げた。
確かにその証拠があるならば、商人達が袁紹を援助していた理由として頷ける。
だが、それが何故脅威であるのかと考えれば、彼女はいまいち掴めなかった。
別に謀略に疎いわけでもないが、詳しくもないのが彼女なのである。
政戦両略を過不足なくこなせるが、謀略を僅かに苦手としていた。
「……袁紹が負けた以上、彼等からすれば大損だな。横の繋がりは脅威だが、多少なりとも勢力は削げるだろう」
「いや、おそらく―――」
ここで一つ頭を振り、李師は己の口を閉じる。
「すまない。憶測で物を言うところだった」
「周泰が汜水関から離れていたのは、それを調べていたのだな?」
「ああ。だが、肝心な証拠がない。むやみに君の思考を膠着させるのは、宜しくない」
この一言を境に、またまた話は入れ替わった。
というよりも、一つ前の話題に戻ったといったほうが良いかもしれない。
「仲珞。もし貴官が国を作るとしたら、どのような国を作る?」
「構想はあるんだ。考えるのは好きだからね」
「是非、聴かせてもらおうか」
現在の漢は、皇帝による血統を第一にした世襲制である。
李師の思想は、その一人が民を治めるという現在の体制に疑問を呈すものだった。
「つまり貴官は、民は民によって治められるべきだと、そう言うのか?」
「災害が起こったならば個人の所為。悪政を敷いたら個人の所為。善政を敷いても個人の功績。こういう政治体制は、決して臣民の精神上よろしいと言えるものではないと思う」
「誰もが個人の所為にできる、ということか」
あれが起こったのは皇帝の所為。あれが起こったのは皇帝の所為。全てがそれで解決するのは明快ではあるが、思考を狭めて己の頭を帽子置きにしてしまう可能性を孕んでいる。
民が民を治めれば、少なくとも己の行動すべてが結果はどうあれ己に帰ってくるのだから、言い訳はできなかった。
それでもなお、他人の所為にするかもしれないのが人というものだと、夏侯淵は思うが。
「うん。私の理想とする国家は支配者が被支配者に制御され、被支配者が支配者を選ぶようなものなんだ。
宮廷に篭っては見えない物や聴こえない意見が直接政治に反映されればそれは素晴らしいことだし、更に言えば行うことによって民が恩恵や迷惑を被る政治というものは本来、民によってこそ運営されるべきだ」
「理屈は正しい。思想としても新鮮であり、創造性に満ちている。しかし、欠点が美点を上回っているな」
夏侯淵が挙げたのは、五つである。
一。どうやって支配者を選ぶか。
二。支配者を選べるだけの能力が民にあるのか。
三。選んだ支配者を代える手段を民に持たせなければ結局のところ元に戻るのではないか。
四。手段を与えたとして、支配者がそれに従うのか。
五。そもそもこの思想を民は理解できるのか。
取り敢えず挙げただけではあるが、彼の理想は穴だらけも甚だしかった。
「一と三に関しては思いついてある」
「ほぉ」
「一に関しては一人一人に候補の中から誰を選ぶかを各村で訊いてもらい、一番多く選ばれた人間を支配者にする。三に関しては、一定期間でもう一回その選びをすればいいだろう?」
「二と四と五は」
「私は思想家じゃないんでね」
拗ねているというよりも、自分の能力の限界を嘲るように、李師は肩を竦める。
彼はその行動で、別に否定して穴を突くだけが能ではない夏侯淵に、意見を求めたとも言えた。
「二と五に関しては私も有効策を見いだせない。なにせ、教養の底上げなど一朝一夕にできるものではないからな。が、四に関しては思いつく」
「是非」
「軍事権と政務権をわけて一人ずつに統括させ、その支配者がさらに両者を統括する形を取る。その支配者が民が選んだ代表に支配権を渡さない場合は、軍事権をもってこれを討つ。武断的ではあるし穴だらけだが、これくらいか」
「難しいな」
「ああ、国とは理想を柱にして成り立つものだからな。たった二人で国の基礎となりうる柱を作ろうというのだから、難しいに決まっている」
「それはそうだ―――ん?」
ここでようやく、李師は自分が謀叛とも取れる発言を乱発していることに気づいたのである。
「夏侯妙才……」
「すまない。だが、論を交わしたかっただけだ。許してくれ」
陰鬱なものが和らいだ李師の顔を見て僅かな笑いながら、夏侯淵は手に持っていた酒杯を渡した。
「飲もう。なにも折角の祝勝会を、寝て過ごすこともない」
そう和やかに誘いつつ、夏侯淵は一人先程の商人の件を思い出す。
(恐らく、か)
恐らくその商人が結託していたのは袁家ではなく、最終的により多くの利益を占めた者だ。
それは恐らく、蜀の劉焉。と言うよりは、その配下の謀将たる法正だろうか。
これを己に伝えた李師の心は測るでもなく純粋な心配から来ているのだろう。
(仲珞。私は謀略などで斃れはしない。お前もだ。この私がお前のような用兵の芸術家に首輪を嵌められて鎖に繋がれるのではなく、薄汚い謀略によって死ぬなど、矜持が許さん)
春蘭「竜頭蛇尾もいいところではないか!」