北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
「兵を再編してみたんだ。幽州突騎から、私なりに選りすぐって」
趙雲来訪の二日後。李師は早速呼び出されていた。
公孫瓚は、漢でも最精鋭と言える幽州突騎―――騎射用ではない突撃用騎兵の司令官を兼ねている。
というよりも、彼女は元々幽州突騎の一員だった。
その経験が郡太守となるにあたって買われ、更にはその軍歴と戦功の多さもあり、幽州突騎三千の指揮官となったのである。
傍から見ればこの上に兵を再編して何をしようというのかと思うかも知れないが、幽州突騎は半私兵化していると言っても、私兵ではない。
要約すれば『嵐に向けて備えた方がいい』というようなことを言われた公孫瓚は、やっと私兵を備え始めていた。
来たるべき乱に向けて私財を擲って兵と武器を揃えている曹操・袁紹からすれば遅きに失すというものだが、やらないよりはマシであろう。
「適当な指揮官が必要になりますね」
「うん。取り敢えずこれ、お前に預けるよ。適当に揉んでやってくれ」
李師は、我が耳を疑った。
働け。まさか働かないことを条件に入った軍でそう言われるとは思っていなかったのである。
彼の頭の中で、自分の半ば隠居ぜんとした歴史びたり生活がガラガラと崩れ落ちるような光景が脳裏をよぎり、粉塵と共に風に乗って消えていた。
「それは、どういうことですか?」
「正直すまないとは思っている。だが、その、何だ。突き上げが酷い。お前は右を向けと命令すればことさら左を向くような人間だから『働け』と言う陳情は通さなかったが、こう……他からすれば派手なところだけ持っていくような感じだからな」
李師は、ムッとした。
そんな右を向けと命令すれば左を向くような捻じ曲がった根性はしていない。
そう反論しようとして開きかけた口が、右斜め後ろの被保護者の言葉で快刀乱麻に叩き斬られる。
「……伯圭、よく見てる」
「それはどういう意味かな?」
「……違う?」
無邪気故の痛烈な皮肉に口を噤み、李師は黙った。
この口達者な男を黙らせられるのは、この被保護者の天然発言しか存在していない。
今のところは、だが。
「……兎に角。私は別にやりたくてやったんでもありません。派手なところだけ持っていくと言いますがね、私にとっては派手さなんてものは厄介な重荷を更に背負わされるようなものなんですよ」
「それはわかっている。しかしまあ、自分よりもやる気も信念もない奴が自分より優秀だと言うのは認められないものなんだ」
認められる彼女が言ってもあまり説得力を持たないが、彼は殆ど瞬時に『それはそうだろう』とわかる。
何せ、右斜め後ろに立っている被保護者こそ、そんな風に妬みを買っていた。
自分のことには無関心だが、この被保護者の受けた悪辣な扱いを、過保護な彼は忘れることはない。
「恋も大変だったんだな」
「……恋は、やる気も信念もある」
「えぇ?」
割と本気で虚を突かれ、李師は古今稀に見る間抜けな声を上げた。
それは少なくとも、後世の人間から見たならば想像の出来ようのない、真に間の抜けた声だった。
「お前、私が師匠をつけようかと提案した時に、『別に武術に拘りはない』と言ってたじゃないか」
「……ん」
原文ママにすると『……いい』ではあるから拡大解釈のきらいがあるものの、だいたい彼の解釈は合っている。
彼女に武に対しての拘りはないし、武に対しての信念もない。
しかしそれは、ただ手段に対して拘らず、信念を抱かないようだけであった。
「……でも、嬰は恋が護る。だから、どっちもある」
貴方を護るという結果には拘るけど、手段に対してやる気も信念もありませんよ。
だいたいこんな感じな恋の言葉に、彼はまた黙る。
他者はもとより親兄弟すらとも一線引いたような付き合い方しかしていなかった彼にとって、この被保護者は線の引けない存在。
それに対して、やっと捻り出した答えがこれだった。
「世の武人が聴いたら怒るだろうね」
「おい李師。それはそのまま自分に返ってくることに気づいているか?」
極めてご尤もな突っ込みの後、公孫瓚は溜息をつく。
彼は手放したくない。しかし、だからと言って一般論で反感を抱いている他の者を追放しては暴君も甚だしい。
「ともかく、幽州突騎を預ける。揉んでやってくれ。つまり、定期的に働いて欲しいんだ」
「……定期的に」
「嫌ならまあ、私も諦めるよ。ただ、城下にはとどまって欲しい。相談したいこともあるんだ」
こういう下手に出た提案や懇願に弱い質の李師は、頭を掻きながら頷いた。
「わかりました。無役から常設部隊の指揮官となるなら、それに見合った勤勉さは示します」
「あ、ああ、ありがとう!」
権謀術数とは程遠い誠意からの懇願を、己の怠惰の為に無碍にできるほど冷血ではない彼は、受けた。
そして、それを聴いた客将がふらりと選抜・志願兵の中に紛れ込む。
「それに、ほら。もし万が一の時に自分の戦術の癖を呑み込んでいる軍がいたら心強いだろ?」
「私はその『万が一』の時が来ないように動きたいのですがね」
客将ならではのフットワークの軽さを持つ彼女は、この決断を後に後悔したのか、むしろよくやったと褒めるような気持ちで見ていたのかどうかは定かではない。
しかし、元々彩色過多な彼女の世界がより面白味に満ちたものになったことだけは確かだった。
そして、翌日。
「三年。いや、四年。うまくいけば五年。あと、五年は働かずに暮らせる筈だったのになぁ……」
「……」
一応腰は低いと言っても彼が人間関係に無頓着だったこその、謂わば人災に対して一通り愚痴をこぼすと、李師はさっさと思考を切り替えた。
無役だから、怠けていても許される。だが、役割が割り当てられた以上は働かねばどうにもならない。
と言うより、任せられて受けた以上は最低限の働きを見せなければならないだろう。
まあ、あくまでも最低限に留まってはいたが。
「……私兵か。中々に魅力的な響きだが、いざ管理するとなると面倒が生ずるな」
「……どうするの?」
「騎兵を預けられたら、騎兵として運用するさ。まあ、騎兵と言ってもやることは騎射だがね」
徹底的に被害を避ける作戦思想を持つ彼からすれば、突撃はあまりよろしいものではないのである。
最近鐙という物が発明されて騎兵が槍を持って突撃・乗り崩すと言う戦法が流行っているが、それは馬にも人にも被害が大きすぎると言うのが彼の持論だった。
「突撃は否定しない。だが、少数で突撃するには適切な機会と投入箇所を見極めなければならない。
いや、別にそれ自体はいいんだ。機会を作れるから。だが、折角育てた精鋭をすり潰していけるほど我が郡太守殿は豊かではないからね」
「……だから、騎射?」
「一射離脱で敵に被害を強いるか、脚を活かした補給線の切断。これが出来れば、いいんだが」
「……恋、騎射得意」
「君がいいと言うなら、頼りにしたいよ」
前線と戦場には連れて行きたくはないが、馬にも乗れない男が騎射を教えられる訳もない。
ここは、またしても彼女に頼るべきであろう。
「……ん」
赤毛の駿馬を曳きつつ、恋はいつものように右斜め後ろに付き従った。
彼女の愛馬は仔馬の時から甲斐甲斐しく育ててきた赤兎馬と呼ばれる、この燃えるような赤毛の駿馬だが、彼に愛馬はない。強いて言うならばいつも腰掛けている背もたれ付きの揺り椅子に車輪を付けたものがそうだと言える。
「それにしても恋は動物を育てるのが上手いな」
「……そう?」
「誰が育ててもこうはならないさ」
一日に千里(414.72キロメートル)というのは疲労などを加味すれば記録はかなり落ちるだろうが、瞬間的な速度は千里を余裕で走れる程度にはあった。
具体的に言えば、通常時は一回柏手を打てば一尺ほど進み、持久力を無視して本気を出させれば一回柏手を打ったら二尺と言うのも不可能ではないのである。
敵からすれば、通常の馬よりも遥かに―――乗せている騎手の軽さを差し引いて三倍くらいの―――通常時速度を誇る癖に、距離を詰めたいと彼女が思った末に『そうした』ら、さらにその二倍。
通常の騎兵の六倍速で恋―――本名呂布―――が突っ込んでくるわけだった。
まあ、方天画戟を持つ以上は速度は衰えるだろうが、軽い弓ならば理論上は問題ない。当てられるかはともかくとして。
弓とあの化け物方天画戟とでは比較対象がおかしくも思えるが、この際は無視する。
そんな話をしながら歩き、久しぶりに調練場に姿を見せた彼がいの一番にとったことは、太陽の光を眉の上にあてた手で持って防いだことだった。
「えー、君たちの臨時ではない常設指揮官になった、李瓔。字は仲珞」
名の瓔も、次男をあらわす仲を除いた字の珞も、真名の嬰里も一様にくびかざりをあらわす。
意味合いとしては、魔除けと言うところが強い。彼に魔を感じたのか、彼の周りに魔が集うことを察したのかは今となってはわからないが、彼の固有名詞はくびかざりと魔除けで統一されていた。
まあ、基本的には李師で良いし、恋には舌の動きが拙かった時に教えた『嬰』で通っているから一々意識する必要はないであろう。
「私が求めることは、君たちが死なないことだ。古今どんな名将ですら兵を率いながら一兵も死なせなかったということはないが、私としてはできればそうありたくはない。つまり、死なせたくはない。無論私も最善を尽くすが、諸君らも死なない技術と戦い方を学んで欲しい」
豊かな濃紺の髪に埋もれた頭を掻きながら、彼は柄にもないことを言ったことを自覚する。
少なくとも誰も死なせたくはないなど、死地に赴かせる用兵家とか、将とか言う類の呪われた人種が言って良い言葉ではない。
死なせたくはないのなら、戦わせなければいいのだから。
「……じゃあ、馬に乗れる者は一先ず彼女から騎射のやり方を教わってくれ。弓術の心得がないものは田国譲、君が。私はこういうことに疎いから余計な口を挟まずに見ていることにするよ」
彼は訓練において必要な、意見を押し付けた上で導くだとかの適性にかけていた。
つまり、他人に言葉を尽くしてわからせようという気力と気概にかけているのだと言える。
じゃあ恋はどうなんだと言われれば、彼は『訊かれたことを一意見として返しただけ』というだけだし、つまりはそういうことだった。
「……騎乗」
精鋭たる幽州突騎の中から選ばれ、或いは自主的に李師の元につきたいと言い出した兵だけあって、流石に彼等の動きは速い。
そして、殆どの兵からすれば初対面であろう恋の指示に一回の厭や不満を見せないのも、また見事であった。
「……恋は、呂布。字は、奉先」
保護者に習って僅かばかりの自己紹介を終え、恋は方天画戟を地面に突き立てた後に背中に挿した短弓を左手に持つ。
「まず、見せる。次に、直す」
ナチュラルに『私の方が騎兵として優れている』という発言をしてしまうあたり、僅かながらこの二人は似ていた。
自分の才能に無頓着なところとかは、特に。
まあ、ここに集まっている兵は先の戦や先の先の戦を見ているが故に『そんなことはわかっている』とばかりに華麗に受け流している。
それは悪気はないことはわかっているし、事実隔絶とした差があるのがどれくらいと明確に言えないほど漠然とした差が開いていたからであった。
「……刃の、付け根」
灼熱に燃え盛るような馬に跨った恋は、軽く馬を慣らしながらその場から離れる。
狙う的は、方天画戟。その刃の付け根。
「……」
何も気負うことなく、恋は赤兎馬を走らせた。
いつものようにやればできる。そんなことすら考えない。
擲られた意思無き斧鉞の如く突き進む彼女の心に漣は無い。
馬蹄のみが場を鳴らし、疾駆する。それが最高速に達した瞬間、戟が撓んだように後方に振れた。
「おぉ……」
騎射は、当然ながら不動の体で立って矢を放つよりも命中率に著しく劣る。上下に揺れるし、何よりも景色の変遷が目まぐるしい。
戟の付け根に狙って当てることなど、まずできない。それを彼女はやったのである。
そして、彼女は皆が驚嘆にどよめいているときには既に反転していた。
戟の付け根に突き立った矢を見ている彼等の視界を赤い影が遮り、過ぎ去った時にはその矢は真っ二つに割れていた。
全く同じところに、騎乗したまま射ち込む。
あまりの絶技にどよめくこともできず、兵たちは文字通り言葉を失った。
「……これを、やる」
無理です。
兵たちの思考は、この時再び一致した。