北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
結果的に捕虜交換に関しての条件を全面的に呑み、両軍は長安近郊に十五余里に渡って布陣した。
いつでも戦い始められるようにという攻撃的な陣形を互いがとっていたところに、敵愾心と士気の高さが伺える。
だが、そんな中でもあくまでもお祭り気分を崩さず、皮肉と諧謔に彩られた会話を投げ合っている陽気な奴等がいた。
モラルの高い曹操軍ではない。
主が囚えられ、いざとなれば力づくでと構えている董卓軍でもない。
それは言うまでもなく、李家軍である。
「おい魏越、聴いたか」
「何を?」
昼間っから賭け事に興じている二人の間に、緊張感が漂っていた。
勝つか、敗けるか。それによってどちらが今夜の酒を奢るか決まる。
財布が豊かとは言えない二人にとって、この賭けはともすれば実戦よりも真剣で、切迫したものだった。
「捕虜交換の会見に行く人員が、決まったらしいぜ?」
「まあ、三軍の代表者が全員行って殺されましたじゃあ、こっちもろくな抵抗ができないままお陀仏だろうしな。
で、誰だ?」
「聴いて驚くなよ。李師の大将に随員として夏侯の嬢さんが付いていくことになったんだ」
生活に関わる緊張感を漂わせながら、精鋭と名高い熟練兵揃いの呂布軍でも挙げた首が最も多い―――勿論隊長たる呂布を除いて、だが―――魏越と、いつも一人差ぐらいで魏越に上回れている成廉は自らの所属軍の主将をすぐさまネタにする。
もう、敬意の欠片も見られない扱われ方だが、彼等も本心では尊敬はしていた。
戦えば必ず勝つ。しかも、犠牲を可能な限り少なくして、だ。
古今の名将だということも、わかっている。
だが、李家軍内に流れるお祭り気分と緩い雰囲気が縦よりも横の連帯感を生み出し、普段は彼等のような百将でも大将と軽口を叩き合えるような空気が蔓延していた。
有事になれば横の連帯感を結束に変え、縦の繋がりを従順に守る。
要は、李家軍にはメリハリがつき過ぎていた。
「どう見ても李師の大将は夏侯の嬢さんを随員に従えるようには見えんな。逆ならなんの違和感もないんだが」
曹操軍だったら一撃で不敬罪になるところを、周りを囲んだ呂布隊の精鋭たちは笑って済ます。
別に殊更馬鹿にしたとも思えないし、理不尽に馬鹿にしているのではない。
李師と夏侯淵を比べれば、誰の目からしても本当にそうにしか見えなかったのだ。
「そりゃあ俺だってそう思うさ。あの二人を並べるんなら将軍と一官吏、上官と部下、姫と従者。こんなところが精々さ。勿論前者が夏侯の嬢さんで、後者が常に大将だ」
「違いないな。そもそもうちの大将はあんまり冴えた顔してないんだから仕方ないがねぇ……」
魏越の尤も過ぎる評価に、周りの兵もどっと噴き出す。
二十万を三万で破るような智将には到底見えないことは、この場にいる誰もが認めていた。
「で、成廉」
「あ?」
「お前さんの敗けだな。酒、きっちり奢れよ」
話すのに夢中になっている成廉とは違い、きっちりと考えながら賭け事に精励していた魏越は自分の勝利を盤面に示し、口元の右端を上げてニヤリと笑う。
「チッ、抜け目ない奴だな」
「そういうお前さんは人のいい奴だよ」
毒を吐きながら賭けに使っていた盤上遊戯を片付け、愛用の弩と剣を持って二人はゆっくり伸びをしながら立ち上がった。
「さぁて、うるさい高順のおっさんが来る前に武器の整備でもしに行きますかね」
「まあ、こっちは終わらせた上で賭け事に興じてたんだがね」
「抜け目ない奴だな、重ね重ね」
ぶつくさ言いながら整備に向かう二人を見送り、それを笑いながら見ていた麴義と趙雲が軽く笑いながら呟く。
「あの二人は大将を駄目な部下か、手のかかる奴かなんかだと思ってるんじゃないか?」
「部下とは思ってないでしょうな」
瞬時に否定してきた趙雲の意図を掴みかねて麴義が彼女を振り返ると、その顔には人をからかうことを生き甲斐にしているような見事な笑みが浮かんでいた。
「何せ主が呂布隊に入れるとは思えぬ。はっきり言わせてもらいますが、呂布隊に主が入れるなど、天地がひっくり返っても無理という類のものでありましょう」
「違いない」
仲が良いんだか悪いんだかわからない二人は、こことは真逆の空気が流れているであろう幕舎が建っている方角を見た。
ともあれ。一触即発の状況の中で一刻前に片方から四人の、もう片方から二人の人間がちょうど中央に建てられた幕舎に向かい、入っている。
軍代表三人衆の内、くじ引きの結果で決まった李師と夏侯淵と、その護衛である呂布と典韋。
蜀軍からは、法正と呉懿。
六人が入るには広すぎる幕舎の中で、四人と二人は向かい合っていた。
「李瓔。字は仲珞」
「夏侯淵。字は妙才」
「姓は法、名は正。字は孝直と申します」
実務にあたる三人が極めて無愛想な挨拶を交わし、互いに捕虜解放の刻限と互いの兵に攻撃させない旨を徹底させることを誓う。
誓いなどなんの枷にもならないが、形式としては必要だった。
「それにしても、優勢な兵力と地形、兵站を持ちながら吾等と剣を交えず対等に盟を交わすとは貴官も奇特なことだ」
「私には天下に名高き名将を二人も、一度に敵に回して勝てるだけの力はないのです」
異相と一言で表される相貌をにこやかに崩し、法正はあくまでも恐懼の体を作って答える。
これは彼女の本心であり、最も恐れるところだった。
彼女の計算では対連合同盟軍は勝てない筈だったのである。だから兵力の損耗を抑えながらゆっくりと進んでいた。
七倍近い兵力を、己の兵の損耗を抑えながら目標を達成すると言う計画から途中で力攻めによる強行突破に切り替えざるを得ないほど迅速に撃退したこの二人を。そして、友軍として前後から圧迫する役割を担っていた涼州連合を少数で破った曹操を、彼女は要注意人物として認識している。
三人が同じ陣営で同じ戦場に立てば、いくら優位な数を持っていようが無駄でしかない、と。
「ほぉ、一人ならば勝てると?」
「いえ。そういうことではなく、戦いたくはないと言っているのです」
戦うとしても、十倍の兵力でやる。
だのに、たかが一万しか勝っていないのに仕掛けるはずがなかった。
彼女にはこの二人と曹操とを相討たせる策がある。
最終的な勝者は疲弊しきり、しかも排除しやすいものでなければならない。
勿論、相討ちになってくれればいうことはないが、その為にもまずは国境を接させないこと。これによって円滑な関係改善と同盟を防ぎ、その間に火種を作らねばならない。
その後も円滑に進んだ交渉を終えても、李師は基本的にこの会見中は職務的な発言の範疇を一度も超えたことがなかった。
彼には終着点と出発点はわかる。どこを通るかも、少しはわかる。
しかしその道中で何が起こるかまでは全く予想できていなかった。
これは彼が仕掛ける側ではなく仕掛けられる側だったことが大きい。
受動的立場にある者は、動いた物に対してしか反応することができない。彼がこの時点で全てを、つまり不確定要素と各諸侯の動きを明察し、完全に当てられていたら、それは正に全知全能を備えていると言ってよいだろう。
しかし彼の全知全能はあくまでも神のそれとは違っていた。わかる範囲までしかわからないし、不確定要素がいつ起こるかなど予想できようもない。
だが、自分から積極的に謀略を仕掛ける気はない。自分にはその才能が欠落していると、というよりはそういう暗闘からは無縁で居たいという感情があった。
別に自分の憶測を全面的に信じてしまう程には自信を持っていない彼としては、決定的な証拠を掴むまでは動く気はない。
本質的に彼の性格は能動ではなく受動なのである。何かが起こったのを受けて動くことしかしないし、できない。第一、遠く蜀に居る人間が謀略を仕掛けてくるから主導で動く。着いて来いなどと言って着いてくるほど、彼の部下は盲目的ではない。
幽州と蜀では、距離がある。
彼は不本意ながら用兵によって謀略を打ち破れ、法正が謀略によって自分を打ち破れることができた。
しかし、用兵と謀略では射程が違う。謀略は無形を動かせば刃となるが、用兵は人と物資とを現地まで持っていかねばならない。
それに陰謀論などという歴史は、信じたくない。対策ができないし、関わりたくもない。向こうから関わってきたらまあ動くとしても、こちらから好きこのんで近づきたいとも思わない。
物理的に不可能だし、精神的には忌避したい。彼の『警戒はするが不干渉』という方針は、だいたいこのような思考の動きによって構築された。
「……あいつは何を狙っているのか、貴官はわかるか?」
「想像でしかないけどね」
捕虜交換の刻限までの僅かな時間をそうして潰すべく、珍しく酒は抜きで二人は座って向かい合った。
「……まず、敵の狙い。これは現在流通している質の悪い五銖銭を質の良い、信頼の置ける貨幣に変えることだと思われる」
「貨幣に信頼が置かれれば現在の物々交換主流の一般市場も大商人達が乗り出しやすく、なる。だが、銅はどこから出てくるのだ?」
「一時的に、弘農から。いずれは銅の名産地に移る」
「巴蜀と漢中か」
「いや、恐らくは荊州もだ」
恐らくは余人が聴けば更々とは流せないであろう会話が立て板に水を流すような速さで噛み砕かれ、相互の信頼のもとに理解される。
漢中も巴蜀も銅の名産地にであり、荊州もそうだった。
しかし、経済圏を握るのが劉焉の狙いである以上は己の領地から出る銅でもって独占させるのが筋であろう。
それに荊州を組み入れるのであれば、何らかの連合を組もうとしているであろうということは明敏な夏侯淵にはすぐさま理解できた。
そして、その先も。
「となると司隷は邪魔になるな」
如何に権威が落ちようと、この国の中心は洛陽・長安を有す司隷。
荊州と蜀が提携して経済圏を構築するならば、旧来の司隷を中心とした経済圏とぶつかり合うことになる。
「だから、涼州だ」
「なるほど、道理で捕虜が少ないわけだな」
司隷を統治するならば、董卓の勢力はその残滓も残しておく必要はない。残せば害悪にこそなれ、益にはならない。
内応させた理由がそこにあるならば、単なる領土欲で済んだ。
しかし、周囲には死体を埋めたであろう若々しさもない。捕虜も少ない。
必然として、計算に合わない一万ほどは涼州に帰ったということになる。
「董卓の元にいた涼州勢力の残党を利用し、司隷を荒廃させる。元々彼等に政治能力はない。縮まる経済圏と、広まる新進気鋭の経済圏。どちらが有利かは言うまでもないだろう?」
「更に言えば、長江の水運を利用とするとも、考えられるのではないか」
陸路よりも、水路。速く、既存の権益がないのは後者の方である。
「それには気づかなかったな」
「私も今、己ならばどう経済圏をどう築くかと考えてわかった」
表には見えない分、袋叩きにされにくい。例え連合を組まれても経済圏を握れば、封鎖することによって瓦解させることが容易であるし、その場合盟主となるべき袁紹は軍事的な信頼をなくしているのだ。
「一見した所そうでもなかったが、中々に根が深い」
「ああ。だが、どうなるかはまだわからない。確かに司隷は惨憺たる有り様になるにせよ、私にはどうしようもない。わかったからといって手は打てないし、手が打てないからどうしようもないのさ」
「怠惰ととられかねんな、それは」
「私は不本意ながら用兵家だ。門外の謀略にまで対策を立てろなんて言ったら、もうこんな仕事はほっぽりだすね。だいたい、何故私が一から百までやらなきゃならないんだ?」
「その気持ちは、わかる。謀略には謀略家こそが対処すべきだ。だが、わかった以上放置するのも良くはない」
酒を飲んでもいないのに学術論文の如き愚痴を聴かされることに辟易しながら、夏侯淵は聴き役に徹する。
あと二刻の辛抱だった。