北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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血筋

夏侯淵は右筆というものを置かず、いつも公文書も私文も己で書いていた。

更には、身の回りの世話をする人間も典韋しか置かず、それも戦で自分が動けない時に茶を淹れてもらうというような瑣末事しかやらせない。

 

漢の将軍が階級を上昇させるごとにその軍事能力に陰りを見せていたのは、何でも他人任せにして自分でやるという思考を放棄してしまい、それが結果的に戦場にも現れてしまったからだと思っていたのである。

 

自分のことは自分でやるという信念は、彼女の館が漢の功臣の家系らしく古めかしい貴族的なものであるにもかかわらず、使用人を置かないあたりにも現れていた。

 

部下に任せればいいところも、大事なところは積極的に自らが指揮をとる。謂わば外見と雰囲気に不釣り合いなほど面倒見が良かった。

 

彼女の姉は私生活は使用人に丸投げしているが、こういう面倒見の良さは変わらないのである。

劉邦と言う名の駄目君主の御者として色々世話を焼いていた夏侯氏の血の特質なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

 

だが、それよりも何よりも彼女の精神として『他人に自らの何事かを任せる』ということができなかった。

別にワンマンというわけではなく、意見は求める。しかし、彼女の軍には彼女よりも優秀な人間が居なかった。

というよりも、戦略の為に戦術を活用したり、視点を変えてみたりする人間が乏しかったとも、言える。

 

姉の軍にはそういう軍師系、副将系の人材が付けられているところを見るに、曹操からすれば『夏侯淵は一人で全ての役回りをこなせる』というような判断であろうと推測された。

 

ワンマンを好む好まざるかかわらずに結果的にワンマンにならざるを得ないのは彼女の友も同じだが、彼女は別にそういうところを似せようとして似せているわけではないのである。

 

(……公孫瓚は疑わないだろうが、優しすぎるのが欠点だからな。あいつがそれに付け込んでいるとも、とられかねん)

 

返ってきた手紙に書いてあった『忠告ありがとう。軍縮はできないけどこちらとしても不穏に見える動きは慎むよ。だけど私の主は寛容で温和なできた人間だから、君の思う最悪は起きないと思う』、という旨を見てため息をつきながら、夏侯淵は左の頬から眼までを手で覆った。

 

ともかく、性格と能力の矛盾、功績と野心の矛盾で誤解を招きやすい彼を何とかこちらの利益にも、あちらの損益になる形でもなく押し止めなければならない。

 

(……私も馬鹿なことをする)

 

方面軍司令官兼北方総督として考えるならば、趙雲辺りを抱き込んだ後に互いの家臣に対して離間を用い、冀州四郡と幽州を切り離して独立勢力とし、冀州四郡を安泰させて不可侵の盟約を結び、袁紹の冀州十郡を手中に収める。

その後に并州を獲り、河間郡以外の三郡の旧袁紹領たる冀州十郡を交換し、幽州を滅ぼす。

 

公孫瓚と李師の間が信頼で結ばれていようが、公孫家に流れる血は豪族であり、公孫瓚は更に父の身分が低い。

如何に能力があろうが本質的には同格である為、連合の体をとらなければ国を円滑に維持できないのが弱点だった。

 

何にせよ、名将を斃すには搦手でいくのが妙手だと古来から決まっていた。

 

「この夏侯妙才が、甘くなったものだ」

 

決して苦くない苦笑を漏らし、文を書き切って外に出る。

青州から冀州へ。戦地を移しても、彼女の戦いは精彩を欠くようなことは全く無かった。

 

甘くなった夏侯淵の用兵は、更に鋭さを増しているのである。

 

「秋蘭様、あと四郡。如何に攻略致しますか?」

 

「公孫瓚とは接しないように徐々に締め上げる。もう楔は打ち込んだ。抜かりはしない」

 

朝歌、魏、広平、陽平。

三日で五百里、六日で千里と謳われた疾風怒濤の電撃戦でこの四郡を落とし、平原、清河を調略で降伏させ、既に名将としての声望を得ている彼女の名は曹操軍随一の将として否が応でも高めている。

 

あとの四郡にもそれぞれ付け入る隙となる城に楔を打ち込み、あとはどこから料理をするか、だった。

 

現在の彼女は魏郡鄴で政務と軍務を取り仕切っている。

まだ完全に夏侯淵に任された冀州を含む河北の基盤が固まったわけではないが、袁紹の本拠地である鄴を電撃的に落としたが故に豪族たちが靡き始めていた。

 

時間が経てば経つほど袁紹から豪族は去っていく。夏侯淵の側に立つ豪族は増えていく。

 

仕掛けられるならばここらだろうと、彼女は冷徹に思考を巡らせていた。

 

「公孫瓚の直属兵力は四万だったな」

 

「はい」

 

「易京の兵力は二万五千か」

 

時は西暦188年二月。汜水関決戦から約一年半が経っている。

あれから千人ほどしか増員していないのは、おそらく政治面の状況もあった。純粋に資金が足りなかったということもあるだろう。

 

しかし、だ。その軍政面の担当者である賈駆は兵力の増強の必然性について知っている筈だ。

それを知ってなお資金難に陥らせるほど無能ではない。

 

(遠慮、というべきだろうな。そもそも人口が違うのだから、俯瞰すればそんなものは無用と言えるが……やはり人が相手である以上俯瞰風景だけでも駄目、か)

 

曹操直卒の青州黄巾党を含む精鋭は五万。

夏侯惇に二万、夏侯淵が私兵と預けられた曹操軍の一部、豪族たちを含めて四万。

 

冀州の統治を円滑に行えている現状、来年辺りには自分の兵力は六万を越すであろう。

豪族の突き上げにあって君臣ともに互いに遠慮している状況と言えるのが公孫瓚陣営であり、それは多かれ少なかれ曹操陣営以外の内情だとも言ってよかった。

 

「秋蘭様、あの……良かったのですか?」

 

「うん?」

 

「いえ、その、河北を攻めるということは……」

 

易京に居る友を攻めることになるのでは、この上司思いの部下は言ったのである。

現に曹操は彼女に二択を与えた。河北を攻めるか、徐州を攻めるか。

 

曹操としては荒廃した青州をその内政手腕で復興させなければならないわけだが、兗州もそれほど豊かではない。

陶謙の徐州か袁紹の冀州かを攻め取り、その広大且つ豊潤な大地を得なければ財政基盤はいつまでも定まらないままだった。

 

その結果、第一に衰弱した袁紹が治める冀州。

第二に、名だたる将が皆無と言っていい徐州。

 

司隷に攻め入るという選択肢は二ヶ月前まではあったが、涼州の董卓軍残党が引き返してきて荒らし回っている今となってはその選択肢はない。

今の曹操は、水準的な土地と荒れた土地とを領している。

 

ならばその均衡を取るためには、豊かな土地が必要だった。

 

「私は勿論、彼と戦いたくはない。しかし、天下を征服するにはどのみち戦わなければならない。なら、己で討つ。それならば一刻も早く、敵の数が少ない内に叩くのが得策というものだ」

 

しかし、まだ矛を交えるには己の軍は散文的な韻を踏み過ぎている。

 

「……どうせならば、袁紹を利用させてもらうとしよう」

 

「はぃ?」

 

「奴等も打って出ることは疑いようがない。ならば、そうだな」

 

口の端のみを上げ、怜悧な相貌が冷酷な色を帯びた。

彼女としては、私軍として一本化されている李師の軍が羨ましい。

 

豪族と呼ばれる者たちを抑えつけるには、血筋と武力が要る。

清流派の巨頭である李家と四世三公の袁家の間に生まれた父・李瓚から継いだ彼の血筋は劉氏かその分家以外では比類ないほど高貴なものであり、その武力としては呂布や趙雲、それに何よりも自身の卓犖とした指揮能力と智略があった。

 

彼の配下に審配を頂点にした牽招等の冀州豪族が黙って従っているのはその実績と血筋が物を言っているのが大きく、公孫瓚の元で豪族が好き勝手やっているのも彼女の血筋が問題である。

 

能力よりも名声を、名声よりも血筋を優先させるのがこの国の根幹にある以上は仕方ない。

更に言えば、公孫瓚の配下にいる豪族が何やら蠢動を収め得ないのも、李師率いる名士・冀州豪族群に駆逐されるのではないかという恐れからだった。

 

袁紹も血筋的には李師と殆ど同一で、彼の持つ指揮能力を大軍に代えて豪族連中の頭を抑えていたのである。

彼女の陣営にはまだ沮授や田豊や張郃などの主力豪族が残っているものの、末端の日和見豪族たちは夏侯淵に寝返った。

 

夏侯淵が不利になれば有利になった勢力に寝返るであろうから、これほど信義的信頼にも、能力的信用にも値しない連中は居ない。

 

「田豊も沮授も張郃も、その名を轟かせた名将だ。巧くやってくれることを期待しよう」

 

その二週間後、袁紹軍出撃の報が鄴城に齎される。

予定戦場は梁期。豊かな草原が広がる魏の別名を冠す土地であった。

 

ここで、夏侯淵率いる北方征討軍四万と袁紹軍五万がぶつかり合う。

 

 

「敵には、後がない」

 

夏侯衡は五千

夏侯覇は八千

夏侯称は三千

夏侯威は七千

夏侯栄は四千。

 

そう夏侯淵に評された五人の将は、それぞれ三千の兵を率いて参戦していた。

夏侯淵の直衛部隊である五人の子飼いが率いる軍勢と鍾会率いる援軍のみが曹操軍であり、残りの兵力はすべからく袁紹軍から寝返った豪族たちの私兵で構成されている。

 

「必ず激烈に、苛烈に。しかも周到に攻めてくるに違いない。幸いなことに―――」

 

ちらりと冷笑を籠めた視線を前方に向け、夏侯淵はその視線に現れた感情と同じく冷たく笑った。

 

「―――彼等が最前線で戦ってくれるという。これを利用して敵の出方を見て、疲労を誘う。私の命令があるまで動かぬように。鍾士季。貴官もだ」

 

「はっ」

 

深い紺色をした髪をした鍾会と、全体的に色鮮やかな髪色をした子飼いの指揮官たちが了承の意志を示してこれを容れる。

 

鄴を捨てた袁紹の新たな本拠となった邯鄲と、夏侯淵の本拠となった鄴。

その中間にあるこの梁期は、その大軍を展開するにうってつけな地形であることを利用され、数刻後に血と悲鳴とで塗り潰されようとしていた。

 

「将軍、前衛の呂曠・呂翔隊が袁紹軍に突撃を開始致しました!」

 

独断専行、無断突出。

豪族を戦場に引っ張っていった時にありがちなことが、夏侯淵の下で起こったのはこれが初めてではない。

 

彼女は今まで、態と彼等に対して軍規による締め付けを緩めていたのである。

 

「戦果も挙げられないのに、好んで骨を折るとは勤勉なことだ」

 

伝騎が一礼して去っていくのを見送りながら、夏侯淵は皮肉げに笑いながら床几の肘掛けに腕を乗せた。

 

「どうなさいますか?」

 

「何を、だ?」

 

「呂曠・呂翔隊に続き、豪族たちの私兵が突撃態勢に入っています。押し止めなければ、吾々は無為に全兵力の3分の1を失うことになりかねません。更に言えば、奴等の中に内応者が居るとも限りません。ここは本軍を前進させて援護するか、制止させることが必要かと思いますが」

 

鍾会のもっともな意見を手で制し、夏侯淵は肘掛けに立てた手に頬を置く。

彼女からすれば、馬鹿には好きにやらせればいい。裏切る素振りがあるならば、より苛烈な状況下に叩き込んでやればいいのだ。

 

「もっともな意見だが、無用のことだろう」

 

「曹兗州様の統治に奴等が不要なことはわかります。しかし、さしあたり勝つ為には彼等の兵力は必要なのでは、ありませんか?」

 

「必要だ。だが、一度痛い目を見てもらわなければこちらとしても御しようがない。裏切った以上は、恩よりも恐怖と死による統御を望んだと解釈してもいい。ここで負けさせ、二日目に収集をつけて順次使い潰す」

 

日和見に性根の腐った裏切り者にはとことん冷徹な夏侯淵の予想通り、この豪族たちによる一大攻勢は簡単に弾き返される。

夏侯淵はそのまま整然と十里後退し、陣形を再編して豪族たちに『勝手に突出した挙句敗けた』という詰問を行い、次はないという恐怖によってその統御下に置いた。

 

『孫子』九変篇に曰く、将に五厄あり。必死は殺され、必生は虜にされ、忿速は侮られ、廉潔は辱しめられ、愛民は煩さる。凡そ此の五つの者は将の過ちなり、用兵の災なり。軍を覆し将を殺すは、必ず五厄を以てす。察せざるべからざるなり。

 

必死となった彼等がどうなるかは、この文が如実に示している。

 

 

そして明けて二日目、劣勢の中にある夏侯淵軍と優勢の中にある袁紹軍の激突がはじまった。




呂布(異民族)
趙雲(危険人物・冀州人)
田予(冀州名士)
張遼(亡命者・并州人)
華雄(亡命者・并州人)
賈駆(亡命者・涼州人)
董卓(亡命者・涼州人)
麴義(亡命者・涼州人)
審配(冀州豪族)
劉馥(潁川名士)
韓浩(潁川名士)
高順(并州人)
成廉(異民族)
魏越(異民族)

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