北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
「呂翔様、呂曠様、討死!」
「焦触様、張南様、敗軍の中で行方知れず!」
「蘇由様、蒋奇様が顔良・文醜に討たれ、配下の兵たちは潰走状態に入っております!」
「顔良・文醜隊の勢い凄まじく、前線から援軍要請が届いております!」
悲報と言っていいこれら四報を、夏侯淵は一言で押し流した。
「彼女等の兵には、気の毒なことをした」
本人達の安否など気にも掛けず、必要最小限な犠牲で不確定要素と邪魔者を排除し、敵軍を疲労させるという布石を打った夏侯淵は、再び十二里ほど下がる。
豪族の私兵の死傷者は既に四千にものぼっているが、袁紹軍の死傷者は千もない。
圧倒的に負けていると、言っても良かった。
しかし、これは実情と大きく異なっていたのである。
彼女が行ったのは、和を乱す不確定要素と内通を約束した裏切り者の始末。
その際に、『戦には必要な一手で、絶対に出るであろう犠牲』となることを豪族に押し付けていた。
即ち彼女は、死ぬまで戦う役割を頼りにならない連中に押し付け、頼りになる本軍を温存している。
夏侯淵は『命は皆平等』という人道主義者ではない。どうせ殺すならば死んでもいい者たちを差し向けることで全体的な犠牲を抑えるというのが将の仕事だと割り切っていた。
これは彼女が『縦繋がりの中央集権的国家』を目指す者達の一員であり、公孫瓚や李師のような『横繋がりの上に代表者が立つ国家』を目指していないからであろう。
簡潔に言うなれば、専制と連合の違いであった。
どうせ殺すならば、自軍の兵を損耗させて殺すよりは敵の刃にかかって死ぬ自軍の兵の役割を代わってもらう。
『自軍の兵を勝つ為に使い、できるだけ多く生還させる』将としての冷徹さが、彼女の極めて正確な判断を齎していた。
「敵軍の精鋭部隊は、吾等の不穏となりうる豪族たちと血を血で洗う激戦を二日にわたって繰り広げている。三日目となる今となっては疲労は蓄積し、とても今までのような戦い方は望めん」
三日目まで統制の取りにくい将とその私兵を磨り潰すような指揮振りをとっていたのは、彼女にとっての自軍である曹操軍の兵を一人でも多く生還させるという職責を果たす為である。
「敵の攻勢限界点は以前より遥かに近く、その攻撃も弱い。各員は防御戦闘に徹し、私の命令が来しだい反攻。勝っている内は感じない疲労を剥き出しにしてやれば吾等の勝ちだ」
各将たちが各管轄の軍に散り、指揮を執るべく本営を去る。
三日目、冀州袁家が余力を振り絞った最後の戦いが幕を開けた。
田豊の指揮の元、顔良・文醜が先鋒として突き進み、沮授と張郃が両翼となってこれを掩護する。
袁紹軍は二日にわたって全力の攻勢をかけながら未だに夏侯淵の巧みな兵力投入によって曹操軍自体にはまるで触れることができていない。
しかし、彼女等からすれば大いに勝ち、敵将の首を討っているということになっていた。
あと一押しで、勝てる。
それが袁紹軍の考えであった。
「押せ押せ押せぇ!」
「麗羽様の為に、頑張ってください!」
文醜と顔良が自ら得物を振るって突撃してきている。
その報に夏侯淵が接した時、彼女が思ったのは『そこまで来たか』というところだった。
中央部の将たる田豊に自ら陣頭に立ち、突撃するように言われたとするならば敵の疲労は思ったよりも遥かに重いのではないか。
誘いにするにしても、将自ら陣頭に立つのはここ一番。敵陣の破断と突破を目論むときである。
「第一陣は左に斜行して右に流し、第二陣は右から突入してきた敵を左に流せ。無用な乱戦を避け、足止めと敵の速度の減衰に徹するのだ」
夏侯淵には今攻撃に移る気は全くない。故にまともに応戦し、乱戦することを避けていた。
勢いを左から右へ、右から左へ受け流す。
これだけ言えば簡単だが、夏侯淵はどの部隊を進めてどの部隊を下げるかを一々指示を出さねばならなかった。
田予に預けている部隊運用というのも兼ねなければならないからこそ、夏侯淵の仕事が過大になる。
仕方ないことではあるが、彼女の負担は馬鹿にならなかった。
「将軍、敵軍の勢いは凄まじい物があり、既に五陣中三陣が突破されております。何か手を打ちませんと……」
「敵は四陣に随分と手こずっているようだな」
「はっ、それがどうかなさいましたか?」
第四陣はそれほど堅い部隊ではない。堅さで言えば第二陣が勝っていた。
敵の勢いが明確に落ちてきている。夏侯淵は充分な確信を以ってそれを悟った。
「第四陣に伝令、突破させた後に左右から挟撃せよ、と」
敵の侵攻速度によっては本営がそのまま突撃を喰らいかねない指示を、夏侯淵は下す。
敵は攻勢限界点に達しつつあると、彼女が戦場で経験してきた知識が囁いていた。
「敵の脚が止まりましたぁ!」
「押し返せ」
騎兵は攻撃に強く、防御に弱い。
その頼みの綱の攻撃能力までもが疲労と損耗によって磨り減り、突撃の何よりの武器である速度を殺された文醜・顔良隊は脆く、三方からの包囲攻撃で夥しい犠牲が現出していた。
「鍾士季に連絡。敵右翼部隊の攻勢に区切りがつき次第攻勢に転じ、これを討て。その後に伸び切った敵戦線の側面を付け、と」
夏侯淵が敵の突出した中央部を簡単に料理し始めても、右翼と左翼は未だ防御戦闘に徹している。
練度の低い味方を連れて戦う今回の戦闘は鮮やかさではなく、血を血で洗うような凄惨さこそが必要なのだ。
故に夏侯淵は長期戦を選ぶ。結果としてそれは正しかった。
張郃の指揮する敵左翼一万は容易に崩れるさまを見せないものの、沮授の指揮する右翼部隊一万には綻びが見え始めている。
中央部は、言うまでもない。
夏侯淵は決戦を強いた。何故強いることができたか。戦略的勝利を既に収めていたからである。
曹操が下絵を描き、現場で夏侯淵が完成させた戦略的勝利は、戦術的勝利を得て解決できるようなものではなかった。
そこら辺に、今回の戦いにおける袁紹の敗因がある。
そこからの夏侯淵の攻勢は苛烈と巧緻さを極めた。
まず、敵中央部と左翼の連結部に夏侯衡を突撃させて分断・包囲し、左翼部隊を指揮する夏侯覇には徐々に中央部から距離を離すように誘導させる。
更には敵右翼部隊を打ち破り、右回りに突進してきた鍾会の掩護に夏侯称を向かわせ、敵が完全に崩壊する寸前にまで追い込み、彼女は三千足らずの部隊の長を呼んだ。
「栄」
「はい!」
「薄くなった敵中央部を強行突破し、田豊を討て」
夏侯衡に左から崩されないように左翼に均衡を傾け、更には鍾会の右翼に均衡を傾けさせる。
その後に、一隊を以って両翼を切り落とした敵を破断。
田豊が討たれ、袁紹が顔良・文醜に連れられて逃走し、最早軍の体をなしていない袁紹軍は個々に退却を始めていた。
「追撃なさいますか?」
「各員適宜対応せよと言っておけ。何でも私が決めていては、成長のしようがない」
頭を預け切っていては、いつまで経っても成長がない。
勝ち戦で無用な被害を出すことがあることは、彼女の友の好む歴史が証明している。
しかし、一方で思うのだ。
将に成長が見られなければ、その能力の無成長による継続的な被害が馬鹿にならないと。
たまには自ら考えることも必要だと、夏侯淵は判断したのである。
この判断に接し、各司令官はそれぞれ追撃に移った。
武官における至尊の座を得ようとする野心家である鍾会は許可がなくとも追撃に移るつもりであったから、その移行は速い。
彼女の軍は右に回頭して敗走する沮授の頭を抑え、これを討った。
一方の左翼は、命令通りのことを忠実に再現することに注力していた夏侯覇の僅かな逡巡もあって追撃に移る速度が鈍い。
これを見逃さなかったのは、この絶望的な敗走の中でも勇戦していた張郃らしい機敏さだと言える。
張郃はただ、退き時を知らないからむざむざ残っていたわけではなかった。
夏侯覇隊に騎兵による突撃を仕掛け、その後に天下随一と謳われた冀州の弩兵による斉射を撃ち込んで右に回頭。
夏侯淵が袁紹を捕らえるべく出撃させた夏侯威隊の側面を喰い破って主の逃亡を救い、自身は邯鄲に通ずる道に籠もるべく後退した。
袁紹が逃げても、最早天下の形勢に変化はない。それよりは敵対勢力となりうる兵力を削る。
これを易々と逃す夏侯淵ではなく、張郃の部隊はその追撃によって部隊の二割を失った。
しかし、邯鄲に通ずる要路を抑えることに成功した張郃に、夏侯淵は素早く攻撃を加える。
「高覧」
「はっ」
「徴集兵を一部隊ずつ後方に下げ、撤退させよ。私が殿となる」
その動きを未然に察知した張郃は、勝つことを諦めて時間稼ぎに徹することを手早く決断した。
矢が蝗のように飛び交う射撃戦が行われた後、隘路での乱戦がはじまる。
張郃がここで稼いだ五刻によって、袁紹は完全に逃げ延びることに成功していた。
開戦してすぐに副官である高覧にそう命令を下した為、邯鄲への道に逃げ込んだ時に居た八千の兵は既に彼女の私兵四千のみとなっている。
「高覧、本初様は逃げられただろうか」
「吾等が戦っているときに逃げ出した主のことなど知りませぬ」
「高覧」
軽くたしなめ、張郃は殆ど絶望的な戦局を見て、佩剣の柄を二度叩いて呟いた。
「私は冀州の豪族だ。袁家の先代様に父が犯した罪を許していただいた恩に応えるべく、これまで袁家に尽くしてきた。今更、袁家以外を主と仰ぐことはできない。
だが、他の者ならば別な道の歩み方もあろう」
「儁乂様―――」
「高覧、貴官に指揮権を委ねる」
自害しようとしている。
そう悟った高覧は、剣の柄に掛けられた右手をそっと押し留めた。
「いけません、将軍。袁家以外に主を戴けないならば、また別な道があろうと小官には思われます」
「汝南に行けるわけもなかろう?」
「いえ、汝南ではありません」
袁家の本籍は、汝南にある。
高覧の言っているのがそれだと先回りした張郃は打ち消されたことに驚きつつ僅かに頭を回し、気づいた。
「河間の、易京か」
「はい。将軍が治められていた地も、そこより程近い鄚。民情を考えれば粗略には扱われぬと思いますし、何より易京を中心とした冀州四郡を治められる李仲珞殿は袁家嫡流の血をひかれるお方。
更には戦をしては未だ不敗、政務を執れば民に恵恤を施す徳のある御仁です。旧敵とはいえ、彼は袁家への侵攻を行いませんでした。窮鳥を撃ち殺すような方ではないかと」
彼は幽州の豪族が企てた袁紹領侵攻作戦に一貫して反対を示し、遂には公孫瓚と共にこれを差し戻したという。
敵の弱味を突くのが常套であり、自身もそれを董卓に対して行った袁紹陣営としては覚悟をしていたのだが、彼は侵攻作戦を企てるどころか却下した。
これはただ単に『働きなくない。いや、べつに働くのはいいが無用無益な戦で兵を殺すことできない』ということであり、信義でも何でもなかったが、世の人々にすれば美談となるらしい。
元々、『董卓は悪政を敷いていなかったのではないか』という出処不明の噂に、『不敗』と『善政』という真実で名声を得ていたから、土台があってこそなのかもしれないが。
とにかく、李師は幽州豪族たちの『弱いから叩こう』という作戦とも言えぬ作戦を一から百まで丹念に矛盾点と不可能な点を指摘し、兵站から実戦に至るまでの計画の曖昧さをその無駄に回る頭脳を駆使して面と向かって論破してみせたのである。
論破しなければ止めそうになかったからこその論破であったが、これは更に幽州の豪族との間隙を深く、広いものとした。
護衛として同行した趙雲が笑うか煽るかしているだけという無礼極まりない態度だったことも、あるかも知れない。
ともあれ単経が『兵などの命よりも、領土と利益をこそ望むべきだろう』と言った後、この問答の最後となる、
『この世で最も惨い死に方とは、なにか。この世で最も唾棄すべき人の殺し方とは、なにか。それは無能な指揮官が立てた無用無益な作戦に従い、その中で死に、殺すことです』
という返しから、
『それは吾々の立てたこの作戦が無用無益であり、なんの実も枠も伴わず、兵を殺すだけのいきあたりばったりな作戦だということか』
という問いに対しての、
『そう言ったのが、聴こえませんでしたか?』
というやりとりは最早民の笑語の的となるほどに有名になっていたのである。
このことから、彼が無用な戦とそれに伴う犠牲を何よりも嫌う、優しい人間であることは冀州に知れ渡っていた。
「……わかった。亡命しよう」
故にこの判断は、同じく民を安んずることを望む張郃にとって当然とも言える判断であったろう。
西暦188年、二月十四日のことであった。
差としては、
夏侯淵……味方(その後の去就が定かではないものは除く)の死者を抑える
李瓔……死者を抑える為に勝ち方を選ぶ
って感じです。