北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
夏侯淵の逆説的な一言に、皆の視線が集中する。
「それはどういうことかしら、秋蘭?」
主の問いに対し、夏侯淵は一礼してこれに答えた。
一流の将帥だからこそ合理的で完璧な計算による判断を繰り返し、結果として相手に読みやすさを与えてしまう。
もっと言えば合理的且つ常道を踏まえた指揮官ほど優秀で、その優秀さであるが故に心理が読みやすい、ということだった。
「敵の兵の動かし方から次動を読むのが用兵だけれど……敵はそれから将の心理と兵の心理を読み、それによって戦場を制御下に置く、ということ?」
「はい。これは私も様々考え、一応対抗策のようなものも見出してはいます」
流琉、と。
扉の前で警護をしている典韋を呼ぶと、薄い緑色をした髪の小柄な少女が現れる。
夏侯淵が対策を思いついた原因となる少女は、列席の諸将の常とは違う張り詰めた真剣な雰囲気に少し怯みつつ、滔々と話しをはじめた。
「あるところに、サトリという妖怪がいました」
その妖怪は所謂心を読める類の能力を持っており、それはそれは恐ろしい姿をしていた、らしい。
ある日、森に木を切りに行っていた樵が恐ろしい姿を妖怪と出会してしまったのである。
『なんと恐ろしい妖怪に出会ってしまったものか』
樵が声に出さずにそう考えていると、その恐ろしい妖怪は耳元まで開いた口を動かし、牙を覗かせながら喋りだしました。
『お前、なんと恐ろしい妖怪に出会ってしまったものか、と考えているだろう』
樵は驚きました。それは今自分が思っていたことそのままだったからです。
『そんな馬鹿な、と考えたな?
何故考えていることがわかるのだ、と考えたな?
まさか、と考えているだろう。そのまさかさ』
立て続けに三つの考えていることを当て、樵は思わず後退ろうとしました。
考えていることを立て続けに当てられるということが怖かったのです。
『ならば考えることをやめれば、か?
その程度で無心になれれば苦労はしないさ。おっと、逃げるなら足元に気をつけろよ?』
無心になろう、無心になろうと考えながらも後退ることをやめることのできなかった樵は、その妖怪の忠告を無視して下がり続け切株に躓いてしまいました。
その拍子に樵の手からは唯一の武器である手斧が離れ、偶然サトリの方へと飛んでいきます。
これには流石のサトリも驚き、すんでのところで手斧を避けたものの、『心に思わないことをするとは恐ろしい奴め』と考えながらその場から逃げ去ってしまいました。
「流琉、ご苦労」
ペコッと頭を下げながら扉の外に去っていく典韋を見送り、夏侯淵は視線を議場で卓を囲んだ諸将の方へと戻す。
殆どの人間が『なるほど』という顔をしているところを見ると夏侯淵の意図は正確に伝わったようだが、彼女は更に念を押した。
「ここで注目して欲しいのは、このサトリという妖怪が超能力の範疇ではなく、己の発言・行動による誘導によって導き出しているような節があることだ」
「つまりこれと似た敵はこちらの初動で心理を読み、読んだように見せる返し行動で誘導。後の先を取られた時点でこちらの行動を制御下にいれてくるということ?」
「そうだ」
軍師の荀彧は少し笑みを浮かべながら、夏侯淵の評価が過大であることを断定する。
男嫌いが昂じて男の人材への差別と蔑視に繋がってしまった彼女からすれば、そのような戯言をそう軽々と信じるわけもなかった。
更に彼女は敵将李瓔の姉である李宣と親しく、公孫瓚陣営と戦うに際して情報も仕入れてきていたのである。
「弱曰く、そう大した人物でもないらしいけど?」
「ほぉ?」
別に怒るほどではないが又聞きで友が馬鹿にされたことについては一定の苛立ちを感じた夏侯淵は、女尊男卑の精神というフィルターを付けがちな自陣営の風潮を僅かに憂いた。
彼女自身はそんな馬鹿げた差別をする気はないが、とにかく影響されやすい姉と歴史的な統計上の問題で男を低く見がちな主、その権化のような荀彧という三巨頭がいることもあり、一定の距離をおいている。
後者はともかく、前者二人は敬愛すべき存在だった。だが、その嗜好と考え方にまで迎合する気は毛頭ない。
「自分の身の回りのこともできない、弓は引けない、馬は乗れない。剣も振れないし、清流派の巨頭の孫にするには不適当も甚だしいほど儒学にも否定的だし、読むものといえば史書。では頭はどうなのかと言われれば孫子も呉子も、必須の論語も暗記ができずにギリギリで、太学にも退学すれすれの成績だったのよ?」
漢で尊ばれる学問は、先人たちが記した書物の暗記が基本となっていた。
故に暗記が苦手、というかそもそもかけた時間が物を言う暗記でやる気に乏しい李師が真面目にやっている学生たちに敵うはずもなく、常にギリギリの低空飛行。入学した時もスレスレ、退学にされかけるのは日常茶飯事。
一応最初の頃は経歴だけを見て漠然と尊敬していた荀彧も、成績や李宣からの虚構が一切ない話を聴くにあたりその感情のベクトルは逆しまになっていたのである。
「まあ、それは正しいだろう。世間一般の水準から見れば大した人物ではない」
「でしょう?」
「だが、趙括の例もある。別に暗記ができればできるほど戦がうまいわけではないし、弓や剣や馬ができなくとも指揮を執ることに支障はない。
その姉は確かに一般の規範においては仲珞などとは比べようもない、比べられたならば塵と城の如き差があるのだろうが、非常たる戦に常時における才を当て嵌めるのは如何なものかな」
趙括という『生兵法は怪我の元』を体現し、『知っていることとできることは違う』と教えてくれる人物を例に挙げ、慢心を窘めた。
夏侯淵は彼と飲んでいた時に聴いたことがある。
『私は戦う前に敵の慢心や油断を誘うことに全力を尽くす』、と。
警戒されるのではなく、油断されて舐められることを喜ぶ、戦場では実利一辺倒のというのが李師という男だった。
「つまるところ、彼の素行や人格や外見はそうは見えないかもしれん。しかし実績においてこの大陸で彼に比肩する将は居ない。檀石槐と戦い、北からの暴威の盾となっていた男が吾々の壁となって立ちはだかっている、わけだからな」
「……そんなことはわかってるわ」
「ならばいい。無用に相手を侮れば、無用の人死を招くだけだ。統計上女性の方が能力的に優秀だからと言って、男が女に才において勝ることがありえないなどとは言い切れないと考えていた方が賢明だろう」
用兵の才が欠片もなく、更には血統的劣等を持つ李宣からすれば李師などはろくに役にも立たない、そして豊かな才能の鉱脈を持ちながら採掘しようともしない弟だったのである。
更には李家伝統の黒髪を受け継いでいるのがよりにもよって己や妹たちではなく、弟であることもその劣等感の礎となっていた。
李宣は弟に学問において勝ち、李瓔は姉に戦争において勝つ。
分担としてはよろしいことだが、李宣は学問で李瓔に勝ったことを誇り、李瓔はそれを悔しがるでもなかったこと。そして、李瓔が戦争において大功を立てても別に誇りもしなかったことに比べ、李宣はその才能の劣等を悔しがり、兵法書などを読み漁ったことがこの仲の悪さを呼んでいた。
必死に兵法書を暗記した自分が功を立てず、半分怠けながら史記をぺらぺらと読み、論語を枕に寝ているような男に負ける。
自信家としても姉としても、軍人志望だったことからしても李宣は弟が嫌いだった。
そして弟の李瓔は『嫌いな人間に好かれようとは思わないし、理解を求めようとも思わない』というスタンスから別に理解を求めようとも思わなかったし、そこがまた癇に障ったのである。
その割りには、彼女の弟評は正鵠を射ていたが。
「秋蘭。対策とは?」
人物評と能力評を終えた曹操が対策を求め、促す。
馬を並べて戦ったのは夏侯淵のみであるし、実際に刃を交えたのも夏侯淵と鍾会。
その分析の細やかさからしても、対李師の第一人者としては秋蘭こと夏侯淵が適当だった。
ならばその対策を求めるのも、無理からぬことであろう。
「無心で無軌道な、斧を使うことです」
ここまで言われれば、誰しもがわかった。
一発で『あぁ、なるほど』と言う顔をしたものの、発言を控えた曹操とは違い、口に出したものも居る。
「なるほど……春蘭様ですか。適任ですね」
「凪、それはどういうことだ?」
あまりにも正直過ぎる楽進の一言に、夏侯惇は威圧感たっぷりに真名を呼んだ。
この場にいる人間では、夏侯惇以外のすべての人間が夏侯淵の言葉に理解している。
この人の考え方は読めない、と。
「彼の天敵は恐らく袁紹ですが、姉者でもまあ、問題はないでしょう」
「おい、秋蘭。どういうことだ、それは?」
「そうね。何も考えないことに於いて、吾が軍には春蘭に勝る人材はいないでしょう」
全員が全員、明言を避けてスルーに徹し、夏侯惇の疑問を他所に投げ続けた。
「秋蘭。あなたの指揮下から第六軍団を外し、代わって第七軍団を加えるわ。先陣として易京に攻め入り、その縄張りを調べておきなさい」
「はっ」
「補給計画を早急に構築し、後陣として私も進発します。以上、解散」
解散の令に従ってその場を辞した時、彼女の意識は既に内に篭っていた。
あの稀代の用兵巧者と、戦いたい。戦いたい、勝ちたい。
(できるのか、お前が)
敵と満足に言い切ることもできず、自ら勢力を興す気概のない己が。
器量はある。能力もある。野心もある。己に無いのは気概であり、独創性だった。
自らの脚で立ち、歩み、曹操どころか姉とすら刃を交えなければならないという現実を知って、独立という道から一時は目を逸らしたのである。
己の脚で立つのはいい。歩くのもいい。だが後者がよろしくなかった。
だが、器はある。
(豪族を糾合することもできず、かと言って苛烈さを見せることもできぬ公孫瓚よりも、だ)
少なくとも自分は袁術よりは優れている。袁紹よりも優れている。
暗い感情に満たされながら、夏侯淵は自分を嘲笑った。
曹操が一代の英傑であることは間違いがない。その独創性と行動力は他の追随を許さないだろう。
仲珞が自分の器に対する明言を避けたのは、こういうことなのではなかったか。
つまり自分が国を支配しても、中心となるのは長安だ。
特に合理性のある理由という理由はなく、先人たちがそうあったから、そうすべきだという変な従順さである。
その暗い感情を持て余しつつ、夏侯淵は内心で己を客観視した。
少なくとも現在においては公孫瓚も袁術も袁紹も己より勝る。漢の臣下であることから脱却し、独自の生存圏と勢力圏を築いたということで、勝る。
(これは嫉妬というものだな)
何故あの李瓔と言う有為の人材を召し抱えておきながら他人の顔も立てようとするのか。
自分からすればそんなことはどうでも良い。ぐちぐちという人間が居れば、宴会の席に一度に集めて首を纏めて斬ってしまえば良いことだ。
形はどうあれ頼っているのだからその人物の動きやすいように注力する。それが夏侯淵の人の使い方というべき、ものだった。
(つまるところ私は友に忠誠を強要したくはないが、忠誠の対象となっている公孫瓚に対しての嫉妬がある。いや、公孫瓚に忠誠を誓ってはいないのかも、しれないな)
何故お前はそんなにも不自由に甘んじているのだと怒鳴りつけたいような気持ちがある。
何故こいつの邪魔にしかならない奴を平然と跋扈させておくのかと怒りたい気持ちがある。
和を尊ぶのは勝手だが、常に貧乏くじを引いているのは間違いなく彼だった。
(人ありきではなく、平和ありき、だからだろうな)
一定の結論を出し、夏侯淵は一路武遂を目指す。
争覇の時が近づいていた。