北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
「明命、高陽にこの図面通りの陣地を築いてくれたか?」
「はいっ、万全です!」
対鍾会戦が終わり次第、次の戦いの準備をせねばならない。
戦後処理と言う名の埋葬が終わると、彼は直ぐ様訓練場として地形や何やらを調べていた高陽に周泰率いる工兵隊三千を向かわせた。
彼の全軍が嫌に少ないのは、この工兵隊を抱えているからと言う裏事情もある。
しかし、彼の勝利には必ずと言ってよいほどにこの工兵隊が絡んでおり、いわば縁の下の力持ちのような存在だと言えた。
「子龍、準備は」
「出来てはおりますが……」
周泰が工事をはじめた辺りで麴義隊を、三割終わらせた辺りから張郃隊と淳于瓊隊を、八割終わらせた辺りから呂布隊を、終わるやいなや趙雲隊と華雄隊を。
全軍の殆どとなる計三万に上る大軍が、高陽という平地に集結することになる。
易京という技巧と智慧を凝らして造り上げた要塞がありながら、そこに拠らずに前線防御を行うことを、趙雲は理解しかねていた。
「何故ここで待ち受けないか。疑問に思っているだろう」
「まあ、そうですな。ここは早々落ちないでしょうから、敢えて新造した陣地群に篭もる必要もないように思えまして」
「それはそうだ。しかし、吾々としてはここで是非とも、日を稼がねばならないのさ」
鍾会の独走を呼び水にした曹操軍の侵攻があるであろうことを考えに入れていた李師が立案した勝利の為の目標は三つ。
一、これ以上進撃が不可能なほどの損害を与えて撤退に至らしめる。
二、曹操を討ち取り、後継者争いを引き起こす。
三、兵站線を継続的に切断し、その供給を停止させる。
籠城戦では大被害を与えることはかなわないし、三を目標にするならばともあれ時間稼ぎが必須。
援軍のない籠城戦が勝利を齎した試しがないことを、彼は歴史から学んでいた。
故にこの一戦で三つの目標に対して歩み寄り、戦果と敵の動きに応じて採択する。
「まあ、よっぽどなことがない限りは第三案だね。そう簡単には勝てないだろうし、歴史の先導者を殺す趣味はない。それに何より―――」
「楽でいい。わかっております」
面倒な戦いなどを極端に嫌う彼の口癖となっている『楽への追求』を、趙雲は何回も聴いていた。
兵站線を継続的に切断するにしても何にしても、出撃せねばならないというならば吝かではない。
しかし、どこまで戦うのか。そこが問題なのである。
そのことを趙雲が彼に問うたのは、自軍を率いて高陽に構築された複合陣地群に布陣を終えたところだった。
「敵の本隊が来るまで野戦は続ける」
「野戦ではないでしょう、これは」
ジグザクに交錯した張郃・淳于瓊・趙雲・麴義の四個の陣地で一本のラインを構築しておき、本営を後方において華雄・呂布隊を予備として待機させる。
地形を利用し、掘削と設営を繰り返して城を造ったようなものだった。
「それにしても、あの夏侯妙才も己の実力と野心とを試したいならば早々に独立してしまえば良い物を。踏ん切りがつかぬから吾々が苦労することになる」
割拠している群雄と比べても何ら遜色ない能力と野心を持ち合わせているが、現状その野心よりも忠誠心が勝っているし、出処が不明。
趙雲からすれば、あの曹操軍随一の将には是非とも独立してもらいたいのである。
そうすれば、この男も踏ん切りがつく気がしなくもなかった。
「まあ、基本的には忠臣だからね。彼女。心で二律相反を起こしているだけだとは思うし、例え独立してしまっても忠誠心は曹孟徳殿に向いているのさ」
「なら何故あのようなことを主にはペラペラと話すので?」
態とそうしたような失言が多く、明らかに謀叛を示唆するような発言をした後に李師に窘められるのがサシの飲み会での日常だったことを、趙雲は何故か知っている。
その野心が鬱屈としたような彩りを帯びていることも。
「彼女には露悪的なところがあるからね。『疑われて一生を喰い潰すくらいなら本当にやってやろう』と言う拗ねたような考えから野心が目覚めて、かと言って殆ど絶対の忠誠心は捨てようもなく鬱屈としている感じ、ではないかな。曹孟徳という傑出した指導者への憧れを拗らせたとも言っていい。
まあ何はともあれ、誰しも身に憶えのない嫌疑をかけられるのは嫌なもんだ」
「直接訊かれたので?」
「私がそう思っているだけさ。君が信じるかは君の自由だよ」
恐らく本人よりもその心理状態に対して詳しいこの男が言ったことは、まあまずだいたい合っていた。
最初は普通に忠臣、曹操に必要とされて能力を高めてからは矜持を持った忠臣、嫌疑の目に晒されてからは野心も兼ね備えてしまったのであろう。
「ご忠告なされたので?」
「他人の屈折した心理迷宮の内面を引き摺り出すほど、私は無神経じゃないんでね。君にも一応話したのは、彼女が危うくなった時に止めてやってほしい、と言う考えからなんだ」
したのならば更に面白いことになるとばかりに目を輝かせる趙雲の視線に対して少しおどけたように肩を竦めてみせ、李師は一転して真面目な様子で口を開いた。
偶然ではあるが、この頃夏侯淵も別ベクトルとは言え同じような心配をしていたことを考えると、何かしら波長が噛み合っているところがあるのかもしれない。
まあ、何にせよどちらもぼんやりとにせよその未来図を八割方把握しておきながら、直接に言い暴くことができていない。
もっとも、互いにそれらしいことを臭わせることはやっていたのであるが。
「私がそうするとお思いですかな?」
「君の独立教唆癖と矛盾しそうで矛盾しない義理堅さは直接の上官たる私に向けられていると信じている。まあ、誰も彼もを煽って回っているわけでもないだろう?」
「ご明察、恐れ入る」
忠誠心の置きどころが『勢力』ではなく『個人』なだけであって、一見すれば不逞な輩である趙雲という存在は、そう見れば常にまともな進言を繰り返している。
『主を震わす者身危うく、功天下を蓋う者賞されず』
韓信という稀代の軍事的才能を持った将に対して、蒯通はこう言って独立を示唆した。
野心の無さと才能の豊かさは韓信に勝るとも劣らないと思っている趙雲としては、結局のところこの男が隠居を望んでも果たせないと思うのである。
第一、名前が巨大過ぎた。誰が己の領土に翼の生えた心を読める虎の生存を許すだろう。
どうせこうなるなら、自身で天下を取ってしまえとも思った。別に天下を取ることを強制はしないが、一先ずは独立して戦いを避ける権利を得ることだと、考えている。
まあ、それもこれも望まぬ方向・考えぬ方向からのアプローチを趙雲は行っているわけだった。
「子龍、妙才曰く、私は李牧に似ているらしい」
「なるほど」
先程の不意打ちを詫び、改めて戦端を開くことを宣言する文書の最後に、『不謹慎ながら、守戦の名将たる貴官と戦えることを嬉しく思う』と書かれている。
流石に戦争中は手紙のやり取りをするわけにもいかない夏侯淵からすれば、これができる範囲で最大の忠告だった。
守戦の名将とは、司馬遷が史記の『廉頗藺相如列伝』において、李牧を評した言葉である。
これが一目見ただけで連想してくれると判断した夏侯淵も夏侯淵であるし、その意図を正確に見抜けた李師も李師だった。
「確かに姓も始まりの地も、似ておりますな。そして同じく、今の立場も」
「まぁ、私は守備くらいしかやったことがないからね。軍事的才能には一枚も二枚も劣るだろうが、偉大な先人に例えられるのは面映くもあるし、嬉しくもある」
ひょいと石を投げ、易河が一瞬波紋を表して再び戻る。
出陣前に、彼はよくこの河畔に来ていた。
「私は貴方の才能は先人たちに劣る物ではないと、信じているのですがね」
「信じるのは君の勝手さ。私としてはそうは思えない、というだけで」
いつものとぼけたような受け答えの中には緊張はなく、無用な気張りというものもない。常に温和な面持ちを崩さぬ、どこか『この将についていけば死にはしない』と感じさせるような無形の安心感というものが漂っている。
これは生来の物でもあるだろうが、やはり今までの実績によるところが大きい。
不敗の驍名を別段誇るでもなく、かと言って卑屈になるでもなく。李師が常に姿勢の悪い自然体でいることが、趙雲にとっては安定して信頼の置ける状況を代名詞となりつつあった。
「自信を持ちなさい。そして何より、野心を持ちなさい。あなたならばこそやれることもあるのですからな」
「いや、まあ……敗けない自信はあることはあるんだ。問題はこの戦いに果たして意味があるのか、そう言うことでね」
歴史的意義で見れば、どうだろうか。たしかにここで勝てば、幽州は守られるだろう。だが、それは戦乱の時代における根本的な解決にはならない。
曹操には後方を固めるということで幽州は必須だろうし、天下統一時に既得権益を残さない為にもこの侵攻は必要だった。
つまるところここで防衛しても後には何の役にも立たない。それどころか無用な戦死者をだし、この戦乱の解決を遅らせることにもなりかねない。そこのところは争いが起こった時代のすべての諸侯にいえることだろう。
「降伏という手は、ないのですか?」
「それは伯圭が決めることだ。まあ、無理だろうけどね」
曹操陣営のやり方は既得権益の否定と豪族の排除。こちらは豪族の寄り合い世帯。相いれないし、横並びの支配構造を取っている以上は君主の一存で決められることなど皆無に近い。
各個が協力しているだけで、公孫瓚が彼女らの上に立てているのは偏に、既にあってなきがごとしのものとなりつつある漢王朝からの『幽州牧』という地位があるから。
曹操のように強力な家臣団も居ないし、『邪魔だ』と言って豪族を排除するという覇気もない。意志と力量のどちらが欠けていても改革は為せないのに、物理的にも精神的にも不足している始末である。
自分たちを見捨てるなと突き上げられれば、とても見捨てられたものではないだろう。
「それに、私は一応伯圭から給料をもらっている身だ。その分は働くさ。超過勤務はごめんだけどね」
「相変わらずで安心いたしましたぞ。指揮下にいるものからすれば、如何に悩んでいようが表には出さずにいてほしいと思うものですからな」
内面の揺らぎに関係なく、李師の頭は戦争を如何に勝つかということに回るのだから、それに関しては趙雲は心配などしてはいない。問題は、表に出ないかである。
「さて、行こう。恐らく私が着いた三日後辺りに、妙才は高陽に到達するはずだ」
「ちと速すぎはしませんか?」
「これでも周りに気を使っているんじゃないかな。行軍速度と兵数の兼ね合いをとって、なるべく大兵力を率いてくるつもりだろうし」
この言葉は、現実となる。
西暦188年四月二十八日、両軍は高陽で向かい合った。
「撃て!」
「射撃開始」
名将同士の戦いは、ごく初歩的な動きと反応を以って始まったのである。