北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
「敵、出てきます。荀の旗」
「なるほど、兵法の理にかなった見事な行軍。人材豊富なことだ」
兵法のあらゆる理にかなった行軍で整然と進み、第八軍団と第九軍団の間で止まった一万二千人の軍は獲物が来るのを待ち構える猟師の如く待ち構えていた。
「李師殿、どういたしますか?」
「あの軍団が健在なままでは、非常に困る。可及的速やかにご退場願おう」
敵の一軍団を遊兵化させたと言えば聴こえは良いが、こちらの三分の一に当たる二分隊一万も動かせなくなる訳である。
それは現在の戦況上極めて痛く、一気に不利へと傾けられるかもしれないものだった。
「では、赤備えを?」
「いや、後ろの第四陣を守っている趙雲隊を前に出して諸葛の旗の敵を攻撃させ、華雄隊を第二陣へ、呂布隊を第一陣へ。趙雲隊は敵が鋒矢の陣を取り次第退かせるように」
「はっ」
「まあ、隘路に誘い込まれてくれるほど容易くはない。そこを利用させてもらおうか」
収容した呂布隊を迂回させつつ、李師は一際高く築かせた本陣から戦況を見やる。
一万二千が窮屈にならぬように選んだ場所選びの見事さを利用してやるのが、この際最も有効な手だった。
「敵、接近!」
「旗は?」
「趙。恐らく、趙雲隊だと思われます」
なるほどねぇ、と荀彧は敵の狙いに対して予想と対策を立てる。
趙雲と言えば撤退戦の名手。この人選から考えられることからすれば、『攻撃されても最小限の犠牲で済むから』か、『偽装撤退によって敵を引き摺り込みたいから』。
「全隊、逆さ鶴翼」
両翼をいつでも前に出せるようにしながらも、鋒矢の陣に偽装して趙雲の後背を討てばよい。
そうなれば敵はこちらが突撃してきたと思うだろう。趙雲が退却を初めて誘引しようとするのに合わせてこちらも一回退き、敵が再突出した瞬間に陣形を鶴翼に変化させてこれを包囲殲滅する。
「敵、鋒矢の陣を取りました!」
「よし、騎射隊は左に回頭して荀彧隊に斉射、しかる後に後退」
後方を突き、反撃を喰らう前に退き、という嫌がらせのような用兵をそれなりに楽しんで繰り返していた趙雲は、優美な三叉の槍を軽く回しながら指示を下した。
敵は今のところ、李師の予想通りに動いている。
「敵、後退!」
遊弋していた地点から趙雲隊に喰らいつく為に隘路へ近づき、今更にもう少し誘引すれば引きずり込めるという絶妙な地点で、荀彧は機敏に軍を後退させた。
もう少し、もう少しで。
そう言って突出したくなる、絶妙な地点とタイミング。
彼女が他者を馬鹿にするにふさわしい能力の持ち主であることが、この一事でも表れているであろう。
「なるほど、巧妙なことで」
「敵、後退。もう一度、敵の鼻先に餌をちらつかせますか?」
予め指示が下されていなければ間違いなく再び突っかかっていった。
そんな感想を余裕という名の思考の余白に書き込みつつ、趙雲は一先ず主たる李師の指示通りに動く。
「前進。ただし、逆撃を喰らったならば逃げ散れるように程々に」
「はっ」
逃げていた趙雲隊四千が手慣れた様子で反転し、再び敵に向けて一歩を踏み出し、それに合わせるように荀彧は鋒矢の鏃を前へ開いた。
趙雲隊は急に止まるわけにも行かないし、趙雲自身に止まる気がない。
趙雲は第十軍団(荀彧)に進むし、第十軍団(荀彧)は趙雲へ向かう。
お互いが近寄ろうとした為に、必然的に先程までの追いかけっこのような戦闘とは接触までの時間が大幅に短縮された。
つまるところ趙雲隊は、開きつつある三方からの包囲網の真っ只中に足を踏み入れてしまったのである。
「吾が軍は包囲されてしまったようです!」
見事な迅速の用兵にあっという間に取り込まれてしまった自軍を悲観したように、趙雲の副官は不敵な笑みを一度たりとも崩したことのない指揮官にその危機を告げた。
「慌てるな」
不敵な笑みは、絶えていない。まだ戦えるし、危機であっても致命ではない。
そのような確信をいだかせる言葉が信頼する指揮官から吐かれ、たちまちの内に恐慌から立ち直る自軍の幹部たちを見て苦笑しつつ、趙雲はちらりと左右と、後方を見る。
「誘い込んだのは吾等で、誘い込まれたのは、奴ら。これはほんの僅か後ろにあの男が居る限りは不変だとすら言える」
後方には、横に並べた三色の地に五稜星。
左右には、第一陣・第二陣の防衛部隊と合流させておいた華雄隊・呂布隊。
「反転して、袋叩きにしてやるとしますかな」
「のこのこ巣から出てきた猫の頬を引っ叩いてやるとしよう」
「……退路を塞いで、袋叩き」
趙雲、華雄、呂布。それら三隊が突入箇所から時計回りに巴状に挺進し、一気に包囲網を締め上げる。
それに気づいた第八軍団(諸葛誕)と第九軍団(毌丘倹)が連動してこの包囲網の一角を打ち崩さんとするが、これに応ずるように麴義・淳于瓊の守備隊がそれぞれ攻囲されている軍に向けて打って出ることでこれを押し留めた。
これにより、荀彧は自身の兵力のみでこの一万四千による包囲網をなんとかせねばならなくなったのである。
これを見た李師は、伝令にこう言い含めて趙雲に放った。
「敵はこちらが守備隊を出したことに対して僅かの思案の後に決断し、両翼を下げて翼を延ばし、再包囲してくるだろう。呂布・華雄の両隊は敵が両翼を下げ次第地形に対して沿う様に展開。敵が包囲網を構築する余地を無くし、遠距離からの一点集中射撃で指揮系統を鈍化。しかる後に包囲網を縮小するように」
この指示が伝わり、趙雲が両翼を構成する両将に伝えた一拍後、荀彧は極めて真っ当な解決策を見出す。
「防衛部隊が出撃したなら、陣地からの射撃を考慮する必要はないわ。両翼を下げて、延翼運動をした後に陣地の小山沿いに展開して再包囲しなさい!」
しかしそれは真っ当でありすぎた。普通ならば成功し、逆に敵軍のおよそ三分の一に当たる趙雲・華雄・呂布隊を殲滅できていたかもしれない。
しかし、それは制御下に置かれた戦場での、予想の範疇での行動に過ぎなかった。
「……本当にサトリ妖怪の類ではないかと疑いを抱く程度にはお見事な手並みで」
両翼を下げてしまったが為に射撃の良い的になりつつある敵には当然、李家軍のお家芸となりつつある攻撃方法が叩きつけられることとなる。
「目標、敵中央部。狙点、固定!」
「撃て!」
一万四千による包囲網の内面を構成する五千人の弩兵と中間部を構成する二千人の弓兵がただ一点に向けて全方位からの射撃を叩きつけられ、荀彧軍は潰乱した。
「後は、じわりじわりと追い込むだけ、と……」
「趙分隊司令官!」
「どうした?」
「包囲網の後方より、敵が突撃してきています!」
第十一軍団は兵站線の警護。第十二軍団(夏侯淵)は第三陣の、第八軍団(諸葛誕)は第一陣の、第九軍団(毌丘倹)は第二陣へ攻撃を仕掛けている。
敵の予備兵力は黒一色の第七軍団(夏侯惇)のみ。
李師はこの包囲網を構築するに当たって、牽制の終わった麴義隊の一部を狭隘部に集結させて防壁とし、第十軍団(荀彧)の退路を塞ぐと共に敵予備兵力への備えとしていた。
重歩兵と槍兵による密集陣形によって堅固な守りとしていたのである。
これによって敵予備兵力が突撃してきても多少なりとも時間を稼ぎ、包囲網を解除するとともにそれらの防御部隊を自陣に帰還させて再び硬直状態に持ち込む。
ここまで緻密に、順序立てて計算していた李師の計算が、この時隔絶とした破壊力を前に破綻を来たした。
実行者は夏侯惇、発案者は夏侯淵である。
「……してやられているな」
「まあ、あの方に戦術で勝てる人間はそうは居ないでしょうからなぁ」
「それもそうだ。仲珞の計算は正確過ぎるし、それに更に余裕を持たせることに成功させている。よっぽどの計算違いがない限り、その場の応急処置でなんとか修正してしまう。魔術と言うのは言い得て妙だし、現に凄まじいものだ」
が。その計算は現在『兵力』という実数値上の限界によってその余裕を豊富に保有することが許されていなかった。
「姉者に連絡」
「はっ、なんと?」
「遮二無二突撃せよ、と。詳しいことを命令したら長所が削がれる。単純に、これだけがいいだろう」
夏侯淵から、夏侯惇へ。
よく知っているが故に、その計算の緻密さと苦境の中に居る友の弱みを悟ることが、彼女には出来たのである。
「なるべく生け捕りにせよと、お伝え致しましょうか?」
「私は公人としてここに居る。貴官の気遣いはありがたいが、将である以上、私情は挟めんよ」
そう。戦う以上は己の持ち得る全知全能を傾け、全身全霊を以ってこれと対す。
「付け加えるならば、その大剣で以って敵将を討ち取るべし、だろうな。生け捕りにせよと言うのは、良くない」
「……はっ」
その命令を受け、黒一色に染め上げられた長槍騎兵軍団が突撃を開始した。
夏侯惇としては妹の心情を慮れば生け捕りにしたい気もある。
しかし、妹が公人として毅然と決断を下したのであれば、己が私情を忖度するのは却って侮辱というものだった。
「元譲様」
「何だ?」
「敵は少数ながら地の利を得、堅固な備えを以って構えております。迂回なさいますか?」
ここで迂回していれば、当然時間が稼げたのである。しかし、この猪突猛進を誇りとするような指揮官と、その配下の判断は常軌というものを逸していた。
「吾が軍の辞書には後退とか迂回とか、そういったまどろっこしい言葉は乗っておらん」
「そうでした」
結果として、曹操軍最強の名をほしいままにしている第七軍団は、鎧袖一触とばかりに後方防備の麴義を突き破ったのである。
「華雄隊を突破し、呂布隊を叩き、桂花の奴を救ってやり、趙雲隊をぶち抜けば吾等の勝ちだ。奮えよ!」
正気とも思えない発言を正気と思わせるほどの突破力を、この部隊は持っていた。
元々守勢において粘り強さにかける華雄隊を貫き、止めに入った赤備えを砕き、包囲網に貫通孔を開けたまま趙雲を真正面から小細工する時間も与えず大破させる。
矢は尽く弾かれ、例え槍衾に串刺しにされようが侵攻を止めない黒色槍騎兵の軍団に辟易し、或いは恐怖し、最後の防衛線も突破された。
この、『矢が効かない』と言うのは精神的なものではなく、物理的な理由がある。
彼等彼女等は迂回や後退を考えていない。直進と突撃、敢闘と猛攻のみを求められていた。
結果、正面部分の鎧が厚くなった。必然として、後方や側面は紙同然。守ったら敗けのその特色は、まさに夏侯惇が指揮する為だけにあった。
「敵陣、突破!」
「よーし、では偉大なる敵将とやらの首を拝みに行くとするか」
そのままの勢いで突破しようとし、更に馬速を速めた第七軍団の前方に、二千程にまで数を減じた一部隊が立ちはだかる。
「殊勝だな、吾等の正面に立とうとは」
「どうなさいますか?」
「無論直進する。追いつかれる前に敵将の首を挙げんと、敗けるのはこちらだ。そもそも、吾等は全体では敗けているのだからな」
ただの猪武者ではないところも垣間見せつつ、夏侯惇は再び自ら前線に立った。
敵には旗も何も無い。歩兵や何やらを置き去りにし、ただ追いつこうとしてこちらの側面から正面に回り込んできたのであろう。
敵は二千、こちらは一万。数の上では有利であるし、個人の武がおかしい呂布でもない。疲労度の上でも有利である。
しかし、敵には中々に侮り難い闘気があった。
「そこを退け!」
「行かせるかぁぁあ!」
両軍に於いて最強の矛の役割を果たす両者の咆哮とが大気を切り裂いてぶつかり合い、剣と斧とが散らした火花を号砲に、互いの牙が折れ砕けんばかりの激闘が始まった。
華雄
攻撃124
防御56
機動91
夏侯惇
攻撃130
防御15
機動78