北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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布石

「平和とはいいものだね、恋」

 

「……ん」

 

いつもの会話が、庭の樹の下で行われていた。

彼の手元には、無字の竹簡と刻み刀。カリカリと漢字を彫っていき、そこに後で文字を書く。

怠惰で万事不器用な彼にしては、慎重且つ丁寧にやっていた。

 

「中平一年、黄巾賊蜂起す。潁川・荊楚・河北を中心に広まり、世を揺るがす……と言うのは、不敬かな?」

 

「……敬意、いる?」

 

世を揺るがすと言うのは、現在この地を治めている漢帝国というものが、民の蜂起で崩れかけていることを表している。

敬意が足りないと言えば、足りない言葉遣いだとも言えた。

 

呂布からすれば、そんな些末事はどうでも良いのであろうが。

 

「彼等唱える、『蒼天已死 黃天當立 歲在甲子 天下大吉』、と。帝、衛兵民衆約千人を誅殺し、首謀者捕縛の命を下す」

 

眠気を刺激される声でぶつぶつと呟きながら、李師は竹に歴史を刻む。

読み終えた後の趣味のようなものであった。

 

「……嬰」

 

「何だい?」

 

「烏丸から、書が来てる」

 

差し出された竹簡を手に取り、ぼんやりとした眼が理知の光を帯びる。

 

睡眠と本を友とする隠者の眼が、戦場を俯瞰する軍師の眼へと変貌した。

 

「……やはり、種は撒いておくものだ」

 

使わないに越したことはなかったし、これは和平への布石も兼ねている。

しかし、まさか潁川で幽・冀・并の三州の刺史を統べる征北将軍をやっていた時に撒いた種を、一郡太守の一指揮官となっている状態で収穫するとは思っていなかった。

 

「時々こういう風に敵に備えることを忘れてない自分が嫌になるなぁ、全く」

 

首と頭の付け根を掻きながら、李師は書きかけの歴史年表もどきを乾かすべく天日に晒し、新たな竹をカリカリと彫り、文字を書く。

 

しばらくして書き終えた竹簡を呂布に渡し、呂布が滞在している烏丸の手の者に渡し、それはおよそ三日の時を経て烏丸の大人たる丘力居の手に渡った。

この一事で、後に起こる戦いの帰趨は決したと言っても良いであろう。

 

黄巾の乱に付随する大反乱は彼の掌の上だったとは言い切れないが、少なくともこれからはじまる北の反乱は彼の掌の上であることは疑いは無かった。

 

「……これから、どうなる?」

 

「私は神じゃない。そんなことはわかるべくもなし、さ」

 

片目を瞑り、肩をすくめ。飄々としたような語調が、いたずらっぽく笑んだ彼から漏れる。

彼のわかることは、狭い。少なくとも本人はそう思っているし、己の判断に対しても非常な慎重を以って再確認し、やっと判断を下していた。

 

勿論それは傍から見れば瞬時に的確な、しかも未来を見てきたかのような指揮をしているように見えるのだが、本人からすれば瞬時に、つまり一発でわかるわけでは、ない。

何度も確認し、定義し、結論を出しているのである。

 

「……でも、わかる」

 

「わかることがわかるだけだよ、恋。私は全知全能ではないから、わからないことはわからない」

 

そして、李師は目を瞑った。

 

もう既にこの国の命脈は尽きている。このような大規模な、しかも軍閥ではなく民衆が主導となった反乱を起こされた国に、未来はない。

歴史上、民衆こそが支配者を決めてきた。支配している側はそれをどうにも理解していないが、民に支持されないで興った国などありはしない。

 

国を真っ二つに割るような争乱中、勝ったのは必ず民心を掴んだ方だった。故に乱世と呼ばれる時代に生きる群雄たちは懸命に民の心を取らんと試みる。

 

改革や、善政と呼ばれた物は富国強兵という命題でもあろうが、実際は民の心を取るべく行われた。

 

だが、一旦王朝として成立してしまうと権力者は虚傲に陥る。己の力のみで統一し、この王権は血で受け継がれる神聖不可侵なものであるのだと。

 

漢の高祖は農民だった。劉氏など別に神聖でも何でもなければ、天に選ばれたのではなかった。

劉邦は、民に選ばれた。劉氏の王権は、民に承認された。ならば民に叛かれた今は、その王権は既に亡い。ただ弁論と積み重なってきた血脈の歴史と伝統に依存するだけであり、支えるべき幹はただ空洞があるのみである。

 

支配している側が従で、支配されている側が主なのか。或いは主従関係と言うものは互いが互いに錯覚し合っている時のみに存在しうるのではないか。

民は自分の錯覚から目覚めた。ただ、劉氏のみが錯覚したままでいる。

 

(上で民を食い潰して踏ん反り返っている奴らは実のところ自らの足場を崩しているに他ならず、支配していると錯覚しているに過ぎない訳か。それならこれほど滑稽なこともないということになる)

 

いずれ民自身が、完全に解き放たれる時が来るのか。いや、最初は誰しもが解き放たれていたはずだ。それが今は縛られているということは、自らがそれを望んだということだろう。

 

つまるところ、歴史は繰り返すのではないか。民は己に降り掛かる強権とか王権とかを弾いて自ら支持する指導者を決め、その指導者に支配されることを望む。

その指導者が豹変したならば再び民はそれを弾く。

 

民こそが、主。本質的にはそういうことになるのだろうか。

 

「恋。私は割りと危険人物なのかもしれないな」

 

「……今更」

 

歩く戦術兵器に危険人物であることを告白し、今更だと答えられる。

傍から見ても傷つくこの状況。彼にとっては恋は歩く戦術兵器ではなく愛しい娘か妹のような存在である為、下手をすればそれ以上に傷ついた。

 

「い、今更……」

 

「……恋と嬰は、一緒」

 

歩く戦術兵器と怠け癖のある全自動敵殲滅機は同類ですよ、という感じなことを平然と言え、しかも否定することが極めて困難だという異常事態。

この異常人が二人集まっていることを李師よりもはっきり自覚しているにもかかわらず、呂布はどこか嬉しそうに彼に抱きつく。

 

基本的に彼女は無口で無表情ではあるが、その行動の率直な為に思考がかなり読みやすい。

今回も、指向が殺人と言う方向に向かっているということなどに嫌悪すらせず、ただただ親愛な家族と同類だと言うことが嬉しかった。それだけなのだろう。

 

「私は君に、そうなって欲しくなかったんだけどね」

 

「……恋と一緒、嫌?」

 

犬が自分の所有物を所有するときのように頭を擦りつけていた彼女は、どこか眼に孤独と淋しさを浮かばせながら上目遣いにそう問うた。

 

こんな眼をされては、彼が強く言えるわけもない。元々強く言う気もなかったが、更にそれが重なる。

 

「いや、そもそも私が嫌だのと言うことではないさ」

 

二本の触覚のようにピンと天に向かって立っている二房のアホ毛を僅かに揺らしながら、呂布は甘えるように眼を閉じた。

親に向ける親愛の情の表し方も、漠然と恋い慕っている男に向ける親愛の情の表し方も、彼女は知らない。というより、怠惰な男を親に持った為、兵法よりも武術よりも礼儀よりも何よりも大切な情操教育そのものが頭の中に入っていないのであろう。

 

だから、彼女は抱き着いた。本能的な警戒までをも解いて、本当の意味で無防備になった。

無防備だ無防備だと、本当の意味で警戒心の希薄な男に常日頃言われている彼女には、野性の勘のような警戒網がある。

 

それを無理矢理に、彼女は温もりの中で解いた。

 

「……恋、一緒に居たい」

 

「お前がそう望む限り、私は一緒に居るよ」

 

「ん」

 

限りない温かさと優しさを込めて口に出された言葉に無邪気なまでの全幅の信頼を置き、呂布は身体から十全に力を抜く。

無駄な力が入ってなければ、すぐ動ける。背面から狙撃されたら木が、正面から狙撃されたら自分の身体が盾になる。

 

近接戦では、素手でも二桁は大丈夫。

 

そんな緻密で一途な計算が行われているとも知らず、李師はただただ頭を撫でた。

彼女には、親が居ない。寂しがり屋で情の深く、愛に飢えている彼女は自分と言う不器用な質の男ではなく、器用で包容力のある両親に愛されているべきなのだろう。

 

が、戦災で生き残ったところを拾ったのは恐ろしく親というものの適性にかける自分だった。

ならば、出来る限りはしようというのが李師の考えの基幹にあった。

 

(……お前の親の代わりになれているかは、わからないが)

 

代わりになるなど馬鹿げている。個人個人に代役などはなく、代役に見える存在を得てもその中にはどこか空虚があるのだろう。

ならば彼女が感情を行動以外で表に出さないのは、出せないのか出さないのか。或いは己の見通しの甘さからなのか。

 

その気になれば自己弁護はできる。他者からも弁護はもらった。仕方なかったのだと、そう言われた。

 

しかし、尤も納得できないのは己なのである。

つまるところ軍の将帥というのは人の屍を積み重ねて階段とすることでしか生の道を歩めず、自然と大の為に小を切り捨ててしまうのだ。

 

殺した人の数は数万。救った人の数は一人。これでは到底釣り合いが取れないし、そもそも人の命を天秤にかけて釣り合わせるという思考そのものが間違っている。

 

(どうにも思考は迷走しがちだな。結局のところ確定しているのは私が大量虐殺を効率で割った解答が自然と湧くろくでなしだということだろうが……)

 

自分の手では人を殺してはいないが、自分の手は確かに人の血に濡れていた。

 

「…………嬰、嫌?」

 

「ん?」

 

「ここに居るの、嫌?」

 

葛藤とか、懊悩とか。そういったもので己を苛む彼を、彼女は見たくなかった。

 

嫌だと言ったら、担いででも逃げる。追跡してきたら全員殺す。苦しませる種を持ってくる奴は全員刈り取る。

それで彼が悩まなくなるなら、彼女は喜んでやるに違いなかった。

 

「……私がここから居なくなったとする」

 

呂布は、頷く。

彼女は馬鹿ではない。言わんとしていることくらいは理性でわかるし、その前に鋭敏な勘がそれを伝えた。

 

彼は、出来得ないであろう過程の話をしている。

 

「居なくなったら、どうなるだろう。私が居なければ烏丸とも交戦状態になるかもしれないし、冀州から黄巾賊がくるかもしれない。そうすれば遼西の民は殺され、戦災孤児がまた増える。公孫伯圭は勝てるだろうが、これを防ぐには身体が足りない。つまり、私の所為でまた死ぬ者が増えるわけだ」

 

人を殺さない程度に怠けるのが彼の限界だった。

一度も関わり合わなければ、良い。代わりとなる人材がいれば、いい。国家の為とか言う抽象的なものの為ならば、怠けてもいい。

 

「ただ、己の減罪の為に民を見捨てたくはないなぁ」

 

それが原因で、けっきょく戦場に立ち続けなければならないのだろう。大局的に見たならばただの無駄な抵抗をした大量虐殺者でしかなくとも、命が目の前で喪われるのならば怠けてていられるとは思えなかった。

 

「……嬰」

 

「ん?」

 

「恋も、戦う」

 

「…………私としては、お前には戦って欲しくはないのだけどね」

 

どうやらその意志は硬いらしい。

静かなため息とともに、李師は平和の終わりが狭るのを否が応でも感じずには居られなかった。


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