北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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相似

夏侯淵は、腕を組みながら易城の外観を見物していた。

彼女は既に迅速な行軍を以って昨夜のうちに一城を、朝駆けで一城を陥落させている。

 

郭図と逢紀を含んだ兵を捕虜にするわけにもいかず、殺し尽くすわけにもいかない。

故に、易京方面に逃がしてやっていた。

 

「どうにも、敵は手応えがありませんな」

 

「まあ、敵は全ての戦力を易京方面に集中させている。後方の模様など、構ってはいられないのだろう」

 

到底軍人には見えない李師とは違い、まさに叩き上げというべき雄偉な体格を持つ諸葛誕の漏らした慨嘆は、少し酷というものである。

敵には人材がいない。まず、前線指揮官に李師を起用するのは良い。だが、戦略を見れる参謀が居ないのだ。

 

(私が公孫瓚ならば、曹孟徳の悪評を広め、豪族はここで勝たねば族滅の危機に瀕すと脅し、ここに引っ張ってくる。時間を稼げるし、邪魔者を排除できるのだ。一石二鳥、というものだろうが……)

 

援軍を送らないのは間違いではない。李家軍とその他の諸侯の軍とでは練度が違う。

李家軍とは田予という神経を介して李瓔の魔術を限りなくそれに近い形で現実に発現させる為に訓練を積んでいる職業軍人であり、肉片と細胞の集合体である。

 

そこに中途半端な部隊を連動させれば、却って全体の戦力が落ちることにもなりかねない。

 

というよりも、そうなる。李師に手間をかけさせることなく付いていける指揮官でないと、李師の精密巧緻な戦術を鈍化させることになるのだ。

 

(そのような指揮官が、居るわけもないか……)

 

李師もそれを薄々わかっているのだろう。曹操軍がそれぞれの軍司令官に大きな裁量権を与えているが、李家軍にはそれはない。

全てを己の管制下に入れ、敵に付け込ませる隙を限りなくゼロにしている。

 

話を書くのは李師で、その脚本に沿って動かすのが田予。

趙雲も張郃も張遼も華雄も、演技に磨きをかけることもできるがアドリブは許されないのだ。

 

「戦局はどうなるでしょうか?」

 

「多少苦戦はするが、敗けはしない。本気を出せば勝つだろう」

 

主語を敢えて省いた夏侯淵は、その余裕そうな笑みとは裏腹に少し頭を悩ませている。

 

『途中で反転して、援軍に来てくれないか?』

 

正攻法で抜けないと改めてわかり、別働隊として出立した時。

天の御使いの北郷一刀に、夏侯淵はそう頼まれていた。

 

彼は曹操の誇りと矜持を重要視し、滅多にこの未来を予期したような発言をしない。

それだけに、夏侯淵は驚きだった。疑っている自分にそのような重要な任務を振り分けることも、含めて。

 

過程がわからないが、結果はわかる。些か以上に眉唾ものな発言だが、李師ならばやりかねないという予測は、自分も持つところだった。

 

「反転しなければ、どうなるか……」

 

滅多に予言を使わぬ天の御使いがそれを前提に己を頼るということは、反転しなければ己の主に対して不利益が生ずるということだろう。

 

死ぬのか、と。ポツリと思考の隅でそのような予想が浮上した。

不思議なことでもない。国も、人も。時を経れば死に、肉体は滅ぶ。

 

だが、彼女は曹操という矮躯の中にはち切れんばかりの覇気と英気を満たした存在の死を想像したことがなかった。

 

(その前に、私が死ぬ。そう思っていたのかな)

 

おかしみと共に笑いがこみ上げ、僅かに慌てて咬み殺す。

全ての人間が生まれた順に死ぬというわけではない。それを知っているはずの己が、曹操と言う傑物を前にして忘れ去ってしまっていた。

 

自分が死に、主が死に、姉が死ぬ。

ぼんやりと、夏侯淵はそうだろうなと思っていた。

 

自分は恐らく、二人を見送ることはないと。心の何処かでそれを悟っていたのだろう。

年の順で言えば、姉が己の一刻前に、主たる曹操がその三年後に死ぬべきだ。

 

死にたがりと言うわけではないが、己が平和をぼんやりと過ごす風景が見えない。

姉は、見える。主のも、見える。

 

姉は皆に好かれ、明るさを振りまいて戦乱に疲れた者の心を癒やすだろう。主は才気溢れる為政者として、その才能の全てを傾けて治世に望み、戦乱に疲れた国そのものを癒やす。

 

だが、自分のものは見えない。戦死するような光景ならば、見えるのだが。

 

「将軍、どうなされましたか?」

 

「……いや。敵に降伏を勧告する使者を、送ってくれ」

 

易城を守るのは審配。来て見て陥ちた二城を守っていた逢紀や郭図と同類か、それ以下である。

同性に対してはまともな人物眼を備える荀彧曰く、『審配は独り善がりで無策である』。

郭図は同郷の好で別に悪くは言っていないが、逢紀に関しては『向こう見ずで自分勝手である』と評価を下していた。

 

そしてこの評価は、大体あっている。

今回もこの例に洩れなければ良いのだが、と。夏侯淵は期待と落胆とが相俟った微妙な思いで易城を見ていた。

 

降ればそれは喜ばしいことだろう。兵も死なずに済むし、後に反転することを加味すれば攻城戦は望むものではない。しかし、攻城戦にならなければ、どうか。

恐らく己は落胆する。敵の意気地のなさと情けなさと、何だなんだと言いつつもそれと対極に立たざるを得なくなった男と刃を交えることの出来ない無念さに。

 

結果的に、この整合しない武人と将との意識とプライドのせめぎ合いは無用に終わる。

 

『敵将は名将の夏侯淵だ。降伏を拒否すれば彼女によって城を陥落させられ、吾々はここで死ぬだろう。だが、吾々は戦う。多少なりとも時間を稼げれば、吾々が全滅したとしても李師殿にその分の猶予が生まれる。降伏することはできない。御使者殿はどうかご理解の上、お引き取り願いたい。

最早、弁舌を以って語るべき時ではないのだから』

 

それが、己の仕えた袁家が完全に滅びるかもしれないという事態を受け入れ、亡国に瀕して覚醒した審配の決断だった。

 

「見事な物だ」

 

意志と作戦が連動しているかはわからないが、取り敢えず夏侯淵は審配を褒めた。

 

審配は、礼節を以って降伏勧告の文書を遇した上で厳然と拒否し、送り返してきた。これだけで賞賛に値すると、夏侯淵の中の感傷的な部分が囁いたのである。

 

作戦を考える彼女の頭のもう半分で、ふと疑問が生じた。

 

(仲珞が死ねば、彼の配下はどうなるのだろうか)

 

目の前の審配のようなことを、彼の幹部たちは進んで引き受けるに相違ない。

殺した相手に一丸となって立ち向かうのだろうか。しかし、李家軍というものが一個人の才能・名声・人望というものを三本の支柱としている以上、瓦解は避けられないように、ないしは死んだ人間を担ぎ続けるように彼女には思える。

 

つまるところ、李師が死んでも兵権を司る者としての軍司令官の職権は誰かが受け継ぐ。だが、あくまでも首領は李仲珞で、名称は李家軍なのだ。

 

突出した個人によって発足し、維持されてきた組織などそのようなものだろう。なら、曹操軍はどうか。

曹操なればこそ忠誠を誓う者も居る。

と言うよりも、そちらの方が主流だ。

 

となれば組織構造が似ていると言わざるを得ないだろう。一本の柱を切り倒せばすぐさま崩れる手抜き工事であるという点で。

 

夏侯淵は、そこまで思いを致して目を外した。

少なくとも、それは勢力の長が考えるべきことで一構成員に過ぎない己が考えることではないと思い至ったのである。

 

李師は好きで勢力を築いた挙句に率いた訳ではないからいい。それにしても曹操がどうするのか。

それに対して打ち出されるであろう反応と対策を、夏侯淵は傍観するように楽しみにしていた。

 

 

一方、その頃。

攻勢に転じようとした敵の横っ面を引っ叩いて攻撃に打って出た李師は、予想通りの戦局の硬直の中に居る。

 

樊稠隊が千人から四百人にまで討ち減らされた。

張繍隊千人が李通隊五千に包囲された。

 

これらに代表される戦況の報告と苦戦の体は、李師の予測の範囲内である。しかし、それにしても曹操と言う敵将は有能だった。

李師はこの有能さに迅速且つ適確に手当してまわり、右翼部隊と左翼部隊の補填と中央部の陣形を整え、敵の防御陣を突破している。

 

その度に引き返すというその行動は一見すれば極めて無駄な物に見えたが、後日の戦闘の為に必要となる戦闘の繰り返しだった。

 

「より多くの殺戮の為に。より多くの殺戮の為に。私は吾ながら、極めて非人道的なことを考えているものだ」

 

「……来るから、仕方ない」

 

呂布にはこの李師が持つ悩みの深さとか、重さとかを真に理解しているなどとは思っていない。

異民族出身であり、その教義を血で以って受け継いでいる彼女からすればこの悩みを抱く彼がわからないのである。

 

殺されるのは弱かったから。死ぬのは弱いから。そもそも侵略してきた敵を殺すのに、何の逡巡と懊悩があるのか。

敵と認識した生命を刃で刈り取ることになんの躊躇いも抱かないのが、呂布の冷淡なところだった。

 

「恋。そもそも私のこの抗戦に歴史的意義はない。謂わば私は個人的な義理の為に兵の生命を浪費させているわけだ」

 

「……?」

 

「これは極めて、質の悪いことだ。わかるかい?」

 

「……でも、皆は嬰の為に戦ってる」

 

「そんなことはないさ」

 

「……なら、何の為?」

 

この問いに、李師は答えることができなかった。答えることができないということ自体が、彼がつらつらと目を通してきたこの世の事象の中で目を逸らしてきたものを射たことを示している。

 

李家軍の幹部も兵卒たちも、別に公孫瓚勢力の存立の為に命を懸けているわけではない。自分達を引き連れて戦い、ある程度の期間の安寧と勝利、暮らしの豊かさを与えてくれた彼に付いていけることを喜び、その目的の成就に命を懸けていた。

 

「…………恋も、そうなのかい?」

 

「……恋は、はじめからそう。だから、わかる」

 

薄々わかっていたことを肯定され、李師は思わず溜息をつく。

別に他人の思考や忠誠心の指向性をどうにかしようとは思わない。

 

だからこそ、この忠誠心の指向性を聴いた自分が何の役割をも求めてはいなかった呂布を軍事的に利用する様を心の底から嫌悪した。

 

「動機は?」

 

恩返しという理由ならば、李師はそんな物はいらないと一刀両断に切り捨てただろう。何せそのトリガーを引いたのは自分なのだから。

しかしその答えは、李師の予想の斜め上を行っていた。

 

「……嬰と、一緒に居たいから」

 

「ぇえ?」

 

「……ずっと一緒に居たいから、どこにでも付いていきたい。だから、ここにも来た」

 

そう言い切った後、呂布は少し考えて言葉を繋いだ。

 

「……恋が来たいから、来た。嬰が心配だから、来た」

 

「そんなに、私は頼りないかな?」

 

「ん。弱い」

 

正面に向かい合うように座っている位置から右回りに移動し、李師の隣にぺたりと座り込む。

紅の髪が丈夫さに定評のある深緑の服に触れ、呂布は凭れるように身体を預けた。

 

「……だから、恋が護る」

 

親しい一つの命を守る為に、より多くの命を供物に捧げる。

やっていることが同一であると理解した李師は、自分の罪深さを瞠目しながら謝した。

 

謝って済むことではないが、彼はそうせずには居られない。

静かに一つ撫でてやり、彼は目先の軍を見やる。

 

その視界には、殺さねばならない敵が灰褐色に映っていた。


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