北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
春彦様、九評価ありがとうございました。
「そら、おいでなすった」
勇躍して驀進してくる夏侯惇率いる第七軍団の姿をちらりと横目で見つつ、李師は危機感に乏しい声音でそれを迎えた。
前線で指揮を執っている趙雲と、李師に命ぜられて前線から李師の側へととんぼ返りしてきた呂布は、気が気ではない。彼は個人としては慎重な性質だが、指揮官としてはよく博打のような手を打つ。
博打と言っても勝算と計算に基づいた博打なのだが、彼を見るものからすればそう見えた。
詰まるところ、この誘引の策にしても敵に勝算と己を殺す機会とを与えている。
自分すらも囮にしてしまうところに、彼の指揮官としての冷徹さが垣間見えていた。
計算を間違えれば死ぬが、その死に役を他人に押し付ける気にもなれないという甘さも、そこには垣間見えてもいたが。
「副司令官、手筈通りに」
「第一分隊は盾を側面部より迫る敵に向けて五十歩前へ、第二分隊は同じく盾を構えて右に十歩、前に十五歩」
李師が予め各部隊の配置と陣形を詳密に伝えていたことが、この際は田予の実行に対する名人芸を下支えしている。
この名人芸こそが李師の『用兵の芸術家』と呼ばれる戦術の冴えの屋台骨となっていることを踏まえれば、それを更に支えているのが李師の事前の対策案だと言うのは僅かなおかしみがあった。
各分隊に司令を下し、命令系統を再統合させる。
紡錘陣形は円形陣へと変貌を遂げ、あと僅かで打ち破ることができた荀彧隊から僅かに後退した。
「……何、したの?」
「治水工事さ」
この戦術を使えるということ自体が、李師の戦術能力の非凡さを表している。
彼は夏侯淵の用兵を、猛禽に例えた。天から両軍の動きを俯瞰し、弱点を看破して飛来して襲う。
別に本当に飛来して物理的に敵味方の動きを俯瞰できているわけではないが、夏侯淵は俯瞰できていた。
だからこそ、猛禽に例えられたのである。
では、李師はどうか。彼はそう友を評した時に、返事で何と例えられたのか。
彼は、巨人に例えられていた。普通用兵家の動きを見下ろして俯瞰し、優れた知性で動きの出先を読み、手に持った戟と斧とで敵を両断する。
『上に在る者』として例えられている彼の真骨頂が、この『治水』と言えた。
「あれは謂わば濁流だ。人の小細工など容易く押し流し、粉砕する。だから、受け流してしまえばいい。その濁流を引き裂き、細分化させて受け流すんだ」
敵の突進の破壊力が集中している真正面ではなく、僅かに右に逸らした部分に重量のある鎧と盾で武装した盾兵を配置して、その怒涛のような勢いを二つに受け流す。
盾兵の壁で円形陣に沿わせて勢いを殺し、再び配置した重歩兵で受け流す。
「副司令官、第三分隊を第六分隊の後背に。第四曲線を更に緩やかに。このままで破断される」
「はっ」
敵の勢いを殺し切れなかった場合は微細な修正を加え、無理矢理に計算を整合させていく。
この指示を下す李師の戦場全体を包み込み、支配する巨人の如き怪物じみた視野と知覚。そして、言われたことを即座に実行することのできる田予の運用能力。
「第六分隊に第八分隊を合流させて破断点を補強。第七曲線に敵が向かったらわざと破断させて通し、件の第三分隊を差し向けて分断」
「はっ」
趙雲隊と呂布隊の計九千が作り出す渦の中に、八千の第七軍団が分断され、逸らされて呑み込まれていった。
圧倒的な破壊力は、様々な破断点を作り出している。
しかし、破断させきる前に李師が逐次に兵力を補填。強化して撥ね返す為、辛うじてこの戦術は巧くいっていた。
「あの攻撃力は反則だな……っと、そろそろ第八曲線の内に沿うようにして本陣に通してやってくれ」
「はっ」
八門金鎖の陣にベクトルを掛けて敵を分断、強制的に迷路の中に引き摺り込んで殲滅。
李師が創り出した戦術は、兵の疲労と卓越した洞察力と俯瞰するような把握能力、更には実務における名人芸が必要である。
他人に再現できるかどうかはともかくとして、兵たちにも何をやっているかがわからないのがこの陣形の維持の難しさを示していた。
と言うよりも、敵味方で何をやっているかが辛うじてわかったのが曹操のみ。他の指揮官は突撃が成功したと思ったら、そのまま停滞してしまったように思えたのである。
「……来た」
五百騎が、盾兵の作り出した壁に沿うようにして李師が膝を立てて行儀悪く座っている碧い戦車が鎮座する本営へと突っ込んできていた。
それを元から知っていたのが李師であり、いち早く察知したのは呂布である。
本営には彼女と赤備えの五百騎が李師の乗る戦車の盾になるように半円形の陣を敷いていた。
「やっとか!」
七回に渡って分断に分断を重ねられ、まともに矛を交える前に八千騎の黒色槍騎兵は62騎にまでその数を減らしている。
別に残りの7938騎が全滅した訳ではないが、彼等も彼等で将を見失い、左右から槍で叩かれた挙句にどこかの破断点を見つけるまでは、延々と主将たる夏侯惇を探してこの鉄の渦潮を回り続けるより他にない。
詰まるところ、第七軍団は戦術単位としては機能しなくなっていた。
この夏侯惇の一言には、致死級の罠こそ勘で避けていたものの、同じ様な場所を延々と彷徨わされたと言う、妖術か何かを使われたかのような不思議体験が如実に現れている。
この不思議体験は、かなりの流血と疲労を伴った。だが、最終的には夏侯惇は迷路を走破したのだから凄まじい。
李師としては、致死級の罠にさっさと嵌って欲しかった。その為に何箇所かに敷設しておいたのである。
それを尽く躱されては、無念無念という他なかった。
「恋、八倍差なら勝てるかい?」
「……同数でも勝てる」
「なら、頼むよ。できれば捕えてきてくれ」
五百騎対六十二騎。珍しいことに、多数派が李家軍で少数派が曹操軍である。
両軍は主将の激突からはじまり、そして終わった。
夏侯惇は退路を絶たれていた。任されたからには己の身を賭してでも成し遂げなければならないと言う忠誠心と意識の高さが、この際は李師には有り難かったのである。
おかげで楽に退路を絶てたし、良将なればこそ突撃の途中で反転して戻るなどという自殺行為めいた行動は取らなかった。
彼にとって、突撃専門の第七軍団は不確定要素である。読んでもなお、それを上回る破壊力で軍を打ち砕く反則集団だった。
だから、丹念に潰してしまう。これから詰みにいく作業に、彼等の存在は邪魔なのだ。
「呂布か。つまり、吾等の突撃は読まれていたのか」
「……ん。誘引した」
「下手な方法を取れば、前方と側面からの挟撃で壊滅していた。それでも賭けたと、言うことか」
「荀彧は、亀にした。賭けてない」
誘引した後に思いっきり、二度にわたって引っ叩く。故に攻勢がトラウマとなり、現に今の行動にはとかく積極性を欠いていた。
「……連動してないなら、個別に撃つ。基本」
異なる軍が連動するには、基本的にはその異なる軍が同じ指針と同質力の積極性を持たなければ連動にならない。
李師は謂わばやりやすい相手をひたすら殴りつけることによって、やり難い相手の足枷としたのである。
正々堂々たる戦を好むものからすれば姑息に過ぎるが、彼からすれば勝つ為に必要なことでしかなく、それ以外の方法を採れば犠牲が増えた。
そして、与し易い敵を叩くことを孫子は勧めているのである。
「なるほど。だが、私もただで討たれる気はないぞ」
「……殺さない。捕まえる」
実力が伯仲していれば、死闘になりやすい。そして、死闘になれば殺すことなく捕まえることは難しい。
謂わばこの呂布の発言は、『あなたは私に勝てません』という意味を含んでいた。
本人としては、『言われたからやる』くらいな気持ちしかないが、要は言葉の意味などは受け取り手が決めることである。
「舐めるな!」
斜めから掬い上げる様に振るわれた七星餓狼を、騎乗した呂布は正確に軌道を読み取って弾いた。
常人ならば見切るどころか残像を捉えることすら難しい一撃を、呂布は当然のように捉えていたのである。
弾いた勢いそのままに、呂布は先ず方天画戟を軽く左に一振りして夏侯惇の持つ七星餓狼を叩き落とした。
そして、そのまま物干し竿でも振り回すようにして右に叩きつけて夏侯惇の愛馬の首の骨を圧し折り、騎手すらをも落馬させる。
刃を交えたのは一合のみ。しかも、片手。
愛剣は叩き落とされ、肋骨を何本か折られ、落馬させられ。
それが一瞬の内に起きた夏侯惇の顎の下に、方天画戟が突きつけられた。
「舐めてない。恋は、やれることしか言わない」
その言葉が先の己の言葉に対する返事だと気づいたのは、落馬の衝撃から立ち直った時である。
無論、その頃には彼女は縄で手首と肩を縛られ、見張りの女兵士六人に囲まれていたのだが。
「ご苦労様」
「……別に苦労してない。嬰の方が、苦労してる」
肉体労働をしている被保護者よりよ、頭脳労働をしている保護者の方が疲労の色が濃い。
先程の夏侯惇対策は、予想以上の体力と気力を彼から奪い去っていた。
「そんなことはないさ。本当に」
「それにしても、夏侯惇対策などと言うのは流石に法螺吹きだと思いましたが、本当に出来ていたのですなぁ。この趙子龍、感心致しました」
後退しつつの陣形の再編の為に本営に引き返してきていた趙雲の言葉に、李師は皮肉と疲労に彩られた笑みを見せながら軽く答える。
「法螺じゃあないさ。私はできることしか口にしない主義でね」
「では、勝てますかな?」
声色に微量の疲労と笑いとを含みながら、趙雲は後方を一瞥した後に問うた。
「何やら、突破はできそうですが」
「突破ができれば敵の本陣だ。このまま行けば勝てるし、いけなくとも負けはしない」
「と言うと?」
「別に私は自分の作戦を絶対視している訳じゃない。うまく行かなかった時の保険もかけてある」
結果的に。彼の作戦は読まれていた。
過程はどうあれ、結果的には読まれていたのである。
「敵陣、突破!」
「ん?」
三軍団を何とか撃退した李家軍中央部の前には、新たな壁。
楽進。右翼の補填に回っていた彼女は、『敵は中央突破を狙ってくるかもしれない。その時は君の判断で本陣と敵の間に割って入って、華琳を助けてくれないか』という天の御使いのアバウトな予言に従って準備だけはしていた彼女が、曹操の指揮で無理矢理割り込んできたのである。
「全部隊、凹形陣に展開。一兵足りとも本陣に通すな!」
護り切り、防ぎ切る。
その意志に満ちた指令が隅々まで行き渡り、疲労した李家軍を迎え撃った。
勝った。
まだ策の一つを残している天の御使いは、この時確信を持ってそう感じる。
だがこの時既に、楽進が抜けた右翼には、五千騎の兵が迫っていた。
「華雄様。正面に、敵右翼部隊」
伏兵としてようとして姿を表さなかった華雄は、戦場の空気を吸う。
そして、怒声と共にそれを一気に吐き出した。
「―――打ち破れッ!」