北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
「はじめまして。天下に冠たる名将と会えて、嬉しく思います」
「えぇと、はい。その、こちらこそ」
出頭して早々礼節に則った遇し方をなされ、やけに戸惑っている李瓔に対して、曹操は穏やかに声をかけた。
内心では、無論戸惑いと困惑がある。しかし、それを表に出さないのが彼女のプライドというものだった。
「降伏とは、私に降伏を勧めに来たということなのかしら?」
「いえ、私が降るということです。私自身はどうなろうと構いませんが、部下たちの命と一つの条件を飲んでいただければ、捕虜を無傷で返還し、易京を明け渡します」
そちらの方が、しっくりと来る。
己が敗者だという、生まれてこの方初めてと言っていい感覚に、曹操は対処の術を知らなかった。
しかもその敗北を味わわせた存在が、窮鳥の如く懐に飛び込むことで勝ち逃げしようなどとは。
「降伏。公孫瓚への忠誠心は、もう無いのね?」
「元々義理で戦っていました。ここで一度勝ったからには、もう義理を果たしたと思います。無論、この一勝を以って条件を呑んでいただければ、のことですが」
忠誠心と言うよりは、給料に対する義理と公孫瓚個人に対する親しみによって戦っていた李師である。
勢力に対しての忠誠心など持ち合わせているはずもないし、個人に対する忠誠心も同じだった。
「条件とは?」
「公孫伯圭の助命」
「呑むと思うの?」
ほんの二週間程前に外交折衝を打ち切ることなく続ければ、この程度の条件は無血で容れられたことだろう。
だのに、結果的に見ればこのざまになっていた。
「思います」
「一旦払われた手を、再度差し出すほど私は優しくはないわ。長期的な展望を持てない盲を拓かせるのは、現実。あなたはその現実を個人の技量によって何度か防いでしまっていたわけだけれど」
「正直なところ、上層部が個人の技量を恃むことと私が侵略を阻んだことは別の問題でしょう。私は何とか自己の責務を全うしていただけで、それが当然であり不変だと思うのはあちらの勝手というものです」
李師が齎した戦術的な勝利に胡座を掻くのは、胡座を掻いた者の責任であって勝った者の責任ではない。
戦術的な勝利は長期的な戦略・政略の材料に過ぎないのである。
それを彼は誰よりも認識してきたし、認識をするように問題提起をしてきた。それを認識しなかったのは単経等であろう。
「では、改めて問いましょう。何故この時期に降伏するのか。何故私が降伏に対する条件を容れると思ったのか」
「一旦、こちらから払った手を再び差し出させるには、やはり差し出さねばならない状況を作らねばなりませんでした。つまり、戦術的な勝利によって戦略を多少なりとも頓挫させなければならなかったのです。
それに、貴女に何らかの条件を飲ませるには、戦って意志を示すこと。そうではありませんか?」
即ち、それによって易京要塞の価値を釣り上げて条件を引き出さなければなかった。
更には、彼から見た曹操は戦いを好む。
人格としてそうなのか、或いは政略や謀略による決着よりは、という程度なのかはわからないが、彼女に翻意させるには戦争しかない。そういう確信を、彼は得意の洞察によって
それも、堂々とした意志と智略のぶつかり合いを好むというのが李師の洞察だった。
「私は、一個人としてはあなたの勝ち逃げを許したくはない。もう一度戦い、勝ちたい。けれど、今の私では無理でしょうね」
「もう一度戦えば、私はこの地に躯を晒すことになるでしょう。戦略的敗北は、戦術的な勝利によって覆すことなどできないものなのですから」
傍から見ていた夏侯淵はこの時、己の意思を抑えつけることに苦心している。
彼女は、言いたかったのだ。
『お前が言うな』、と。
いや、別に李師の発言は妄言ではない。極めて真っ当な発言であり、あまりにも当たり前だから表立って賞賛されることはなくとも、有能であり、夢想家でないことがわかる発言である。
しかし、この男は先立って戦術的な勝利によって戦略的劣勢を撥ね退けて見せたではないか。
(普遍的な、即ち常識と言うものは誰しもが当てはまるものではないな)
李師が『戦術的な勝利によって戦略的劣勢を撥ね退けることができる』と断言したならば、殆どの兵は素直に信じるだろう。
だが、素人が『戦術的な勝利によって戦略的劣勢を撥ね退けることができる』と断言したならば、それは蔑視の対象でしかない。
戦術レベルにおいて傑出した物を持っている者には、常識が通じない。
加えて、その異常さを当人が傍から見た上で『異常なことだ。二度とやりたくないし、やるべきではない』と判断しているのだから質が悪かった。
(いや、先立って常識を乗り越えた男に常識を当てはめることが既に愚かしいのか)
一先ず思考に区切りをつけた夏侯淵は、目の前の戦術を好む天才戦略家と戦略を好む天才戦術家の問答に視線を移す。
能力を入れ換えたらちょうど良いと、思わないでもなかった。
「正当な思考ね。では、何故あなたは私に勝てたのかしら?」
「運が良かったのです。それだけではありませんが、とにかく、運が良かった。だから、何とかここで話すことができています」
「あなたの戦術の腕は私のそれと戦略的劣勢を覆しうる程の差があるから。そうではないの?」
「私は、根性悪く穴に潜んで用意をし、機を伺っていました。最初からまともに戦えば、私に勝ち目などなかったでしょう」
押し問答の色を帯びつつある会談の場は、一応の勝者が己を評価せず、敗者が勝者の能力を高く評価するという、些か以上に奇妙な情景を示している。
この李師の形式を重視するような奥ゆかしさを曹操は好ましい物だと思ったが、彼は本気で勝因を『八割が運、一割五分まで部下の勇戦、残り五分が戦術』と思っていた。
一片の不運が襲わなかったわけではない。一回の失敗をも犯さなかったわけではない。
それを乗り越えたのは、張郃・張遼・呂布・趙雲・華雄・麴義らの勇戦に拠る所が大きかったのである。
「……まあ、これ以上の追及はよしましょう。その降伏を容れなければ私はこの易京から北に進めないでしょうし、他者からの評価と自己評価に乖離があるのは何もあなただけでは無いもの」
「有り難い仰せです」
曹操が言った乖離とは、己の実力を高く見積もり過ぎている者の何と多いことかということだった。
能力が豊かに備わった人間は、成功する。成功すればするほど自信が備わり、それがともすれば過信に繋がる。
己を全く評価せず、やれることとやれないことを弁えている稀有な人格だと、曹操は心中で李師を高く評価していた。
「……条件は呑みましょう。どのような形になれ、公孫瓚の命は取らない。かと言って私は、あなたの命も取る気もないわ。私は、偉大な敵将には敬意を示す。
勿論、あなたもそれに値する」
「身に余る評価、恐縮です」
「でも、役に立ちそうにない豪族は潰すわよ?」
念押しと言うように、曹操は問う。彼女の権力基盤が名士の優遇にある以上、名士を優遇してこなかった幽州の豪族を取り込むわけにもいかなかった。
土地はいくらあっても困らないし、優遇に値しない者に任せる気にもならないのである。
「……ああ、無論あなたの部下の豪族は免除することになるから、名簿を渡して欲しいのだけれど?」
「張郃、審配の両名のみなので、名簿も速やかにお渡しします。それ以外に、私が申し立てることはありません」
「あら、薄情なのね」
「私は彼女等を好きにはなれませんし、庇う気にもなれません。私の手は親しい者を防ぐのに手一杯でして、嫌いな者を庇うほどには長くはないのです」
嫌いな人間に出会したら、目も合わせないという歪な子供っぽさを持っている彼にとって、嫌いな人間は終始嫌いなままだった。
つまり、幽州の豪族に好感などは微塵もない。むしろそれに数倍する嫌悪がある。
嫌いな奴は嫌い。理解されようとも思わないし、理解しようとも思わない。
子供が野菜を嫌うレベルのこのスタンスは、彼の人格上の明確な欠点だと言えた。嫌いでも折り合いをつければ、曹操にもある程度は抵抗し得たはずなのである。
遠ざけはしないが、自分から関わろうとも思わない。できれば一生関わりたくない。
まあ、どこかで破局していた可能性と、戦乱の長期化による犠牲の拡大の可能性が高すぎることを考えれば、結果的に見ればよかったのかもしれなかった。
「これからは勧誘なのだけれど、いいかしら?」
「はぁ」
自分より有能な奴がいるから問題ないと思っていた李師、凄まじく間の抜けた声を出す。
彼の中ではこの後、呂布と共に隠居するのが望ましかった。隠居して、歴史の傍観者になりたかったのである。
「私の部下になる気はない?」
「……私が、ですか?」
「あなた以外に誰が居るの?」
李師は、困惑した。彼としてはここで勧誘されるなど思っても見なかったことであるし、望んでもいないことだったのである。
『知ってたな』とばかりの視線を向けられた夏侯淵は、口をへの字にしながら、ちらりと視線を逸らしてどこかを向いた。
知っていても対処できないことがあると、夏侯淵は知っている。
曹操の人材好きは病気のようなもので、夏侯淵が言ってどうにかなるものでは無かった。
「えーと、私の作戦を読み切った参謀が居るではありませんか。智恵比べで私が負けた以上、頭以外は無用な私が役に立てることはないと思うのですが……」
「あれは知っていたの。読み切ったわけではないわ」
「……どちらも似たようなものでは、ありませんか?」
「違うわ。と言うよりも、私の自慢の将帥を手玉に取ってのけたあなたが欲しいの。能力の優劣などは問題では無いのよ」
能力の優劣よりも見せた能力を求められては、李師としては先立って使用した拒否の口実を押し通すことはできない。
彼は新たな口実を探して頭の中で狂奔し、見つける。
「私は生来の怠け者でして。職務を滞らせ、国に害を為すことは必定です」
「なら、普段の仕事は免除してもいいわ。要は適材適所の問題だと考えればいいんだもの」
「私は男です。職場で孤立するというのは、もう味わいたくはありません」
「秋蘭の元に就けるから心配はいらないわ。階級の等しい同僚は、皆男よ。ねぇ、秋蘭?」
無言で頷いた夏侯淵を見て、李師は相当悩んだ。
戦争はしたくない。働きたくない。この独自の空気に馴染めるとは思えない。
この三つが彼の就職拒否の柱だったのである。
その内の二つが解消されてしまっては、本音を言うより他になかった。
「私はもう、人殺しをしたくないのです。血を流させるのも、流すのを見るのも御免でして」
「他者が血を流すのを見たくないならばあなたは私に仕えるべきよ」
「何故?」
「あなたがこちらに加われば、天下の統一が少なくとも五年は早まることでしょう。五年間縮まったことによって、流される血の量は大幅に減る。そうではない?」
「何も天下の統べるのが単一政体でなくてはならないということもないでしょう。南北なりに分かれても平和は作り得るはずです」
「単一の政体でも内乱は起こる。それが複数の政体であったらその数だけ内乱が起こる確率が上がり、更には内乱への介入という名目による戦争が起こる。統一政体でなければならないという発想は斬新だけれど、小康状態を作り出すだけよ。
私の統一に、力を貸しなさい。あなたが今まで殺してきた人間よりも多くの人間に、平和による幸せを与える為に」
りえい が なかまになった!
りえい は ボックス13 に てんそうされます!