北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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魔剣

「軍務が終わったらと呂布には言っていたが、随分遅くなってしまったな」

 

「むぅ」

 

妹にそう言われ、夏侯惇は頬を膨らませるように不満を露わにした。

戦争が始まれば、当然ながらそれに対する用意が必要となる。

 

李師もお陰で暇ではなかったし、各軍司令官も忙しかった。当然ながら、自軍の再編を目指している夏侯惇も忙しかったのである。

 

これが、本来ならば半日で終わるはずだった仕事が夕刻にまで縺れ込むという現象の元となっていた。

 

「待っていてくれているだろうか」

 

「呂布にも呂布の予定がある。難しいのではないか?」

 

「まあ、そうだろうな」

 

それでも諦めきれないのか、約束の地として指定した練兵場に足を運びながら夏侯惇は一つため息を付く。

心無しか、足が速い。焦っているのかもしれないし、いつものように気が急いているのかもしれない。

 

練兵場に着く前に、夏侯淵は異変に気づいた。

兵たちが個人の技量を磨いたり、将たちが稽古をつけてやったりつけられたりするこの練兵場。許昌のとは大きさも便利さも違うが、使用用途としては同じ筈である。

 

だが、そこには一心に打ち込むような人の動きではなく、何かを遠巻きに見つめながら片手間で稽古をするような感じがあったのだ。

 

「どうした、秋蘭」

 

弓使いという職種上、夏侯淵の方が夏侯惇よりも目が良い。

夏侯淵が夏侯惇にはわからない何かを見ている時は、だいたいこう問うのがこの二人の常だった。

 

「案外、義理堅いのかもしれないな。親の言うことを聴いているだけかもしれないが」

 

「うん?」

 

ポツリと漏らした台詞を聴きながら、夏侯惇はさっさと練兵場に足を踏み入れ、夏侯淵もそれに続いて足を踏み入れる。

将校専用のスペースの際に、壁を背もたれにして座り込んだ二人が待っていた。

 

「おぉ、来ていたのか」

 

「……恋は、やれることしか言わない」

 

夏侯惇を殆ど瞬時に馬から叩き落として捕縛した時に言った口上をそのまま使い、呂布は胡座をかいていた姿勢のままに隣で片方の膝を立て、片方の脚は地面に伸ばして寝ている男をゆさゆさと揺らす。

 

「……あぁ、来たのかい?」

 

「ん」

 

そのまま永遠に時が停止していても一向に違和感のない李師の睡眠体勢が崩れ、胡座をかいた観戦体勢に移り変わる。

軍務とは一概には言えないが、そこそこ真面目に働いていただけに、彼は体力回復、即ち趣味と実益を兼ねて睡眠を貪っていた。

 

「義理堅いのだな、お前の愛娘は」

 

「義理を持つに至るまで、果てしないけどね」

 

同じく隣に腰を下ろして観戦体勢に入った夏侯淵が胡座をかいた李師に声を掛け、酒と杯を横流す。

 

「手際がいいね、君は」

 

「これが楽しみで付いてきたのだからな。当然だ」

 

夏侯惇が大剣『七星餓狼』を正眼に構え、呂布が方天画戟を右手に持ってだらりと垂らした。

周囲の兵士たちも鍛練を一時取りやめ、呂布と夏侯惇の立ち合いを見物し始める。

 

この二人の戦いは初めてというわけではない。しかし、見た者が少なく、更にはその少数の内の殆どが戦死している以上、ぼんやりと『夏侯惇が負けた』という結果が伝わるのみだった。

 

どう負けたのか。どれくらい打ち合ったのか。

 

そこらへんに、兵士たちの興味があった。

 

「無構えか。姉者には悪いが、武の階梯に於いては呂布の方が数段上だな」

 

「そういうもんかね」

 

「そういうものさ」

 

夏侯惇が正眼に構え、更には意識を張り詰めて呂布に対処しようとしているのに対して、呂布はあくまで自然体のまま。

常にぼーっとしている呂布は、戦いに於いてもぼーっとしている。

 

彼女の眼が鋭角を帯び、緊張の霧を纏うのは李師の前くらいな物だった。

 

「私には武のことはわからないから、心理的な洞察から言わせてもらうとだね」

 

「拝聴させていただこう」

 

「夏侯惇は守ってしまっている。彼女の気質が攻撃である以上、これは少し拙いんじゃないかな。武の階梯とやらに差がある以上、得意なことで勝負を仕掛けなきゃ勝てないと思う」

 

「呂布の強さを百とすれば、姉者の強さはまあ、六十二程度だろう。呂布が攻めに三十、守りに七十を傾けていることを考えれば、守備に徹するのは強ち間違いではない。だが、それは理屈でしかないからな……」

 

本人の気質と性格と練度というものがある。

気質と性格は攻撃よりで、練度も攻撃の方が高い。というよりも、夏侯惇は守りに徹した戦いなどをしたことがない。敵の攻撃を弾いたり防いだりはしても、あくまでもそれは攻めの継続の為の、接着剤としての行為である。

 

防御に徹しては、六十二の実力も三十ほどにしかならなかった。

 

「お、恋が仕掛けた」

 

「仕掛けた瞬間、終わったがな」

 

月牙を攻撃に使って戟を振るい、弾かせたところを石突で七星餓狼を弾き飛ばす。

一合だけしか刃を交えず、片手であしらわれたのは前回と同じことだった。

 

「流石に強い」

 

「そうなのかな?」

 

「読み物ではないんだ。本当に実力に差があれば伯仲すらせずに決着がつく。今のは、それだろう」

 

勘違いされがちだが、呂布は手加減して片手で戦っているのではない。護衛として戦う以上、咄嗟に反応する為に片手を空けているのである。

武人というよりも護衛としての己を優先する呂布は、弓以外の武器は片手で扱っていた。

 

「お、今度は君の姉から仕掛けたね」

 

「敢え無く弾かれたがな」

 

夏侯惇は決して弱くない。李師が三百人居ても一人で殺し切れるし、一騎当千といっていい武力を持っている。

それを赤子の様にあしらう呂布の凄まじさを、観客たちは改めて理解した。

 

「……埒が明かん」

 

「うん?」

 

「あれでは何の稽古にもならん、ということだ。姉者は攻撃に専念できていないし、かと言って防御に徹し切れていない。半々、と言った感じだな」

 

ぶつくさと呟きつつ、夏侯淵は酒と杯を李師に押し付けて前へと歩を進める。

何だかんだで姉が大好きな彼女にとって、姉が巧いやり方を知らないと言うのはいささか以上に歯痒いものがあった。

 

「……姉者、選手交代だ」

 

「むっ、まだやれるぞ」

 

「それは知っている。だが、効率的ではなかったのでな」

 

肩で息をする姉の利き腕に手をやって一旦下がらせ、呂布に一礼して剣を構える。

 

片手に一つ、もう片手に一つ。

 

青紅と倚天。餓狼爪という弓を主武器にする彼女が選んだ、近接戦闘用の武器だった。

 

「……交代?」

 

「ああ」

 

がんばれー、と気楽過ぎる声援を送る李師と、不承不承ながら観戦すべく七星餓狼を鞘に収めた夏侯惇。

更には『妹の方の将軍の実力はどのくらいなんだろう』と興味深げに試合を見ようと集まってくる兵たちの前で、二人は静かに向き合う。

 

(ほぉ)

 

呂布の意識の指向に気を配り、あることに気づいた夏侯淵は静かに左回りに歩き始めた。

呂布の視線が注意してもわからないほどの僅かな苛立ちを帯び、ただ立っているようにしか見えない無構えが徐々に雌伏する虎の如き体勢へと変化する。

 

その瞬間、夏侯淵は李師の方へと横っ跳びに跳躍した。

 

「……っ」

 

それに対する呂布の反応は、脊髄反射と言っても良いであろう。

彼女は尋常ではない速さで右脚を前に出し、滑るように李師と夏侯淵の間に割り込んだ。

 

これは最早、本能レベルの行動だと言える。李師に武器を持った者が近づくと、呂布は無理矢理にでも割り込む。

たとえ危害を加えないとわかっていても、保護者の全く持ち合わせていない分の危機察知能力を持った被保護者は、非常に敏活に反応してしまっていた。

 

「やはりな」

 

夏侯淵のからかい混じりの確信の言が漏れるのと同時に、呂布の瞳が昏い焔で満ちる。

 

割り込んだ呂布による一振りを双剣で受け流し、呂布の逆鱗を態と掠めた夏侯淵はあたかも暴風のように襲い来る突きと斬撃をいなしながら後退した。

彼女が止まったのは、二十五歩地点。彼女の一跳びでは詰めることができず、呂布の一跳びなら瞬時に戻れる地点である。

 

「……」

 

如何な歩法を使ったのか、殆ど体勢を崩すことなく僅かに後退した呂布の瞳から焔が消えた。

と言っても、常の静謐さを取り戻した訳ではない。彼女は、瞳に焔を宿していた時も静謐だった。

 

自動迎撃装置を備えた魔剣が、危機が去るとともにその本性を覆い隠したように名剣になる。

見た目も変わらない。中身も、無論それが本性なのだから変わらない。

 

それが、一番しっくりくる表現だった。

 

「降参だ」

 

防御に徹する為に攻撃を誘ったら、思わぬ物が返ってきたことに楽しみを覚えつつ、夏侯淵は双剣を両方共を鞘に納める。

 

それに応じるように方天画戟の切っ先が下り、呂布の臨戦態勢が警戒態勢にまで下がった。

 

(仲珞が攻撃的な性格だったら、この二人は戦略を根底からひっくり返しかねんな)

 

彼女がこの打ち合いで感じたのは、それである。

そもそも呂布は白い布のような存在なのだ。何物にも染まるし、染まったあとはそれ以外に染まりようがない。

 

李瓔という男が兵を駒として見るような冷徹さと野心的な攻撃性を持つ人間だったならば、呂布はさしずめ魔王の右腕として敵対者を裁断していったことだろう。

 

李瓔が、敵を呂布が殺せるだけの人数まで減らす。或いは、殺せるだけの隙を作る。

呂布が、その『死ぬまで敵を殺してこい』と言われたら直ちに履行しかねない、異様なまでの忠実さと文字通り死を厭わない勇敢さによって殺す。

 

これで勝ててしまうのである。

 

だが、李瓔という男は攻撃性というものに対しては正当防衛という枠からそれ以上の発展性を見出さない男だった。

過剰防衛にはならず、正当防衛にしても甘い。そんな穏やかな男が染めようともしなかったから、呂布は緩やかにその風韻と薫陶で染まっていったのだろう。

 

「秋蘭、何故あんなに打ち合えたんだ?」

 

少し乱れてしまった髪を李師に撫で付けられ、一層乱れていく赤髪を気にすることなく擦り付ける呂布。

大型犬と飼い主が戯れているような光景を温かい眼差しで見つめていた夏侯淵の背後から、夏侯惇が声をかけた。

 

この二人の実力は、総合的には伯仲している。だのに、夏侯淵のみが十数合打ち合えたのが、夏侯惇には不思議だったのだ。

 

「単純なことだ、姉者。私は確かに呂布を百とすれば六十二の実力だが、すべてを防御に回してしまえば、呂布が攻撃に回すのは二十から三十。私でも充分に打ち合える、というわけだ」

 

「なるほど……なら、私は防御を捨てて息もつかせず攻めまくればいいわけか!」

 

「ああ。ある程度手加減してくれていることだしな」

 

唖然とする夏侯惇を励ますように肩に手をやり、夏侯淵は未だに痺れたままの手を握る。

李師が寿命以外で死ねば、どうなるか。

 

考えたくはないな、と。彼女は一人つぶやいた。


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