北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
敵を撤退に追い込む、ないしは決戦に追い込む為に適宜手段を取られたし。
態々前線にまで出てきている途上の本隊からそう指示が下り、李師と夏侯淵は額を突き合わせて悩んでいた。
「大雑把な指示だな」
「詳細な指示が必要ないと思われているのだろう。能力を認められているということだ」
李師が漏らした言葉に対し、夏侯淵は怜悧な眼差しをその文面に向けながら答える。
現場まで出張っていって直接指揮を執るタイプである君主、即ち何かと裁量を任せがちな中華の君主らしくない君主である曹操からこのような大雑把な指示しか出されない。
そこにこの二人の能力に対する曹操の信用というものが伺えた。
「で、どうするんだい?」
「退かせるか、進ませるか。先ずはそのどちらを採るかだろうが……」
退かせるならば兵站線を切れば良い。進ませるならば後方の城を陥として退路を断てば良い。
だが、後方の城を陥とすには中入りと言う戦術を採用することが必要となる。
この中入りが、曲者だった。
「失敗の公算が高いだろう、これは」
「まあ、土壇場での純粋な中入りは成功しないと歴史が証明しているからねぇ」
『中入り』という戦術は、対陣している敵に対して一部の兵力を使って敵陣の弱点を、あるいは思いもらなかった地点を奇襲することで敵の虚を突くことを言う。
実際問題としては、前面の敵を迂回して、というのが多いが、イメージとしては敵正面に注意を集めておいてその隙に別の意外な方向から攻撃する、という戦法なのだ。
しかしこれ、失敗の公算が高い。そして難易度が極めて高い。
まず、敵に気づかれたら敵中で袋叩きに合う。これが大前提としてあり、故に『バレない程度の、だが戦力として機能する程度の戦力』をその場に応じて判断して抽出しなければならない。
そもそもこの実施面の準備においても高度で精練された戦術眼が必要とされるし、実行面においても主目的を優先して他の要素を必要に応じて引き離すという決断力が必要だった。
即ち、難しい。これに尽きる。
「なら、兵站線を破壊することにするか?」
「私としてはむしろ、この際中入りをしてみようと思う」
戦略的には慎重派、戦術的には投機的。
後世の人々からまたしても矛盾しているという評価と共にそう言われた李師である。この戦術の選択は、ある意味では当然であった。
「……待った。作戦を当てたい」
「わかった。待とう」
意外なことに、言動にそぐわず李師よりも更に慎重派だった夏侯淵からすれば、危険極まりない中入りの作戦案など考案していない。
今回の場合はそれが却って既成の案に囚われない柔軟さを生む。
夏侯淵は、考えた。
李師の採る作戦案はもう既に絞れている。このことはアドバンテージの大なるところだし、ここから彼の視点と思考を借りて考えればいい。
「狙いは宛だろう、仲珞。違うか?」
「正解。まあ、敵にはそう見せないけどね」
ものの数秒で、明敏な答えが夏侯淵の僅かに笑っているような口元を綻ばせ、漏れた。
敵は、これほどまでに李師の性格を知らない。あくまでも彼は慎重派の将帥であり、投機的である戦術を好まないと思っているだろう。
「先ず、輜重隊を討つ。これを数回繰り返し、敵に固定観念を与える。そして、中入りに切り替えるわけか」
「もう一工夫、する」
「と言うと?」
「宛は敵の一大補給基地で、敵もその重要性を理解しているということさ」
諒解したような、李師の意地の悪さを皮肉るような笑みを夏侯淵は浮かべた。彼女にはこの時点で、どのような策に出るかがわかっていたのである。
「では、そちらは任せよう。正面の敵部隊の意識の誘引は任せてもらって構わない」
「ああ、任せるよ」
こういう敵の急所を抉る様な戦いぶりは李師の得意とするところであり、敵の意識を惹く巧妙な部隊運用と実戦の管理は夏侯淵が得意とするところだった。
李師は田予、呂布、趙雲の三人と周泰を含む緑甲兵七千を連れてその日の夜に両軍が対陣する臨潁を後にする。
七千という兵力の選択も見事であったし、元々有事に備えて情報収集を怠らなかった用心深さも流石だと言えた。
李師は陸路で臨潁から西進しつつ南進し、劉備軍の占領下にある昆陽を過ぎ去って南下。
更には雉の地の補給基地まで二日で着き、そこから僅かに南の博望の地にある予山で兵馬を休ませつつ、情報収集を行っている。
「補給部隊が次に進発するのは、三日後。それも、大部隊となっています」
「それは運がいいことだね」
周泰の報告を受け、李師は素晴らしく他人事めいた感想を呟いた。
規則性を予め調べさせ、その規則に則ったことを確認してから対策を行う。
李師の兵站線の見極めは、今のところ外れたことがなかった。
「自分で調節して出てきた癖に、面白いことを仰りますなぁ」
「それだとしても、当たるのは運だよ。星」
予山についてからこれまでも、李師はちょくちょく補給物資を強奪している。
謂わば、極微量な複数回同時に行うことによって七万の兵員への供給を行っていた補給線を丁寧に切断してきた。
この丁寧な切断によって絶たれた補給線は十五を数え、無事な物は五に満たない。
奪われた補給物資は保存用の壷に入れられたまま予山の峰々に保管されている。
もちろん、これらで溜め込まれた物資は七千の将兵の腹を満たす為の食用にも使っていた。
しかし、安易な切断と発見を許さない為に分割させられた二十本の補給線で七万の兵員の腹を満たしていたのである。単純計算でも十五本抑えてしまえば五万弱の兵員を養えるだけの物資が手に入ることになるし、事実としてそうだった。
彼らには全部で何本の補給線があるのかはわからないが、奪った兵糧の物量とその割合から推理することで大凡の数を掴んでいたのである。
そして七千の緑甲兵は、自軍の八倍にも及ぶ物資を食い潰せるほど大飯ぐらいではなかった。
「運。運とおっしゃいますが、あなたは十五の補給線を単純な予想と事前調査によって突き止めておられる。敵の補給線が何本あるかは知りませんが、この際の問題はその当てた数。
十五本悉くを的中させておいて、運が良かったはないでしょう」
「当たるも八卦当たらぬも八卦。戦なんてその要素が八割を占める。勝ち運がなかったら如何に優秀であろうが意味が無いのさ」
身近に賈駆という例があるが故に、趙雲は一時納得した。どんなに優秀でも、あれほどに運がなくてはどうしようもない。
なにせ、やることなすこと裏目に出てしまうのだから……、と。
その予想が正鵠を射ていたとしても、襲う前に唐突に駆け足になって過ぎ去ってしまうかもしれない。或いは、どこかで道を間違えて迷ってしまうかもしれない。
不確定要素といったものを発生させるのが運ならば、それを取り除いてくれるのも運なのだ。
「さて。吾々はこの隙に東進。予山に蓄積された物資を堵陽を通過して西平の邑に運びこむ」
「一日で運び込むことができるから良いとして、その後はどうなさるので?」
荷物がなくなっているから足が軽くなるとはいえ、一日で西平から予山に引き返して次の日に戦う、と言うのはあまりにも寸詰まりな計画であると言える。
更には兵たちにも余裕がなくなるし、敵も輜重隊につける警護の兵を増やしているはずなのだ。
「いや、こちらの護衛兵は千人しかつけない。本隊はこのまま予山に潜伏して博望で迎え撃つ」
「それでは護衛兵が途中で敵軍に襲われるのではありませんかな?」
「いま、敵の軍の殆どは宛に居る。真逆の方向に回せるだけの兵力はないし、舞陽から敵が来てもその前に西平を守っている徐晃が落ち合うことになっているから問題はないさ。たぶん」
負けない用兵と守勢における巧みさに於いては楽進と双璧と言っていい人材である。時々勇を誇るようなところもある陣頭型の勇将であり、次に軍団が増設された際の軍団長として筆頭で名前が上がる程の堅実さを持っていた。
城を任せてもいいし、陣地を任せてもいい。要は使い勝手のいい武将だといえる。
「たぶん?」
千人の護衛兵と輜重隊を率いて西平へと向かう高順を見送り、李師は一つため息を付いた。
七千以上の兵数を率いていくと確実に気取られ、商人を使って兵站を確保しようとすると敵に確実にバレてしまう以上はこの寡兵で戦うより他にないとはいえ、何故曹操軍という『物量を一戦場に集結させ、物量差を以って優位を得る』という陣営に加入しても己は相変わらず寡兵で戦っているのか。
そこら辺に、彼は己の馬鹿さ加減を感じずにはいられなかった。
「たぶん。最悪の場合、燃やしてしまっても構わないと言ってある」
「まあ、渡さなければいいわけですからなあ」
「そういうこと」
基本的に李師は兵力差で勝つということができない。別にできないわけではなかったが、何故かそうなったのである。
戦えば勝たないまでも、敗けない。しかし、戦略的には勝ったことがない。数で敗け、状況に敗け、戦術で勝って最終的には引き分けか勝ち。もはや宿痾であったこのパターンを打破すべく戦略的な働きをしていた、少なくとも、彼はそのつもりだった。
しかし、ここで気づいたのである。
何故、戦略的な優位を占めるために戦術的な不利を覆さなければならないのか、と。
もしかして自分は、恐ろしいほどにバカバカしいことをしているのではないか、と。
「恋は、そこら辺についてどう思う?」
「……ん。今更」
ぽけーっとしているながら割と要点を踏まえた考えを持っているのが呂布という人間の表と裏の差であった。
彼女ほど李師の用兵の華麗さや鮮やかさを無視して『邪道だな』と極めて正当な目線で見ている人間もいないであろう。
環境に恵まれていないからこそ彼の用兵策は変な形になってしまったこともわかっているが、『正当な用兵策』というものを教わっていた呂布からすれば正道の戦略を得るための邪道の戦術とは何かというような気持ちがある。
そもそも、正当な戦略とは正当な戦術で勝てるようにするためのものであるはずなのに、そのために邪道な戦術を使うとは何事か。手段と目的が逆転しているとすら言えるのではないか。
確かに李師は現在一人で荊州を荒らし回り、劉備軍の残留兵力たる一万から二万を七千の兵で相手にとっていた。しかし、彼は常に千対七千であるとか、二千対七千であるとか、即ち常に兵力差に於いて圧倒的な差を戦術レベルで作り出してから戦っている。
故に呂布も苦言を呈することは滅多にないが、あくまでもこれは彼のみが可能な個人プレーのたぐいであると認識していた。詰まるところは彼にしかできず、自分にとっては参考にしかならない。
弟子のような感じでもある彼女は、己にできることとできないことを明敏且つ正確に分類していた。
「本当に、今更」