北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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中軸

不毛だ。

目の前の、と言うには遠すぎる光景を見た趙雲が感じたのは、先ずそれだった。

 

ピョコンと天に向かって伸びる一房の毛を、掌で優しく潰す。

潰しては離し、また聳える。

 

「不毛な作業をなさることで」

 

「目の前に毛はあるけどね」

 

己が最も信頼する指揮官の皮肉気な笑みに苦笑で返しつつ、李師は何処か蝶を思わせる白装束に身を包んだ趙雲に向かって手をあげた。

今まで縁側の猫の如く大人しく、親の不毛な行為に付き合っていた娘の肩から手を離し、肘を顎の辺りまで上げる。

 

やぁ、とでも言うような、常の挨拶の行為だった。

 

「星。準備は?」

 

「言うまでもなく、私はできる女。昨日の内に終わらせておきましたとも」

 

「それは御苦労」

 

高順の補給部隊が味方の城に無事に入城したという報告を受けた後、趙雲は独自に敵の輜重隊を襲い、これを敗走させている。

謂わばこれが、今回のタネなのだ。

 

「嬰殿。今日なさるので?」

 

「ああ」

 

誰かの台詞ではないが、戦には機というものがある。それを逃せば勝利は掴め得ないし、掴め得たとしても十全であることは有り得ない。

 

その機を見るための眼を持っている人間は、良将と呼ばれていた。

機を逃さず、その機に応じて自分の行動を差し挟む。

 

だが、良将と呼ばれる者達には一段階上の存在がいた。

名将、と呼ばれる存在である。

 

彼ら彼女らは機を掴んでもその機に己の行動を応じさせない。機を自らの行動に応じさせるのだ。

 

良将が機に応じて動くまでには僅かながらのモラトリアムがあるが、名将が機を自らの行動に応じさせるにはそんなモラトリアムなど存在しない。ゼロコンマ一秒の隙の中に、自分自身を躊躇なく叩き込む。それでしか名将と呼ばれることはできなかった。

 

この趙雲は、名将の卵である。今は大局的な名将の素質こそあれど現場の判断能力は良将たるに甘んじている。

そして、膝に乗せて不毛な行為に付き合わせている呂布は、機を見るに敏、というレベルではない。

 

戦機を測るのが比類無く巧みだった親譲りの戦術眼を、天性備えていた。

 

「……今回は恋も指揮する」

 

「いやぁ、それには及ばないんじゃないかな」

 

「戦では、他の人と平等に扱う。そう言った。恋は、二千の指揮官」

 

この戦機を測るに比類無い戦術眼を、李師は態と鈍らせようとは思わない。それは親の勝手でこの選択肢を狭めることに他ならず、彼の意志と理念に反する。

 

だが、今この台詞を聴いて後悔していないと言ったら嘘になるだろう。つまるところ、彼はこの世で一番罪深い『仕事としての効率的な人殺し』に関与させたくなかった。

もう関与していると言ったらそれまでだが、『自分の意志に拠る決定によって敵と味方が死ぬ』という状況に彼女までをも引き摺り込みたくなかったのである。

 

「結局のところ、あなたも理想とはかけ離れた人間らしい人間だ、ということなのでしょうな」

 

「負け惜しみに聴こえると思うが、私は理想を体現した人間は人間ではいられない、と思っている。人間味にかけるとも、ね。つまるところ、理想の体現者とは誰とも関わりのない、荒野の世捨て人の如き生活を営む人間でしかありえないのさ」

 

「その荒野の世捨て人に、なりたいのでしょう?」

 

「今ある関係を切ってまでなりたいとは思わない。私が居なくなれば歓喜に咽び泣く人間も居るが、その逆も居る。違うかな?」

 

「私はその代表格だといえるので、その答えを待っていなかったと言えば、嘘になります」

 

少なくとも田予も李師の全幅の信頼のもとにそのパーツとして能力を振るうことに喜びを見出しているし、趙雲は当事者ながら何かの劇を見るかのようにこの男の生き方を楽しんでいた。

呂布は李師がどうなろうが黙って付いていくだろうが、彼の元で三十数回に及ぶ戦いを生き抜いてきた最古参の兵卒たちは他の指揮官のもとで戦うことを喜ばないであろう。

 

張遼が引っ張って行ったのは己の麾下であり、基本的に李家軍は李仲珞と言う男の軍事的才能と人格によって結合しているところが大きかったのだ。

 

趙雲や張郃や淳于瓊や華雄などの分隊司令官は一軍団の指揮官としても不足を来さない能力と見識を保持していたし、近頃では審配もその列に加わる。

一万五千と言う一軍団における一分隊などは三千に過ぎず、旧李家軍こと第十三軍団などは有能な指揮官の多さから二千まで減衰していた。

 

趙雲、張郃、淳于瓊、華雄、審配、呂布。麴義と郝昭は張遼に付いて行った為に二千で済んでいるが、空気を読んで分裂に応じた張遼等がいなければ誰かを無理矢理にリストラせねばならないハメになっていたのである。

 

「分隊の司令官が優秀過ぎるのも、難しい物だね」

 

「使わずに居るのはまさに勿体無いと言うもの。さりとて二千と言うのは戦術単位として機能するかしないか、というところですからな」

 

趙雲は李師にしか槍を預ける気はないし、張郃と淳于瓊と審配は袁家の宿将たる実力と意志を持った有能な指揮官。華雄と呂布は言うまでもない。

一軍団、一万五千人。この重みに耐え、被害を抑えて最大限の戦果を叩き出せる指揮官を四人、卵を二人。

彼は抱えてしまっていた。

 

「指揮官の個人的な技量をあてにしたくは、ないんだ。もちろん味は引き出すが、頼り切ってはならないと思っている」

 

「私には撤退を任せ、華雄には追撃を任せ、張郃は不利な戦局を凍結させ、淳于瓊には突撃を任せ、審配には正当な守りを、呂布には遊撃を。そして田予には全軍の意思疎通を。見事な人材配置ですが、規模が小さすぎるのが難点でしょう」

 

「君たちを活かしきるには、それぞれ五千から八千の兵が要る。そうすれば第十三軍団は私の直衛を併せれば最低でも四万、最高で六万四千。一家臣が持つには些か多過ぎる兵力だね」

 

「だが、器はある。違いますかな?」

 

曖昧に笑み、大人しく親の弄くり回しに耐える様子もなく耐えている呂布の頭をくしゃくしゃと撫でる。

心情的には認めたくない、しかし出来るという自己認識があった。

 

それが彼に、趙雲への回答を止まらせる原因となっている。

 

「……まあ、よろしい。本音が聴けたならばそれで上々、と言うべきでしょう」

 

「そのくらいにしてくれて助かるよ」

 

「では、私は行くとします。吾々が城を獲り、外を見れば敵しか居ない、という様なざまには陥らぬよう頼めますかな?」

 

ここに居る趙雲の兵は、千に満たない。されど彼女の隊が抜ければ、荊州奥深くに食い込んでいる李家軍は五千弱にまで減少する訳である。

 

敵が防衛戦力を結集させてくるならばその数は一万に及ぶ。

つまるところ、彼はいつも通り約二倍の兵力差を小手先で何とかせねばならなかった。

 

「どうなろうと、君を見捨てるようなことはしないさ。己の右腕を切り取るようなものだからね」

 

「私が、右腕ですか。自分で言うのも何ですが、不穏な物質で右腕を構成してよろしかったので?」

 

「信用ではなく、信頼できる。能力も、性格もね。なんだかんだ言っても私は、君を頼りにしてきたんだ。今までも、これからも」

 

「ね、熱烈な告白ですな。まあ、期待には応えさせていただきますが」

 

後ろで一つに括った蒼髪の上に白い布冠の如き帽子を冠り、趙雲は仄かに上気した顔を隠す様に一礼してその場を去る。

基本的には趙雲を軸にした戦術を、つまり偽装撤退からの逆撃、逆撃からの逃走、ないしは反撃という戦術を得意としてた李師とすれば、ここで趙雲を手放すのは痛い。しかし、攻防柔軟で応用力のある彼女は、別働隊の指揮官として相応し過ぎた。

 

別な軸を得る為に腐心した挙句、李師は趙雲という指揮官が持つ駒としての便利さを再認識すると共にやっと別な中軸を得ることに成功したのである。

 

「……さーて、敵の罠にかかりに行こうか」

 

「……ん」

 

「はっ」

 

「御意」

 

「了解です!」

 

残った指揮官たる呂布と審配、もはやその存在が持つ重要性から半身のようなものである田予と耳目と影を担当する周泰を率い、李師は五千弱の兵を率いて敵の一大兵站護衛部隊に突っ掛かりに行く。

無論、それは『進行方向を遮った後の迎撃戦』であり、『誘った側が攻めねばならない』という李師らしい戦の組み立て方を守ってはいたのだが。

 

便利な将にして、戦術の中軸を為す趙雲が別働隊を率いている今、李師がどのような戦をするのか。

李家軍の分隊司令官から一兵卒までが、それに静かな注目の眼差しを向けていた。




要約:趙雲は戦術の起点。

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