北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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崩壊

呂布が三里下がったことにより、戦線を立て直したのは何も彼女の部隊だけではなかった。散々に崩され、乱された劉備軍左翼部隊も、敗走してきた味方を後方に回している。

 

後方に回した二千は長期にわたって―――後方から常に、近しい距離で馬蹄が響いている―――恐怖心を煽るような状況に晒され、恐慌状態にあった。

実数としては突撃で僅かに数を減らした呂布隊の二倍の数を保持していても、心情を加味すればその二千は使い物にはならない。

 

少なくとも、今のところは。

 

そして呂布の突撃をまともに喰らい、恐慌状態にある友軍を見てしまった劉備軍の左翼部隊も半ば恐慌状態の一歩手前であった。

 

荊州兵は反董卓連合以来、戦を知らない。それは諸葛亮の外交の巧さや内政の巧みさに起因するところが多く、概ねその能力は褒めてつかわされるべきであろう。

 

しかし、北の異民族と戦い続け、挙句の果てには反董卓連合で諸侯の兵を敵に回して粉砕し、天下一の人材の質と量を誇る曹操軍を撃ち破った李家軍を相手取るには荷が勝ちすぎるというものだった。

 

李家軍は中級指揮官から下級指揮官に至るまで、身体を張る。そしてなおかつ生き残る。

訓練で『狙われるから』という理由で呂布にひたすら叩きのめされ、趙雲に槍術や逃げ脚の秘訣やら何やらを学んだ彼等彼女等はしぶとかった。

 

敵の勢いが強ければ、全軍が崩壊しない程度に逃げ、怯んだところを周りと連携して数の利で叩く。

卑怯卑劣と罵られても無理からぬ程の生存能力と連携、そして生命力を持っていた。

 

全軍を構成している一個小隊や一個中隊までもが密接に連携し、有機的に結合している。

恐らく天下で最も激戦を潜り抜けてきた李家軍の、最精鋭といえる彼等彼女等は劣勢と苦戦の連続で、訓練度というものが跳ね上がってしまった悲しい人種だったのだ。

 

そしてそのことは、最高指揮官も変わらない。

 

「副司令、第五・第七を右旋回、第八・第十一を左旋回。敵の突撃を受け流す」

 

「はっ」

 

盾と槍を構えて威圧し、誘導し、移動によって受け流す。

 

戦いの中で新たに閃いた、『流体防御』とでも言うべき『受け流す、勢いを削ぐ、射撃』の三連鎖で、李師は最小限の被害で最大限の効率を叩き出していた。

 

敵の騎馬隊も強いが、破壊力は夏侯惇程ではない。大袈裟で体力の消耗の激しい流動を使わなくとも、流すくらいは簡単にできる。

 

「今だ、撃て」

 

田予による優れた指揮系統の統率により、手首を僅かに上げた後に下げるという動作とともに下された命令は極微量のタイムラグを経て実行に移された。

その微量のタイムラグを、経験によっておおよそ計算に入れていた李師による微修正は見事に功を奏し、彼が思い描いたとおりに騎馬隊が弩兵によって薙ぎ倒される。

 

殆ど奇跡的なまでの部隊運用と、その部隊運用を計算に入れた指揮ぶりは現在まで無謬のものだと言えた。

田予はまだまだ余力を残しており、普段から寝て過ごしている李師は言うまでもない。

 

だがこの時、李師が一回の戦いに一度はやらかす計算ミスが、彼の意識が右翼の防御法の管制に向かっていたことを利用する形で、審配率いる前衛部隊を襲っていた。

 

要は、活動を停止した呂布隊の左翼と、受け流しによって僅かに逸れた右翼の間隙を縫って張飛・黄忠の両隊が左右に展開。

審配は前面を含む三方向を囲まれることとなったのである。

 

「将軍、吾々は三方向を囲まれてしまいました。これは、隊を下げたほうがよろしいのでは……」

 

「落ち着かんか、馬鹿者」

 

審配は部下の意見を無視する型の指揮官であり、極めて真っ当な論理と戦術で敵に相対する。

つまりそれは奇策や不意を突かれることに弱く、奇策によって不意を突かれた場合はどうしようもないという欠点を露呈させる特徴でもあった。

 

現に彼女は夏侯淵に不意を突かれた時はあっさりと邯鄲という難攻不落の要害を渡してしまい、予め李師に『来るよ』と予言されていた時は易城という小城を守り通している。

 

覚醒したからといって能力的なバラつきが変わるわけではない。これまで黄忠・張飛が率いる三倍の敵に対して互角の戦いを演じていた審配も、不意を突かれては負けるかに見えた。

 

しかし、彼女は生来の愚直さと真っ当な論理と戦術を駆使してこれに抵抗したのである。

 

この稼いだ時間が、李師の計算ミスを李師が修正する為の時間となった。

 

「……なるほど、してやられたなぁ」

 

「敗け、ですか」

 

驚くほどにその言葉が嘘っぽく聞こえたことに内心驚いた田予は、口元を左手で抑えて思考を切り替える。

これほどあっさりと死にそうな男も居ないが、不思議と敗けて焦っている光景がそぐわない男もまた、居ない。

 

今までの数多くのミスを覆してきたその修正能力に希望を掛けながら、田予はちらりと横を見やった。

 

焦るべき状況にもかかわらず、全く、焦っているようには見えない。

姿勢も、至って悪いままである。

 

「敵が有利なこの状況……これを逆用できるんじゃないか?」

 

一瞬だけ瞳に鋭い知性が宿り、周囲の人間が息を呑んだ。

どんなに姿勢が悪くとも、どんなに怠惰であろうとも、李師は当代屈指の名将である。そのことを再認識したものが、この時意外に多かった。

 

「よし、恋と合同して、敵を叩こう」

 

「よろしいですが、いつ伝騎を送られたのですか?」

 

「少し前に。包囲されるかな、という前兆があったのでね」

 

その命令を渡した伝騎が三騎、呂布へその命令を届けている間にも、李師は床几に肘を付き、頬を掌に凭れかけさせながらぼんやりと思考を巡らせていた。

 

「いや、予定を繰り上げれば何とかなる。たぶん」

 

何事かを指折り数え、左の掌に右の拳をぽん、と打ち付ける。

閃いた、という典型的なポーズをとる間に、李師はこの孔明の罠が招いた危機的な状況をどうにかする策を思いついていた。

 

「どうなされるので?」

 

「恋の動きに合わせて、逃げる」

 

「では、後退の合図を送られますか?」

 

「いや、逃げるのは後ろじゃないよ」

 

何食わぬ顔で前面の審配隊を崩しつつある正面の敵陣を指差し、李師ははたまた博打を打つ。

 

「右翼に連絡。次の突撃を受け流した後に敵中央を目指して進撃。なるべく敵陣を崩していくように、と」

 

「……なるほど、了解致しました」

 

「敵陣の中央を突破し、退却する。審配隊は直衛に組み込み、統合した後に私が直接指揮を執る。後方支援集団の武装化は?」

 

「既に完了し、我が軍の中央部、その最後尾に続いております」

 

後方支援集団と言っても、精鋭と言える程度には強い。

期せずして予備兵力を確保しておいたことになる李師は、軽く一つ頷いた。

 

退却。それも、現在の認識では敵城とされる城郭に。

趙雲が巧くやっているかは、五分と五分。それを承知で、李師は成功すれば被害を最小に抑えることができる一手を打った。

 

「失敗していれば、どうなさいます?」

 

「趙雲たちを回収して逃げるさ。まあ、抜け目のない彼女が失敗しているとも、思えないがね」

 

審配隊を後退させた瞬間、右翼が斜め方向に猛烈に前進を開始する。

それを見た諸葛亮は中央突破の意図に気づいたのだが、ここで一つの選択と一つの悩みに迫られた。

 

敵を包囲して殲滅するか、右翼と左翼を中央に集めて堅陣を築くか。

これが、選択。

 

なぜ敵は中央突破の態勢を取ったのか、というのが悩みである。

 

順序で言えば、彼女は選択を迫られたことに先に気づき、ついで悩みの種の在り処に気づいた。

しかし順序で言えば、この二つは逆になるべきであろう。

 

諸葛亮は既に味方の中央で敵中央を兵力の差を活かして包囲している。これを広域で実行するには、敵の意図を見抜いて対処せねばならない。

 

呂布という突撃をしたら貫いている、というような行動と結果が癒着している槍を李師が持っている以上、敵の狙いが中央突破からの逃走にあるのならば包囲して軍の密度を薄くしてしまうのは敵を助けてやるようなもの。

 

中央突破があくまで突出した前衛を掩護し、こちらの中央部を破断させるつもりならば諸葛亮は更に大きな包囲網で敵を囲んでやればよい。呂布という存在が居ても、すぐさま再構築出来るだけの技量はある。

 

突き破っても突き破ってもその都度直し、じわりと締めていけば勝てるのだ。

 

どうするか、という決断を、諸葛亮は瞬時に出せなかった。瞬時に出すには経験が足りなかったし、何よりも彼女は受け身のままだった。

 

李師は包囲された、即ち受け身になった瞬間に主導権をひょいっと奪い返したが、諸葛亮はその専守防衛的な性格もあり、奪い返せなかったのである。

 

「軍師殿!」

 

「何かありましたか?」

 

「敵左翼、我が方の左翼と中央の間を突破。後方に向けて繞回進撃を成功させつつあります!」

 

思わず耳を疑う報告だった。

余りにも速すぎる。このようなことが起こらないように包囲に向かわせていた黄忠・張飛の両隊には伝騎を通さぬ様にと翼を目一杯広げるように申し付けていた筈である。

 

あの二人の仕事に、粗相があるとは思わない。ならば、敵はこうなることを予想していたということなのか。

 

じわりじわりと水面下でこの作業を進めていた諸葛亮は、その綿密さと隠蔽でもって李師が自身で対抗できる程の時間的余裕を与えなかった。

しかし、伝騎を放つ程度の時間的余裕がある程度前に、気づかれてしまっていたのである。

 

それでも防ぐことは、出来なかったのだが。

 

「こちらの左翼に連絡を。突破されて混乱している部位は一時的に指揮を放棄。指揮系統の正常な部隊で繞回進撃する敵の後方を襲え、と」

 

「はっ!」

 

その伝騎が本陣を出たと入れ違いに、悲鳴のような勧告が諸葛亮の居る本陣を鳴動させた。

 

「軍師殿、右翼にお逃げ下さい!」

 

風を切り裂くように、呂布隊が無防備な背中に突撃を開始する。

 

「狙いはこちらの本陣のようです!

速く、お逃げを!」

 

振り向いた視線の先には、真紅の旗が靡いていた。

目と鼻の先ではないが、最早そうなるのも時間の問題であろう。

 

ぐっ、と。

荷物のように抱きかかえられ、諸葛亮はそのまま馬に乗せられてひた走った。

 

「突撃、来ます!」

 

後ろ備えの崩壊の一寸前に、悲鳴のような報告が諸葛亮の耳朶を打つ。

負けたのだと、彼女はこの時理解した。


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