北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
そしてこの話でこの章は終わりです。
「城を攻めるにあたって、攻め手は二択を強いられる。それは何と、何か。わかりますか?」
「持久策を採るか、短期策を採るかでしょうか」
巨城、と言うべきであろう。
魯陽の城を眼前に、李師は援軍としてやってきた金髪の幼い将に授業のようなことをしていた。
教える、ということが性に合っている。
司馬懿、周泰、呂布と、立て続けに、それも少なく見積もっても有能と賞するに足る人間を一対一で教え育んできた李師は、極めて腰が低いこの主君の妹の頼みを受けて、敵城の前で実戦そのものの教育を授けていた。
「持久策を採るか、短期策を採るか。確かにそれは選択すべきことではあるが、今考えるべきは二段階ほど広域的な発想に属するよ」
「……攻めるか、攻めないか、ですか?」
「その通り」
攻めるか、攻めないか。
将という人種が無限の軍勢を自在に、更には無制限に操ることができない以上は必ず必要とされる最初の選択である。
敵の惰弱を攻め、敵の堅なるを避ける。
孫子の兵法を読んだわけではないが、李師はこのことを今まで常に戦術レベルで実践しようと試みて来た。
戦略レベルで実践できるには、彼の権限や裁量は大きい物ではなかったからである。
「戦争には、目的がある。城や砦、或いは軍というのは敵が特定の目的を達成することを邪魔するためにあるのだから、基本的には城攻めと言うのは宜しくない。敵の思惑にうかうか乗ってしまう、ということだからね」
「なるほど」
一字一句聞き漏らすまいと言うような、全身で聴くような姿勢に司馬懿を思い出しつつ、李師は更に言葉を選んだ末に城を指差した。
「戦と言うのは、私にとっては敵に勝ったと思わせるまでがそれだと言えるんだ。勝ったと思わせて、こちらの思惑に乗せれば、八割方勝ったも同然だ、ということだね」
だが、城攻めにこれは通用しない。城に籠もっている時の敵の思考は、退嬰的な色を帯びる。
退嬰的な色を帯びた敵を勝利への高揚に塗り替える為には、相当な骨折りが必要なのだ。
だから李師はこれまで城攻めをしてこなかった。と言うより、しないで済むようにしていた。
だが、制圧作戦となると城攻めをせずにはいられない。向かう敵も馬鹿ではなく、こちらが制圧作戦に撃って出ていることは知っている。
野戦には当然出てこないので、李師は極めて真っ当な攻めを繰り返して半月程の時間と二百程の被害をかけて八つの城を陥として行った。
今回はその応用編と言うか、改変である。
「だが、今回はこちらから動かねばならない。だからこちらとしてはまともには攻めないつもりです」
「では、どうするのですか?」
「自落させます」
李師が腕を一つ上げると、呂布が矢と弓を持って曹昂の前に進み出た。
これからやることを、実演して見せるためである。
「ここに弓と矢が一つずつあり、矢にはとある手紙が括り付いております」
李師の声に合わせて見せた後に呂布はつかつかと城に歩み寄り、無造作に矢を放った。
おそらくは天下でも有数の弓の名手である呂布に手抜かりはなく、矢は狙いを違わず城壁の上へと着弾する。
単純ながら
「さあ、三日待ちましょう」
「三日?」
「はい。三日待てば自ずと陥ちます」
援軍としてやってきた意味を掴みかねている曹昂を、にゅっと気配すらなく出てきた賈駆が典韋共々一際大きな幕舎と案内した。
貴人の応対は専ら賈駆がしているらしいと言うことは、典韋が目敏く気づいている。
夏侯淵に言い含められていることもあって、典韋は曹昂に援軍の意義はただその数と曹一族が態々来たということにあるということを素直に打ち明けた。
曹昂の気性を考えれば、隠すよりも率直に行ったほうが良いと考えたのである。
実際、姉と言う天才を見続けてしまったが為に自分の能力にそこまでの評価をしておらず、なおかつ経験による固執もない曹昂は素直にこれに首肯した。
姉は時々唐突な人選ミスをやらかす。
しかし、軍を率いる者を見誤ることはしない。如何に一族といえども、この援軍が重要な意味を帯びているならば夏侯姉妹や曹洪、曹仁らに指揮を任せるであろう。
このことを考えれば、わかっても良さそうなことだ。
曹昂は気が付かなかった己を自戒しつつ典韋の労を労い、おとなしく三日間を過ごすことにした。
そして実際に、三日後。李師は李家軍を自身のものと張郃のものとの二手に分けて北と西から攻め上がる素振りを見せ、東を曹昂隊に直撃させることで殆ど抵抗を受けることなく陥落せしめたのである。
「援軍が欲しい程度に苦戦している、という見せかけで、功を独占しない為、更には援軍を無心しなかったのは野心を疑われない為。やはり、如何に名将言えども外様とは気遣いが必要なのね」
「名将だからこそ、身の処し方には慎重を期すのです。無能非才の人間が野心を持っても警戒されませんが、能力があれば僅かな疑いでも警戒を産むものですから」
「私は一門としてそこのところに気を遣い、溶け込ませていかなければならない、と」
曹操は自分が男を好きになり、娘を産むということを想像できない質であった為、野心を抱いた時より妹である曹昂を後継者と定めた。
許褚、典韋を夏侯姉妹に預けて育成させているのも、次代の側近としてこの二人に期待をしているからに他ならない。
その後継に関して曹操は未だ自分の意見を漏らしたことはないが、半ば配下の諸将の間ではそれに近しい物だという見解が流行っていた。
典韋のこの意見も、曹昂をただの一門衆ではなく後継者候補だと思っているからである。
曹操がこの援軍の任を任せたこと自体が戦闘力ならば間違いなく、権勢においても何れは外様最強格になるであろう李師との顔繋ぎである、とも考えられた。
一方、李師もただ慣れぬ政略の為に待っていた訳ではない。周泰に宛近郊の地理を調べさせ、次なる戦の為の布石を幾重にも打っていたのである。
先ほどの城攻めも、その一つであった。
自分が急に退いたと言うことは、敵方にも疑問符を抱かせたことは間違いがない。この疑問符を、『調略が終わるまで一時矛を収めた』という風に解釈させる。
故に彼は態々買った紙に『手筈通りに』と書き、それを括った矢を巨城と名高い魯陽の城に射込んだ。
彼がこの世で最も籠城経験のある武将であることは疑いがない。
その豊富な経験と天性の勘は、当たり前にして真理を彼に教えている。
即ちそれは、『城というのは、外部から陥ちるよりも内部から陥ちることが多い』ということだった。
故に一時矛を収めた李師が来たということは、と錯覚させる。
更にはこの魯陽の城の末路を、城兵を敢えて解放してやることで知らしめる。これで宛以北の城の内部はガタガタになるのだ。
「明命」
「はいっ!」
呼べば出てくる隠密に戦の最中は曹昂の護衛に付くようにと命令を下す。
「あ、あと、これを」
「おー、子午谷に関しての報告書か。もう終わったのかい?」
「頑張りました!」
えっへん、とばかりに胸を張る周泰をわしゃわしゃと撫でてやり、その姿が殆ど一瞬で消えたのを確認した李師は賈駆を呼び出して移動する旨を告げた。
自落する城などは、それほど急がずとも自然と己の手に落ちてくる。別に急がずとも良いことが、李師が賈駆に賓客と言うべき援軍への気遣いの仕方を問う、と言った『余計なこと』をさせる猶予を持たせていた。
「で、どうかな?」
この問いは、彼女に任されている分野に於いてはこの移動を是とするか、ということである。
別に非とすると言うならば、李師は言われる分だけ待つ気があった。そしてその余裕も作っていた。
「一日は待ちなさい。まだ若年だし、慣れない戦に疲れも溜まっているはずよ」
「わかった」
「あとこれ、子午谷を通った場合の兵站に関しての計画書。目を通しておきなさい」
短時間に子午谷についての資料を二つも受け取った李師は、このあとすぐにこれらを並べて目を通すことになる。
実に三年前からなる因縁と決め事に終止符を打つ時が、刻一刻と近づいていた。