北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
「……戦い続けるという事もなく、平和のまま過ぎることもなく、だね」
「戦い続けては兵が疲弊する。兵が疲弊すれば、敗けを生む。敗けが積もれば滅亡を生む。善く戦い、善く政務を布く。これが我が軍の基本方針だ」
朝っぱらから、曹操の配下の中でも名うての用兵家である二人は向き合いながら呑んでいた。
九月下旬に宛一帯の連戦を終え、宛に楽進と曹昂を残して曹操軍は撤退している。
そしてこの二人は、北方戦線に於ける司令官と最前線の都市の領主であると言う立場上、遥か冀州へととんぼ返りしていた。
と言っても、公孫瓚勢力は動かない。夏侯淵も動かない。
互いに国力を増強させ、民力を休養させることが重大時となっている。
少なくとも、曹操勢力から見れば公孫瓚勢力の不動の姿勢はそう見えた。
「公孫瓚は国力を増強させ、外交による合従で活路を見出そうとしているのではないか、と言うのが許昌で三軍師が導き出した推論だ。北方に長く居たお前は、どう考える?」
北に公孫瓚。東は海で南は劉表と劉備。西は李傕と郭汜。これらを合従した場合により優位な立場に立ち、南からの脅威を一掃する為の戦力を溜めているのではないか、と言うのが、乏しい情報の中から荀彧・程昱・郭嘉の導き出した答えだった。
「と言うよりも、私に情報を求めなかったことが驚きだね。別に私が推論において秀でている、と言うつもりはないが、敵方に居る将を降らせたら最初にすべき事じゃないのかい?」
「お前は何だかんだで最後まで尽くしたからな。忠臣にそのようなことを訊くのは却って不利益を招く、と考えた。あるいは気を遣ったのだろう」
「義理は果たしたつもりだから、私は訊かれてもいいんだけどね」
彼は義理堅い。しかし、未練は残さない。果たしたと見たらすっぱりと割り切るようなところがある。
その異端とも言うべき非儒教的な発想を理解しきれている人間が乏しいと言うのが、現状だった。
「だから私が訊いている。訊かれなければ訊かれないで、お前は疑問を持つだろうからな」
「説明ありがとう」
易京に押し掛けている形になる夏侯淵としては、ここで李師から情報を聞き出して対策を練らねばならない。
現地に居た人間ほど、確固たる情報源はないのである。
「私としては、烏丸と鮮卑が暴れているから動くに動けないのだと思う」
「恐らく、北と南に半分ずつ兵力を振り分けていると言うことか。だが―――」
何故、今まで大人しくしていた鮮卑や烏丸が暴れ出したのか。
そこが、異民族との付き合いの浅い夏侯淵の抱いた疑問だった。
「私には経験も知識もないからわからないが、異民族との付き合い方を変えた。私としては、お前の話を聴く限りはこれが最も妥当だと思うのだが、違うのだろうな」
「うん。恐らくこれの直接的な原因は、恋と私が居なくなったからじゃないかな」
「お前と呂布が、か」
「うん。まぁ、半ば半神めいて崇められている恋はあの通りだし、私も間接的な物を含めれば鮮卑は十二万人、烏丸は二万人ほど討っている。彼女等からすれば疫病神みたいな物だったのさ」
智においての最強と、武においての最強。
この二人に加え、ひたすら戦い続けてきた李家軍と言う最精鋭と、中華一の要塞。これを喪った公孫瓚勢力は、半ば離反しつつあった冀州四郡を完全に放棄して幽州に引き篭もっている。
冀州豪族や名士といった余所者を排除したこと、共通敵だった李師が敵側に回ったこともあり、豪族たちは公孫瓚の元で一枚岩となりつつあった。
その固めぶりは見事な物であり、一見失墜した武威は元通りになったかに見える。
しかし、問題は内部ではなく外部で起きていた。
烏丸と鮮卑が待ってましたとばかりに侵略、というよりも略奪を始めたのである。
「なるほど、半神と疫病神が厄介払いされたから来た、と言うことか」
明らかに暗くなりつつある李師の暗さを払拭するように叩いた軽口も不発に終わり、夏侯淵は僅かに目を目の前の男から逸らした。
意識も逸したかったが、そうも行かない。そして、このまま溜め込まさせておくのも宜しくない。
「どうした」
基本的には限界を越しても溜め込む質である李師の愚痴と後悔の引き出しを開ける。
完全に酔っている時にこれをやると、予め用意しておいた学術的な指南書か論文かと聴き間違えるほどの精密さと重厚さを備えた愚痴、或いは自己嫌悪を吐露し始める為、タイミングとしては今が一番良いという判断であった。
「……私としては、降ったことをかなり後悔している。ここまで読み切れなかった。冷静に俯瞰すれば読めた筈なのに、目の前の難事に意識を向けるばかりでその先を考えていなかった」
「ああ」
「その先を加味した上で考えると、私は積極的に裏切って公孫瓚勢力を曹操陣営に無理矢理編入させる。ないしは上の命令を無視して独自外交によって私が伯圭の元に居ると言う状況を維持したままケリを付けなければならなかった」
「そうだな」
「となると私は、自身の名誉と個人的な主張の為に大局的な判断を誤った、ということになるのではないかな」
酔う前と言えども素面ではないという、最も愚痴を引き出しやすい状態の李師の意見を一通り聴き終え、夏侯淵は杯を空にしてから一息でバッサリと切り捨てた。
「結論から言わせてもらえば、後悔と自己嫌悪の結果、己を恃み過ぎているな、仲珞。思い上がっている、とも言うが」
思い上がりと言うような口調ではない。
ふんぞり返っているというよりは、地面に手の指が付きそうなほど背中を曲げてしまっている。
語気から伝わる内面と、性格的な洞察から思い上がりが言うほどないことを悟りつつ、夏侯淵は敢えてその抱え込みがちな性格を突き刺した。
「……思い、上がり?」
「そうだ。お前は自身が万能でも全知全能でもないことを知っているが、過去を見ている人間が全知になれることを知っていない。と言うより、自らを戒めたいが為に忘れてしまっている」
立ち会わせた現場においての考えついた最善が、未来から見れば至愚である。
そう思われることも、また実際にそうであることもこの歴史の中には多々あった。
「まず、お前は何だ?」
「私は、将、かな」
「そこで一応、や不本意ながら、を付けないお前は好きだぞ」
その時の自分の命令を信じ、命を懸けた者が居る。
彼は時が成長と劣化を与えるものだということを知っていた。だからこそ、今の自分を否定したりすることを全く躊躇わない。
だが、彼は過去は滅多に否定しない。過去に将として戦場に立っていた時、将なった自分を非難することはあるが、否定することは滅多に無いのだ。
だからこそ、今回は相当に重症だといえる。
「まず、お前は将として立っていた。ならば外交という物をすべきは後方に居る文官であり、お前ではない」
「…………私が敵を一番理解していたと、思うけどね」
「ならば、お前は圧倒的多数の敵と相対している趙雲に、『お前が一番敵を知っているのだから外交によってケリをつけろ。だが負けるな』と命令するか?」
「……いや、しない。できない」
「良識ある者ならば、そうなる。そもそも論になるが、お前は敵に勝つ為に全力を注がねば勝ち目すら見出だせない状況に居たのだろう?」
「いや、だけどね?」
なおも抗弁しようとする李師の前に手を翳して黙らせ、夏侯淵は二つ目の択を紐解いた。
「二つ目だが、これは無理だ。吾々はお前を公孫瓚から引き離す為に遥々遠征したのだ。外交折衝において、譲歩する気は全くなかった。一度は退いたかもしれないが、二度三度と来たことだろう。その時お前は防ぎ切れるのか?」
「それは無理だ。あの一戦で物資が尽きた。物資が無くては戦はできない」
「ならば、早期に決着がついたのはむしろ喜ばしいことだ。今お前が降ったことで、李家軍三万と曹操軍十数万の命が助かったのだからな」
理屈は理屈だが、『人が死ななかったからいいじゃないか』ではなく、『人が死ぬ数がマシになったからいいじゃないか』というところに、李師は素直に頷けないものを感じている。
そもそも、人とは人の手によって死ぬべきではない。誰もが生きる権利を持っているはずで、その権利を奪うことが最もこの世で愚かしく、許されざる行為なはずだった。
「君の理屈には頷けないところもあるが、私が思い上がっていたことはわかった。私はすべきことをしたし、これ以上すべきだ、と思うのは他者を貶めることになる、ということだね?」
「如何にも、鮮卑や烏丸を相手取るのは公孫瓚の仕事だ。お前が仕えていた主君は、それくらいやってのけるだろう?」
「ああ」
やれることと、やれないこと。できることと、できないこと。
現実を見る分には異様に冷静で一部の好きも無いような冷徹な判断を下すくせに、彼は過去の行いを省みるときにどうも厳しすぎるきらいがある。
「……それにしても、だ。鮮卑や烏丸には義理というものが無いのか?」
「義理なんてものは、こちらが考え出した理屈だよ。彼女等はもっと本質的に生きている。
つまり、生きるか死ぬか。戦うか戦わないか。洞察した結果、歯向かえば死ぬ様だったら犬のように服従し、それが過ぎ去ればまた牙を剥く」
「本質的に違う思考を持っているからこそ、卑劣にも見えるに節操なしにも見える、と」
「うん。正直なところ、彼女等にも悪気はないと思うよ。ただ、こちらと文化や習慣が違う。強い者こそが正義なんだ」
李師の説明を聴き、夏侯淵は一つ頷く。
知らないでいるより、知っていた方が良い。
この学ぶ姿勢がすぐに、ところをかえて役に立つことになろうとは、この時まだ彼女は知らなかった。