北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
黄巾賊二十万に、各地から集まってきた義勇軍・地方軍を糾合した官軍十五万が相対する。
後漢の治世内ではほとんどありえないほど大規模な対陣に、李師は公孫越が大将という名目で私兵の騎兵五百、弩兵五百。更には郡の管理下歩兵二千と、主に弓と剣で武装した義勇兵五百の計三千五百を率いて参戦していた。
将としては本人に呂布と関羽・張飛。軍師には伏龍・鳳雛が居り、人材には事欠かないが兵が足りないという状態に陥っている。
「中々様になってきたな」
「それはそうですが……お世話になっても良かったのですか?」
「五百増えたくらいで自壊するような脆弱な補給線はしていないさ」
こうは言ったものの、彼はただの義勇兵の集団であったならば袁紹の本営に預けてしまっていただろう。
彼が食わせてやっているのは、戦力として数えてもプラスになり、将の面々が極めて優れていたからだった。
桃色の髪をした少女こと劉備には現実味がかけているが、人を集める独特の雰囲気がある。
今義勇兵の訓練の督戦としている関羽は勇武と智略に安定して優れた物を持っており、張飛はこと武力に関しては関羽を凌いでいた。
諸葛亮は補給線の補強など雑務を的確且つ効率的にこなす事務能力の高さが光り、鳳雛はこと軍事的な才覚に於いては諸葛亮を越える。
さっさと隠居したい彼からすれば、できればこの義勇兵の集団を取り込んでしまいたかった。
三軍は得易く一将は得難し。この言葉が、彼の動きのモトとなっている。
「気に病むなら戦場で返してくれ」
「はい」
その一言で目に決意を湛えた関羽は、本当に真面目である。その真面目さと誠実さが変な方向を指すこともあるが、だいたい手放しでも見ていられる安定感があった。
「諸葛亮、私は別に功を立てようとは思わない。君たちにその気があるならば便宜を図ってもいいが……」
「いえ、私達も功を望むこと激しい訳ではありません」
「主に問わなくともいいのかい?」
「もう承認されたことですし、私たちはあくまでも客分ですから」
体よく謝絶され、『永遠ならざる平和の為とは、まだ言い切れないようですが』と諸葛亮が漏らした一言を聴いた李師は、またまた考える。
謙虚さを見せれば、一般的には名声を上げたり、こちらに信頼を抱かせたりすることができた。しかし彼女らには土台となる名声の元がない。
元がないものは上がらないし、名声の元がない以上は某かの奇行・善行・武功を得なければならないのである。
そして諸葛亮は、独立するつもりならばここではともかく名を売っておかねばならないことを知っているはずだった。
どのようなことをしても名を売る。それは元手のない、つまりは金穀糧秣や名声といった有形無形の財産のない、されど野心や理想を遂行せんとする勢力に必要不可欠な行為なのだ。
強い。頼りがいがある。義に篤い。何でもいいが、主にこの三種だろう。
従順に見せて一郡・一州の支配権を一任され、民心・人心を掌握したところで裏切ると言うのもあるにはあるが、独立勢力を裏切って独立勢力を創るのでは彼女らの思想に反するし、何より外聞が良くない。
腐っている国―――例えば漢―――を『この国では平和は維持できない、統治能力に欠く』と言って裏切るならばわからなくもないのだが。
「桃香様と話されて、如何でしたか?」
「先ず道を知ることだと考える。一州を任せても有能な部下がいる限りは過欠を見せないだろうが、いきなり要職につけるよりは下からコツコツと経験を貯めていった方が彼女の為にはいいんじゃないかなと、私は思う」
一晩語り明かしただけあって、その眼には僅かな眠気がある。
その言葉は己にも通じるところがあるが、諸葛亮と関羽は己の主のことをキチリと考えてくれていたことが嬉しかった。
「君たちはどう思うんだい?」
「……私は、自身が補佐することによって道を作っていこうかと思っていました」
「私には、腹案と呼べる物すらありません。ただ、実現に向けて尽力しようと思ったのみです」
つまるところ、劉備は神輿だったわけである。彼女たちの拠り所であり、目指すところであるが、己は特に何もしない。
ご利益があるは定かではないし、下手をすれば重いだけとなりかねなかった。
「主君を俗に触れて怪我させたくないのはわかるが、神輿にするのはあまり良くないんじゃないかな……と言っても、私が口出すべきことではない、か」
揺り椅子に細い柱を通して横に車輪を嵌めた二輪車の上で膝を立てながら、李師は僅かな自己嫌悪と共につぶやく。
「要らない言葉を吐くのは私の悪い癖だ。君たちの乗り越えてきた苦難も知らず、偉そうに言うべきではなかったな」
李師は珍しく立てた膝を戻して姿勢を正しながら、忘れてくれと、懇願するように頭を下げた。
「どうにも私は意見を押し付け過ぎる」
後ろで車輪が転げて椅子から滑り落ちるのを支えている呂布からすれば、『言わない時と言う時が極端で、しかも強く言ってやった方がいい時に言わないことの方が多い』というようなことを思うが、それは彼女が言うことではない。
何せ、彼女こそが恐らくこの中で最も口数の少ない人間なのである。
確かに彼の忠告は字面だけ見ると批難するところが多いかもしれないが、言っていることはそこそこ正しい。全部正しい訳では、勿論無いが。
それに、ゆっくりと紡がれる言葉の端に他者への気遣いと真心があった。
彼はよっぽど嫌いな奴に相対しない限りは、ただ貶めるようなことは言わないだろう。
「……いえ、正しいと思います」
「そんなことはないさ。私の意見に惑わされるは良くないし、私としても本意ではないんだ。人は自由意思によって行動すべき生き物なのだからね」
かなり落ち込んでいる諸葛亮と、真面目に悔やんでいる関羽。
別に彼も、説教する気は無かったのだ。
ただ彼女等が無意識的に気になっていると察せられることを表面に出しただけであるし、己に説教する器量も立場も能力もないことを彼はその正誤はどうあれ承知しているのだから。
「……とにかく、私の言うことなんか虫の羽音くらいなものさ。何か五月蝿いなというような感じで、終わりでいい。どう捉えるも君たち次第だし、君たちがやってきたことを責められるのは君たちしか居ない。私はまさに門外漢、と言ったところかな」
強いて言えば彼女等が動くにあたって迷惑をかけられた人々も含まれるだろうが、それは今言うべきことではない。疲弊した相手に畳み掛けるのは戦争だけで充分である。
そして、最後に混ぜた渾身のジョークに誰も笑わないことへの虚しさを感じつつ、彼は姿勢を正して見送る義勇兵とその将達を背景に、揺り椅子車と呂布と共にその場を去った。
「……恋、私は自重することにするよ」
「…………考えて、言うべき時は、言う。言わない時は言わない」
「うん」
彼も別に、考え無しに次から次へと口に出しているわけではない。考えた結果を言った後に再考してみると、後悔する時があるだけである。
考え無しではないが、根が善性に偏っている為に余計なことを言うことがあるのが悲しいところか。
「……思考を切り替えよう。本来私は己の怠惰で悠々自適な、そして歴史三昧な生活を目指していたはずなんだ」
「…………」
わざわざ堂々と働きたくないでござる宣言をし、気を取り直したことを示すように先程とは逆の膝を立てた辺りに、彼の先程の助言に対する本気さと悠々自適な生活に対する執着が覗えた。
呂布は、ただ黙っている。
「恋、我々は新たなる歴史の潮流に立ち会っているのかもしれないな」
「……うれしい?」
「歴史好きとしては、少々たまらない物がある」
当事者にはなるべくなりたくないが、歴史が刻まれる瞬間が見たい。つまりはそういうことだった。
知恵はあるが主体性がなく、才能はあるが野心がない。
名士にありがちな懐古も漢への帰属意識もなく、その判断はなるほど正しいが常人が割り切れない物を割り切って進んでいる。
直接関わったものから嫌悪はあまり受けないが、傍から見るだけならば嫌悪の対象となるのだ。
嫌いな奴に好かれようとする努力を怠るその性格が、いつか―――
呂布がほんわりと頭に浮かんだそんな言葉を打ち消す。
椅子の背もたれの上部の左右両方向についている押手の片方から手を離し腰に佩いた剣の柄を撫で、再びカラカラと押し始めた。
自分がわかっていることくらい、彼もわかっているだろう。
何せ、何処かの偉い人に『昨日、明日を善く見通す』みたいなことを言われていたようなことを公孫瓚から聴いた、気がするのだから。
「見渡す限り将星の群れ。これは天下が乱れるわけだ」
「……これから?」
無言で頷く彼の顔は、感情が二律相反する複雑なものだった。
歴史を刻むことのできる人物を目の当たりにできた嬉しさと、腐り切った平和とは言えそれを崩す野心家たちの群れ。
そしてその群れの中に、自分も居る。
「さて、恋。お前は軍に所属している身としてここに居るわけだろう?」
「……?」
「忘れてもらっちゃ困るなぁ。親衛騎五百の指揮官じゃないか」
「……わかってる」
親衛騎の指揮官ではあるが、公孫瓚とか漢とかに仕えている気がない彼女からすれば、自分はただの私兵集団の指揮官の武将であるという自覚しなかった。
「少し後方を撹乱して、輜重隊を潰してきてくれ。位置は容易に予想できる」
暇を持て余した公孫越が何かないかと彼に問い、いつもなら『我慢の時です』と返す彼が『なら後方撹乱でもして敵の士気を下げましょう』と提案し、およそ半刻(約七分)も掛からずに敵輜重隊の移動路を予測。それを公孫越の名で虎賁中郎将袁紹に上申。典軍校尉曹操の認可を受けた作戦である。