北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
李師はいつものように暇していた。
と言っても彼にとってはこの暇こそ望んでいたものであり、特にその『何もない』と言うことに対して文句を言う気にはならなかったのであるが、彼の頭はどうにも休ませていると、何事かをふと思い付い付くような構造になっているらしい。
「私の作戦を破った……何だっけ」
「御使いですかな?」
「そう、御使い。あれ、謹慎は解かれたんだろうか」
破ったと言うより、読まれた。
そう表現したほうが適切な事態は、彼と曹操勢力の最後の決戦に於いて起こっている。
曹操勢力には李師の作戦を読み切った者が居た。その所為で彼は三刻(四十五分)ほど予定を遅らせて戦線の再構築と戦力投入のタイミングを秒単位で調節しなければならなかったのだが、未だにあの見事な読みっぷりは彼の頭から離れてはいない。
こちらが打った一手からあそこまで洞察されたことは初めてであったし、あれほど修正に時間を喰わされたのは檀石槐以来である。
まさか本当に未来を知っているとは知る由もなかった李師は、その智略を讃えたものだった。
だが現在、彼は謹慎していると言う。
「……解かれてる」
「なら、従軍はするのかな。勿論今回は絶対に私が行くけど、正直彼が居れば私は要らないと思うんだが」
李師は敵が一手動けば八手先まで読むことができた。勿論状況によりけり、というものではあるが、確実にあの時二手ほど先を行かれていたのである。
つまり、十手先を読める人間が割りと低い立場でくすぶっているということになる。
「そのことについてなのですが」
にゅっ、と。
どこからともなく塀を無視して現れた周泰が、許しを得た後に李師の正面に腰掛けた。
右には呂布、背後は木、左は趙雲と言う鉄壁の護衛体制に、隠密が加われば最早不測の事態など起こり用もない。
槍を肩に掛けてその場から立ち、いそいそと教え子に自らの槍術を叩き込むべく出発した趙雲を目で追いつつ、周泰は辞儀を正して調べてきた結果を述べた。
「あのですね。御使い様は良く似た別世界を知っておられるようなのです」
「良く似た?」
「はい。そこでは名の知られた武将が男が女に、女が男になっておられるようでして」
「つまり、彼からすればここは女が男に、男が女になっている、と。面白いね」
妄言としか取れない報告に、明らかに興味が無さそうな呂布と、眉を動かす程度には興味を示す李師。
この二人からすれば、呂布は女で李師は男である。産まれた時からそうであるし、出会った時からそうだった。
容易に想像がつくものではないし、つくのは最早人ではない。
「他に差異とか、そういうものは無いのかい?」
「能力的な差は、誤差程度の物らしいです。今のところ、御使い様が見た諸将は一様にこの性反転の法則が適応されているようで、どこまで正しいかはわかりませんが、信じるならばそうなります」
取り敢えずは、信じて何の害もない。
そう判断したから周泰は持ってきたのだろうが、暇してた李師としては目の前にいる二人の義娘めいた存在がどうなるか、という推測をすることに思考の注力をはじめている。
心理的に自分の性別が反対だということは中々受け入れ難いが、どうせ聴いてしまったならば楽しもうと言う、李師の珍しいポジティブシンキングであった。
「御使いの反応を思い出すに、身体的な、或いは服装的な特徴は受け継がれるのではないだろうか。後は、武器とか」
「あ、真面目に考察するんですか」
フーン、と受け流されそうな情報だっただけに、周泰は驚く。
正直なところ、彼女が調べているのは御使いの交友関係などであって過去の来歴では無いのである。
興味がないと言えば嘘になるが、彼女は間諜としてそこらへんをわきまえていた。
「…………恋は男になっても生えてそうだよね」
「……?」
いきなり興味を無くしていた話題を振られ、呂布はコテン、と首を傾げつつ李師の方に向き直る。
基本的に虚空を見つめて意識を分散、全方向からの襲撃に対処すると言う警戒態勢をとっている呂布は、話を聴くときのみ僅かに隙ができた。
と言っても、城壁に針を通した程度の微細なものではあるが。
「触角」
よく自分が弄り、なおかつ御使いと初めて呂布が顔を合わせた時に向かった視線の先を思い出しつつ、李師は一先ずの推論を述べた。
この時点で、彼の中で別世界の呂布は形作られていなかったし、形作る気もなかったが、特徴が反映されていることを考えれば、赤髪と刺青、後は触覚。
ついでに方天画戟と赤兎馬も、候補に加えて良さそうだった。
「……嬰は、女になっても帽子被ってそう」
「あぁ、かなりの確率で有り得るね」
「もはや肉体の一部みたいな感じですから、大いに有り得るかもしれません」
これと言って身体的特徴に恵まれていない周泰の想像に苦労しつつ、飼い主一人と飼犬一人、飼い猫一人の団欒は根本的な話題を変えることなく変遷した。
「だが、彼の中のものと今のでは、確実に歴史は変わっている、気がする」
「何故、わかるのですか?」
「彼は、私が降ってきた時にかなり意外な顔をしていた。つまるところ、私が曹操勢力に所属しているのは、彼の予想の中にはなかった。多分、私は易京攻防戦が終わった時に死んでたんじゃないかな。予想に過ぎないが、そんなことを考えていたような気がする」
「なるほど、流れ矢に当たるとか、暗殺とか、択に関しては豊富ですからね」
並み居る名将たちに比べて、李師はぶっちぎりで武力が低い。それを補ってあまりある指揮能力と智謀があるが、普通ならば考えられないような死に方をすることが簡単に予想できた。
「……暗殺からも、流れ矢からも恋が守る。嬰は、死なない」
確実にマイナス方向に振り切れている感情を立ち昇らせる呂布に怯みつつ、周泰は無言で頷く。
元々、呂布は犬は犬でも忠誠心が犬、と言うタイプなのだ。
気質が犬というわけでもなく、実力が犬というわけでもない為、飼い主たる李師が現世からフェードアウトすれば、割りとどうなるかわからない。
特定の対象以外の諸事に無関心であり、義理より感情を優先させる。
そして武勇は虎か龍か、と言った物だった。
「いやまあ、死んだんだよ。たぶん。となると、この後の歴史はどうなるのかな」
「…………」
呂布は、黙った。
別世界にしろ何にせよ、その死を想像したくはなかったのである。
そして何より、寿命と言う殺害不可能な要因で死ぬ以外の死を李師が辿った場合、それは八割くらい自分の失態だ、ということに彼女の中ではなる。
普段はともかく、生死が関わるととかく病み気味な恋からすれば、それは決して軽く流せるものではなかった。
「恋は、どうする?」
拗ねた―――ように見える―――呂布に話題を振りつつ、李師は思考を巡らせる。
彼にとって歴史を組み替えられたら、などは面倒くさくて実行する気もないことだが、想像することにおいては極めて楽で、楽しい。
今で揃っている情報をピースに全体像を想像する、というものは彼が戦で大変不本意ながら重用しているスキルであるが、彼のこのピース埋めの迅速さと精密さのルーツは、やはり歴史書漁りにあったと言ってよかった。
「……殺した奴を、殺す」
「復讐か。その後は?」
「……その血族を、殺す」
「……次は?」
「……所属してる国を、潰す」
「生産性がないね」
「求めてない」
九割九分九厘本気で言っている呂布と、九割九分九厘冗談だろうと思っている李師の間で微妙な齟齬が発生している様を見つつ、周泰は若干顔を引き攣らせながら目を背ける。
言い方は悪いが、後付け良心回路を破壊された呂布が復讐に動くと言うのは、個人的な戦闘能力と集団を指揮する能力に富んだ殺戮兵器を野放しにするようなものである。
バッチリ執念深さを実の父母から受け継いでいる呂布を制御できるのが李師だけな以上、周泰からすれば全く笑えたことではなかったのだ。
力が山を抜き、気が世を覆いそうな武力と、精鋭。後は一見すれば李師より更に天才性が見え隠れする指揮能力。
李師自身に武力を測ることが出来ないために彼は笑っていられるが、わかる者からすれば少し洒落にならない。
そして、単騎でその戟にかけた敵兵の数が軽く五桁に乗せてきた今となっては、最早単騎でもできそうだった。
何がとは、言わないが。
本気にしていない李師の右腕を引っ張りながら頭を撫でられている姿を見ればそうは見えないが、そうなのだ。
「で、明命は?」
「仇を討ったら、九江に買って田畑でも耕そうかなと、思います」
「前半部分以外は安心できる答えだね」
まともな神経した数少ない幹部である周泰のまともな答えに頷きつつ、李師はポツポツとピースを埋め始めた、その時である。
「李師様ー!」
門が大音声とともに物理的に揺れ、李師の思考の泡が弾けた。
この猪突しそうな勇ましい声は、まごうことなき李家軍の切り込み隊長兼決戦兵力。
字も真名もない、ただの華雄だった。
「こっちですよー!」
「おお、周泰も居るのか。珍しいな」
華雄の大音声に思考の泡を炸裂させられて思考的な大ダメージを受けた李師と、より一層身を入れて警護に励んでいた呂布が華雄に対応できる訳もなく、結果として常識人代表の周泰が対応する、ということになった。
異端共に囲まれた常識人は苦労を買い込む、の好例であろう。
「な、何だ、華雄か……」
「はい、華雄です」
鎧姿ではなく、胡服。
戦場で目にすることの方が多い華雄の姿を驚きつつ、李師は塀を乗り越えてやってきた彼女ともう一人の方へ目を向けた。
「後は、王子全か。どうしたんだい?」
戦場でも日常生活でも基本的に服装が変わらない呂布と周泰と違い、華雄はこまめに服装を変えている。
その変化に戸惑ったものの、流石に教え子の顔を見間違えるほど戸惑ってはいなかった。
十歳から十五歳までの男女を五十人、李師は自分の家の何倍もの広さを持つ大館に住まわせている。
同性で分け、更に同姓で固めてわかりやすく区画を作り、更に部屋の前に名札をたらさせる徹底ぶりだが、それでもなお部屋を間違えたり喧嘩したりといった騒ぎは尽きない。
基本的にそれらの喧騒を聴きながら、李師は平穏を願って惰眠を貪っているのである。
「ほら、ご存知だっただろうが」
「は、はい」
お揃い、と言うべき格好をした王双は、悪戯っぽく笑った華雄に小突かれて少し恥ずかしげに俯いた。
彼女からすれば、李師は雲の上のそのまた上というべき存在であり、憶えていてもらえたとは思っていなかったのである。
何の貴門の出身でもなく、名士とも縁がないにも関わらず、李師が気さくに付き合ってくれることを知っている華雄からすれば今更驚くべきことではないが、彼は血筋だけなら無駄に良い。
四世三公の袁家と、清流派の領袖たる登竜門の李膺の血を引いている以上、男という点を除けば彼は典型的な都系エリート。
そもそも異民族を養子にしているあたりで毛並みが違い過ぎるが、なおも気後れする程度の権威と気品があると信じられていた。
そんなものはないし、幹部も豪族の張郃と名士の賈駆以外は軒並み名士でも豪族でもないただの人。そして異民族と辺境出身が多い。更に輪をかけて人格的問題児が多い。
彼がそういった名士重用の気風に触れないで祖母に『好きなことを好きなだけやりなさい。儒教が面倒くさいならばやらなくて良いし、名士との付き合いが面倒ならばやらなくてよろしい』と断言されて歴史と墨家論の中に埋没して育っただけあって、彼の思考回路は極めて異質だった。
「李師様。この王双、齢は十五。ですが既に六十斤の大薙刀を片手で自在に操り、鉄芯の入った弓矢、流星鎚を巧みに扱うことができ、何よりも攻撃に転ずる時の指揮ぶりには瞠目すべきところがあります」
「……六十斤って、どれくらい?」
「米俵の四分の一程です」
全てを呂布にぶん投げていたが故の生活感のなさを露呈させる質問に律儀に答えつつ、華雄は素早く本題に入った。
「この王双、私の側仕えとして此度の戦を経験させたく思います。許可をいただけるでしょうか?」