北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
呂布は、一日の準備期間と半日の雌伏を経て、雷光のように敵陣に向かって突撃を開始した。
彼女には独特の嗅覚があるが、かと言ってそれに頼り切っているわけでもない。
ただ、彼女は機敏さを失わない程度の慎重さと情報収集を経て、兵四百を率いて敵の頭をひっぱたいたのである。
合流し、再編成しようとする時は基本的に城内で粗方を決めてしまうことが多かった。そうした方が敵の襲撃を減らすことができ、たとえ襲撃を受けても致命傷にはならないからである。
だが、李傕と郭汜が引き連れてきた軍は、長安近郊の九つの砦を守り切れなかった残兵を含めれば三万にも上った。
とても一関に収まり切るものではないし、収めたとしても整列どころではなくなる。
故に郭汜は関近郊の原野に全軍を集結させ、付近の民から略奪して補充した兵糧を積んだ輜重隊を帯同させて李傕を待つようにして布陣した。
それが、裏目に出た形になる。
馬蹄が地を踏みにじる音が響き、郭汜の軍兵は疑問を抱いた。
李傕が合流した今となって、これから合流してくる勢力があるのか、と疑問に思ったのである。
しかし、いつであろうが人は基本的に楽観論に走りがちな生き物だった。李傕が合流したのだから、他からも来ておかしくはないだろう。
そのような甘い夢を抱いた兵士たちが一応上司に報告した辺りで、その五百ほどの騎兵は既にその姿がハッキリ見える程度に迫っていた。
実数は四百であるが、そんなことは彼等にはわからない。
だが、こちらの全軍から見れば少数の軍勢だ、ということは理解できる。
あんな小勢で、しかけはすまい。
その甘い観測と夢が木端微塵に破られたのは、どうやら奴等は止まる気がないらしい、ということがはっきりしてからのことだった。
馬は急には止まれない。自然、ある程度速度を緩めるというプロセスが必要になる。
目の前の小勢は、どうやらそのプロセスを踏む気が全く無いようだった。
敵襲だと誰かが叫び、誰かが応じる。
その驚きが全軍に伝わる前に、更なる驚きが全軍を揺らがせた。
「り、呂布だ……」
生と死を象徴するかのような白と黒とで分かたれた革服に、血で染めたような紅髪。
装備は方天画戟と、赤兎馬。
剥き出しの下腹部と肩に絡みつく様に彫られた刺青が視認できるようになって、前衛を受け持っている筈の郭汜軍が呂布の突入箇所から内部に撓でいくように凹型を取ってしまったのである。
「呂布が来たぞぉ―――!」
武名にそれ以上の実が伴っていること程、恐ろしい物はない。武名で竦み、竦みつつも刃向かおうとする者は名に勝った実に討たれることになるのだ。
呂布は、一度の減速もせずに敵陣中央に吶喊した。
方天画戟が振るわれる度に無数の生命が天に昇り、肉体が物言わぬ肉塊へと還る。
呂布の進行路を避けるように凹んだ陣を、彼女はその突撃の巧みさと圧倒的な武力で以って真っ二つに斬り裂く為に前進した。
自身の気狂いのような武を錘にし、指揮系統の統一がなされていない李傕と郭汜の軍はなす術を持たない。
誰もが、好んで死にたくはない。その感情を薄らがせ、集団として操る為に指揮系統と言うものがある。
それがない以上、指揮官は兵たちが自発的に斬殺され、轢殺されることを望むことを期待し、指揮系統の統一への時間を稼がねばならない。
西涼兵は勇猛であるが、馬鹿ではなかった。誰もが呂布の頭を抑えて時間を稼ごうとはせず、誰かが稼いだ時間を有効に使って側面を突こうとしたのである。
結果、誰も呂布の道を阻めず、時間も稼ぐことは出来なかった。
一刻(十五分)の戦闘で、呂布に率いられた百人隊の混合部隊は赤身と脂身を斬り分けるように容易く、軍という単位を右から左へ斜めざまに綺麗に両断する。
この戦果は、追従した高順・文淑・王双の三将も驚くほどであった。
彼等彼女等には、軍とはこのように容易く両断できてよい物なのかとすら、考える余裕がある。
「奉先様、これよりどうなさいますか?」
「左に反転して、突破しつつ退く」
右よりも、左の動揺が大きい。
理由はわからないが、呂布の瞳にはそれがくっきりと写っていた。
「突撃」
奇襲とは言え、凄まじい戦果を挙げた呂布はそのまま敵の混乱している一部分に突撃の尖端たる己を叩きつけ、これを粉砕しつつ退却を果たす。
ただの武力ではなく、それに精妙な戦術眼が付随しているからこその戦果であると、理解できた者は少なかった。
呂布がこの二刻半の戦いで殺した兵の数は三桁に乗り、討ち取った将校は両手の指に余る。
その武神としか思えない武勇を見ては、戦術の精妙さは霞んでしまう。
呂布が『所詮強いだけ』としか思われないのは、この辺りも関係していた。
「……被害は」
「十に満たずと申します」
思ったより多い。
呂布は口に出さなかったが、心で静かに述懐した。
矢は殆ど放たれず、放たれたとしても自分に集中し、その全てを払い落としている。
騎乗戦闘で敗けて死ぬなど、少し鍛え方が足りないと言わざるを得ない。
「高順」
「はっ」
「帰ったら、鍛え直し」
西涼兵も強い。しかし、騎乗されぬように不意を打った。
なのに、十という被害は多すぎる。馬に乗っていたならば馬術を駆使すれば槍も避けられるし、逃げることも出来る。更にはわざわざ突破口は己が開いてやっているのだ。
「ご不満ですか」
「ん」
「私は、よくやっていたと思いますが」
「よくやっていても、死んだら意味がない」
道理である。道理であるが、誰でもその道理に首肯できるとは思えない。
馬術というのは幼い頃からの経験が物を言うし、何よりも勘とでも言うべき天性の資質が必要とされる。
呂布は騎兵としても、剣士としても、更には槍兵としても、戟兵としても、弓兵としても有能極まりない。意外なことに、彼女は育てようとしないから特化型なだけで、本質的には万能型だった。
恐らく船を漕がせても書を書かせても一流にこなすであろう天才に、高順は天才といえる李師の代わりの凡才の心得のようなものを教えるのが自身の役割だと思っている。
呂布は鍛え方もうまい。現に兵たちはメキメキと強くなっているが、限界というものを無視して鍛えようとする傾向にあった。
最初から限界を決めてかかってはならないものの、限界を超えられることを前提で指導されては、兵たちの体力が保たない、ということにもなりかねない。
「奉先様、誰もがやればできるというわけではないのです」
「……?」
その辺りを根気強く諭しつつ、高順はこんこんと説明を始めたが、そんなことは呂布にはわかっていた。
自分と同レベルの才能を持っている者は、居ない。誰も彼も、方天画戟を振るえば容易く殺せる者であり、その中で僅かにマシな者が豪傑として名を高める。
正直なところ、彼女にとってはどいつもこいつも一振りで死ぬという認識でしか無かった。
関羽・張飛は時間をかけねばならないが、殺せる。
だから、差というものがあまり身に沁みてわからない。それだけだが、それはあまりにも大きかった。
「……あんまり、わからない。嬰は、見限ってなかった」
教える腕の巧さが同一であるという気はないが、やり方を真似れば少しは近づける。
「見限ってはいませんが、伸ばす方向と伸ばす力の込め方を調節しています。奉先殿も、一方向だけではなく他方を伸ばすことを考えられてみれば如何でしょうか」
「……なら、やめる」
高順の進言に頷きつつ、呂布は言葉を翻した。
李師から聴き、更に見聞を深めた後に鍛えようと思ったのである。
天才にありがちな己の意見に対する頑固さというものが無く、柔らかいのがこの義娘と養父の持ち味だった。
追撃を受ける心配がないほど叩きのめしたからか、四百騎からなっていた奇襲隊の脚は軽い。
この二人が喋りながら馬を駆けさせているのも、この脚の軽さを表していた。
「……意外と、近い」
「皆の脚も軽いですから」
生き道とほぼ同じくらいの時間で長安郊外の本陣に着き、呂布はさらりと赤兎馬から降りる。
本陣ではまるで昨日までのような平和な空気が流れているが、どこか兵たちの動きに機敏さがあった。
別に李師がそうしろ、と言ったわけではないだろう。
古強者の集まりである李家軍は、李師が各指揮官に戦闘が近いことを告げれば、その指揮官たちから自然とその空気が伝わるようになっているのだ。
その伝達の速さと兵たち個人の練度の高さが、李家軍の強さの秘訣であることは疑いがない。
そのことを一挙手一投足の動作で感じつつ、李師が暮らす幕舎に着いた恋は、血が滴る方天画戟を地面に突き刺して足を踏み入れた。
「……嬰、ただいま」
李師は、指揮官の能力と状況を加味すれば決して無茶ではないが、一般的に見れば無茶な命令を下したことに悩んでいたのである。
それだけに、呂布がいつものように帰ってきてくれたことが嬉しかった。
だが、生還してくれたことに対する嬉しさを、戦わせた者が露わにするのはどうなのか。
その悩みが、彼の微妙な表情を形作ったといえる。
呂布や幹部連中ならば、『いつものことだ』と笑えもするが、その顔は一般的に照らし合わせればよろしく無かった。
「おかえり。死者は?」
無事で良かったよ。無茶させてごめんね、と言う副音声をそれとなく察知した呂布は、少しのおかしみを憶えた。
素直になれないというか、素直になってはならないと言うような自己規定をしているのだろう。
「……八人。これが、名簿」
そこまで読み取って呂布は被害を報告し、姓名と住所を伝える。
李師が戦死者に対して自腹で生活費を出していることを、この聡い娘は知っていた。
「ありがとう」
「ん」
「あと、おかえり」
少し嬉しげに首を傾げ、呂布はこくりと頷いた。