「そう言えば、疑問に思っていたのですが」
『紅茶の園』を出るタイミングで、オレンジペコさんが尋ねてきた。
「なんでしょうか」
私は、一瞬、室内から外に出た時に風の冷たさを感じて、少し震える動作をすることで、反射的に全身の筋肉が緊張するのを抑えた。
「コメット。いや、我が校の戦車の場合、無線手は必要ないですよね。装填手か、車長が無線を操作しますから」
確かに英米の戦車はそうである。私はその質問に答えるのと、他にお願いしたいことがかあった。
「その事でしたら、ご一緒に夕食でも食べながらゆっくりとお話しいたします。勿論、私が全額支払いますが」
「あら、買収工作ですか?」
オレンジペコさんが冗談めかして言う。
「えぇ、そうです。なので、美味しい所にお連れしますよ。このまま直行が良いでしょう。荷物はクロークで預かって頂けますし。制服以外だと、ドレスが必要になりますので」
「え?」
一瞬、理解が追い付かず硬直するオレンジペコさんを私は、丁度校門前に来ていた。我が学園艦名物の一つ、ロンドンタクシーに乗せる。
「クラブ・ブレイズへ」
私は運転手に告げて、少額のチップを握らせた。
「イエス。マム」
運転手は、そう答えると。制限速度ギリギリの安全運転で、クラブへと車を飛ばした。
クラブ・ブレイズは会員制の賭博兼社交クラブである。本家は英国倫敦にある。
一口に言えば、クラブ・ブレイズは入会金と年会費を支払っている会員の親族とその付き添いが、ヴィクトリア王朝時代並みの贅沢ができる所である。
未成年の私たちが出来るのはそこまでで、成人の会員やその付き添いは、一年の限度額が決まっているが賭博も楽しめる。学園艦であることを最大限に利用したシステムである。
私の兄が、倫敦の本家クラブ・ブレイズの会員である為、支店であるこの学園艦でも私が利用できる。
「いらっしゃいませ。高野様、半年ぶりのご来店、歓迎いたしますよ」
クラブの主であり、相談役であり、殆どの会員の友人でもある人物が私たちを出迎えた。この人の記憶力には舌をまくしかない。
私の入学祝以来、私は利用していないのに顔をちゃんと覚えている。
「おひさしぶりです。こちらは」
私がオレンジペコさんを紹介しようとすると、彼はそれを押しとどめて、誰でも心を許しそうな笑顔で言う。
「存じております。聖グロリアーナ女学院の戦車道チームのオレンジペコ様ですね。当クラブへようこそ。高野様、渡良瀬様夫妻が、あなた方に関係のある御方とご一緒にいらっしゃっていますが、生憎、賭博室におられます。ご伝言はおありですか」
「いいえ、ありません。今夜は少しばかり祝い事がありまして、食事に来ただけです。何時もの兄か姉の良く使うテーブルは空いていますか?」
「もちろん空いております。ボーイ、お二人のお荷物をお預かりして、ご案内しなさい」
二名のボーイが私たちの後ろに音もなく控えており、一人が荷物を受け取り、もう一人が優雅な仕草で私たちを先導した。
「まぁ、ここの事は秘密で」
ボーイに先導されながら歩く私は、少し呆然としているオレンジペコさんにそっと、耳打ちする。彼女が答える前に、席に案内された。
着席すると同時に、給仕頭がメニューを持って控えていた。
「お好きなモノをどうぞ」
凝った装丁のメニューを開きながら私は言う。中身はしゃれた活字体の英語がびっしり、勿論値段は書いていない。
「御勧めはなんでしょう」
メニューを見て、判断が付かなかったらしいオベジンペコさんが給仕に尋ねる。実の所、私も実は同じことを聞こうとしていた。給仕は微笑みを浮かべながら、答える。高校生の背伸びした行為は微笑ましく見えるのだろう。
「本日はサフォーク種のブレサレが入荷しております。本日のシェフはこれのカツレツが得意ですのでそれが宜しいかと。付け合わせに鶉のゼリー寄せなどどうでしょうか」
「では、それに季節の野菜を付けてください」
「私はゼリー寄せの代わりに、鮭の燻製をそれ以外は同じで」
「かしこまりました。食後の紅茶ですが。セイロンのウバ、そのクオリティーシーズンの物が入っておりますので。そちらをお持ちいたします」
「それでかまいません」
注文を聞き終わると、給仕は恭しく一礼して下がった。それと同時に、食前酒代わりにオレンジジュースが洒落た細工が施された小ぶりの6オンスグラスで運ばれてきた。
「さて、私の買収工作は成功でしょうか」
「十分です」
オレンジペコさんが何を頼まれるのかと言う顔で私を見ている。私はここに来る途中で走り書きしたメモを彼女の前に置く。
「正式な書類は後日、提出しますが。ダージリン様には貴女から先に伝えておいていただけませんか」
「コメットに指揮統制車用の通信機を搭載ですか」
「えぇ、威力偵察をするには長い耳を持つ必要があると考えました。そこで、副操縦士兼車体機銃手を無線の専門家にしてもらおうと思いまして。そう言う意味で通信手と」
「なるほど、しかし専門家を乗せる意味は?現状でもそれほど問題は無いと思いますよ」
この人は、人に話させるのが上手い。まぁ、隠すこともないし、料理が来るまでにはまだ時間が在る。
「即時戦闘に突入するかもしれない状況で、偵察情報をリアルタイムで記録しながら、本隊に通信を送る為には一人じゃ手が足りないのが一つ、残りは敵の短時間の発信から、方位を概算で計算できる人が欲しいと言うのもあります」
「それは、通信傍受じゃないですか?」
「自車から見て、電波の発信された方位を調べる手段…三点測量をするわけでもないし、相手の周波数に聞き耳をたてるわけではなく、飛んできた電波の向きを知るぐらい。正確な位置は判らないけど、継続的に受信に成功すれば、動いている向きぐらいは判るかもしれない。それに、通信機を増やしたぐらいでは、そこまで探知能力が上がるわけでもないので。判ったら良いなレベルの話になります…許可されなかったら。確実に無線を送信できる人材がいるだけでも、威力偵察の情報は意味を持ちます。撃破されても、その前に送信があれば、「この地点に砲弾の届く距離に相手は居る」と言う、情報になりますから」
そこまで言って、内心では電子妨害をかけることを考えたが、それはダメだろうと却下する。
手段としては楽なのだが、戦車道の精神として問題がある。
原理的に電子戦の基本は日露戦争から変わらず。物凄く大雑把に言えば、最大広域帯で大出力の発信をすることである。無論、友軍の無線も使えなくなるが。その辺りは、運用でカバーできる。
「後方攪乱の時用に外部スピーカーを付けて、横浜市歌でも歌いますかね」
この無意識に言葉にしていた思考を聞いた。オレンジペコさんが盛大に咽た。
ノーブルシスターズに一人が盛大に目を白黒させているのは滅多に見られない。
「そ、それは…我が校の生徒が笑って負けると思いますよ」
「横浜市民ぐらいしか知りませんよね」
横浜市歌、それは横浜で義務教育を受けた人間が漏れなく歌える歌である。国歌よりも先に覚えて、その歌詞を暗唱できる人間が多いとも言われている。横浜市民が多い、聖グロリアーナ女学院でも学校行事等で歌う機会があるので、歌える人間は多い。
「じゃぁ、火力支援用の5インチロケット発射用のレールを砲塔に付けて、直射しますか。あれなら直射で命中すれば、大抵の車両は撃破可能ですから」
「なんか、自棄になっていませんか?」
私の脈絡が無い発言と、乱れてきた言葉遣いを聞いて、オレンジペコさんが尋ねる。
「いや、明日の事を考えないようにしているだけです」
明日は今の車長と部隊長に仁義を切りに行かないといけない。菓子折りを持参しよう…鳩サブレかひよこか…どちらが良いだろうか。
「料理が来ましたよ。明日の事は忘れて、食事を楽しみましょう」
「えぇ、そうですね」
オレンジペコさんが言うのと同時に食事が運ばれてくる。
今は、彼女の言う通り、嫌なことは忘れて美食に舌鼓を打つ事に専念しよう。
料理は申し分なかった。スモーク・サーモンは程よい粘り気と塩気を持っており、私はそれを薄く切った黒パンにバター塗ってそれに巻いて食べる。
「料理はどうでしたか」
相手が食べ終わり、一息ついた所で尋ねる。
給仕は音もなく食べ終わった食器を片付けるのを見ながら、オレンジペコさんは微笑んで答えた。
「美味しいですね。カツレツはフォークで切れるほど柔らかいですし。鶉のゼリー寄せも様々な食材をいているのに、どれも味のバランスを壊していない」
「この学園艦の良い所は、美味しい英国料理すら食べられるところよ。最も、味は日本人好みになるのには目を瞑るとして」
唐突に第三者から、声をかけられて、私達は驚きを隠しながらそちらに目を向ける。 そこには私たちの良く知ってはいるが、詳しくは知らない人物が居た。
「こうちょ…いえ、ミズ・モズレー。こんばんは」
「こんばんは。ミス・オレンジペコ。ミス・たか、いえ。もうラミンでしたね。ミス・ラミン。私がここに来る前にそう言う報告が届いていました。もう一人来るけど、ご一緒してよろしいかしら?」
モズレー女史は完璧な日本語で私達に許可を求める。
「ど、どうぞ」
私は緊張しながら答える。
知性を窺わせ、強い意志を感じさせるブルーの瞳。自然老化ではなく、計算された彫刻の様に顔に彫り込まれた皺。英国女性ならこのように老けたいと言う典型の様な女性を前にすれば、女子高生ごときが太刀打ちできる相手ではない。
噂では、この学園の学園長になる前は、英国の政府機関でそれなりの地位にいた人物であり、非常にやり手だったらしい。
「ミズ・モズレー。私の妹とその友人を驚かせないでください」
「ミズ・渡良瀬。旦那様の相手は良いの」
私の姉が現れたことで、私は幾分か安心した。
「ここで勝って、研究費捻出しているのに呆れましたので、置いてきました。限度額近くまで稼いだら来ると思いますので、そしたら一緒に帰ります」
「なら、喉を潤す時間はあるわね。私には気の利いたバーボンを、アイスは不要です。貴女は?」
モズレー女史は、いつの間にか控えていた給仕に命じる。
「私は、ジンジャエールを」
「あら、禁酒ですか?」
「妊娠する予定ができたので」
「それはご愁傷さま、禁酒その他を楽しんでください。経験者からのアドバイスですが、楽しい日々が待っていますよ」
「えぇ、楽しみで夜も寝られません」
そこで、姉は私に向き直って、好奇心を目に浮かべながら私に尋ねる。
「皐月。紅茶名、襲名おめでとう。で、ラミンさんはどの車両の車長に」
姉の声は少し誇らしげで、そして羨望が混じっていた。在学中、戦車道を履修した姉は紅茶名を拝命する事はなかった。
「コメット巡航戦車です。乗員は明日ら集めますが」
そこまで、聞いた姉は、モズレー女史に向き直り。完璧なクィーンズ・イングリッシュで尋ねる。
「ミズ・モズレー。あの煩わしく、精力的なご婦人方をどれくらい黙らせられますか?」
バーボンのストレートを飲みながら、私たちを見ていたモズレー女史は、小馬鹿にしたように言う。
「あのお嬢様方なら、お望みなら何年でも。ホワイトホールやカスミガセキの古狸や、かつての部下の恐竜達よりはずっと容易な相手です。私の子どもたちの方が遥かに面倒。しかし、彼女たちの今後を考えれば、新年度までが、後腐れがないわね」
「だ。そうよ」
私がやり取りを理解しているのを知っている姉は、私に言う。
「ありがとうございます。ミズ・モズレー」
私は少し、RとLの発音が曖昧になりかけた英語で答える。幼いころに覚えていても、使う機会が少なければ、自然と言語能力は錆び付く、特に発声部分の劣化は早い。
「お礼は結構。私は、部下と今後の学園運営につての雑談をだけよ。あなた方は偶然列席していただけ」
モズレー女史は、事も無げに言う。
私とオレンジペコさんは、時間が遅くなったのでと言い訳を残しながら、足早にクラブを後にすることにした。
「アレもサプライズですか?」
帰りのタクシーの中で、オレンジペコさんが尋ねる。
「そんな訳ないですよ」
私は大きく首を左右に振って強く否定する。そう、モズレー女史と遭遇するのは全くの予想外だった。
「次はもう少し格式ばらない所で、良い店があるので。そちらに行きましょう」
「良いですね。改造の件は明日伝えておきます」
「よろしくお願いします。では、おやすみなさい」
タクシーにオレンジペコさんの寮に向かうように指示して、前金とチップを含んだ金額を渡し、タクシーを降りる。この時間なら、閉店時刻直前には店に着くだろう。
私は車長になる前にしなければならないことがある。それはとても重要な事である。
イギリスと言えば料理は…ってのは良くネタに(自虐的な意味でも)されますが。
最近は、改善されてきたようで。店の選択を間違えなければ悲惨な目になる事は少ないらしいです。
そして、学園長が登場。
モデルはイギリスの女優、ジュディ・デンチが演じた某有名映画の人物。
次回はやっと、コメットを出せそうです。