贖罪のゼロ   作:KEROTA

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第18話 ROLLING OVER 急転直下

「何でお前がそっちにいるんだよ、イチロー!?」

 

 小吉のそんな声が、管制室内に響く。彼の顔には強い怒りと、困惑と、そしてそれ以上の「信じたくない」という表情が張り付いていた。

 

「……」

 

 一郎はそんな小吉の声に、何も答えない。だが彼の口から起伏のない声で奈々緒へと告げられた言葉が、全てを物語っていた。

 

「……ウッドの拘束を解いて、ゆっくりと手を上げて膝をつけ」

 

 この状況下で彼がウッドの解放を要求する理由など、蛭間一郎が彼女と協力関係にあるということ以外に考えられないだろう。

 奈々緒は自らの肩越しに、一郎をキッと睨みつけた。

 

「断る」

 

 その瞬間、一郎は銃口を奈々緒の背中に強く押し付けた。背中から伝わる無機質な鉄の感触に、奈々緒が体を強張らせる。小吉が駆け寄ろうとするが、そんな彼を一郎はけん制するようにじろりと睨みつけた。

 

「動くなよ、小吉。それ以上近づけば、俺は秋田奈々緒を撃つ」

 

「ッ、テメェ……!」

 

 ――脅しではない。

 

 一郎の眼光には、そう思わせるだけの気迫が籠っていた。それを悟り、小吉は顔を歪めつつもその場に留まった。小吉に近づく様子がないことを確認すると、一郎は再び視線を奈々緒へと戻す。

 

「もう一度だけ言うぞ。死にたくなかったらウッドを解放して、手を上げて膝をつけ」

 

「……」

 

 奈々緒は、今度は何も言わなかった。その代わりに、彼女は手にした糸の拘束を緩める。それに気づいたウッドは「おっ」という声を上げるともぞもぞと体を動かし、自らを縛り付ける糸を解きに取り掛かった。その光景に、奈々緒が歯を食いしばる。

 

 彼女が一郎に言われるまま糸を緩めたのは、断じて恐怖心からではなかった。

 

 あのまま反抗したところで、自分が撃たれればどのみちウッドの拘束は解かれてしまうからだ。結果が同じならば、少しでも次に繋がるように動くほうが合理的、と考えた末の行動であった。

 

 だがその選択は所詮、最悪の中の最善に過ぎないもの。それを飲み込まざるを得ない最悪の状況まで陥ってしまったことが、彼女は悔しかった。

 

「ティン、お前もだ。イヴから離れろ」

 

 奈々緒に銃を突きつけたまま一郎が言うと、ティンは険しい表情を浮かべながらもイヴを押さえつけていた手を放した。ウッドから命令がないからか、立ち上がったイヴは襲い掛かるようなしぐさは見せず、ただぼんやりと生気のない目で虚空を見つめていた。

 

「一郎……」

 

 ティンは一郎の名を呼び、奈々緒の背後に立つ彼を見つめた。ティンの胸中に芽生えたのは彼が自分達を裏切っていたことに対する怒りや憎悪ではなく、もっと根本的な疑問。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という疑問であった。

 

 ――どういうことだ? 確かにあの時、一郎の心臓は止まっていたはず。

 

 ティン自身が脈をとったのだ、それは間違いないと断言できる。まさか直接手首に触れておいて気付かなかった、ということもないだろう。つまり蛭間一郎はつい先程まで、疑う余地なく『死んでいた』のだ。それにも関わらず、今の彼はこうして活動を行えている。

 

「ベースになった生物の特性……か?」

 

 この不可解な状況の理由として最も妥当そうな可能性をティンは口にするが、その表情は今ひとつ釈然としないものだった。

 

「ティン君、君の考えてる事を当ててやろうか?」

 

 そんな彼に、拘束を解いて床から立ち上がったウッドが、からかうような口調でそう言った。彼女は一郎に向かって「サンキュー、一郎君。助かった」と礼を言うと、にんまりとした笑みを浮かべながらティンに言った。

 

「その表情から考えるに、大方『一回死んで生き返ることができる虫なんているはずがない』ってとこか?」

 

「……ああ」

 

 図星をつかれたティンは、一拍置いて肯定の言葉を口にした。

 

 ほとんどのバグズ2号の乗組員たちは、一郎のベースとなった昆虫を知らない。イヴが来てから多少緩和したものの彼は元々口数が多い方ではなく、むやみに他のメンバーと慣れ合うような性格の持ち主でもなかったからだ。おそらく彼のベースを知っているのは艦長であるドナテロと副艦長のミンミン、それに乗組員のデータを地球で盗み見たイヴくらいのものだろう。

 

 しかし、それにしても、『蘇り』の特性を持つ虫など、あまりにも非現実的ではないだろうか。そのような特性を持った虫など、聞いたこともない。

 

 つまり、これらのことを踏まえたうえで考えられる一郎の特性は――

 

「ティン君ひょっとしてさあ、一郎君の特性が『擬死』とかだと思ってる?」

 

「……!」

 

 自分の思考そのままの言葉がウッドの口から飛び出し、ティンの思考がピタリと止まった。「お、図星か」と呟くと、ウッドはティンに人差し指突き付けた。

 

「だとしたら、見当違いもいいとこだな。教えてやるよ、蛭間一郎の特性は、そんな陳腐なもんじゃない」

 

「おい、ウッド」

 

 得意げに語ろうとしたウッドの名を、一郎が諫めるように呼ぶ。彼の目は言外に『不必要に情報を晒すな』と彼女に告げていたが、ウッドはそんなことは気にもせず言葉を続けた。まるで自分のことのように得意げに、彼女は一郎のベース昆虫の情報を告げた。

 

「一郎くんの手術ベースになった虫は『ネムリユスリカ』。その最大の特性は擬死でもなければ蘇りでもない、()()()()()()()()()()()()ことにあるのさ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――不老不死。

 

 『死』という絶対の存在を覆す概念にして、人類がその叡智を振り絞っても未だに到達しえない、生命の超越点。

その力を断片的に使うことができる昆虫がいる、と言ってそれを信じる人は、果たしてどれだけいるだろうか。

 

 その虫の幼虫は、水分が足りない乾燥状態に置かれると、『クリプトビオシス』と呼ばれる特殊な防御状態に入る。この状態になり、その名の由来の通り自らの生命の鼓動ごと一時的に『眠る』ことで、彼らは水がない環境下であっても次に雨が降るまで命を繋ぐことができる。そして一度水を得れば、何事もなかったかのように生命活動を再開するのだ。

 

 驚くべきことに、研究者による研究が進むにつれ、このクリプトビオシスは乾燥以外にもあらゆる極限環境への耐性を持ち合わせていることが明らかになった。

 

 ある研究者は、200度の高温で彼らを燃やした。

 

 またある研究者は、-270度の冷気で彼らを凍らせた。

 

 更にまた別の研究者たちは168時間のエタノール処理を行い、7000グレイの放射線を浴びせ、真空状態に晒し、脳や神経節を除去し、果ては宇宙空間へと放逐し、考えうるありとあらゆる極限状態へと彼らを置いた。

 

 だが、何をしてもその昆虫は決して死ななかった。

 彼らはクリプトビオシスによっていずれの環境変化にも耐え、水さえ得れば何事もなかったかのように活動を再開したのである。

 

 

 その驚異的な特性を持つ虫の名は、ネムリユスリカ。

 

 

 小さな体に不滅の力を秘めた、不死鳥ならぬ『不死虫』である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あはは、びっくりしてる! そりゃそうだ、アタシだってこの虫のこと知った時そんな感じだったもん」

 

 呆然としたような表情を浮かべる小吉達に、ウッドは笑い転げる。そんな彼女の様子とは対照的に、一郎は眉間にしわを寄せていた。

 

「喋りすぎだ、ウッド」

 

「あはは、悪い悪い。ほら、アニメとかでよくある悪役みたいな台詞、一回言ってみたかったんだって! それにばらしたところで対処法なんてないんだし、大目に見てちょうだい」

 

 まったく悪びれずにそう言ったウッドに、一郎は憮然とした様子で鼻を鳴らす。何を言っても無駄だと悟ったのか、彼はそれ以上何かを言うことはなかった。

 

「お前がさっき俺に水を投げつけたのは、一郎を目覚めさせるためだったのか……!」

 

 彼の脳裏に蘇るのは、先程テラフォーマーに扮したウッドに襲い掛かろうとした時の記憶。あの時に彼女が、小吉に飲料水の入ったパックを投げつけたのは、単に足止めだけを狙ったものではなかったのだ。

 

「そういうことー。まんまとあたしの策にはまってくれてどーも、小吉君」

 

 ウッドの返答に、小吉は自らの迂闊さを呪った。もしもあの時、自分が水の入ったパックを毒針で破壊していなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。今更どうしようもないことではあるが、小吉はそう思わずにはいられなかった。

 

「さて、それじゃあ種明かしも終わったことだし……とっととこいつら殺してずらかろっか、一郎君」

 

「ああ」

 

 ぱん、と両手を打ち合わせたウッドの言葉に、一郎が頷く。彼女の言葉に3人が身構えるも、それ以上の行動は許さないとばかりに一郎が銃を構え直した。

 

「と言うことで。よろしくね、イヴ君」

 

 奈々緒を事実上の人質に取られ、動くことすらもできない小吉とティン。そんな彼らの眼前で、それまではただぼうっと立っているだけだったイヴが動いた。

 

 腰のホルダーに三分割して入れてあった部品を取り出し、組み上げて一本の警杖とする。調子を確かめるようにそれを数度振り回してから、イヴがそれを構えた。警杖の先端から、脂がはじけるような音と共に青い火花が散る。

 

「ッ、イヴ! そんな奴の言いなりになんてなるな!」

 

 小吉がイヴに呼びかけるが、イヴの虚ろな瞳が彼の姿を映すことはない。そんな彼らに向かって、ウッドが呆れた様子で「やれやれ」と言わんばかりに首を振った。

 

「無駄無駄。今のイヴ君には、あたし以外の声は届かないよ。それじゃイヴ君、準備はいい?」

 

 わざとらしく、小吉達に見せつけるようにウッドが呼びかけると、イヴはコクンと首を縦に振った。その顔に、一切の感情を浮かべずに。

 

「クソ……!」

 

――裏切られ、人質を取られ、最後の抵抗すらも届かず。

 

 いよいよ進退窮まった状況に、小吉の口から悪態が零れた。彼の脳裏に、バグズ2号の仲間たちとの記憶が次々と浮かんでは消えていく。

 

 皆がいたから、ここまで来れた。

 

 誰か一人でも欠けていたら、ここまではこれ無かった。

 

 協力し、補い合い、助け合い、背中を預け、やっとここまでたどり着いた。

 

「クソったれが……!」

 

 あと少し、あと少しでイヴの悲願である『全員での生還』は成就する。全員でまた、母星の土を踏めるのだ。

 

「こんなんでッ……」

 

 だがその『あと少し』は――果てしなく遠い。

 

「こんなんで終わりかよ、畜生がァアアアアアア!」

 

 咆哮する小吉。その目の前でウッドは冷たい笑みを浮かべるとただ一言、イヴに命じた。

 

 

 

 

 

「殺せ」

 

 

 

 

 

 その瞬間、イヴは弾かれたように小吉へと飛びかかった。歯車の回転する音と共に、風を裂いて警杖を携えたイヴが迫るのを、小吉の目は辛うじて捉えていた。

 

「小吉ッ!」

 

 奈々緒が悲痛な叫びが、小吉の耳をつんざく。それとほぼ同時に、イヴが青白い電気を纏った警杖を上段に構えるのを、彼は見た。

 

「――ッ!」

 

 直後、小吉の右肩を衝撃が襲った。その凄まじい威力に耐え切れずに、小吉は声を上げる間もなく床へと叩きつけられた。倒れ込んだ小吉の耳に、電気の迸る音が響く。

 

 

 

 一瞬、小吉は自らが死んだのだと錯覚した。

 

 

 

 しかし彼はすぐに、電撃を受けたにしては自分の体がやけに自由に動くことに気が付いた。感電した時に独特の、全身を針で刺すような鋭い痛みもない。

 

 不思議に思い、小吉は床に手をついて自らの上体を起こした。強打した全身には鈍痛が走るが、やはり痺れたような感覚はない。不自然に痙攣している、ということもないようだ。彼は痛みに顔をしかめながらもゆっくりと立ち上がった。

 

「な、何で……!?」

 

 小吉が顔を上げると、狼狽えた様子のウッドの姿が目に入った。その顔からは先程までの余裕の表情が消え去り、強い動揺の色が浮かんでいる。その目は起き上がった小吉を映しておらず、彼の後方を食い入るように見つめていた。ウッドの様子にただならぬものを感じ、小吉は視線を自らの背後へと滑らせる。

 

 

 彼の目に飛び込んできたのは数秒前と同じ姿勢で立ち尽くしている奈々緒と、小吉に背を向けて立つイヴだった。彼は先程小吉の前で見せた上段の構えから警杖を振り下ろしたような姿勢で奈々緒の足元に立っていた。小吉が目を凝らせば、彼の手に握られた警杖は奈々緒の背後へと伸び――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「っぐ、おぉ……!」

 

 小吉が状況を把握する前に、一郎が苦悶の声と共に銃を取り落とした。その右手はまるで感電でもしたかのように不規則に痙攣しており、額には玉のような汗が浮かんでいる。彼は震える右手を反対の手で押さえながら、驚愕と混乱が入り混じった表情でイヴを見た。

 

「イヴ……まさか、お前――!」

 

 一郎が何かを言いかけるも、それを遮るように再びイヴの警杖からバチバチという音と閃光が走った。一郎は一度だけ大きく体を痙攣させると崩れ落ちるように膝を折り、そのまま床へと倒れ込む。イヴは間髪入れずに彼の横にしゃがみ込むと、一郎の両腕を懐から取り出した手錠で拘束した。

 

 呆気にとられる小吉の背後で、ウッドがまるでうわ言のように呟く。

 

「う、嘘……! こんなこと、あるはずが……!」

 

 するとイヴは、まるでそんな彼女の呟きに呼応するかのように立ち上がり、ゆっくりと小吉達の方へと振り向いた。

 

「なっ……!」

 

 それを見たティンと小吉は、ほぼ同時に声を上げた。

 

 振り向いたイヴの目。吸い込まれそうな彼の水色の瞳は、先程までの空虚な様子から一転して理性の光をたたえており、悲しげにウッドのことを見つめていたのだ。

 

 イヴは一郎に背を向けると、無言のままウッドに向かってゆっくりと歩き出した。その様子にウッドは小さく悲鳴を漏らす。

 

「ち、違う! あたしじゃない! 狙うのはあっち! 小吉君とティン君を殺せ!」

 

 青ざめた顔でウッドが命令した。しかし、イヴはその歩みを止めない。絶句しているティンと小吉の脇を通り抜けて、彼はウッドへと近づいていく。

 

「ッ……と、止まれ! これ以上、あたしの側に近寄るな!」

 

 自らの特性が効かないと薄々感づきながら、ウッドはなおも叫ぶ。そうでもしていないと、気が狂ってしまいそうだった。

 

 しかしそれでも、イヴは足を止めない。少しずつ、2人の間合いは狭まっていく。やがてイヴがあと数歩で触れることができる程の距離まで近づいた時、ついにウッドはその場にへたり込んでしまった。

 

「効いてないの……!? 何で……!? ここら一帯のゴキブリも、支配できてた毒が……!」

 

 上ずった声でそう言い、必死で後ずさりながらウッドはイヴを見つめた。その目に宿る感情は恐怖、動揺、混乱。

 いかなる者も跪かせる“エメラルドゴキブリバチの毒”で御すことのできないイヴが、彼女には子供の皮を被った得体のしれない何かに見えてならなかった。

 

「来るな、来るな、来るな――!」

 

 呪文のようにそう呟くウッドの前で、イヴはピタリと足を止めた。彼女の命令を聞いたからではない、これ以上歩かなくとも手が届く距離まで近づいたからである。

ウッドはなおも後ずさろうとして、それが叶わないことに気が付く。既に壁際まで後退していた彼女に、これ以上逃げることはできなかった。

 

「ウッドさん」

 

「ひッ!?」

 

 いきなり名前を呼ばれ、ウッドは悲鳴を上げる。イヴの水色の瞳の中に、怯える自分の姿が写りこんでいた。そんな彼女の前で、イヴはゆっくりと彼女に手を伸ばした。

 

「――!」

 

 もはや、ウッドの声は悲鳴にならなかった。咄嗟に彼女は頭を庇うように両腕を交差させると、目を固く閉じる。

 

 そして――。

 

 

 

 

 ――カチャッ、という乾いた音が彼女の耳に届いた。

 

 

 

 

「え……?」

 

 自らの予想とは随分と違った感触に戸惑い、恐る恐るウッドが目を開ける。彼女の目には、手錠の掛けられた己の手と、困ったように眉尻を下げるイヴの顔が映った。

 

「ゴメンね、ウッドさん。怖がらせるつもりじゃなかったんだ」

 

 肩透かしを食らったような表情を浮かべるウッド。イヴは彼女にちょこんと頭を下げると、すぐに踵を返して小吉へと駆け寄った。

 

「小吉さん、右肩大丈夫? さっき強く踏んじゃったから、怪我してないといいんだけど……」

 

 心配そうに己を見上げるイヴの言葉に、小吉は答えることができなかった。彼はしばらくの間口をパクパクと動かし、それからやっとのことでその言葉を口にした。

 

「……バ」

 

「バ?」

 

 イヴが小吉の言葉を理解できずに首を傾げたその瞬間、小吉はパッと顔に喜色を浮かべ、イヴのことを思い切り抱きしめた。

 

「バカヤロー! 心配したじゃねーか!」

 

「うわっ!? しょ、小吉さん!?」

 

 いきなり抱擁されて慌てるイヴの頭を、小吉はガシガシと撫でつけた。じたばたとイヴがもがくが、小吉は一向に彼を放す様子を見せなかった。やっとの思いでイヴが小吉の腕から抜け出すと、彼の隣まで移動してきていた奈々緒が驚いた様子で口を開く。

 

「ほ、本当にイヴ君……? 操られてないふりをしてる……ってわけでもないのか」

 

 元々ウッドの特性で操られたテラフォーマーを間近で見ていたこともあり、奈々緒はイヴにかけられた洗脳が解けていることに気付く。今のイヴは、どこからどう見ても正常そのもの。そしてだからこそ、彼らは不思議でならなかった。

 

「お前、一体どうやってウッドの毒を――」

 

 

「……薬効耐性」

 

 

 ティンの疑問に答えるように、低い声が部屋の中に響いた。小吉達が視線を向ければ、床に倒れた一郎が彼らを――より厳密には、イヴを睨みつけていた。

 

「イヴ……お前、俺達にまだ特性を隠してたな?」

 

 苦悶の表情を浮かべた一郎の言葉はしかし、確信に満ちていた。もう隠すつもりもないのか、イヴは静かに一郎の言葉に答えた。

 

「――“モモアカアブラムシの薬効耐性”。ボクの体に組み込まれた、()()()()害虫の遺伝子だよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 農業において被害を与える昆虫は総じて『農業害虫』と呼ばれているが、カメムシの仲間はその多くがこれに該当する。有名どころとしてはカメムシやウンカ、ヨコバイなどがいるが、それらと並ぶ害虫としてアブラムシを挙げることができる。

 

 カメムシ目腹吻亜目アブラムシ上科に分類されるアブラムシは、数いる農業害虫の中でもとりわけ嫌われている虫であると言ってもいいだろう。その理由は主に3つ。

 

 第一に、彼らは卵胎生単為生殖によって、短期間の内に爆発的にその数を増やすこと。

 第二に、彼らは作物を食い荒らすだけではなく、様々な病気を媒介してその被害を拡散すること。

 そして第三に、他の害虫よりも薬効耐性を獲得しやすく、殺虫剤の効き目が薄いこと。

 

 こと三つ目の特性について、アブラムシは他の農業害虫の追随を許さない。

 世界におよそ3000種も存在すると言われている彼らは、適応の中で人類の武器(かがくぶっしつ)への対抗手段を獲得し、26世紀に至るまで地球上の至るところで作物を食い荒らし続けてきた。

 

 イヴの体に組み込まれた『モモアカアブラムシ』は、そんな数いるアブラムシ達の中でもずば抜けて高い薬効耐性を持つ昆虫である。

 

 その抵抗力たるや、ある農場においてモモアカアブラムシの駆除に用いられ、その70%以上を死滅させた薬剤が、僅か二年後には同じ農場のモモアカアブラムシを10%も駆除できなくなってしまったというデータがあるほどだ。

 

 彼らが耐性を持つ薬物の種類は、判明している物だけで実に71種類。

 これはアブラムシのみならず、ゴキブリを含めたありとあらゆる昆虫の中でも最多の数値であり、21世紀のギネスブックはこの昆虫を『Most resistant insect(最も抵抗力のある虫)』と認定している。

 

 そして忘れてはいけないのが、この数値はあくまで21世紀の時点でのものでしかないという点。

 温暖化の影響で害虫たちの活動も活発になる中、地球上では26世紀である今日にいたるまで、様々な農薬が開発され、散布されてきた。

 

 ――もしも、モモアカアブラムシが5世紀もの間、それらの薬剤の耐性を獲得し続けていたとしたら。そしてそのモモアカアブラムシが、人間大になったとしたら。

 

 それはいかなる化学兵器にも耐え、毒を用いたあらゆる攻撃を無効化する、常人には駆逐しえない凶悪な特性を持つ怪物へと変貌するだろう。

 

 人類に抗い続け、己が身を侵す魔物への対抗手段を学び続けた、不浄の賢者(モモアカアブラムシ)

 

 それこそがイヴの体に宿る4つ目の害虫の遺伝子にして、正真正銘最後の『特性』である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ま、待てよ……そんなの、おかしいだろ」

 

 そう弱々しく声を上げたのは、ウッドだった。先程までの錯乱状態からは回復しているものの、その顔には当然ながら普段の快活さはない。

 

「イヴ君は胴体、腕、足の3か所にそれぞれ別の遺伝子を持ったDNAキメラなんだろ? それ以上の遺伝子が存在しないことはイヴ本人とクロード博士が説明したし、本……うちの依頼者も調査して、裏が取れてる」

 

 けど、とウッドは困惑したようにイヴを一瞥した。

 

「今の話だと、イヴの体には『4か所目』がある。ってことは、あたし達はまんまと偽の情報をつかまされてて、しかもその隠された4か所目っていうのがピンポイントに頭で、とどめにそのベースになった昆虫は、毒を無効化する特性を持ってたってことか?」

 

 そんな馬鹿な、と言わんばかりの表情でウッドが言う。それではまるで、エメラルドゴキブリバチの特性を持つ自分が裏切るのが、最初からばれていたかのようではないか。

 

 そんなウッドの疑問はしかし、他ならぬイヴによって否定された。

 

「それは違うよ、ウッドさん。ボクの体で遺伝子が違っているのは、前に説明した通り3か所だけ。ウッドさんたちが持ってる情報も、間違ってない」

 

「じゃあ何で!? 何でイヴ君は、4つ目のベースなんて都合のいいものを持ってるのさ!?」

 

 はぐらかすようなイヴの言葉に、ウッドが声を荒げた。一方で一郎は逆上する彼女とは対照的に、ただ黙ってイヴが続きを話すのを待っていた。

 

「……メンデルの法則、って知ってる?」

 

 自らを見つめる一同に、イヴはポツリとそんな言葉を漏らした。

 

「ボクが4つ目の特性を使える理由を説明するには、まずはこれを説明しないとね」

 

 そう言うと、イヴはどこか寂し気な笑みを浮かべた。

 

 

 

 ――メンデルの法則。

 

 遺伝子学の父、グレゴール・ヨハン・メンデルが唱えたこの法則によれば、生物は通常2個で一組の遺伝子を持っており、子供はその遺伝子を引き継いで生まれてくるとされている。

 

 具体例をあげよう。仮に『A,a』という組み合わせの遺伝子を持つ父親と『B,b』という組み合わせの遺伝子を持つ母親の間に子供が生まれた場合、考えられる遺伝子の組み合わせは『A,B』『A,b』『a,B』『a,b』のいずれかである。

 

 これがDNAキメラの場合になると、両親から受け継いだ2種類のDNAに加えて、遺伝子構造が違う部位1ヶ所につき、体が含有するDNAの種類は『A,B(ただし一部『A,C』)』と言った具合に、1種類ずつ増えていく。

 

 この形式でイヴの体を表現した場合、その遺伝子の構造式は『A,B(胴体)』『A,C(腕)』『A,D(足)』のように表すことができるのだが、ここで重要になってくのが、全ての部位に共通する『A』というDNAの情報である。

 

「バグズ手術のベースは1人につき1種。だから()()()バグズ手術の被験者は、2個が組み合わさった1つの遺伝子に対して、ベースになる昆虫のDNAが結びついてる」

 

 だけど、と言ってイヴはどこか自嘲するように笑った。

 

「前も言った通り、ボクは人造人間。バグズデザイニングで作られたボクの体では、普通のバグズ手術と違って、遺伝子の要素単位でボクのDNAと昆虫のDNAが結びついているんだ」

 

 通常のバグズ手術被験者の遺伝子構造を『A,B』&昆虫の遺伝子、とするのであれば、イヴの遺伝子構造は『A&昆虫の遺伝子、B&昆虫の遺伝子』となる。これによってイヴは部位ごとに異なる3つの特性の他に、『全身に共通する』細胞と結びついた4つ目の昆虫の特性――すなわち、モモアカアブラムシの特性を扱うことができるのである。

 

「これが、ボクにウッドさんの毒が効かなかった理由だよ。ボクの体が3種のDNAキメラだって言うのは本当だし、4つ目の特性はかなり気を配って隠したから、普通は気づかないと思う」

 

 イヴはそう締めくくると、深く息を吐いた。

 

 使いどころが限りなく少ないためにわざわざ明かす必要もなく、また万が一に使う機会があったとしても、その存在を伏せておくことでこちらに有利な展開を作り出せる。

そう判断したクロードはイヴと口裏を合わせ、モモアカアブラムシの特性を意図的に乗組員たちに隠してきた。

 

 ――まさか本当に使う機会が来るとは思わなかった。

 

 イヴはクロードの判断が正しかったことに安堵すると同時に、そんな言いようのないやるせなさのようなものを感じながら、小吉達へと向き直った

 

「その……皆には今まで黙ってた上に、心配もかけちゃって、ごめんなさい」

 

「いや、それはまぁいいけど……もしかしてイヴ君、最初から操られてなかったの?」

 

 後ろめたそうに謝罪の言葉を口にしたイヴに奈々緒が聞くが、彼女の予想に反して、イヴは首を横に振った。

 

「ううん、最初は本当に操られてたよ。モモアカアブラムシ(ボク)は一度経験した薬物への耐性は身に着けるけど、さすがにエメラルドゴキブリバチの毒に刺されたことはなかったから」

 

 ウッドが即座にイヴを戦わせようとしなかったのは、幸運だったと言える。もしも毒の注入直後に戦闘の指示が出ていれば、小吉達の予想した通り本気のイヴと殺し合いに発展していたはずだ。

 

「モモアカアブラムシの特性で少しずつ毒に耐性をつけていって……完全な耐性ができて意識が戻ったのは、本当についさっき。ティンさんがウッドさんを捕まえようとしてくれたから、解毒が間に合ったんだ。本当にありがとう」

 

 イヴがそう言って笑いかけると、ティンは穏やかな表情で「ああ」と返した。

 

 ――それはまさしく、紙一重で彼らが掴み取った命運だった。

 

 どこか一ヶ所、何か一つの要素が食い違っていたのなら、事態は最悪の結末を迎えていただろう。そうならなかったのは、彼らが全力で抗ったから。屈服することを拒み戦い続けたからこそ、彼らは微かな希望を勝ち取ったのだ。

 

「……あ、そうだ」

 

 イヴは思い出したようにそう言うと、ウッドへと駆け寄った。不思議そうな顔をする3人の目の前で、イヴはウッドの脇に立つと――いきなり、彼女の体をその両手で手あたり次第に触り出した。

 

「おぅ!?」

 

 小吉がそんな声を漏らし、ギョッとしたように目を剥く。突然のイヴの暴挙に、ティンや奈々緒はもとより、囚われている一郎さえもイヴの行動に言葉を失った。

 

「ひゃんっ!? お、おい! どこ触ってんだ!?」

 

 当事者であるウッドだけは驚きと羞恥で怒鳴り声を上げるが、イヴはそんなこと気にも留めない。慌てて抵抗しようとするが、元々壁際に追い込まれていたことと手が手錠で拘束されてることが災いして、思うようにイヴの手を払えなかった。

 

「ちょ、ちょっとイヴく――」

 

「あった!」

 

 我に返った奈々緒が止めようとしたその矢先に、イヴはそんな声を上げた。彼はウッドの腹部から4本の注射器を取り出すと、彼女に一切邪気のない笑みを向けた。

 

「エメラルドゴキブリバチの毒3本と、予備の変態薬1本。ボクが預かっておくね」

 

「へ……?」

 

 ウッドの口から拍子抜けしたような声が漏れる。と同時に、一同はイヴの不可解な行動の意味をやっと理解した。どうやらイヴは、ウッドたちから薬を取り上げたいらしい。それを裏付けるように、イヴは呆然とするウッドをしり目に一郎の方へと駆けていく。

 

「……薬なら腰のポーチだ」

 

 逃げられないと観念したのか、はたまたウッドの時のように全身をまさぐられたくないと思ったのか、一郎は素直にイヴに薬の隠し場所を告げた。彼の言う通りに腰に下げられたポーチを探れば、果たして一郎の言う通り3本の注射器が見つかった。

 

「ありがとう、一郎さん」

 

 イヴはそう言うと取り上げた注射器を懐にしまい込み、何事もなかったかのように小吉達の下へと戻った。

 

「……とりあえず艦も確保したし、外の皆の加勢に戻ろう」

 

 イヴの行動にはあえて触れずに、ティンが小吉と奈々緒に言った。何とも言えない空気を仕切り直すための提案でもあったのだが、かなり差し迫った問題でもあった。

 ウッドと一郎の裏切りを抑えたとはいえ、ここは火星。未だテラフォーマー達の脅威が去ったわけではないのだ。

 

「副艦長とリーがいるとはいえ、あの数相手だとそう長くはもたないだろう。手遅れになる前に――」

 

 ――だが、彼らは気づいていなかった。

 

 まさに今この時、ただのテラフォーマーの大群よりも恐ろしい『未知』なる脅威が、彼らに対して牙を剥こうとしていることに。

 

 

 

 

 

 バキッ。

 

 

 

 

 

 何かが割れるような、あるいは裂けるようなその音を最初に聞いたのは、小吉だった。

 

「ん? 何の音だ?」

 

 異変に気付いた小吉達が周囲を見渡す。一見して、管制室内には特に異物のような何かがあるようには見えなかった。あるものと言えば、精々テラフォーマーの死骸だけ。音の出所となりそうなものは何もない。

 

 

 ベキッ。

 

 

「……あそこから聞こえた」

 

 再び聞こえたその音を辛うじて捉え、イヴは室内のとある一角に目をつけた。それにつられて、他の面々もイヴが見つめる先へと視線を向ける。

 

 そこにあったのは、数匹が折り重なるようにして倒れているテラフォーマーの死骸だった。

 それらの死骸は先程、バグズ1号で戦ったテラフォーマー達と同様に膨らんだり縮んだりしていた――などということはなく。注視するまでもない、本当にただのテラフォーマー達の死骸だ。一見すれば、何ら違和を感じさせるものはない。

 

 だが、イヴは見逃さなかった。本当に小さなその違和感を。()()()()()()()()()()()()()()()()()というその事実を。

 

 

 ベキッ!

 

 

 一際大きな音が管制室内に響く。すると、まるでその音に呼応するかのように、突然死骸の山が崩れ、その下から異様な物体が顔を出した。

 

 

――それは、黒い楕円体の物体だった。

 

 

 粘液に塗れたそれは正面に切れ込みがあり、よく見ると微かに動いているのが分かる。さながら黒いつぼみのように見えるそれは、生きていたのだ。それに気づいた瞬間、イヴの全身を不気味な悪寒が襲った。

 

「あ、あれって、まさか……!」

 

 奈々緒の顔から、見る間に血の気が失せていく。皮肉にもウッドたちが裏切った理由を聞いていたがために、彼らはすぐにその正体に思い当たった。

 

「テラフォーマーの、卵……!」

 

 

 ―― ビ キ ッ 、 ビ キ ッ 。

 

 

 ティンのその言葉に答えるかのように、テラフォーマーの卵鞘は音を立てて蠢く。断続的に聞こえていた音は徐々にその間隔が短くなっており、その表面に入っているひびも少しずつその範囲を広げていた。

 

「まさか……もう、孵化が始まってるのか……!?」

 

 一郎が驚愕を隠し切れない様子でつぶやく。彼らの目の前で、卵鞘は不気味な破壊音と共に、いよいよその形状を変えていく。

 

「お、おい! 生まれるぞ!」

 

 小吉が叫んだその瞬間、とうとう卵鞘はその楕円の形を完全に崩壊させた。そして、彼らの目の前で――

 

 

 

 

 

その黒いつぼみは、花開いた。

 

 

 

 

 

 




オマケ NGシーン

小吉「イヴ。その身体調査、俺にもぜひ手伝わせてくれ」キリッ

イヴ「あ、手伝ってくれるの? それじゃあ、小吉さんは一郎さんをお願い!」

小吉・一郎「!?」




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