――西暦2599年6月18日 17時46分。
「これは変態薬の原理を応用した毒薬だ。摂取すると血流にのってベース生物の細胞と人間細胞の乖離を促進、筋肉を破壊することで死に至らしめる。本来はバグズ手術被験者用に開発したものだが……理論上は君にも効くはずだ」
そう言って手渡された注射器を、少年は躊躇うことなく首筋に打ち込んだ。
瞬間、彼は己の体が大きく痙攣したのを感じる。全身から力が抜け、己の体重を支えきれずに彼は地面に倒れ込んだ。まるで肺が呼吸の仕方を忘れたかのように停止し、心臓が少しずつ静まっていく。
薄れゆく意識の中で少年が感じたのは、死への恐怖でもなければ肉体崩壊の苦痛でもなく、安堵。
――これで、やっと……。
少年は胸中でそっと呟き、その顔に微かな微笑みを浮かべる。
そして、彼の意識は闇にのまれた。
――――――――――――――――――――
――――――――――
――西暦2599年6月22日 深夜2時00分。
草木も眠るこの時間、職員も既に大半が帰宅した
扉が完全に開き切るのを待ってから、その青年は中へと入る。すると、ホログラムのモニターに囲まれたその部屋の主が、振り返ることなく彼へと声をかけた。
「おかえり、ヴァレンシュタイン博士」
「……ただいま戻りました」
青年――クロードが慇懃に返すと、部屋の主たるアレクサンドル・グスタフ・ニュートンは、くつくつと笑い声を上げた。
「デイヴス一家との対談はどうだったかね? さぞや有意義な時間だっただろう?」
「……相変わらず、冗談の趣味が最悪ですね、貴方は」
ニュートンのジョークとも皮肉ともとれる発言に、クロードが嫌悪感を隠しもせずにそう返す。途端、チクチクとした空気が部屋の中に張り詰め、どこか試すようなニュートンの視線と、クロードの苛立たしげな視線がぶつかった。
「……いや、止そうか。
数秒後、ニュートンはそう言って首を横に振ると、クロードから視線を外した。
「今、我らはいがみ合っている場合ではない……そうだろう、本多博士?」
そう言って、ニュートンが自らの隣の椅子へと目を向けた。そこに腰掛けていたのは、メガネを掛け、白衣を身に纏った男性。彼はニュートンの視線を浴びると、その威圧感に思わず体を竦ませた。
――U-NASA日本支局所属、本多晃。
バグズ2号計画の裏でウッドと一郎の手引きをしていた研究者が、そこにいた。
「は、はい」
表情を強張らせた本多が一度は頷き、しかしその後で「と、言っても」と言葉を続けた。
「正直、私は未だに状況を飲み込めていないんですが……」
本多がニュートンとクロードを交互に見やる。不安げな表情を浮かべる彼には、以前見せたような覇気がない。おそらく、この大人しい一面が本来の彼の姿なのだろうと、クロードは考えた。
「ご安心を、本多博士。それを詳しく説明するために、貴方には日本からワシントンまで来てもらったんだ」
クロードはそう言うと、ホログラムをかき分けて部屋の中央まで進み、事前に用意されていた椅子へと腰を下ろす。人がいなくなったことを感知したセンサーが扉を閉め、部屋の中の光源はモニターが発する電子の光のみとなった。
「これから起こるだろう『危機』に……備えるためにね」
「危機……ですか」
クロードの言葉に、本多が戸惑うような表情を浮かべた。『危機』の正体についてあれこれと考察してみるが、答えは全く見えない。疑わしいものはいくつかあるのだが――そのどれも、ニュートンとクロードが血眼になるような問題とは思えないのだ。
「さて、話を始める前に確認しておきたいのだが、ヴァレンシュタイン博士――」
と、思索を巡らす本多の横で、ニュートンが口を開いた。
「
「ッ!? ニュートン博士、それは……!?」
ニュートンの口から飛び出したその言葉に、本多は驚愕の声を上げかけた。だが次の瞬間、クロードの返したその内容に、彼は逆に絶句することになる。
「――はい。
「は……ッ!?」
目を剥いた本多の隣で、クロードとニュートンの異様な会話は淡々と続く。
「どのような状況で処分した?」
「カリフォルニア郊外で、現地時刻の17時46分です。人には見られていません、ご安心を」
「殺害方法は?」
「毒物を注射で接種させました。使ったのは薬効耐性を獲得していない薬物です」
「遺体は?」
「ご命令通り、事前に手配した火葬場へと運輸し、その日の内に焼却済みです。」
「ふむ……」
クロードから一通りの報告を聞くと、ニュートンは顎鬚を撫でた。
――本当に、この優男に
ニュートンの脳裏を一瞬、そんな考えがよぎる。
だが、監視員からの報告とクロードの報告に食い違いは見られない。内蔵カメラは火星での戦闘時に破壊されていたために確認できないが、クロードの目を盗んで仕掛けておいたバイタルチェッカーも完全に沈黙している。
遺体の確認ができないのが心残りだが――状況証拠から考えるに、イヴは死んだと見てもいいだろう。
「……結構。ご苦労だった、ヴァレンシュタイン博士」
ニュートンの言葉に、クロードはただ鼻を鳴らしただけで何も答えない。代わりに声を上げたのは、その隣にいた本多だった。
「ど、どういうことですか!? なぜ……なぜ、貴方たちがイヴを……!?」
「
間髪入れず、ニュートンが切り返す。その声からは今までのふざけているような調子が消えており、本多は思わず閉口する。それを見たニュートンは、問の答えを滔々と語り始めた。
「バグズデザイニングのデータを全て取り終わり、イヴという検体の必要性が薄れたこと。この技術を、絶対に他国に奪われないようにする必要があったこと。理由は様々だが、一番は要因を上げるとするなら――」
そこまで言って、ニュートンはふと言葉を切った。彼の目は、じっと本多を見つめている。
「ニュートン博士?」
訝しげに本多がニュートンの名を呼び――直後、彼は気が付いた。彼の目が見つめていたのは自分ではなく、
不審に思い振り返るも、そこには何もない。ただ、ホログラムのモニターが彼らを取り囲むように浮いているばかりだ。
――否。
「……? 何だ、モニターにブレが……?」
――そのモニターに、小さな異変があった。
蛍光色のモニターが、揺らいでいたのだ。それはまるで、テレビに走る砂嵐のよう。始め本多の真後ろにあったモニターのみに見られたその異常は、しかし瞬く間に周りのモニターへと伝播していく。
「これは……!」
立ちあがったクロードが周囲のモニターへと目を走らせる。
すると、それとほぼ同じタイミングで、全てのモニターに走っていたノイズが唐突に収束した。だがそのモニターは正常には戻らず――その代り、一斉にとある画像を投影し始めた。
純白のキャンパスを思わせる真っ白な背景。
その中央に描かれているのは『食い尽くされて芯だけになった林檎』と、『それに巻き付く不気味な幼虫』。
それが意味するのは――
「
クロードがニュートンへと叫んだ、その瞬間だった。不気味な画像の表示されるモニターから、声が聞こえてきたのは。
『あー、あー。マイクテス、マイクテス……うん、感度良好! ハローハロー、グーテンターク! アレクサンドル君、クロード君、聞こえてるかーい!?』
管制室に響き渡ったのは、そんな緊張感のない口調と声音で発せられる、あまりにも場違いな言葉。それを聞いた本多は思わず絶句し、クロードは険しい表情で唇を固く引き結ぶ。
「――聞こえているとも。やはり貴様だったか」
ただ一人ニュートンだけが、モニターから聞こえた声へと語り掛けた。
「今度こそ、
そう言って、ニュートンは眼前のモニターへと鋭い視線を向けた。口元には、笑み。だがその額には青筋が立ち、その双眸には怒りと屈辱の色がギラついていた。
「本当にゴキブリの様なしぶとさだな、黒幕気取りの道化師めが……!」
ニュートンが唸るように言葉を発した途端、室内に満ちる空気の質がガラリと変化した。不気味な沈黙は、嵐の前の静けさへ。凍り付くような恐怖は、焼き尽くすかの如き戦慄へ。
憤怒に燃えるニュートンはさながら牙を剥いた老獅子の如く、周囲の全てを威圧する。本多は彼の身から発せられたその覇気に、思わず生唾を飲み込む。一方で声の主は全く気圧された様子を見せず、愉快気にケラケラと笑い声を上げた。
『もー、そんなに怒らないでよ、アレクサンドル君。何か悪いことでもあったの? そう言うときにイライラするのはしょうがないけど、八つ当たりはよくないよ!』
声の主は怯むどころかニュートンをおちょくるかのようにしゃべり続けた。
『あ、それとも君、ひょっとして更年期だったりする? うわー、年っていうのは取りたくないねー。往年のアレクサンドル君といえば、それはそれはスバラシイ人間だったのに、晩年の君ときたら――』
「――黙れ。これ以上、貴様の不快な無駄口を私に聞かせるな」
ニュートンが不機嫌さを隠そうともせずそう言うと、モニターからは『おお、怖ッ』とおどけたような言葉が返ってくる。ククク、と押し殺したような笑い声を上げる声の主に、ニュートンは渋面を作りながら口を開く。
「……三度は聞かんぞ、何の用があって我々に接触した? まさか無駄口を叩くためだけに、U-NASAの通信システムを乗っ取ったわけではあるまい――」
そう言ってニュートンは、正面のモニターに映し出された画像を睨みつけた。
「何が目的だ、
「アダム、ベイリアル……!?」
聞き覚えのあるその言葉に、本多の背筋を冷たい何かが駆け抜ける。
――本多博士。一つだけ、貴方に聞いておきたいことがある。
――貴方は『アダム・ベイリアル』か?
――ち、違う! あなたが言ったそれが何を意味しているのかは分からないが……私はそんなものは知らない!
彼の脳裏に思い出されるのは、自らの陰謀が暴かれた直後の、クロードと本多の会話。
「ば、馬鹿な! そんなこと、あるはずがない!」
気が付くと、本多は反射的に叫んでいた。
あの後、彼は独自に調べていたのだ。クロードの真意を探るために、『アダム・ベイリアル』という言葉を。
そしてそれが何を指しているのかも――今の彼は知っていた。
「
――アダム・ベイリアル。
それは、今は亡き『イヴ』の生みの親――ネイト・サーマンが、U-NASAへと反旗を翻した際に名乗った名である。
『そーそー、それだよ本多君! 僕の用はまさにそれなんだ!』
「……は?」
本多の口から、思わず間の抜けた声が漏れる。それが果たして聞こえているのか、はたまた聞こえていないのか、声の主――アダム・ベイリアルは、モニター越しに不満げな声を響かせた。
『アレクサンドル君ってば、ネイト君こと『アダム・ベイリアル・サーマン』をぶっ殺したでしょ? もう、これで何人目だと思ってるのさ! 困るんだよね、おつまみ感覚で『アダム』をサクサクと殺されるとさぁ!』
「ッ……!?」
アダムの言葉の意味をまるで理解できず、本多が黙り込む。混乱する彼の横で、冷や汗を流しながらクロードが口を開いた。
「本多博士、いずれ貴方にも説明するつもりだったが……『アダム・ベイリアル』は個人の名前ではない。特定の条件を満たした人物に贈られる『名義』、『肩書』なんだ」
『そのとーりッ!』
クロードの言葉を聞いたアダムは、先程までとは打って変わってハイテンションな声音で言った。
『説明しようッ! アダム・ベイリアルとは、地球上に存在する全科学者の中でも、特に優秀な人材に贈られるスーパーグレイトゥな称号の一つなのです!』
キンキンとした耳障りな声が、室内にいる三人の鼓膜を叩く。ハウリングしたその声に、思わず本多は顔をしかめた。
『アダム・ベイリアルを名乗れるのは、とっっっっても光栄なことなんだよ? この称号を贈られるのは、独力で新技術を開発しちゃうようなスーパーエリート科学者だけだからね! だから未来あるアダム・ベイリアルたちを次々と殺す、アレクサンドル君たちの蛮行に僕はほとほと心を痛めているのデス』
「スーパーエリート科学者? 笑わせるな、狂人の間違いだろう?」
クロードが鼻で笑うと、アダムがわざとらしく、白々しく、そして大げさに声を上げた。
『あ、ひっどーい! 僕たちはただ、日々技術の研鑽にいそしんでるだけなのにー』
「研究のために嬉々として家族や友人を研究材料にし、実験のためだけに平然と内戦を引き起こす。こんなことを日常的にやっている連中を、狂人と言わずに何という?」
クロードは語気に怒りを滲ませて吐き捨てると、モニターの向こう側に座すアダムへと問いかけた。
「火星で起こった不自然な事態の数々……あれもお前達の仕業だな?」
『そうだよー』
間をおかずに、アダムはあっけらかんと答えた。『ま、一から十までってわけでもないけどね』と前置きして、ペラペラとしゃべり始める。
『バグズ1号にメッセージを送ってたのは僕さ。みんなびっくりしてたよね! あの時のイヴ君達の表情といったら、笑い過ぎて死ぬかと思ったよ!』
『テラフォーマー達に共食いの概念を伝えたのも僕だ。今回彼らが見つけることはなかったけど、実はテラフォーマーの屠殺場とかもあるんだぜ? あーあ、見せたかったなー!』
『あ、そうそう。あいつらに階級制とか娯楽なんかも教えたっけ。太ったハゲゴキとか、あれ階級制と娯楽の最大の産物よ? メスを囲ってハーレム作ったり、気に入らない部下を気まぐれに殺したり、人間味があって実にクズかった。惜しくない奴を失ったものだ……』
『おっと、誤解しないで。途中で乗組員たちを襲った人食いゴキブリは、僕が作ったわけじゃない。あれは火星の衛星『フォボス』で勝手に進化してたやつだからね。ま、それを火星に届けたのは僕なんだけど。いい感じにホラーだったでしょ?』
次々と明かされる、彼の凶行の数々。それを聞いた本多は、無意識の内に呟いていた。
「わ、分からない……」
『んー?』
耳ざとくそれを聞きつけたアダムが間延びした声を上げると、本多はモニターへ声を張り上げた。
「アダム・ベイリアル……貴方は、なぜこんなことをする!? 何が目的で、こんなことをしているんだ!?」
本多は一連のやり取りを聞いていて、それがずっと引っかかっていた。人が行動を起こす際には、必ず動機というものがついて回る。火星の生態系を一つ乱してまで成し遂げたい目的とは、何なのか。
それが分からないがために、本多は眼前の狂人へと問いかけた。
『いや、何でって……何となくだけど?』
そしてだからこそ――彼は、アダムから帰ってきたその答えに対して、完全に言葉を失った。沈黙から本多の内心を察したのか、モニターの向こう側でアダムが笑った。
『君は志と理想が高い人間なんだね、本多君。君の中には、望む未来を手に入れるための明確なプロセスがあるんだろう。だから僕がやってることにも、大層な動機なんてものがあると思い込んでいる。けどね、それは君のお・も・い・こ・み☆』
そこまで言うと、アダムはそれまでのまくしたてるような喋り方から一転、低く語り聞かせるような口調に切り替えた。
『――いるんだよ、世の中には。ただ何となくで人を殺したり、思いつきで他人を不幸の底に叩き落したり、気まぐれで自分も他人も破滅させたりするような連中が』
その瞬間本多は、素顔の見えぬアダムが、その口元を三日月の形に歪めた気がした。同時に本多は、本能的に理解してしまう。彼らは
彼らは愛する者を守るために戦うような
強いてその性質を形容するのなら、
『正義とか悪とか、そういう大それたものじゃないんだ』
――彼らを突き動かすのは大義でも、利益でも、妄執でもない。
『僕達を動かしているのは刹那的な快楽とか、突発的な衝動とか、思いつきとか、そういうありふれたもの。ここに個人の事情とかも関わってくるけれど、全体として見れば僕達の行動に『コスパを度外視した悪ふざけ』以上の深い意味はないよ!』
ああちなみに、とアダムは自らの発言に付け加えるように語った。
『僕個人の事情としては、これプラス『ニュートンの一族に対する嫌がらせ』ってとこかな。だって何かむかつくじゃん、こいつら? そんなわけで僕は今回、むしゃくしゃして火星の生態系を乱してみましたー。後悔も反省もしていない!』
「――理解したかね、本多博士。これが、我々の『敵』だ」
愕然とする本多の横で、ニュートンが表情を苦々しく歪めた。
「奴らはいわば、不発弾のようなもの。いつどこで、どれくらいの規模で爆発するのかが全く読めないが……爆発した場合に、周囲にとっての害悪になることだけは分かっている」
だから、とニュートンが繋げる。
「だからアダム・ベイリアルは、殺さねばならない。その存在が広まる前に、アダム・ベイリアルは絶滅させねばならないのだ。彼らが生み出した技術もまた同様。有用な技術なら我々で押収し、改良して使うが……」
ニュートンが視線をモニターから外すと、隣で歯を食いしばる自らの右腕――クロードへと目を向けた。
「大本の技術そのものは、必ず処分する。例えそれがどれだけ便利で、
「っ、だから貴方たちはイヴを……」
ニュートンの頷きに、本多の中で全ての辻褄が合う。数分前までの本多ならば、恐らく納得はしなかっただろう。彼は目的のために非道な手段をとることができる人間だが、人間として外道に堕ちているわけではないからだ。
だが今ならば、2人がイヴの殺害に踏み切ったことも同意できた。実際にアダム・ベイリアルという人物を目の当たりにした今ならばわかるのだ。
彼は生かしておいては――否、
後世に、アダム・ベイリアルという狂人達の旗印を遺してしまわぬように。
『うわ、アレクサンドル君てばシリアルキラー? こわーい! 本人を前にして『殺す』なんて、正気の沙汰とは思えないよ! マジトーンすぎて草も生えない! 君たちは狂ってるよ!』
自分のことなど棚に上げ、アダムの口から神経を逆なでするような白々しい言葉が紡がれる。もはやこの場にいる誰も、真面目に取り合う様子は見られない。彼らの胡乱気な視線を無視し、アダムは明るく言った。
『だから、先手を取って僕が君たちを殺しちゃおう☆ もしもしポリスメェン?』
その瞬間、彼らの背後からガゴン、という機械音が響いた。それに気づいた本多が振り向き、目を瞠る。
ニュートンの許可なき者の入室を拒むはずの鋼鉄の扉が、空いていたのだ。その向こうには、十人ほどの人影が見えた。
「
「はん、答える義理はねえな、ジジイ」
振り返ったニュートンを小馬鹿にするように言いながら、人影たちはズカズカと部屋の中へと踏み込む。
人相の悪い男たちだ。手には軍用のアサルトライフルが握られ、耳にはインカムの様な物を装着している。
これだけ見れば彼らが軍人のようにも見えるかもしれないが、しかしその服装はジーンズやランニングなど、統一性のないもの。更に言えばピアスやチェーンと言ったアクセサリー、露出した肌に彫り込まれた刺青などの要素を見れば、自ずとその人種は特定できた。
「ストリートギャングか……!」
『あったりー! 多額のお金と武器を渡したら、それと引き換えに君たちの惨殺を引き受けてくれた心優しいギャングの皆さんでーす!』
「ブッ、ギャハハハハハ! 大将、あんたそのギャグ最高だぜ!」
アダムの言葉の何が面白かったのか、ギャングたちが下品な笑い声を上げる。数人の顔には返り血がついていることから、彼らがどうやってここまでたどり着いたのかは想像に難くない。そして、自分達がこれからどうなるのかも。
ゾッとするような悪寒が、本多の背中に走った。
「おい大将、本当にこのジジイとヒョロい2人を殺せば金をくれるんだな?」
『モチのロン! そこにいる三人は、世界を裏で牛耳る悪い奴らだからね! 見事討ち取ったのなら、1000万ドルくらい喜んで支払おう!』
「ひゅー、太っ腹なこった。ま、そう言う訳だジジイに兄ちゃん」
男たちは殺意をたぎらせながら、一斉にアサルトライフルを構えた。
「悪いが、俺達の金のために死んで――」
「あー……君たち」
だが、その言葉を遮るようにニュートンが声を上げた。
「悪いことは言わない……
「はぁ?」
ギャングたちは一瞬呆けたような表情を浮かべ、言葉の意味を理解すると同時に腹を抱えて笑い出した。
「ブハハハハ! 銃が怖すぎてボケちまったのか、ジジイ!?」
「イヒ、わ、笑わせんな爺さん!」
「状況分かってんのか? それはどっちかっつーと俺らの台詞じゃねえか、ギャハハハ!」
口々にそう言ったギャングたちに、ニュートンは怒りも怯えも示さない。ただ淡々と、まるで書類の内容を確認するかのような口調で彼らに尋ねた。
「その反応は拒否……と、受け取っていいのかね?」
「あ、あたりめーだ、馬鹿! こ、これ以上、俺らを笑わせないでくれ! ハハハ!」
「……そうかね」
この時ギャングたちは、自分達が圧倒的優位に立っていたがために、警戒を怠っていた。だから、彼らは気づけなかった。
ニュートンがその顔に、あざ笑うかのような笑みを浮かべたことに。
クロードが白衣の懐から、
「――クロード博士、やりたまえ」
ニュートンに呼ばれると同時に、クロードは取り出した俊敏にトローチのを口へと放り込む。口内で即座にそれをかみ砕くと、クロードはその顔に何の表情も浮かべずに呟いた。
「――“人為変態”」
その瞬間、クロードの体から無数の細いビニール紐の様なものが現れた。モニターの光を浴びて青く輝くそれは、クロードの周りに揺らめきたつかのように展開し、青い奔流となってギャングたちへ押し寄せた。
「な、何だこの青いの――ぶっ!?」
無論、油断していた彼らにそれらを躱す術はない――もっとも、警戒していたとしても、逃れられたかどうかは怪しいところだが。青い奔流は、突然の事態に反応できないギャングたちを一瞬で飲み込む。
仮にこの光景を見ている第三者がいたとすれば、彼らは思わず息を呑み、さながらおとぎ話の魔法のようだと表現するに違いない。それほどまでにその青は美しく、妖しく、幻想的な様相を呈していた。
だが、その直後に広がる惨状を見れば、彼らはすぐに考えを改めることだろう。
白浜へ打ち寄せた波が引いていくように、青の奔流がクロードの下へと戻っていく。そこには、床に倒れこみ苦し気に呻くギャングたちの姿があった。
「て、めぇ……ぐっ、何しやがったァ……!?」
「あ、ああ、いでぇ! いでぇよォ!」
「だ、誰か、助げでぐれ!」
苦悶の声を上げて身をよじる彼らの体には、至る所に赤いミミズ腫れができていた。赤く爛れたその部位はまるで電撃の様にジクジクとした激痛を発しており、その激痛に耐え切れなかった数人は既に気を失っている。
「馬鹿な……!」
本多は目を見開き、クロードの周囲に揺らめく青い紐を凝視した。その形状、その質感、その色合い――彼は瞬時にその正体に気付く。
それは、『触手』だ。
言うまでもなく、それは人間の体には本来備わっていない器官である。となれば必然、クロードは後天的に、即ちバグズ手術によってその器官を獲得したことになるのだが……。
(
「昆虫以外を手術ベースにしたバグズ手術……!?」
『昆虫以外を手術ベースにしたバグズ手術、かな』
奇しくも同じタイミングで、本多とアダムは同じ言葉を口にする。だが2人の声の調子は全く正反対で、驚愕を隠し切れない本多に対して、アダムは事前に導き出していた解答の答え合わせをしているかのようだ。
『盗んだデータには書いてあったし、まぁ君なら成功させてるか。しかもそれ、イヌとかクモみたいにやりやすそーな奴じゃなくて、上級者向けのクラゲだよね? いやー、技術大国のドイツが魚類ベースでヒーヒー言ってる時代によくもまぁ……ハブクラゲだっけ?』
「……そうだ」
データを見られている以上、嘘を吐くのは無意味だと考えたのだろうか。少し考えこんでから、クロードはアダムの言葉を肯定した。
「日本原産“ハブクラゲ”――それが私の手術ベースだ」
――ハブクラゲ。
『えっげつなー。もろに対人特化のベースじゃん、それ。いくら僕の精鋭でも、これはちょっとキツイかな』
アダムは苦笑すると、地面へ倒れ伏す哀れなギャングたちへと声を投げかけた。
『おーい、君たち! 事前にアレは持たせておいたよね? 早めにかけて洗った方がいい! 楽になるぞ!』
その言葉を聞くと同時に、幸か不幸かまだ意識のあった数名は、腰に下げていた水筒のようなものを手に取り、激痛に震える指でふたを開ける。途端、中からツンとした匂いが漏れ出て、部屋の中へと満ちた。
「この匂い――食酢か!」
本多がいち早く、水筒の中の物体の正体に気付く。ギャングたちが手に持つ水筒。中に入っているのは何のことはない、ただの食酢である。
だが侮るなかれ、食酢には一部の毒クラゲの毒を不活性化させる成分が含まれている。そのため現地では本種に刺された場合の対処法として、食酢を傷部分にかけることが推奨されているほど。
そしてその食酢は、ハブクラゲの毒に対しても有効。ギャングたちは一様に、水筒の中に満たされた食酢を救世主と信じて、その身に浴びる。
そして彼らは、
「ギャア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!?」
もはや断末魔と言っても過言ではない声を数秒程発した後、彼らは全員が白目を剥き、口から泡を吹いて動かなくなった。地獄のような光景に青ざめる本多の背後で、パチパチと乾いた拍手の音が響く。
『ああ、やっぱりね。クロード君、君ってば僕に偽のデータ掴ませたでしょ?』
「……」
『ありゃ、だんまり? じゃあまあいいか、僕が代わりにばらしちゃうね!』
先程と違って何も答えないクロードに、アダムは喜色の滲む声を弾ませた。
「君の本当の手術ベースは“カツオノエボシ”。ハブクラゲの方はいかにもそれっぽい偽装ベースでしょ。違う?」
ねっとりと言ったアダムに、クロードはやはり何の言葉も口にしない。だがその表情は、微かにひきつっているように見えた。
――カツオノエボシ。
アダムの言う通り、それこそがクロードの本当の手術ベースとなった生物の名。透明な風船のような浮袋と最大50mにも達する長大な青い触手を持つ、一風変わった姿のクラゲだ。
その毒は強力で、刺されるとまるで感電したと錯覚するような激痛が走ることから、電気クラゲの異名を持つほど、刺された人間が死亡するという例も確認されている。しかもハブクラゲと違ってその毒に食酢は効かず、むしろ傷と毒の症状を悪化させてしまうというおまけ付き。
「そのことに気付いた上で、わざわざ食酢を浴びさせたのか……!」
『そうだよ? まぁ、確認の意味もあったけど。所詮は一山いくらの捨て駒だからね、ちゃんと活用して挙げないと可哀想でしょ』
怒りの滲んだ本多の追及に、アダムはさも当然と言わんばかりの口調で返した。少し前の台詞をあっさりと翻して開き直るその態度に、本多は苛立ちながらも一周回って感心にも似た感想を抱く。
――ところで、先述した通りカツオノエボシは非常に凶悪な殺傷力を秘めた危険生物なのだが、この種の生物としての最大の特徴、特異性はもっと別の所にあるのをご存じだろうか。
彼らの持つ最大の特徴、それは――
『それにしても、刺胞動物型の手術を成功させたってだけでも驚きなのに、
――無数の個体からなる、群体であるということ。
ヒドロ虫と呼ばれるクラゲの仲間が集まり、それぞれが触手やポリプなどの役割を果たすことで象られる融合生命体。それが、カツオノエボシという生物だ。
当然、それをベースとして行う『群体生物型』のバグズ手術の難易度は、全ての生物の中でも、間違いなくトップクラスの難易度だと言えるだろう。
既に実用化されている『昆虫型』は言うに及ばず、技術的にはあと一歩のところまで迫りつつある『節足動物型』や『脊椎動型』もこれに比べれば簡易な部類。
『細菌型』や『脊索動物型』といった特殊な生物と同等か、あるいはそれ以上の難易度を誇るのが『群体生物型』である。
『人体とベース生物を細胞レベルで同化、更にあくまで一個体でしかない人間の体を、変態時に群体生物として定義しなおす。これだけでも大変なのに、駄目押しにこの手術を自分自身に施したときた』
可笑しくてたまらない、というようにアダムは笑い声を上げた。
『まあ、
モニターの向こう側から、アダムは心底楽しそうな調子で言った。
『
「黙れ」
間髪入れずにそう言うと同時、モニターを睨むクロードの眼光に鋭い殺意が灯る。
「その名は既に捨てた――二度と私をその名で呼ぶな……!」
『えー、つれないこと言うなよー! ま――昔みた――に一緒に……って、あら?』
言いかけた言葉を中断して、アダムは怪訝そうに声を上げた。音声にノイズが混じるようになったのだ。
「残念だが……お喋りはここまでだ、アダム・ベイリアル」
声を発したのは、いつの間にかタブレット端末をその手に握ったニュートンだった。カメラ越しにそれを確認して、アダムは合点がいったとばかりに声を上げた。
『ああ、セ――ティシ――テムを復旧――たのね。えっと、これをこうしてっ、と……よし、落ち着いた。さっきからアレクサンドル君が喋ってなかったのは、これを進めてたからか』
向こう側で彼が何かしたのか、再びアダムの音声が安定する。だが、それもその場しのぎに過ぎないことを理解しているのだろう。アダムは名残惜しそうな声を上げる。
『ま、名残惜しいけど、今回はこの辺しておこうかな。うん、今日はたくさん話せて楽しかったよ、3人とも! お礼に――』
そしてアダムは、今日最大となる爆弾をニュートンに投げこんだ。
『バグズ手術とバグズデザイニングのデータ、世界各国の首相に、メールで一斉送信しておくから!』
「ッ!? おい待て――!」
この時、ニュートンは初めてその顔から余裕の表情を消し、動揺の声を上げる。だが、時すでに遅く、アダムとの通信は復旧したセキュリティシステムによって完全に絶たれてしまった。
モニターに映っていた不気味な絵が消え、通常のそれへと戻る。だがニュートンが浮かべたのはアダムを追い出したという喜びや安堵ではなく、強い嫌悪感と苛立ちだった。
「おのれ、アダム・ベイリアルッ……! 狂人風情が、どこまで我々を馬鹿にするつもりだ……!」
指で掴んでいた葉巻をへし折ると、ニュートンは椅子から立ち上がった。それを見た本多が、その真意を確かめようと声をかけた。
「ニュートン博士、何を……」
「決まっている、各国への根回しだ。奴が実行に移すかはわからないが、仮に実行されれば間違いなくU-NASAの権威は失墜し、技術が氾濫する。世界の警察たるアメリカの失脚と過剰な技術供給、そうなれば次に来るのは国をあげた資源の取り合い――全面戦争だ。今はまだ、その時期ではない」
そう答えたニュートンは、クロードにタブレット端末を手渡し、そのまま部屋の出口へと足早に歩いていく。よほど業腹だったのだろう、その足音は普段に比べて数段荒々しい。
「アダム・ベイリアル、黒幕気取りの道化師め……! 必ず、根絶やしにしてくれる!」
ニュートンはそう言い残し、扉の向こうへ姿を消した。呆然とした様子でそれを見送る本多の横で、クロードは操作を終えたタブレットを閉じた。既に展開していた青い触手は姿を消し、その姿は人間の物へと戻っている。
「U-NASAの特殊部隊に連絡を入れておきました。そこに転がっているギャング達は、時期に到着する彼らが確保します――本多博士、今のうちに迎えの車まで案内しよう」
そう言ってクロードが歩き出し、本多が慌てたように彼の後を追う。2人の間に、会話はない。間もなく駐車場にたどり着き、既に待機していた車に乗り込んだ本多は、ひどく疲弊しているようだった。
無理もないだろう、彼はほんの一時間の間に、多くのことを知りすぎたのだから。それを察したクロードは、手短に最低限のことだけを伝えることにする。
「今日できなかった分の埋め合わせについては、また後日。それではお気をつけて、本多博士」
力無く本多が会釈を返すと同時に、ドアが閉まった。まもなく本多を乗せた車は駐車場をあとにし、夜のワシントンの中へと姿を消した。
それを見送るクロードの脳裏に、ふとアダムの言葉がよみがえる。
――アダム・ベイリアル・ヴァレンシュタイン。
それはかつて、己が『アダム・ベイリアル』であった頃の呼び名。どうあがこうとも変えることのできない、忌々しい記憶の断片である。
自分はかつて、この名の下で――。
「――いや、よそう」
クロードは1人呟くと、首を振った。自分が犯した罪を忘れるつもりは毛頭ない。時が来たのなら、いかなる罰も受ける所存。だが今の自分がすべきことは、その罪を懺悔することではなく、裁かれることでもなく――償うことだ。
「
――備えなくては、次の脅威に。
そう呟くと、クロードは踵を返してU-NASAの中へと戻っていく。もはやその場には、いかなる人の気配もない。
しんと静まり返った駐車場を、夜空に輝く深緑の凶星が見下ろしていた。
――――――――――――――――――――
――――――――――
――西暦2599年6月20日 13時23分。
目を醒ました少年の目に真っ先に映ったのは、天井だった。ところどころ材質が剥がれ落ち、骨組みの鉄筋が見えている天井は薄汚れている。
次に感じたのが、異様な蒸し暑さ。じっとりと纏わりつくような不快な蒸し暑さにさらされて、肌に汗がにじむ。まるで熱帯雨林のようだと感じた直後、彼の耳は様々な動物たちの鳴き声を捉えた。
インコたちの歌、カエルの合唱、猿の吠え声。どうやら自分の予想は当たっていたらしい、と朦朧とする意識の中でぼんやりと考え――そこで彼は初めて自分がベッドと思しき物の上に横たわっていること、そしてその傍らに1人の見知った人物が座っていることに気が付いた。
「おはよう、気分はどう?」
それはまだ若い、白衣を纏った青年だった。西洋人にしては珍しい黒髪に、男性とも女性ともつかぬ中性的な顔立ちをしている。
「――」
驚いて声を上げようとするも、喉がかすれて声が出ない。それを見た青年は、中性的なその顔に苦笑を浮かべた。
「まだ麻酔が完全に解け切ってないのか。無理にしゃべろうとしない方がいい」
そう言って青年は少年を抱き起すと、彼の手に水を注いだコップを握らせた
「飲んで。少しは楽になるはずだ」
勧められるまま、少年はコップの水を口につけた。温い真水が彼の喉を潤し、そのまま胃の中へと流れていく。コップの中の水を一気に飲み切って初めて、少年は自分の喉がカラカラに乾いていたことに気付く。
「落ち着いた?」
青年の言葉に少年は頷き、それからぐるりと周囲を見渡した。
どうやらここは、診療所のようだった。大きくはない部屋にベッドが二脚並べてあり、そのうちの片方に自分は寝かされていたらしい。腕には点滴の針が刺さっており、枕元には心電図を映す医療機器が置いてある。
窓の向こうに目を向ければ、生い茂る熱帯植物とその間を飛び交う青色のモルフォ蝶の姿が目に入る。明らかに文明圏ではないことに、少年は気が付いた。
「ああ、ここは南米にあるリカバリーゾーンの一角さ」
少年の心を見透かしたように、青年が言った。
「この辺りは元々町だった関係で廃墟も多いから、そのうちの一つを改装して簡単な拠点にしたんだ。まぁ、ここなら万が一U-NASAが調査しても――って、そんなことはどうでもいいか」
青年はそう言うと、大きく息を吐く。その瞬間、周囲の空気が俄かに引き締まったのを、少年は肌で感じとる。
「なぜ自分が生きているのか、気になるんだろう?」
コクリ、少年が頷く。青年はそれを見ると、白衣のポケットから空になった注射器を取り出した。
「まずは君が生きている、物理的な理由。これはそんなに難しいことじゃない。君に渡したこの薬は毒薬じゃなくて、強力な麻酔だった。ただそれだけのことだ」
そう言うと、青年はその注射器をポンと空中に放る。無造作に宙を舞ったそれは放物線を描き、部屋の隅に置いてあったゴミ箱へと吸い込まれ、カコンと音を立てた。
「約束を破る形になるが……私には、君を殺せない」
そう言って青年は、目の前の少年を見つめる。透き通った水色の瞳が、困惑したように自分の目を覗き込んでいた。
「君は、自分の罪を理由に死にたいと願った。前提として、私は君が罪悪感を抱く必要は少しもないと思っているけれど……君はそうは思わないだろうから、代わりにこう言おう」
そう言ってその青年は優しく、しかし残酷に。少年へその一言を突き立てた。
「もしも君がそれを罪だと思うのなら、
少年の力が有益であるから殺したくないという打算はある。
少年は家族のようなものだから、己の手で殺したくないという感情もある。
少年に一切の罪がないという認識も、心からの言葉。
だが、彼がたった今口にしたその言葉も、やはり本心からのもの。
「たとえどんなに苦しくても、どんなに辛くても――許しを求めて、君は贖い続けなければならない。君が罪人で、その罪に苦しんでいるというのなら」
青年の言葉に、少年は俯いた。気づいてしまったからだ、自分の願った死とは、安直な罪からの逃走に他ならないことに。
「――二十年後」
青年がポツリとつぶやく。その真意を測りかね、少年は顔を上げて青年の顔を見つめた。
「おそらく二十年後、人類は再び火星に向かうことになるだろう」
「!?」
目を見開いた少年の眼前で、青年は眉間を手で押さえると深刻な表情で語り出した。
「君たちが火星から帰ってきたのと同時期から、未知のウイルスが流行し始めている。22年前、バグズ1号からの『荷物』が飛来した際にも存在は確認されていたが、今回はその比じゃない。まず間違いなく、火星産のウイルスだ」
自分達がしてしまった重大な失態に気付き、少年は青ざめた顔でえづき始める。そんな彼に、青年はもう一杯水を飲ませると、落ち着いた頃を見計らって再び口を開いた。
「今はまだごく少数の患者が出るにとどまっているが、いずれ……おそらくは二十年前後で、私たちの手に負えない程にウイルスは広がる。そうなったら私たちは、ワクチンを作るために、火星へとウイルスの原種を取りに行かなくてはならない」
そして、と。
青年は、少年が動かざるを得なくなる最後の手札を切る。
「その火星探索にはおそらく――ミッシェル・K・デイヴスが加わることになる」
「ッ!? な、んで……!?」
余程、彼の言葉が衝撃的だったのだろう。少年は喉が痛むのも構わず、かすれた声を上げて青年に問う。
「つい先日、あの子が特異な体質を持っていることが判明したからだ。彼女の体には、
「う、そ……そ、れ゛って……」
少年の脳裏に、一つの言葉が浮かぶ。自らを生み出した技術――バグズデザイニング。まさか、あの子もそれによって造られたというのか?
その表情から彼の考えを読み取ったのか、青年は首を横に振った。
「いや、彼女の経歴を探ったが、あの子は紛れもなくデイヴス夫妻の実子だ。つまり、純粋に親からの遺伝で昆虫の遺伝子を獲得したことになる」
――それは神の起こした奇跡か、はたまた悪魔が画策した陰謀か。あるいは、親子の絆だろうか。
とにもかくにも、天文学的な確率で幼い少女の体には1人の男の遺志が、戦うための術が、受け継がれてしまった。
即ち彼女は、
「体質と性格から考えるに、彼女は父親の死の真相を探るために、自ら火星探索に加わる可能性が高い。仮に本人にその意思がなくとも……十中八九、巻き込まれる」
ここまで言えば分かるね、と青年は少年を見やった。
「君が彼女を守るんだ、
――それが君にとって償いになるはずだ。
そう言って青年は、少年の手を握る。
「勿論、私も協力を惜しまないつもりだ。計画は練ってあるし、根回しも既に始めてる。バグズ2号の悲劇は二度と起こさないように、万全を期そう。だから、お願いだ――」
そしてその青年は少年の体を抱きしめ、懇願するように言った。
「――私に君を殺させないでくれ、イヴ」
※※※
「すまない、取り乱した」
数分後、恥ずかしそうにそう言った青年に、少年は頭を振った。
「……何はともあれ、まずは君の名前かな」
空気を切り替えるように青年が言うが、少年はその意味を理解できずに首を傾げる。それに気付くと、青年は簡単に事情を説明した。
「今の君は、公には死んだことになってるからね。今はいいけど、いずれ君が表舞台に立った時、今の名前のままだと色々不都合なんだよ。だから今から、君には『偽りの名』を贈ろうと思う」
そう言って青年は、少年の頭を撫でた。
「君の名前は、一度私が預かろう。然るべき時が来たら、きっと返す。だからその時まで、君はこう名乗るんだ――」
※※※
ここまでが、少年が犯した罪の全てである。
そしてこれより紡がれるは、その償いの全て。
――これは、贖罪の物語。
一人の少年が背負うことになる、十字架の物語である。
贖罪のゼロ 第一章 了
To be continued Next Mission…