彼女の名はエスメラルダ。赤色の髪に白の肌、美しい赤の瞳を持った、故郷では歌姫として多くの人に愛されていた、それはそれは可愛らしい少女でした。
彼女は、開拓の為にアメリカ大陸に送られました。でも、それが嫌で、偶然にも機会を経て逃げ出す事に成功しました。
しかし、女の子一人で生きていくには、あまりに苛酷な、まだ発展段階の国。彼女が逃げ込んだうち捨てられた廃屋では、何もする事ができません。
日に日にやつれ、死が少しづつ近づいてきたエスメラルダは、苦渋の決断をしました。そこを通りかかった旅人を襲い、荷物を奪ったのです。本当はこんな事はしたくなかったのでしょうが、仕方なかったのです。そして、自分の事がばれてしまわないように、その旅人を殺してしまいました。
旅人の死体は丁重に埋葬し、エスメラルダは荷物の中の食糧を手に入れ、ひとまず生き永らえました。しかし、それは長くは持ちませんでした。川や海で魚を取ればよかったのかもしれません。何か作物を育てればよかったのかもしれません。でも、裕福な家庭に育った彼女にはそのような知識も経験もありませんでした。
餓えた彼女は再び、旅人を襲いました。荷物を奪ったのですが、何と、食糧が入っていませんでした。このままでは死んでしまいます。荷物の中身を売って食糧を買おうにも、街に出れば奴隷だった自分の立場がばれてしまうかもしれません。
……目の前に、肉があるではありませんか。
こうして、エスメラルダは旅人を襲って、その肉を食らうようになりました。しかし、か細い少女が旅人を自ら襲って成功する可能性は低く、これまでの成功も偶然のようなものでした。そこで、彼女はある事を考え着きました。
旅人が自然道を歩いていると、美しい歌声が、突然響いてきました。
自分と同じ旅人が、無聊を慰めているのかなと思い、旅人はその声のする方に向かいます。
そこにあったのは、古びた廃屋です。旅人はそこに入り、そこで彼の意識は途切れました。
そんな事が繰り返されていたある時、エスメラルダは一人の男性に出会いました。
捕えた旅人なのですが、彼はエスメラルダの声に惚れ込み、彼女に一目惚れしてしまったというのです。
これまで捕えてきた旅人には恐ろしい殺人者としか思われず、奴隷になる前にもそんな経験の無かったエスメラルダは、彼の情熱的なアプローチにすっかり惹かれてしまいました。
……ここで、彼が機転を利かせてエスメラルダの隙を付いて逃げ出すという展開になれば、この物語は終わっていたのでしょう。
しかし、彼もまた正常な人間ではなかったのでしょう。
二人は、仲良く暮らし始めました。子どももできました。そして、二人揃って旅人を襲撃し、その肉を食らい、荷物を奪ったのです。
しかし、その生活は長くは続きませんでした。
度重なる行方不明、『歌で旅人をおびき寄せる魔物』の噂を重く見た開拓団が、武装してやって来たのです。
探索の末に二人は見つかり、廃屋から見つかった無数の人骨が決めてとなり、その場で殺されました。
ですが、まだ幼かった赤ん坊は、何の罪も無いと助け出されたそうです。
――アメリカ寓話『人喰らいエスメラルダ』より抜粋
「……」
時計の長針は午後六時半を回った頃、エメラダはようやく図書室を後にした。
どこか浮かされたように急ぐ家路は宵闇に呑まれている。帰宅すれば案の定、教育熱心な両親から門限を破った件で雷が落ちたが、今のエメラダにとってそんなものは億劫ですらなかった。
説教から解放された彼女はその足で自室まで戻ると、スクールバッグの中から古びた一冊の絵本を取り出した。
『人喰らいエスメラルダ』。ところどころ色が剥げた表紙に指をかけ、黄ばんだページをめくる。
エメラダは挿絵をじっくりと鑑賞し、ページ内の一言一句を舐めるようになぞり、何度も何度も、絵本に描かれたその寓話を読み耽る。
そうして物語をゆっくりと咀嚼すると、次に彼女はノートパソコンのキーボードを叩く。インターネット上での『人喰らいエスメラルダ』の評価は「悪趣味な物語」「救いのないおとぎ話」といったものが大半で、専門家からは「因果応報の教訓」だの「タブーを侵すことへの警告」だのと、小難しい解釈が論じられている。
「……違う」
けれど、エメラダは直感した。ネット上で述べられたいくつもの意見を総覧し、しかしそのどれもが物語の本質を捉えていない。
なぜ──なぜ誰もわからないのか?
この物語の中核をなすのは、彼らが好き勝手に論じる残酷さや道徳論ではない。
これは、
どん底に突き落とされ、禁忌と知りながらも人を喰らうエスメラルダ。その異常性を目の当たりにしてなお彼女に思いを寄せた旅人。打算も義務もなく、二人は真実の愛をはぐくんだ。その結末は決して幸福なものだったとはいえないけれど、少なくとも一人孤独に野垂れ死ぬよりは遥かに救いがある。
──なんて素敵な物語なんだろう。
その夜、エメラダは感動と切望を胸に眠りにつき、そして夢を見た。
可愛げのない自分を心から愛してくれる、素敵な王子様。彼との間に生まれた子供たちに囲まれて幸せそうに笑う、自分の夢。
彼の顔はよく見えなかったけれど、寝る前に読んだ寓話の影響だったのか、頭髪の赤が見惚れるほどに美しかったことをよく覚えている。
前にも述べた通り、エメラダはどこにでもいるような少女だ。
その日以来、彼女は常に一つの
『
禁忌を犯したエスメラルダに旅人が現れたのなら。きっと、閉塞した毎日に閉じ込められた私にも、いつか王子様が現れるはず。
子供じみた憧れを心の底から信じて、彼女は変わり映えのしない灰色の毎日を過ごす。そんな彼女に決定的な転機が訪れたのは、半年ほどたった時のことだった。
その日は、エメラダの祖母の誕生日だった。彼女は家族に連れられ、町の中のとあるレストランを訪れた。父から聞いた話では、その店は一流の料理と一流の歌で客の耳と舌を楽しませてくれることで有名らしい。
果たしてこの家族たちと一緒の席で、高級料理と美しい歌をどれほど楽しめるだろうか……しかし、わざわざ逆らって不興を買うほど馬鹿らしい話もないだろう。
仕方がない、とエメラダは家族と共にレストランを訪れ──そして彼女は、ダリウス・オースティンに出会う。
最初にエメラダが彼の姿を見たのは、厨房で客に出すための料理を作っている場面だった。
案内された席、ふと何気なく目を上げたエメラダの目にダリウスが写る。ふわりとした赤毛に、吸い込まれそうな青色の瞳。およそ他者への害意などないような穏やかな人相に真剣さを張り付けて、彼は目の前の鍋に向き合う。
──なんて真っ直ぐな目なんだろう。
エメラダは思う。父も母も、自分が出会ってきた人はみんな何かに固執していて、その目は曇っていた。
けれど、ダリウスは違う。調味料を加え、火加減を変え、何度も味見をして完成を模索する彼は、固執しているのではなくこだわっていた。彼にとっての『最高』で客をもてなそうとしている……そのひたむきさが、まぶしかった。
「……よしっ!」
何度目かの味見で、どうやら満足のいく出来栄えになったらしい。
呟きと共に、先ほどまで真剣そのものだったダリウスの表情は、一転してあどけない笑みへと変わった。そのギャップにエメラダは思わず胸がきゅんとして、いつになく顔を赤らめた。
「シェフ、そろそろご準備を!」
「おっと、もうそんな時間か……わかった、厨房はいったん任せたよ」
従業員の一人に声を掛けられ、我に返ったダリウスは厨房を出るとエプロンを脱ぎ始めた。
なぜシェフが厨房を離れるのだろう、とエメラダはダリウスの姿を目で追い、しかしその直後に疑問は氷解した。すべての客席から見えるように設置された簡素なステージの上に、ダリウスが登壇したからだ。エメラダは納得すると同時に、目を丸くする。父が言っていた『一流の歌』──従業員が歌うとは聞いていたけれど、まさかシェフがその歌い手だったとは。
驚く彼女の前でダリウスは簡単な挨拶を済ませると、マイクを手に取る。レストラン内の照明が弱まり、夕刻のほの暗さにマッチするしっとりとした曲が店内に流れだす。それに合わせ、ダリウスの口は静かに歌を紡ぐ。
彼の声はエメラダにとって、生まれて初めて聞いた澄んだ音色だった。その瞬間、生まれて初めてエメラダの世界から有象無象の雑音は消え去り、ただダリウスの声だけが鼓膜に残響する。なんて美しい旋律なんだろうか──エメラダは時間が経つのも忘れて聞き惚れる。彼女が読書以外にここまで集中したのは初めてのことだった。
気が付けば歌は終わり、客席からの上品な拍手の音を背にダリウスがステージから降壇するところであった。耳に戻ってきた雑音に一周回って安心感を覚えながら、エメラダは運ばれてきたキッシュを口に運ぶ。
そして、何度目になるかもわからない驚きを顔に浮かべる。それまで彼女は、料理の味をあくまで感覚の一つとしてしか認識していなかった。毎日の通学路に何の感慨も抱かないように、生活音に一々心がざわめくことがないように、エメラダにとって食事とは逐次感想を抱くようなものではなかったのだ。
だが、このキッシュはどうだろう? サクリとしたパイ生地の食感、ベーコンとほうれん草の旨味に、チーズクリームのまろやかさは、エメラダの食事への認識を改めさせるに余りある物だった。早く次の一口を食べたい、そう思ったのは一体いつ以来だろうか。
次々と運ばれてくるフルコースメニューを夢中で食べる。デザートの皿が空になる頃、エメラダは言いようのない幸福に満たされていた。後にも先にも、こんな素晴らしい時間が訪れることはないだろうと、エメラダはナプキンで口元をぬぐいながら本気で思う。
もしできるのならば、もっとここにいたい──そんな思いが、エメラダの心に芽生える。話をしてみたかったのだ、自分の常識を一瞬で塗り替えてしまったダリウスと。灰色の世界に色をくれた彼が何を考えているのか。そして彼と心を通わせ合い、深い愛で結ばれたなら──そんな幻想を、彼女は夢見る。
けれど夢はいつか醒めるもの。父が食べ終え、母が食べ終え、祖母が食べ終え、家へと帰る時間が来た。会計を終え、家族たちが次々と店の扉を出ていく。名残惜しさを抱きながらもエメラダも店を出ようとしたその時、彼女は背後から「お客様」呼び止められた。どうしたのかとエメラダは振り向き、そのまま硬直する。
「ハンカチ、落とされましたよ」
彼女を呼び止めたのは他でもない、自分たちに美声を披露し、絶品ともいえる料理を振る舞い、自分の心を占領してやまない赤毛のシェフ、ダリウスその人だった。不意を打たれて驚くエメラダに気づいているのか気付いていないのか、ダリウスは彼女の前に右手を差し出す。その手に握られている上品な赤のハンカチはなるほど、確かに彼女のものだ。
「ぁ……ありがとう、ございます」
なんとか礼を言うと、彼女はハンカチを受け取る。一瞬だけ人差し指が彼の手に触れて、エメラダは思わず飛び上がりそうになるのをぐっとこらえる。そんな彼女に、ダリウスはにこりと微笑みかけた。
「またのご来店、お待ちしています」
おそらく、本当に偶然自分がハンカチを落としたのを見てしまっただけだったのだろう。ダリウスはそういうと一礼して、呼び止める間もなく厨房の奥へと戻っていってしまった。
束の間エメラダは所在なさげに視線を泳がせると、それからレストランを後にした。高揚した顔が熱い。これがきっと、本で読んだ『恋』という感情なんだろう。風邪をひいたときのようにふわふわして、頭がぼーっとして、でも不快じゃない、そんな不思議な感覚。
──来週になったら、自分でまた来よう。
帰りの車中、エメラダは窓の外を流れていく夜景を眺めながら密かに決意する。学生の自分には少しばかり値は張るが、そんなものはどうでもいい。今の彼女の頭の中に浮かんでいるのは、帰り際にダリウスが見せた笑顔だけ。
もう一度、自分に灰色ではない世界を見せてくれた彼と、もっと話したい。
あの人と並んで、二人で同じ景色を見たい。
そしていつの日か──灰色の日常に囚われた
そんな思いが、彼女の胸に息づいていた。
────────────────────
──────────
「見つけました、ダリウス様」
歪な槍を振りかざし、エメラダは静かに告げる。彼女の視線の先には、憔悴しきった様子のダリウスの姿があった。彼は立っているのもやっと、といった様子で壁を背にし、息を荒げながらエメラダを睨みつけていた。
「ダリウス様──私は、どんな貴方だって愛します。貴方に愛されるためなら、なんだってします。だから、一緒に幸せになりましょう」
「断る」
息も絶え絶えに、けれど明確に告げられた拒絶の言葉に、エメラダは顔をゆがめる。そんな彼女に、ダリウスは言葉を続けた。
「俺は取り返しのつかない罪を犯した。そんな俺に、幸せになる権利なんてないんだ。お前がなんで俺にそこまで固執するのかは分からないけど──何度言われても、俺の答えは変わらない」
「……それでも」
ダリウスの答えに、エメラダは絞り出すように呟いた。一歩踏み出し、彼女はダリウスに少しでも近づこうと部屋の中へと入った。
「それでも私は、幸せになりたいんです。ダリウス様、貴方と一緒に」
「他の誰かじゃダメなんです。私に全てをくれた貴方と幸せになれなきゃ、意味がない」
「だから、だからダリウス様──」
──私の愛に、全てを委ねてください。
そういうと同時、エメラダの翅が開く──その動作は、彼女自身の専用武器の起動を意味していた。
蚊の特性にアメリカ上層部が目を付けたのは、αMO手術が開発されて間もなくのことだった。
蚊という生物は毒蜂や毒蜘蛛のように強力な能力を持っているわけではない。それにもかかわらず、彼女らが地球上でもっとも多くの人間を殺し続けているのは、その体に宿る無数の病原菌たちあってこその業である。
当時の政治家たちは考えた。この特性を対MO手術被験者に活かすことはできないかと。
歪な槍とある程度の速度での飛行に、熱や二酸化炭素の探知能力。それだけならば、よほど素体が強くない限りは器用貧乏な一戦闘員どまりだ。けれどそこに『病を操る』という特性を備え付けることができたのなら──蚊の被験者はその一人一人が、文字通りの『生物兵器』と化すだろう。
そうした理念を受け、U-NASAの技術の粋を集めて作られた専用武器。それこそが『
『
その名を与えられたこの専用武器は使用者に悪影響を与えず、生物性の病原体を体内で管理・培養することを可能とする。
そうして増やした病原体は、もう一つの専用武器『
白陣営の指揮官だったルイスもまたこの点に目をつけていた。彼らに与えられた変則駒である『狂人病ウイルス』は、既にエメラダの専用武器を通していくつかの都市に散布している。今はまだ活性化させていないために発症者はいないはずだが、刻々とその感染者は増え続ける。
そして頃合いを見計らい掌握したサイト66-Eの設備でネバダ州中の通信設備をハッキング、エメラダの羽音を放送する。一斉に人々は狂人病を発症してB級映画のようなゾンビパニックが現実のものとなる──というのが、ルイスが描いたアメリカ陥落のプロットである。
条件さえ整えば、単身で大陸の滅亡すらも実現可能な特性と専用武器──その脅威が今再び、ダリウスに牙を剥かんとしていた。
「終わらせましょう、ダリウス様。これ以上、何を言い合っても平行線でしょうから」
来たか、とダリウスは思う。ヨーゼフから聞かされたこの専用武器の最大の強みは防ぎようがないこと、その一点に尽きる。
放射能などあらゆる危険物質を遮断する全危険区域用防御甲冑『マン・イン・ザ・シェル』でもあれば話は別だが、そうでもない限り彼女のナノマシンと病原体を防ぐことはほぼ不可能だ。
故にその力は『絶対』──自身と並び立つ、裏マーズランキング同率1位という評価を受けている。
「でも──
ヨーゼフは言った。もしもう一人の一位と相対することがあったら『何もさせずに仕留めろ』と。あるいは、『彼女の特性を封じるための設備』を使えと。
実際問題として、前者を実現するのは至難の業である。ただの一動作──それだけで、彼女の攻撃は完了するのだから。そして後者に関しても、やはり実現は不可能に近い。なぜなら『その設備』は、戦場とは直接的にはなんの関係もないものだから。よほど例外的な状況下でなければ、彼女には勝てない。
けれど今自分が置かれている環境こそ、その例外的な状況にあてはまる。兵器開発施設であるこのサイト66-Eには『在る』。
エメラダの専用武器を無効化しうる、備え付けの設備が。
「ミッシェルさんッ!」
ダリウスが叫んだ、その直後。まるで彼の声に呼応するかのように、部屋のシャッターが下りたのだ。慌てて振り向いたときにはすでに遅く、エメラダとダリウスはその部屋の中に隔離されてしまっていた。
それと同時、ダリウスの腹部が振動する──それはハデトセナゼミの呪歌を放つための予備動作だ。次の一撃で決着をつける心づもりなのだろう。
──何の意味がある?
エメラダは訝しんだ。ダリウスの本気の一撃が放たれれば、おそらくはこの施設そのものが半壊する。専用武器である『無形』によって被害を抑えることができるのは、分散しても四方向が限界──ならばこの空間を閉鎖したのは、可能な限り被害を抑えるための策だろうか?
そこまで考えたところで、彼女は思考を打ち切った。どういう意図があったにせよ、結末は変わらない……どのみち自分のナノマシンの操作が完了する方が早いだろう。マッソスポラは既に深くダリウスの体を侵食している──あと一度操作ができれば、今度こそ彼は恋に堕ちる。そうなれば全てはエメラダの思うがまま、あの一撃も不発に終わることになる。
そして、エメラダは羽ばたいた。病を繰る葬送曲が奏でられ、そのメロディがダリウスへと向かう。そして──
次の瞬間、エメラダの体はダンプカーにぶつかったかの如き衝撃によって宙を舞い、シャッターごと部屋の外へと叩き出されていた。
「か、は……ッ!?」
冷たい床に叩きつけられ、エメラダの華奢な体が転がる。一瞬の後、彼女の全身を鈍い痛みが走った──おそらく、体中の骨が折れているのだろう。息を吐きだせば、空気の抜けるような音の直後に、喉の奥から何かがせりあがってくる。思わず咽ると、少なくない量の血が彼女の口から零れた。
「上手くいったみたいだな」
そんな彼女の耳に、コツコツと足音が聞こえる。目だけを動かしてエメラダが視線を向ければ、部屋から出たダリウスがこちらへと近づいてくるところだった。
「どう、して……? 私の方が、早かった、のに……」
脆い翅は既に曲がって使い物にならなくなり、両腕の槍もへし折れている──例え再変態したとしても、戦闘への復帰は不可能だろう。
そう判断したダリウスは、瀕死の彼女から投げかけられた疑問に答える。
「……今、俺とお前がいた部屋は無響室だ」
「! ああ、そっかぁ……」
その説明で合点がいったらしく、エメラダは静かに笑った。
無響室は音に関する装置の開発や測定のための設備である。通常音波として放たれた空気の波は、周囲に存在する様々な物体にぶつかって反響しながら伝わっていくのだが、無響室は壁や床、天井の吸音性が極めて高く設定されており、その名の通り『音が反響しない』のだ。
エメラダのナノマシンは、彼女が奏でる羽音とその反響の波を測定して初めて、正常に稼働する。その反響をかき消されてしまったがために、先ほどのエメラダの攻撃は不発になったのだ。
そしてダリウスの攻撃は、彼が放つ声の音量それ自体によってなされるもの。それゆえ、吸音性によって室外への被害は最小限に抑えられたものの、エメラダ自身への攻撃力はいかんなく発揮された。
かくして『呪歌の残響』と『狂愛の残穢』、両者の戦いはあまりにも呆気なく決着したのである。
「……聞きたいことがある」
「なん、ですか?」
苦し気に息をしながら、しかしエメラダは満足げに微笑む。そんな彼女の様子がまた理解できなくて、ダリウスは険しい表情で問いかけた。
「さっきお前は、『人の肉は美味しくなかった』と言った。それならどうしてお前は、何人もの人間を食べたんだ?」
「ああ……そのこと、ですか」
エメラダはヒュウと息を吐いた。少しの間、なんと答えようかと考え……それから彼女は、ゆっくりと自分の言葉を紡ぐ。
「私は……
それはダリウスにとって、予想だにしない言葉だった。の脳芯を言いようのない不安が駆け抜けた。これ以上聞いてはならない、これ以上踏み込むな。そんな声が、頭の中に反響する。
けれど、それでも聞かなければならないと思った。奇妙な確信がある──自分は、この少女の想いから目を背けてはいけないのだと。例え許せずとも、その思いを聞き届けねばならないのだと。
沈黙で続きを促すダリウスに、エメラダは滔々と語り始める。彼女が抱えていたあまりにも深く、そして浅はかな狂愛を。
────────────────────
──────────
彼女にしては本当に珍しいことに、その日は授業が終わるや否や家へと直帰した。そうして訝しむ祖母と母の目を気にも留めずに貯めていたお小遣いを鞄に突っ込むと、その足で先週訪れたレストランへと急いだ。
また来ました、と言ったら彼はどんな顔をするだろうか。笑ってありがとう、と言ってくれるだろうか。それとも、びっくりするだろうか。あるいは、私のことなど忘れてしまっているだろうか?
どんな反応を見せてくれるんだろう? いや、どんな反応だっていい。もう一度あの人に会えることが、とても楽しみだった。
浮足立ちながら歩みを進め、何度目かの角にさしかかる。ここを曲がれば、もうすぐだ。もうすぐ、ダリウスに会える。
そう自分に言い聞かせて、彼女は道を曲がり──
「え……?」
そして、目を丸くした。
レストランの前に、人だかりができていたのだ。開店を待っている客、といった様子ではない。物見遊山に何かに群がっている──そんな気配を感じる。
そんな彼らを制するかのように声を張り上げているのは、数人の警察官だった。パトカーも何台も止まっており、いよいよ事態はただごとではない。
「何よ、コレ……」
騒然とするその場に立ち尽くし、エメラダはただ愕然と呟くことしかできなかった。
翌日、人気レストランのシェフが、殺人と死体損壊の疑いで逮捕されたという記事が新聞の一面を飾った。
被疑者の名前はダリウス・オースティン。若くして一流と称される料理人でありながら、プロの歌手でもある彼が、あろうことか『食人』に手を染めていたというショッキングな話題で、たちまちアメリカは持ちきりになった。
ワイドショーは彼の半生を面白おかしく取り上げ、知人が会えばあいさつ代わりにその話題が飛び出す。SNSでは彼の蛮行を唾棄する発言が無数に投稿される一方、その鮮やかな殺害手口と底知れない害意に熱狂する発言も散見された。
「……くだらない」
そしてその全てが、エメラダにとっては幼稚で愚かなものに見えた。誰も彼も、人食いのシリアルキラーをもてはやすばかりで、ダリウス・オースティンという個人を見ようとすらしない。
全てを知った彼女がダリウスに抱いたのは失望ではなかった。それは、もっと彼のことを知りたいという想い。
この数日、彼女の頭の中には寝ても覚めてもダリウスのことしか頭になかった。
それはきっと、自分が彼に恋をしたからなのだろうと言い聞かせてはいたけれど、その一方で、なぜこんなにも自分がダリウスに惹かれているのかはずっと不思議だったのだ。
けれど、今ならばわかる──自分とダリウスは、きっと似た者同士だったのだ。あの日、自分が聞き惚れた歌には、隠しきれない空虚があった。それにきっと、同じ空虚を抱える自分は惹きつけられた。
エメラダは図書館から借りっぱなしの、『人喰らいエスメラルダ』のページをめくる。この物語の主人公のモデルになったのは、『エスメラルダ・オースティン』という殺人鬼である──同じ姓を持つダリウスが、彼女と同じ食人に手を染めたのは、果たして偶然なのだろうか?
人喰らいエスメラルダの寓話、オースティンの姓、憧れた人の殺人、そして初恋。
偶然にも出揃ったそれらの要素は混ざり合い、そしてエメラダを暴走へと駆り立てた。
──ああ、そうか。そういうことだったのか。
碌に部屋からも出ず、一人思考に没頭していたエメラダは一つの答えを得た。
「エスメラルダは私じゃない……エスメラルダは、ダリウス様だったんだ」
以前にも述べた通り、エメラダはどこにでもいるような普通の少女である──そう、
「それなら、
まるで何かに吸い寄せられるように、彼女の思考はドロドロと狂気に堕ちていく。
その様子を見ている者がいれば、あまりにも突飛だと笑うだろうか? あるいは何を馬鹿なことを、と呆れるのだろうか?
けれど人の狂気はときに、常軌を逸した過程を経てその宿主を侵す。実際2014年にはアメリカのウィスコシン州で、インターネット上の架空の都市伝説に触発され、12歳にすぎない二人の少女が友人を相手に殺人未遂を侵すという事件が発生している。
「私が旅人になれば、ダリウス様と一緒にいられる。だから──」
純粋な恋慕はいまや、見るも無残な狂愛に変わり果てた。『思い込み』と『愛』──人間に備わった数ある感情機能の中でも、とりわけ強力なその2つによって。
「──私も
『一家三人惨殺!
『ダリウス・オースティンに影響受けたか。長女、家族三人を殺し依然逃走中』
新聞の見出しにそんな記事が躍ったのは、ダリウスの事件発覚から僅かに一週間後のことだった。
────────────────────
──────────
「お前、いや……君、は……」
ダリウスは二の句が継げなかった。目の前に横たわる瀕死の少女は、自分が思っていたような快楽殺人鬼ではなかった。彼女はただ純粋に、自分に恋をしていただけだったのだ。
無論、彼女がしたことは到底許されるものではない。多くの人に彼女の犯行動機を聞かせれば、『頭がおかしい』とか『狂っている』と評して終わりだろう。実際それが、正しい彼女の評価だ。
だがダリウスには、目の前の少女の狂愛をその一言で切って捨てることはできなかった。この娘の人生を狂わせてしまったのは、間違いなく自分の狂気だ。例え堕ちることを選んだのが彼女自身の選択であったとしても──そのきっかけを作ってしまったのは、他でもない自分なのだ。
「……ッ」
ダリウスは必死で歯を食いしばった。少しでも気を緩めれば、自分は何を口にするか分からなかったそれは目の前の少女への罵倒か、それとも自分への唾棄かもわからないけれど。荒れ狂う激情に、ダリウスは身を固くする。
「ダリウス様は、私のことなんて覚えていないかもしれません……でも私は、あの日から貴方のことを忘れたことは一度だってないんです。
私は、貴方の
そんな彼をちょっとだけ切なそうに目を細めて見つめながら、エメラダは告げる。
「でも、貴方が求めているのは、そうじゃなかった……違い、ますか?」
「……」
ダリウスは無言を貫いた。それを肯定と捉えて、エメラダはひっそりと口端を釣り上げた。
今まで、自分とダリウスは同じだと思っていた。けれどそれは、きっと思い違いだったのだろう。
私は間違った愛でも受け入れてくれる旅人を求めていたけれど。
この人が求めていたのは、間違った愛を終わらせてくれる開拓団だった。
ダリウスに向けられた世間の心無い罵倒に辟易した。無意味な賞賛にうんざりした。ああどうして誰も、誰も彼を理解しようとしないのだと、何度も何度も嘆いた。
けれど、一番理解しようとしてなかったのは他ならない自分だったのだ。
私はただ自分の好意を押し付けるだけで、それを拒絶されたから躍起になって彼を自分のものにしようとしていた。自分にとって都合のいい妄想に溺れるばかりで、彼の抱えるものに向き合おうとしなかった。
こうやって言葉を交わすまでそれに気づかないなんて、まったく自分は、本当にどうしようもない。
「ダリウス様、お願いが、あります」
「……何、かな?」
青ざめた顔でダリウスが答える。それを見たエメラダは、「やっぱり、ダリウス様は優しいなぁ」と胸中で呟く。勘違いで盛大に空回った自分のことなど、気にする必要もないのに。
けれど、そんな彼が作った料理だから、そんな彼が歌った歌だから……きっとあの日、ダリウスと出会った自分は色づいた世界を知ることができたんだろう。
ダリウスを好きになったことに、後悔はない。愛のために、人間社会で最も忌むべき罪に手を染めたことさえ、彼女にとっては誇りだった。2人で幸せになりたいという想いは、今も揺るがない。
けれど、それでは駄目だったのだ。自分では、この人を幸せにはできない──いや、それだけではない。自分という人間が存在していることで、ダリウスは今こうして苦しんでいる。
それだけは耐えられない、自分のせいで最愛の人が苦しむなど──こんなに優しい人が苦悩するなど、あってはならない。
だから狂愛に溺れた
「ダリウス様──どうかその手で。貴方の愛で、私を殺してください」
初恋にして最愛の人へ、自らの人生の幕引きを。
次回、『冒涜弔歌』最終話。