アルジェントウィッチーズ-AΠHENTO WITCHES- 作:kuuru
空の闇を映す水面はより深い黒色に染まり、夜明け前の海は水平線が融け込んでしまうほどの暗澹の中にあった。海面近くには濃い霧が立ち込め、その闇を相まって、まるで幽霊船が現れる前兆の様相を呈している。そんな水面を、一隻の漁船がたゆたっていた。
それは勿論、幽霊船の類では一切無く、その船上にはれっきとした人間が二人、周囲の様子を窺いながら船を動かしていた。
「駄目だ、何も見えない」恰幅のいい、年上の男が言った。「これはまずいな。位置は分かるか?」
そう言って、男は船上で地図と睨み合いをしている若い男を振り返った。若い男は声を掛けられてもしばらく黙って地図を見ていたが、やがてお手上げと言わんばかりに地図を放り投げる。
「無理ですね。目印になる物も無いし、霧と雲で星も見えやしない」
少し投げ槍になりながら、若い男は周囲を見回した。そこに何かがある事を期待したというよりは、どちらかと言えば無謀な航海を行った年上の男に対する抗議の意が大きかったのだが、彼の意図は意外な形で裏切られる事となる。
「……? 何だ、あれ?」
目に映る景色に違和感を感じ、若い男は目を細めてその部分に注視した。年配の男も何事かと、彼の見る方向へと視線を向ける。
そこに広がるのは、周囲と変わらぬ一面の霧と、灰色。だが、霧のせいで灰色がかって見えていると思っていたそれは、妙な圧迫感を以って、彼らの前に立ちはだかっている様に思えた。
「―――うわぁぁ!?」
突然、上を見上げた若い男が悲鳴を上げた。
「お、おい、どうした―――」
その様子を見て、声を掛けた年配の男も、すぐにその意味を理解し、絶句した。
彼らの頭上では、片目の巨人が、覗き込む様にその様を見ていたのだった。
扶桑、と呼ばれる国がある。
東洋に存在する島国であり、その為か船舶に関する技術が高く、結果としてその海軍力は世界有数となった。そして、その航行能力に優れた船舶を活用し、海洋貿易国家としても名高い国でもある。また、貿易の中心となるのは加工された工業製品であり、その信頼性で世界中に「Made in Fuso」を知らしめていた。
その扶桑の首都からほど近い、横須賀。扶桑海軍の拠点の一つである軍港が存在するその街は、多くの軍人が駐留するその港を中心にして賑わっていた。
そして、港から小さな半島を挟んだ所に、横須賀第四女子中学校という学校がある。宮藤芳佳は、特徴的に跳ねあがった前髪を揺らしながら、その校庭を横切り、学校の裏手にある崖の斜面に一本だけ生えた松の木の下へ、一直線に駆け寄って行った。
「芳佳ちゃん!」
そこに群がっていた、紺色のボディスーツにセーラー服の上着を着用した数名の女生徒の中で、腰までの黒いロングヘアが印象的な少女、山川美千子は、芳佳の接近に気付いて、切り揃えられた黒髪を揺らし、手を振りながら声を掛けた。
「みっちゃん、どうしたの?」
「猫が……」
芳佳が近付いて立ち止まると、美千子は視線を上に向け、崖から競り出した松の木を指差した。釣られる様にして芳佳がそちらを見上げると、一匹の子猫が、地上から五メートルほどの高さにある木の上で蹲っているのが目に入る。怯えた様に身を震わせ、おどおどとした様子で下を見るその状態は、そこで昼寝をする為に登った様にはとても見えず、降りたくとも降りる術を知らないのだという事情がありありと見て取れた。
「どうしよう、先生、呼んで来た方がいいかな?」
美千子が不安げに呟くと、他の女生徒からも賛同の声が上がる。しかし、その一方で、一日の授業が終了し、片付けや書類整理に腐心している教師達が、子猫一匹の為にすぐに来てくれるのか、という疑問も唱えられた。収拾が付かず、場が喧々諤々とし始める中、芳佳は無言で、木の上で身を縮こまらせたままの猫を直視し続ける。
やがて、彼女が意を決して斜面の凸凹に右手を掛け、登る様な素振りを見せると、女生徒達がざわめいた。
「芳佳ちゃん!?」
美千子が慌てて駆け寄るが、芳佳は振り返らず、手ごろな位置にあった出っ張りに左手を掛ける。
「大丈夫、これくらいなら……」
言いながら、芳佳は慎重に崖を登り始めた。とは言え、彼女の様子は手探りで進む、としか言い様の無いほど不慣れであるのが明らかで、見るからに危なっかしい。一回ごとに手をあちこちに彷徨わせながら、掴めそうな場所を慎重に選んでいくため、速度も遅く、取り巻いていた女生徒達は、心配そうにその一挙手一投足に見守っていた。
「で、でも危ないよ」
「大丈夫だよ」芳佳は自らに言い聞かせる様に言った。「それに、怖い思いをしてると思うから、早く助けてあげないと」
右手に力を込めて、芳佳は自身の小柄な体を引っ張り上げた。その様子を見て、短く鳴いた猫を安心させる様に頬笑みながら、芳佳はロッククライミングを再開した。
横須賀第四女子中学校の裏にある、三浦半島を抜ける山道を一台の車が走っていた。その運転席で、ハンドルを握る土方圭助は、助手席に座り、腕を組んでいる彼の上官、坂本美緒の方へちらりと視線を向けて、少し遠慮がちに声を掛けた。
「診療所の方は、山間部にある様ですが、よろしいのですか?」
「ああ」
坂本は前を向いたまま、姿勢を崩さず、短く応えた。ポニーテールにした黒髪を風になびかせて、眼帯をした彼女の右目は、何かを見通す様にその行き先を見つめている。その様子を見て、土方は僅かに目を細めた。
「……保護者を通すべきかと思いますが」
「別に親を無視しようというわけじゃないさ。ただ、先に本人に話をしておきたい」
多少、批判染みた気配を滲ませる土方の口調に、坂本は苦笑いをした。
「ちゃんと話をして、しっかり考えて、そうして決めて貰う。そうでなければ、意味が無いからな」
やがて、車が森を抜け、視界が開けると、海の香りが鼻孔をくすぐる。その匂いを気持ち良さそうに吸い込んで、坂本は眼下にその姿を現した、横須賀第四女子中学校の校舎へ目を映した。
「……ん?」
その、校舎の裏手に数人の生徒が群がっているのを目に留まり、坂本の目が細まる。何事かと車体から身を乗り出す彼女の視線の先で、一人の少女が急斜面を登り始めた。
「あれは……」
呟きながら、坂本は右目の眼帯をめくり、覆い隠されていたその眼を露わにする。その瞳は微弱な光を発し、何事をも見通すかの様な気配を纏っていた。
「土方、急いでくれ」
数秒、両目で学校の方を見ていた坂本は、眼帯を戻すと座り直し、視線だけは同じ方へ向けたままそう告げる。ハンドルを握る土方は何も言わず、踏み込まれたアクセルによって回転数を増したエンジンが甲高い音を上げて、車は速度を上げた。
芳佳の手が、木の幹をしっかりと掴んだ。一拍置いて、大きく息を吸い込み、勢いを付けて芳佳は自身の身体を、その決して逞しいとは言えない松の木の上へと持ち上げる。そのまま、犬猫の様に四つん這いの姿勢になって、重みに軋む木の上をゆっくりと進み始めた。
「芳佳ちゃん、大丈夫?」
危なっかしいその様子を見て、下で見守る美千子が心配そうに言った。
「うん、大丈夫」
それに対して芳佳は、下を見ない様に前を向いたまま短く答える。が、その表情は見るからにに硬く、声音からも彼女の緊張を容易に読み取る事が出来、むしろ美千子をはじめとした、女生徒達の不安を煽る結果となった。
だが、その懸念をよそに、芳佳はゆっくりながらも危なげ無く前進し、やがて手を伸ばせば猫に触れられる位置まで近付いた。強張っていた表情が多少和らぎ、微細に身体を震わせる子猫へ手を伸ばして、彼女はゆっくりと、まるでぬいぐるみの様な小さな身体を抱き上げる。
だが、周囲に安堵した空気が満ちた瞬間、耳障りな音を上げて木の根元が裂け、芳佳の身体は足場を失い、彼女の身体は為す術無く宙へ放り出された。
「芳佳ちゃんっ!」
美千子は思わず悲鳴を上げ、惨劇から目を背ける様に目を閉じた。折れた木が地面に落下する音が聞こえ、しかし、それに続くはずの、聞くに堪えない落下音が何時までも聞こえず、美千子は恐る恐る目を開けた。
そこには、確かに芳佳がいる。しかし、自由落下していたその身体は、一人の女性に寄って抱きかかえられ、大きな衝撃を伴っていたであろう地面との衝突を避けていた。
「無茶をする奴だ」
芳佳含め、その場にいた全員が呆気に取られる中で、真っ先にその女性が口を開いた。女性は芳佳を立たせると、両手を腰に当て、胸を張り堂々とした立ち居振る舞いを披露する。
「怪我は無いか?」
「あ……だ、大丈夫です」
眼帯をした女性に真っ直ぐ見つめられて、芳佳は慌てて答えた。その際、ふと逸らした視線が、女性の右手に血が滲んでいる事を捉える。
「あの、血が」
「ん? ああ、大した事は無いさ」
「えっと……ちょっと、失礼します」
そう言って、芳佳は猫を地面に降ろすと、女性の怪我をした部位に手をかざした。周囲が注目する中、芳佳の身体が淡く発光を始め、頭と腰から、犬の様な耳と尻尾が生える。徐々に光が強くなり、芳佳と女性を包み込むほど大きくなると、女性の手の出血が止まり、やがて怪我その物がその痕跡を消して行った。
「……治癒魔法か」
その様子を見ていた女性が、感心した様な声を上げた。
「家は、お母さんもお婆ちゃんも使えるんです。私なんて、まだまだで」
芳佳はそれを聞いて、汗ばんだ顔を笑顔にして、嬉しそうにそう答える。その上気した表情を見て、女性は目を細めた。
「確かに、魔力の制御は不十分なようだ」嫌味を感じさせない言い振りで、女性は言った。「だが、それ故に力の強大さも良く分かった。謙遜する事は無い、いずれ、有数の使い手になれる」
飾り気の無い女性の言葉に、芳佳は照れた様に頭を掻いて、はにかんだ。その仕草を見て、女性は口元に笑みを浮かべる。
「その力……もっと、人の役に立てる気は無いか、宮藤芳佳」
「え……?」
芳佳は驚いた様に目を見開いた。
「どうして、私の名前……」
「知ってるさ」女性は芳佳の言葉を遮り、言った。「君に会う為にここに来た」
唖然とする芳佳の肩に手を置き、女性は引き込まれそうな程、強い光を湛えた瞳で、芳佳を真っ直ぐ見据える。
「私は、連合軍第五○一統合戦闘航空団所属、坂本美緒少佐だ。宮藤、お前の力は埋もれさせるには惜しい。『魔女』となり、我々と共に、ネウロイと闘うつもりは無いか?」
事実上の引き抜きに、周囲の女生徒達がざわつく。しかし、その喧騒さえ聞こえないかの様に、芳佳は言葉を発せず、まるで代理と言わんばかりに、足元に寄り添う子猫が一声、大きく鳴いた。
宮藤芳佳の生家、宮藤診療所は、横須賀軍港と横須賀第四女子中学校を分け隔てる、三浦半島の森深い山中にひっそりと建っていた。芳佳の祖母の代から続くそれは、奥に宮藤家の自宅も併設され、外観に違わぬ地味さで、細々と経営されている。
その診療所の、土間代わりにもなっている、診療室の脇にある居間に、四人の女性が座っていた。一人で座る坂本に相対する様に、芳佳の母、清佳と、祖母の秋元芳子が並んで座る。その輪から少し離れた場所で、芳佳は居辛そうに座っていた。場の雰囲気はお世辞にも友好的とは言い難く、特に清佳は眉を顰め、剣呑ささえ窺える様な表情で、坂本を見つめている。
「お話は、分かりました」
停滞する空気を破ったのは、芳佳の祖母、芳子の声だった。清佳ほど露骨ではない物の、彼女もまた、坂本に対して敵意に近い感情を持っているのは明らかだった。その一声には年齢相応の迫力が込められてはいたが、坂本は怯む事無く、その視線を受け止めて見せる。
「孫を、戦争に巻き込みたいと、そう仰るのですね」
険のある芳子の一言に、坂本の眉が僅かに動いた。
「……現在、魔女の死因の多くは、戦闘中の負傷による破傷風や失血死に拠る物です。これは、前線に出ているゆえ、早急に適切な治療を受けられないが為。治癒魔法を使える魔女がいれば、その生存率は大きく上がります」
坂本の言葉に嫌悪感を示す様に、清佳と芳佳は目を伏せる。それを目の端で確認しながら、それでも坂本は話を続けた。
「無礼を承知で言わせて頂きますが、彼女の潜在能力は、この診療所で埋もれさせるには惜しい。才有る者は、それを最も活かせる場で発揮するべきだと、私は考えます」
坂本がそう言い切ると、場が静寂で満たされた。芳子は坂本の言葉を反芻する様に目を細め、坂本が来ている軍服へと視線を向ける。
「貴方は、軍人さんですね」芳子は言った。「それならば、芳佳の父親がどういう人物なのかも、ご存知でしょう」
「母さん……」
芳子の言葉を聞いて、清佳が驚いた様に呟いた。芳子は坂本から目を逸らさず、その姿を見据え、品定めする様な視線を送る。
「ストライカーユニットの開発者、宮藤一郎博士ですね」坂本は、やや慎重にそう言った。「勿論、存じております。ユニットの開発に、私も携わっておりましたので」
坂本の言葉を聞いて、芳佳は少し驚いた表情になった。しかし、芳子は表情を変えず、感情を押し殺した視線を坂本へ注ぐ。
「父親を奪うだけでは飽き足らず、まだ幼い芳佳自身まで、戦争に連れて行くおつもりか」
「……今も世界の何処かで、名も無い魔女が死んでいるかも知れません。今日は死ななくとも、明日は死ぬかも知れない。それを他人事だと切り捨て、しがない町医者として生きて行くのが、貴方方ほどの治癒魔法の使い手として、正しい生き方だと言い切れますか」
「坂本さん、貴方はきっと、優秀な魔女であり、軍人なのでしょう。だが、周りが見えていない。誰もが貴方の様に、高潔に生きられるわけでは無いのですよ」
「お言葉ですが、御祖母様もかつては従軍し、その能力を発揮していたと聞き及んでおります。その行為を、否定なさるおつもりですか?」
「お若いのですね」芳子は溜息を吐いて、呟く様に言った。「物事を、正悪で考えてしまうのは、良く分かります。私は、後ろの方で怪我人の治療をしていただけですが、勿論それを恥じているわけでは無いし、後悔するつもりもありません。ただ、娘や孫を、あの様な場所へ行かせたくないと思うのは、子を産んだ女が持つ気持ちとして、当然でしょう」
芳子の口調が、諦めた様になって行くのを聞いて、坂本は表情を顰めた。今、芳子の言った「若い」という言葉は、芳子と彼女の立場の違いを端的に露わす言葉であり、それは相互理解が不可能であると言われたに等しい。
「扶桑は平和な国です。近くにネウロイの巣は無く、扶桑海事変以来、大規模な攻撃に晒された事も無い。関係無いからと、世界の何処かで確実に起きている戦争を、見て見ぬ振りをなさるのですか」
坂本の語気が荒くなった。すると、まるでそれに感化されたかの様に、これまで表情を変えなかった芳子が、眉を吊り上げる。
「ならば、あなたに分かりますか。十歳の誕生日に、父親の死をただ一枚の紙で知らされた芳佳の気持ちが。どこにでもある様な日用品ばかりを、遺品だと言われ返された時、どんな思いでそれを受け取ったか、分かりますか」
吐き出す様な芳子の言葉を聞いて、坂本はようやく、自身の過ちに気付いた。今、彼女は芳子と、宮藤芳佳の事を話しているはずであったのが、お互い気付かぬ内に、それは芳子自身の気持ちの吐露になっていたのだ。死亡通知一枚で父親の死を知らされた芳佳は、義理の息子の死を知った芳子であり、夫の死を知った清佳でもある。芳子は芳佳を戦争に行かせたくないのでは無く、芳子自身が、戦争を嫌っているのだ。
「……仰る事は分かりました」そして、坂本は溢れ出る感情を抑えながら言った。「ですが、このお話を受けるにしろ、拒まれるにしろ、私は本人の口から、その回答を聞かせて頂きたいのです」
坂本の口調は半ば諦めた様であったが、その一言でその場の注目が芳佳へ注がれる。急に会話の中心に放り込まれた芳佳は、慌てた様に芳子と清佳の顔を見遣り、少し悩む様に目を伏せた後、顔を上げて、やや自信に欠ける視線を、坂本へと向けた。
「私は……戦争は嫌です」
それはたったの一言であったが、坂本にしてみれば、どんな長口上にも勝る拒否の言葉であった。坂本は芳佳の言葉を噛み締める様に目を閉じ、一拍の後に、観念した様に溜息を吐いた。
「残念だ」坂本は言った。「私は、一週間後に扶桑を発つ。もしそれまでに気が変わったら、横須賀港まで来て欲しい。私の名前を出せば、話が通る様にしておくから」
「……はい」
屈託無く笑う坂本に対して、宮藤は一言だけ答えると、ばつが悪そうに目を背けた。坂本はそれに何か言うでも無く、厳しい表情を浮かべたままの、清佳と芳子へ向き直る。
「不躾な振る舞いの数々、真に申し訳ありませんでした。これにて、失礼致します」
深々と頭を下げてから立ち上がり、坂本は宮藤家を後にした。だが、坂本が玄関代わりの診療所の扉を閉め、彼女が乗って来た車のエンジン音が聞こえなくなっても、芳佳達は黙ったまま微動だにせず、重苦しい沈黙が、宮藤家を支配していた。
屋外で鳴る、虫の鳴き声が、静かな部屋に僅かに反響して、消えて行く。窓から入り込む月明かりに、ぼんやりと照らされた室内で、芳佳は布団に入ったまま、薄暗い天井を見つめていた。
既に、坂本の訪問から三日が経っていたが、彼女の残した言葉は細かな棘となって、未だに芳佳の心に小さな引っ掛かりを残している。それは、坂本の言っていた言葉を、芳佳自身が一番理解していたという事実に他ならない。
こうして自分が、暖かい布団の中でまどろんでいる時、寒さの中で凍えながら死んで行く人がいるかもしれない。学校で友人達とモラトリアムを過ごしている間、自分より幼い人間がどこかで銃を手に取り、死地に向かっているかもしれない。それらを全て救う事は出来ないけれど、出来ないからと言って、最初から諦めて何もしないという事を、芳佳は割り切る事が出来ていなかった。
一向に訪れない睡魔に、寝苦しくなって、何となく、外の光を見ようと身体の向きを変える。月明かりを取り込んでいる窓を視界に入れ、芳佳は観音開きになる窓の、その隙間に何かが挟まっている事に気が付いた。
疑問に思って起き上がり、芳佳はのろのろと窓の方へ近付いた。眼前にして初めて、それが小さな封筒であると分かる。少し力を入れて、隙間から封筒を引っ張り出して確認するが、本来であれば宛先を記入する表紙には、何も書かれていない。しかし、こんな風に窓の間に手紙を差し込んで行く人物に心当たりなど無く、芳佳は何らかの情報を求め、封筒の裏に目をやった。
「え……?」
そして、そこに書かれた、想定し得ない人物の名前に、芳佳は驚きの声を上げて、暫くの間、茫然と立ち尽くしていた。
横須賀港は、扶桑海軍の一大拠点となる、巨大な軍港である。工廠や製鉄所も併設され、、そこで働く人間の多さは、その周囲への経済的影響も非常に大きな物としていた。
その中を、坂本は小走りに駆け抜けて、港の入口へと向かっていた。画一的で殺風景な倉庫の並びを抜けると、軍人相手の店が立ち並ぶ通りが見える。だが、彼女はその喧騒には目も向けず、その視線は探し人の姿を求めて先を見据えていた。
「宮藤!」
やがて、坂本は探していた人物を見つけると、軽く右手を上げながら呼び掛けた。門を入ってすぐの所に立っていた芳佳は、それに気付くと振り向き、勢い良く頭を下げる。
「そんなに固くなるな」坂本は、その様子を見て笑いながら言った。「来てくれて嬉しいぞ、宮藤」
心から嬉しそうに笑う坂本に対して、芳佳は少し困った顔をして、考え込む様な仕種を取った。その様子を見て、坂本の笑顔も翳る。
「ごめんなさい……この間のお話は、まだ、その……」
芳佳が口籠ると、坂本はその心中を察してか、払拭する様に声を上げて笑った。
「気にするな。お前が決めた事だ、誰も文句は言わん」
その一言で、芳佳は少し安心した様に表情を和らげる。だが、それも一時の事で、すぐにその表情は曇り、困惑した表情に戻ってしまった。それを見て、坂本は疑問を覚える。
「どうした? 何かあったのか?」
坂本に言われて、芳佳は少し躊躇って、懐から一枚の封筒を取り出した。差し出されたそれを受け取り、何も書かれていない表紙を見て、坂本は怪訝そうな表情になる。
「これは?」
「昨日の夜、私の部屋の窓に入れられていたんです」
「部屋の窓に? 確かに変な話だが……」
話の内容に自分との関連性を見出せず、坂本は困惑するが、何気無く封筒の裏を見て、その差出人を確認すると、その顔を驚きの表情に染めた。
「宮藤博士から?」
坂本が信じられないと言う様な表情で芳佳を見ると、彼女もまた、同じ様な感情を顔に
表して首肯した。それでもまだ疑念を顔に貼り付けたまま、坂本が洋形封筒の、剥がされているフラップを開くと、中には一枚の写真が入っている。それを見て、坂本は目を見開いた。
「この写真は……」
それは白黒で、更に撮影されてから随分時間が経っているらしく、色褪せて、元々不鮮明であった画像は酷く判別し辛くなっていた。しかし、そこに写っている被写体は、細部が見えなくても分かるほど、大きく分かりやすいディテールをしている。
それはまるで、首の無い人間の様に見えた。そう見えるくらい、腕や足、胴体の配置は人間のそれに合致しており、恐らくはこれを見た誰もが人体を連想する様に思える。だが、その姿形は余りに歪で、それが明らかに人間では無い事を如実に示していた。異様に大きな左腕と、それに対して奇妙に貧相な右腕。形状の異なる両足。それらはまるで、色々な人間の、様々な部位を寄せ集めて人体の形を成している様に見えた。
「その写真……何か、お父さんに関係あるんでしょうか?」
坂本が写真を凝視していると、芳佳が不安そうにそう零した。それを見て、坂本は無理も無いと思う。自分の訪問によって父親の死を蒸し返され、数日の内に、今度は死んだはずの、父親の名前が書かれた手紙が届けられるなど、誰であっても奇異に思うのは当然だ。
「筆跡は……宮藤博士の物なのか?」
「お母さんとお婆ちゃんは、そう見えるって言ってました」
「そうか……」
芳佳の返事を聞いて、坂本は再び考え込む様に、顎に手を当てて、写真に目を落とした。何処か、研究所の様な場所で、横たえられていると思われるその物体の特徴を、委細に確認して行くと、周囲に余り縮尺を測れる物が無い物の、どうやら人間よりもかなり大きなサイズである事が分かる。
「坂本さん、それが何か知りませんか?」
「ああ……」坂本は少し迷う様な顔をして、話を続けた。「……最近、ブリタニア近海で、奇妙な巨人の目撃例が相次いでいてな」
「巨人……ですか」
「ネウロイである可能性が高いから、我々も調査をしているんだが、未だに実態が掴めていない。ただ、この写真に写っている物は、その巨人の目撃者達が証言する特徴と、かなり一致している」
坂本が話を終えると、芳佳は何も言わず、沈黙が二人の間を支配する。坂本は険しい表情になって、例え些細な物であっても、何らかの情報を読み取ろうとするかの様に、写真を見つめていた。
「あの……坂本さん」
坂本が写真を凝視していると、芳佳が躊躇いがちに声を掛けた。写真から目を話して、坂本が視線を上げると、芳佳は今にも泣きそうな顔で俯いている。
「お父さんは、本当に死んだんでしょうか?」
「何だって?」
思わず、裏返ってしまいそうな声を上げて、坂本は芳佳の言葉に驚いた。
「ごめんなさい……変な事を言っているのは分かってます。でも、遺骨も無くて、ただ言われただけで、今でもまだ、実感が無いんです」
芳佳は、ようやくそこまで言い切ると、上着の裾を両手で握り締めて、身を震わせた。その様子を見て、坂本は困惑した表情を浮かべる。
「宮藤……」言葉を選んで、坂本は慎重に言った。「すまない。私もストライカーユニットの開発の時にお世話になっていただけで、宮藤博士の死については、研究中の事故だと言う事しか知らないんだ」
その言葉を聞いて、芳佳は少し上げていた顔を、再び俯かせて黙ってしまった。坂本がどう声を掛けた物かと、しばし思案に暮れていると、考えが纏まるよりも早く、芳佳がもう一度、その顔を上げた。そこには、先程までの暗い表情は無く、何処か腹を決めた様な視線で、彼女は坂本を見つめていた。
「坂本さん。坂本さんの、所属している部隊って、ブリタニアにあるんですよね」
「ん? あ、ああ、そうだが」
唐突かつ、予想外な内容の質問に、坂本は驚き、僅かに口籠って答えた。だが、最も驚いたのは、打って変わって真剣な眼差しで自身の事を見つめる芳佳の姿であり、そして、坂本を更に驚かせる言葉を、彼女は口にする。
「私を、ブリタニアへ連れて行ってくれませんか?」
坂本は面食らい、言葉を失った。そのまま二の句を継げないでいる彼女の姿に、拒否をされると思ったのか、芳佳は身を乗り出す様にして、縋る様に懇願する。
「私、戦争は出来ませんけど、他に出来る事だったら何でもします。料理は得意だし、後は洗濯や掃除位なら出来ます。それ以外の事も、ちゃんと覚えます。だから……」
「い、いや待て。ちょっと待て、宮藤」
矢継ぎ早に言う芳佳を、坂本は慌てて宥めた。芳佳はそれを聞いて表情を曇らせると、俯いて下を向く。
「……ごめんなさい。我がままを言っているのは分かってます。でも、私、ちゃんと見たいんです。自分の目で見て、それがどんな結果だったとしても、納得できないままでいるのは、嫌なんです」
芳佳の言葉は、徐々に勢いを失い、最後は絞り出す様な声音であった。一瞬、強い光を帯びていた瞳は伏せられ、今は彼女の足元の地面を映している。その様子を見て、坂本は呆れ気味に溜息を吐いた。
「勘違いするな、別に駄目だなんて言うつもりは無い」
「え……?」
「だがな、宮藤」坂本は、真剣な表情をして、言った。「何と言おうと、お前が行くのは戦場だ。銃を持たない人間が、死なないなんて保証は全く無い。それでもお前は、ブリタニアへ行きたいと思うか」
突き放す様な坂本の言葉を聞いて、芳佳は僅かに逡巡した。だが、すぐにその表情を、先程の決意に満ちたそれに変え、両の拳を握り締めて、強い視線を坂本へ向ける。
「……はい」
そして、一言、短い返事をした。坂本はそれを聞いて、暫しの間、厳しい顔つきのまま、値踏みする様に芳佳を注視していたが、おもむろにその表情を崩し、破顔した。
「分かった。手続きは私がしておくから、ちゃんと家族に話をしておけ。ブリタニアまでは一か月の長い船旅になるから、準備もしっかりしておくんだぞ」
坂本はそう言って、芳佳の肩に優しく手を置いた。当の芳佳は、しばらく茫然としていたが、やがて花が咲いた様な、満面の笑顔を浮かべる。
「はいっ、ありがとうございます!」
そして、芳佳の元気の良い声が、横須賀の青空に響いた。
まるで海の上を漂っている様な感覚に包まれて、タクト・カネシロは静かに意識を取り戻した。身体はまるで、あらゆる動作を忘れてしまったかの様に緩慢で、瞼を開くという行為にさえたっぷりと時間を掛けながら、定まらない視線をたゆたわせる。点灯していない蛍光灯が二本、縦に並んでいるのを見て、自分の身体が、恐らくはベッドに横たえられているのだと、彼は認識した。
不思議と、身体に痛みは無い。装飾の無い天井の殺風景さだけが、それ自体が実体を伴うかの様に、タクトに現実を突き付けていた。
「……マキ」
無意識に声を出してみると、漏れ出たのは恋人の名前だった。最も、それは声と言うには余りにか細く、傍らで聞いても掠れた息を吐いただけにしか聞こえなかっただろうが、少なくとも彼の身体は声を出そうという意思の元に動き、それでもなお、痛みを感じないという事実は、包み込む様な浮遊感の原因を、彼に探らせるに十分な物だった。
恐らくは鎮痛剤を打たれ、自身の身体に治療が施されたのだと推測し、タクトは一つの疑問を抱く。
ノグチ博士の研究は、軍の中でも一部しか知らない極秘の物であった。確証は無いが、研究所も辺鄙な、人里離れた場所にあった事は間違い無い。どう考えても、すんなりと救助が来る余地は無い筈なのに、何故か彼の命は長らえられた。
しかし、その思考はそこで打ち切られる。モルヒネが導く、抗い様の無い眠気の波に呑まれる瞬間、ベッドの脇に人影を見た様に思いながら、タクト・カネシロは再び深い眠りに落ちた。
次回
Phase03:少女と決意と