アルジェントウィッチーズ-AΠHENTO WITCHES- 作:kuuru
北大西洋に存在する、島国ブリタニア。その南端、欧州本土からドーバー海峡を隔てた突端に、第五○一統合戦闘航空団、通称「ストライクウィッチーズ」の基地はあった。その基地には、ネウロイの殲滅という部隊の使命通り、ストライカーユニットを装着した魔女達が離陸する為の滑走路と、それらを待機させておく為の、広大な格納庫が併設されている。
その滑走路の、離着陸の妨げにならない場所に、今は一機の輸送ヘリが鎮座していた。そのコクピットでは、対ネウロイ特殊部隊「フューネラル」所属のスー・ハリスが、インパネに足を乗せ、シートに身を投げ出した姿勢で、脇に置いたラジオから流れる音楽に、その短い銀髪と、浅黒く焼けた身体を揺らしていた。
「ハリス少尉、待機任務中だぞ」
その大音量を聞き付けた、同僚のダン・シモンズが、開いたままのハッチから顔を覗かせ、顔をしかめて注意した。スーは、それに対して「はいはい」と気の無い返事をした後、手を伸ばしてラジオの音量を下げる。
「真面目だねぇ、中尉さんは」
「……聞こえてるぞ、ハリス少尉」
陰口を隠そうともしないスーに対し、ダンの声音が一段と低くなった。それでもなお、素知らぬ顔でラジオに耳を傾けているスーとの間の空気が、徐々に険悪な物になって行く。
「そう熱くなるなよ、お二人さん」
それを雰囲気を和らげたのは、快活な印象を与える、明るい声であった。声の主である、シャーロット・E・イェーガーは、ほとんど布の面積の無い、赤い水着を着て、その豊満な体を惜しげも無く晒しながら、手に持っていた三本の炭酸飲料の瓶の内の一つを、スーの方へ差し出した。
「おっ、さんきゅー、シャーリー」
嬉々としてそれを受け取るスーをみて、ダンは再び顔をしかめた。
「イェーガー中尉は上官だぞ。言葉遣いに――」
「はいはい、そういうのは無し無し」
ダンの小言を遮って、シャーロットはもう一本の瓶を、押し付ける様にしてダンに手渡した。思わずそれを受取ってしまって、困った様に瓶とシャーロットとを見比べるダンの眼前で、シャーロットはこれ見よがしに、瓶の中身を喉に流し込み始める。
「……自分は、任務中ですので」
「だから、そういう堅苦しいのは無しだって。どうせ時間かかるんだからさ」
「イェーガー中尉」
「あと、その呼び方も禁止な。シャーリーでいいんだよ、階級一緒なんだし」
言い包められて、ダンはむくれて目を逸らした。その様子を見ていたスーは、清涼飲料水を一口、口に含む。
「どっちが年上か分からないねぇ」
「……君に言われたくは無いな」
スーに茶化されて、居心地が悪そうにしながら、ダンはようやくそれだけ言い返した。
「我が隊きってのクールガイも、“グラマラス・シャーリー”の前では形無しね」
三人の間に沈黙が生まれると、それを見計らった様に、というより、恐らくは実際に見計らっていたのだろうが、落ち着いた雰囲気の女性が近付いて来て、冗談めかしてそう言った。ダンは、何事か言おうと口を開こうとするが、それより先に、シャーロットが振り返り、明るい笑顔をその顔に浮かべる。
「ギネビア姐さん。久し振り」
ギネビア・グリーンは、シャーロットに声を掛けられると、見た目に派手な赤毛を僅かに揺らして微笑んだ。すると、その背後から、小柄な人影が姿を現す。
「あー、スーちゃんだ! やっほー」
「ルッキーニ! 元気してた?」
スーは、仲の良いフランチェスカ・ルッキーニの姿を見止めると、ぱっと明るい表情になって、ヘリから駆け降りた。小柄なルッキーニの体躯に合わせて、スーは身を屈めて顔の高さを合わせると、両手でルッキーニの頬を挟み込み、ぐにぐにとその柔らかさを堪能する様に揉みしだいた。くすぐったそうに笑うルッキーニと、嬉しそうに笑うスーの様子を見て、ダンは眉を潜めるが、ギネビアが諌める様に肘で突くと、負け惜しみの溜息を吐いて不貞腐れてしまった。
「余裕を持つ事も大切よ。モラトリアム人間になれ、とまでは言わないけど」
「……僕はただ、机の上で戦没者の数を数えて過ごす様な、そういう軍人になりたくないだけさ」
ギネビアに諭されて、ダンは不機嫌にふいと、顔を逸らしてしまった。しかし、その逸らした先で、覗き込む様に彼の方を見上げていたルッキーニと視線がかち合い、ダンは驚いて、作り上げた仏頂面が僅かに崩れる。
「ねーねー」それに構わず、ルッキーニが言った。「飲まないんなら、ちょーだい」
そう言って、ルッキーニが指差したのは、ダンの手に握られたまま、口を付けられる事も無く、汗だくになっている炭酸飲料の瓶であった。それを見て、思わず口を抑えて吹き出すシャーロットの方を睨みながら、ダンは無言で、ルッキーニの方に瓶を差し出した。
「ありがと!」
喜色満面でそれを受け取ると、ルッキーニは意気揚々と、瓶を口に運んだ。ごくりと、ルッキーニが嚥下する音が聞こえて、ギネビアはそれを見守る様に微笑む。
「やる事が無いと、腐っていられるのも今の内だけよ。すぐに、休みたくても休めない日々が来るわ」
「例の新型? 完成したの?」
ギネビアの一言に、シャーロットが食い付いた。その様子を見て、スーは多少、白けた様な視線を彼女に向ける。
「嬉しそうに言うなって。人、死んでるんだぜ」
ぽつりと、スーが呟いた一言は、彼女自身が思っていた以上に、場の空気を変える物であった。シャーロットは、鼻の頭を掻きながら、気まずそうに、晴天へと視線を彷徨わせ、飲物に夢中のルッキーニを含めて、その場の全員が沈黙し、重苦しい空気が流れる。それを破って、口を開いたのはギネビアであった。
「それも仕方の無い事なのよ。私達は軍人だから」ギネビアはそう言った。「でも、私達は幸せだと思うわ。少なくとも、上官には恵まれたからね」
上手い事、話を逸らしたギネビアは、彼女、或いはシャーロットやルッキーニの、上官達が話し合っているであろう、巨大な基地の、その建物へと視線を向けた。
第五○一統合戦闘航空団の基地の、その一室。普段は部隊のミーティングルームとして使用されている部屋で、二人の白人女性が卓を囲んでソファに座り、その脇に控える様に一人の黒人男性が立っている。
「わざわざご足労頂いて、ありがとうございます、イネス大佐」
その内、赤毛の女性が、もう一人の銀髪を短く刈り揃えた女性に向けて言った。
「気にしないでくれ、ヴィルケ中佐。我々も、デスクワークばかりでは飽きてしまうのでね。気分転換の様なものだ」
銀髪の女性、ラナ・イネスは、ミーナ・ディートリンデ・ヴィルケに対して、薄く笑ってそう応えた。それを聞いて、ミーナも愛想の良い笑顔を浮かべる。
「それで、例の巨人の事だが」イネスは真剣な表情に一変して、言った。「その後、進展は見られない様だな」
「夜間哨戒の人員を増やす事もしているのですが、未だに」
それに対して、ミーナは眉を顰め、悔しげな表情を見せる。しかし、その表情は、彼女が巨人の捜索について、決して手を抜いて対応しているわけでは無い事の何よりの証明であり、イネスはそれ以上追及する事はしなかった。
「気に病む必要は無いさ。特段、被害が出ているわけでも無い。それに、こちらでは少し収穫があった」
イネスの言葉に、ミーナは少し驚いた様な顔を見せる。イネスは、脇に控えていた男性、彼女の副官である、マイケル・ハートランドに視線を向け、マイケルは書類の束を、ミーナの前に差し出した。
「これは?」
疑念を顔に貼り付けて、ミーナはその文書を手に取った。
「ある実験について纏めた、報告書だ」
「実験?」
何の事だ、と言外に問い掛けて、ミーナは書類を何枚か捲って行く。専門的な言葉の織り交ぜられた文面を流し読んで行くと、貼り付けられた一枚の写真が彼女の目に留まった。
「この写真……!」
そして、そこに写る物に驚いて、ミーナは顔を上げてイネスの方を見た。イネスは、自身の膝に肘を乗せ、少し前のめりな姿勢になって、その表情を隠す様に口元で両手を交差させたまま、ミーナと視線を合わせる事を拒否する様に、真っ直ぐ前を向いている。が、その僅かに歪んだ眉根からは、ある種の嫌悪感が見て取れた。
「似ているだろう、例の巨人の目撃証言と」
ミーナはイネスの言葉に応えず、信じられないと言う様に、再び写真に視線を落とした。
そこには、灰色の身体をした、首の無い継ぎ接ぎの巨人の姿が写っていた。その様子は、近頃、ブリタニア近海で度々目撃されている、謎の巨人の外見に関する報告と多分に一致している。だが、ミーナが最も驚かされたのは、そこでは無かった。
「これを、軍が?」
ミーナは書類を睨む様に読みながら、そう言った。内容こそ半分も理解は出来ていなかったが、その書式は彼女もよく知る、ブリタニア軍の物であるという事実が、自然と彼女の言葉を疑惑に塗れさせる。
「妙な話だと思って突いてみたら、案の定だったということだ。上も予想外の事で、相当焦っていると見える」
イネスが呆れた様にそう言ったのは、この巨人に関して出された指示のちぐはぐさについてだった。本来、各統合戦闘航空団、及び、それらを管轄する組織「フューネラル」は、連合軍に属する、対ネウロイに特化した部隊である。物言わぬ侵略者であるネウロイに対して、彼女らはその殲滅を至上とし、その不達成は人類の敗北を意味するとさえされていた。
だが、この巨人に対して出された指示は「捜索及び捕獲」。巨人の正体が不明であったにしろ、統合戦闘航空団に敵の殲滅以外の指示が出るのはおかしいのである。ミーナも当初より違和感は感じていた物の、この件に関しては立場上、彼女の上官にあたるフューネラルの指揮官であるイネスが、音頭を取って対応していたのだ。最も、手を出したのが、蟻の巣程度か、それとも蜂の巣だったかはまだ分からないが。
「これは……ネウロイなのですか?」
ミーナは書類を凝視したまま言った。その言葉は確認するのではなく、信じ難いというニュアンスが強い。が、それに対するイネスの返答は、彼女の気持ちを落ち着かせてくれる物では無かった。
「古来より、敵の鹵獲兵器を使用するのは、戦術の基本と言う事だ。最も、それは正確には、ネウロイの死体のパッチワーク、だが」
イネスは、起伏の無い声で淡々と告げる。しかし、ミーナには、その平淡さは彼女が裏に込めた感情を、必死に抑えつけようとした結果の様に感じられた。
「ネウロイの残骸の継ぎ接ぎ……まるでフランケンシュタインの怪物ですね」
「軍ではそれを、実験体《EX-1》と呼んでいた様だ」
イネスは、何処か呆れた様な口調で言った。
「ただ、残念ながら、その成果は芳しく無かったらしい。研究を行っていた『モルグ』という施設は、先日の起動実験で消失している。実験体の姿は何処にも無く、残ったのは文字通りの死体置き場となった瓦礫の山だけ。連中としても、生存者がいない以上、実験の成否だけでも知る為に、藁にもすがる思いなのだろうが……」
笑えない冗談を言いながら、イネスは一旦言葉を切ると、ようやく顔を上げ、ミーナの方を見る。
「済まない、ヴィルケ中佐。どうやら、どうしようも無い尻拭いをして貰っている様だ」
イネスの率直とも言える謝罪に、ミーナは思わず苦笑った。誰よりも現場の事を考えている彼女が、現場の事ばかりを考えているわけには行かない立場にあるのは、何処か皮肉めいている様で、実は至極当然の事でもあった。それでもミーナは、こういう性格のイネスに対して、好意と敬意を抱いていたし、直接の上官が彼女の様な人物であった事は、何よりの幸運だったと思っている。
そんな事を考えながら、ミーナは何気無く、その報告書を捲って眺めていると、一つの疑問を抱いた。
「コマンダー、報告書は、これで全てですか?」
ミーナが顔を上げると、イネスと視線が交わる。
「古い物は、全て破棄されていた様だ。発案者も、推進者も、結局分からなかった。最終的に、実験の中心を担っていたのは、ノグチ博士とマキ・アガタという助手の二人の様だが」
イネスの説明を聞いて、ミーナは再び報告書に目を落とした、今、彼女が手にしている報告書に書かれているのは、既に《EX-1》の復元が半分ほど進行して以降の、進展及び現状報告についてであり、発案の段階も含めて、計画当初の事情を知らせる部分は皆無であった。特に、この計画を考えた人物については、残っている部分からも徹底的に削除が為された様な痕跡が散見され、否応無しにその裏で動いていた思惑を窺わせる。
「し、失礼します」
イネス、ミーナの両名が沈黙した事で、部屋に流れ始めた重苦しい沈黙を、ややのっぺりした印象の、可愛らしい声が破った。イネスが振り向くと、薄茶色の髪を三つ編みにした少女が、ティーカップを三つ乗せた銀盆を持って、テーブルの方へ歩いて来る。少女は、まずイネスの前にカップを置き、立ったままのマイケルを見て、少し迷ってから、その位置から出来るだけ近くなる様に、テーブルの端にカップを置いた。彼女が反応を窺う様にマイケルへ視線を向けると、マイケルは感謝の意を示す様に、大仰に笑って見せる。が、笑い掛けられると、少女は顔を紅潮させて、慌ててミーナの分のカップを置くと、逃げる様に部屋から出て行ってしまった。
「嫌われてしまった様です」
その様子を見て、マイケルは心から残念そうにそう言った。最も、それは場を和ませる為に、そういう風に言っただけであり、イネスとミーナもそれを理解した上で、くつくつと笑う。一見すると、大柄で威圧感のあるマイケルだが、彼は時としてこの様に、場の空気を和ませる冗談の言える男であった。年下で、同階級の現場指揮官という、何とも微妙な関係であるミーナに対しても、自分が前線に出ないという理由で、常にミーナの事を立てた言動に終始するその様は、未だ男社会である軍内部において、それなりに異質な存在でもある。
「ビショップ軍曹の様子はどうだ?」
一頻り笑った所で、イネスは先程の少女――リネット・ビショップを指してそう言った。問われたミーナは、困った様に笑って、僅かに首を横に振る。その仕草だけで、大体の事を理解したイネスは、苦笑して、カップを口に運んだ。
「ブリタニア期待の星を、お茶汲みに使っていては、文句を言われてしまいそうだな」
自嘲する様にそう言って、イネスはカップを置く。
「そうだ、人員の事だが」そして、思い出した様に言った。「近いうちに、増員があるかも知れない」
「え?」ミーナは驚いて、思わずイネスを見返した。「特に、希望は出していなかったと思いますが……」
「心配しなくとも、上の都合だよ。新兵器の試験運用だそうだ」
「……ネウロイの動力源を搭載したという、連合軍肝入りの?」
「連中は《ザルク》と呼んでいる。確かに、実用に耐える物であれば画期的な代物だが」
そう言って、イネスはミーナの手元にある、先程の報告書に視線を向ける。敵の能力を利用する事に、彼女は特に異論があるわけでは無い。だが、それがどういう物で、どういう原理で使われているのか、分かり切らない内に使おうと言うのは、何時か、何処かで必ずツケを払う事になるだろうと、そう思うのだ。そして、彼女にとって何より歯痒いのは、それを受け入れ、部下に押し付けるしかない、自身の不甲斐無さである。
「今の所、五○一から五○五までの各航空団に、一機ずつ、合計五機を配備して、実戦データを取るという事で、話が進んでいる。テストパイロットは、恐らくフューネラルから出向と言う形になるだろう。まだ、確定ではないが、そのつもりでいて貰いたい」
「……大丈夫なのでしょうか。言い辛いですが……実験段階で死者が出ていると」
言い淀みながらも、露骨に不安を吐露するミーナの様子を見て、イネスはそれも仕方ないと思った。《ザルク》という兵器は、その余りにピーキーな特性から、開発中に事故を起こし、その際に搭乗していたパイロットを死に追いやっている。誰かが「天然のミートソース」と比喩したその死に様は、今でも彼女の脳裏に強烈に焼き付いていた。
「《ザルク》の試験運用については、決定事項だ。我々は問題が無い事を、初心な乙女の様に信じるしか無いんだよ」
だが、それでも、イネスはこう言わざるを得ないのだ。それが何であったとしても、使えと言われれば、部下に使えと命を下し、棄てろと言われれば、自ら率先して棄てなければならない。それが、悲しくも、今の彼女の立場であった。
イネスの言葉を聞いて、ミーナは少し戸惑った表情を見せながら、「分かりました」と簡潔に答えた。その様子を見て、イネスは自虐的に笑う。
「……全く、情けない物だ。若い頃は、机の上で仕事をする様な人間にはなるまいと、そう思っていたのだが、中々、上手く行かない」
「そんな事はありません。もっと、ご自分の事を誇って下さい、コマンダー」
宥める様なミーナの言葉に、イネスは少し嬉しそうな雰囲気を出し、先程までとは違った、自然な笑顔をその顔に湛えた。
しかし、その笑顔はすぐに消え、鳴り響くサイレンの騒音に、イネスだけで無く、ミーナとマイケルの表情にも、強い緊張が走る。
「ネウロイ……!」
そのサイレンが示す意味を理解し、ミーナは立ち上がって、苦々しげに呟いた。
「ミーナ!」
その時、慌ただしく、一人の少女が部屋に駆け込んで来た。黒髪を二つ結びにした少女は、イネスとマイケルの姿を見止めると、慌てて直立し、敬礼する。イネスがそれを手で制すると、ゲルトルート・バルクホルンは体勢を崩して、ミーナの元へと駆け寄った。
「トゥルーデ」ミーナは、バルクホルンをそう呼んだ。「状況は?」
「大型のネウロイが一機。だが、大西洋を北上中の扶桑遣欧艦隊が接触し、現在、坂本少佐が交戦中だ」
逼迫したバルクホルンの声音に、ミーナの表情が青ざめる。思わず、彼女が視線をイネスの方へ向けると、イネスもそれに反応したかの様に、立ち上がった。
「我々の事は、気にする必要は無い」イネスは言った。「君達は、何時もの様に敵を打倒し、そして当たり前に、帰還し給え」
イネスの言葉に、ミーナは表情を引き締めた。そして、バルクホルンと共に姿勢を正し、右手を額の前にやり、敬礼して見せる。
「了解しました。ストライクウィッチーズ、これより出撃します!」
飛んでいる、という感覚は無かった。
芳佳は、まるで自分が風に舞い上がる、鳥の羽根にでもなったかの様に、飛ぶ事が当り前の様に大空へと向かっていた。
「宮藤!」
坂本の声が耳に届く。それは、通信機越しの声では無く、直接聞こえる肉声であった。我に返った芳佳が、迎え入れる様に待つ坂本の姿を捉え、そして減速し切れず通り過ぎようとする彼女の右腕を、坂本が右手で掴んで引き留める。勢い余って、坂本を中心に一回転して、芳佳はようやく空中で静止した。
「良くここまで来た」
そう言って、坂本は芳佳の肩に手を乗せた。それは、先程、格納庫でした様な、安心させる為の優しい物では無く、仲間に対する、力強いものであった。
芳佳は、何処か熱の籠った様な目で、頬を紅潮させながら、坂本へ視線を向ける。
「坂本さん」芳佳は、何処か夢見心地で言った。「私も、戦います。何が出来るか分からないけど、出来るだけの事を」
坂本の両手が、芳佳の両頬に当てられ、包み込む様にして、坂本の顔と芳佳の顔が接近する。坂本は優しく微笑みながら、驚いて目をしばたく芳佳の顔を見つめていた。
「宮藤、私に付いて来い」
坂本の言葉は短い物だったが、そこには有無を言わさぬ力強さがあった。芳佳は一瞬、呆けた様に坂本を見つめて、すぐに口元を強く結ぶと、それに負けない程の勢いで首肯する。
それを見て、坂本は大きく破顔すると、引き寄せる様に芳佳の方へ手を回した。驚いて目を見開く芳佳の視線を、坂本は自身が意図する方向へと誘導する。その先にいるのは、黄色い体皮を持つ人類の敵、ネウロイ。その威容を改めて目の当たりにして、芳佳は感嘆とも恐怖ともつかない、震えた吐息を吐き出した。
「良く聞け、宮藤」坂本も、ネウロイの方を注視したまま、言った。「本来、飛行魔女の戦術は二人一組を基本にしている。だが、今のお前では私と連携して動くのは無理だ」
坂本に言い切られて、芳佳は眉を潜めて、思わず坂本の方を見た。その様子を見て、坂本は豪快に笑い飛ばす。
「そう情けない顔をするな。だからこそ、作戦はシンプルに行こうと言う事だ」そう言って、坂本は再び、芳佳にネウロイの方を見る様に促した。「いいか、奴の胸の中央、人間で言えば心臓の少し脇のあたりに《核》がある。それを破壊すればネウロイを倒せるが、奴が腕で邪魔をしてくるから、私の剣だけでは倒せない。だから、私が隙を作り出す。その間に、お前は接近して、ありったけの弾丸を奴の胸に撃ち込んでやれ」
坂本の説明を聞いて、芳佳は緊張した様に、大きな音を立てて唾液を嚥下し、ずしりと重い機関銃を持ち直した。そんな芳佳の肩を、坂本は安心させる様に優しく叩く。
「難しい事は考えなくていい。とにかく自分の身を守って、目標に向かって引鉄を引く事だけを考えろ。私も自分の事は自分でどうにかするから、少しでも危ないと思ったら、無理せずすぐに離脱するんだ、いいな?」
そう言い残して、ゆっくりと離れて行く坂本の姿を、芳佳はしばし見送った。やがて坂本が背を向けて、ネウロイの方へ飛び去って行くのを見て、芳佳も慌てて動き出す。その重量で以って、存在感を訴える機関銃を見よう見真似で構えると、否応無しに、自分が戦場にいるのだと実感した。
ぐんぐんと、これまでに感じた事のない速度で、目標との距離が縮まって行く。が、次の瞬間、芳佳の視界は赤い光で埋め尽くされた。咄嗟の反応、防衛本能とも言うべき反射でシールドが展開されるが、不慣れな彼女は着弾に伴う衝撃を受け流す事が出来ず、その身体は弾かれて、木の葉の様に宙を舞った。
『宮藤!』
通信機から、坂本の悲鳴染みた声が響く。芳佳はその声で我を取り戻し、咄嗟に体を捩って、相対的に重量のある脚部を振り子の様にしてバランスを取り戻した。
「大丈夫です、やれます!」
一声叫んで、芳佳は再度飛行を再開する。だが、その航路をネウロイの攻撃が再び遮った。赤い光を受け止めながら、その威力を殺し切れず、芳佳の身体はじりじりと後退を余儀なくされる。またしても遠ざかったネウロイと、坂本の姿を見て、芳佳は焦りを覚え始めた。
「早くあそこに行かないと……!」
坂本が、ネウロイの周りを飛び回る姿が目に入る。ネウロイは、それに対して振り払う様に攻撃を行いながら、更に芳佳へ向けても牽制を行うなど、極めて攻撃的な性格を見せていた。最も、その攻撃のほとんどは坂本へ向けての物であるのだが、初心者どころか、初めてストライカーユニットに触れたばかりの芳佳の技術では、その散発的な攻撃でも、間を縫って接近する事さえ叶わない。
「きゃあっ!」
三度、芳佳の身体は押し戻された。短く悲鳴を上げて、それでも心折れずに前を見据えるが、引き金を握る手はじっとりと汗ばみ、背中から圧迫される様な焦りと緊張が、彼女の身体を支配する。
「どうしたら……」
方策が見えず、芳佳は何処か途方に暮れた様子で、ネウロイの方へ視線を向けた。周囲を飛び回る坂本に対して、ネウロイは変わらず攻撃を続けている。
その様子を見て、芳佳は坂本の動きと、ネウロイの動きとの関係性に気が付いた。
「顔を向けた方に、攻撃してるんだ」
そう言った先で、ネウロイが坂本の姿を追って、右を向いた。その瞬間、顔の僅か前方の空間で光が収束し、赤い光が空を貫く。
「――もしかしたらっ」
それを見て、芳佳はある可能性に気付き、再び行動を開始した。
その動きを、坂本は当然感知している。その時、彼女は芳佳に対して、ただただ感心していた。
シールドで防御したとはいえ、いきなりネウロイの攻撃を受けながら、気丈に体勢を立て直し、芳佳は飛び続けている。怪我を負わずとも、初めての実戦で敵の攻撃に晒されると言う事は、大きな恐怖を伴う物だ。現在、戦線で活躍している魔女達の中にも、初出撃では体が動かなくなり、散々な結果を残した者も決して少数では無い。それに比して、今日初めて武器を手にし、ストライカーユニットに触れたばかりのこの少女はどうだろう。眼前で流血を目撃し、自身もその猛威を受けてなお、逞しく自分の役割を全うしようとするその姿は。
「昔の私とは大違いだな」
かつての自分の姿を思い出し、坂本はふと笑った。その間も、彼女はその動きを止める事は無い。ネウロイの周囲を執拗に飛び回りながら、出来る限り、その注意を惹き付け、芳佳が接近する機会を作ろうとする。が、何かたがが外れたかの様に、ネウロイの攻撃は激しさを増していた。
突然、あらぬ方向へ攻撃が飛ぶ。坂本が目で追うまでも無く、それは急降下を始めた芳佳へ向けられた物だ。芳佳は、滅茶苦茶な動きながらも、その軌道をぶれさせ続けて、どうにかその攻撃を掻い潜る。そして、海面にほど近い低空を、滑る様に動く芳佳を見て、坂本はその意図を察知した。
考えるより先に、長年の経験で染み付いた反射が坂本の身体を動かした。坂本が芳佳とは対照的に急上昇すると、移り気なネウロイが今度はその照準を、坂本へ向ける。追い縋る様に放たれた光線を、坂本は察知し、まるで並走する様な形になって、その猛威を避けた。そして、ほんの一瞬、ストライカーユニットの推力を断つ。重力と、失われゆく上昇力が拮抗した瞬間、坂本はストライカーユニットを振り上げる様にして宙返り、息を吹き返した様に、今度はネウロイへ向けて一直線に降下した。
近寄るなと言わんばかりに、ネウロイの攻撃が坂本に襲い掛かる。それを回避し、時にはシールドで防ぎながら、坂本は真っ直ぐ、目標へ向けて最高速度に達した。
両手で握る扶桑刀に魔力が籠もる。それを嫌がる様に、今日これまでと同様、ネウロイは左腕を翳して己の心臓を守ろうと試みた。だが、今の坂本の狙いは、《核》では無い。
「その腕! 貰ったぁ!!」
咆哮と共に、今日一番の気迫で、その一撃は振るわれた。距離の離れた『赤城』の甲板にいた者にまで聞こえる程の破砕音を立てて、ネウロイの左腕が二の腕から切り分けられる。衝撃で仰け反るネウロイを置いてけぼりにして、坂本の身体は止まらず、海面へ向けて降りて行く。
その刹那、坂本と擦れ違い、機関銃を構えた芳佳が上昇して行った。それは、彼女なりに考えた結果の方策であった。
ネウロイの攻撃は、彼らがその顔を向けた方向へ放たれる。そして、彼らの頭部の可動範囲は、確認出来る限り、人間とそう大差が無い。つまり、真下は死角なのだ。そこへ入り込めば、少なくとも、僅かに相手の反撃を遅らせる事は出来る。坂本の助力あっての事とは言え、芳佳は、生まれて初めて戦場に出た彼女は、力づくでその一瞬を、奪い取って見せたのだった。
「行け! 宮藤!!」
坂本の声を背中に受けて、芳佳は一層加速した。猛烈な勢いで接近する彼女を、迎撃できる限界のタイミングで、ネウロイの射線が捉える。その熱線を、芳佳はその熱を感じる事が出来る程、ぎりぎりの所で回避した。そして、上昇しながら、迷わず手にした武器の引鉄を引く。
耳を塞ぎたくなる様な発射音と共に、大量の弾丸がネウロイの身体を抉った。銃弾は金属体であるネウロイの表皮を砕き、その破片は陽光に輝いて、光のシャワーが降り注ぐ。それでも、芳佳は上昇を続け、引鉄を引く力を緩めはしない。
そして、プリズム光の中に、明らかに異質な、赤黒い輝きを芳佳は見つけた。そして、直感する。それが《核》だと。そして、ストライカーユニットの推進力を弱め、銃を構え直し、照準をその光へ向けた。
出来た、勝てた。そんな喜びにも似た感情が、芳佳の脳内を駆け巡る。その瞬間、右腕に激痛が走って、芳佳は表情を歪めた。彼女の右腕は、痙攣した様に震えて、引鉄に掛けられた指先は愚か、腕を動かす事さえままならない有様であった。如何に、魔力による肉体補助があるとは言え、これまで訓練をした事も無い彼女が、重機関銃を扱うのは、限界であった。遠目にも、その事情を察知した坂本が、慌てて援護に入ろうとするが、間に合うはずもない。その僅かな時間で、ネウロイは既に体勢を整え、頭部に六つ存在する、目の様な水晶体が、赤い光を孕みながら、真っ直ぐに芳佳の方を見据えていた。
撃たれる。坂本も、芳佳自身もそう思った。その瞬間、何処とも知れない遠方より、数発の銃弾が風を切って飛来する。それらは、驚く程の正確さでネウロイの《核》を貫き、心の臓を打ち抜かれたネウロイは、一瞬の硬直の後、土色に結晶化して、やがて砕け散った。
ネウロイの破片が、まるで雪の様に降り注ぐ。その様子を、芳佳は滞空したまま、腕の痛みさえ忘れた様に、茫然と眺めていた。
『宮藤、大丈夫か』
そんな芳佳の意識を引き戻したのは、通信機越しの、坂本の声であった。
「坂本さん……あの、さっきのは」
まだ何処か焦点の定まらない思考で、芳佳は自分の危機を救ってくれた弾丸の事を思い起こしながら、離れた所で同様に滞空している、坂本の方を見た。それを聞いた坂本が、笑った様な吐息が通信機から漏れ聞こえる。
『来てくれたんだよ、私の仲間がな』
そう言うと坂本は、視線を別の方向へ向けた。芳佳が吊られる様にそちらを向くと、相当な距離の先で、オレンジがかった赤毛をなびかせた女性が、見せつける様に曲芸飛行をしている。それが、坂本の言う仲間らしかった。
『下を見てみろ、宮藤』
芳佳が赤毛の女性の飛行を眺めていると、坂本が言った。言われて、芳佳が素直に下を向くと、そこには、満身創痍ながらも、危機を脱した『赤城』の姿があった。そして、その甲板には、艦中の男達がいるのではないかと言う喧騒で、その殆どが、一様に、彼らの英雄へ向けて手を振っているのだった。
『守ったんだ、お前が』
坂本にそう言われて、芳佳はその言葉をじっくりと咀嚼した。これまで希薄だった実感が、そこでようやく、達成感となって、彼女の心に押し寄せる。
芳佳は甲板に、佐々木と、彼に肩を借りて歩く富田の姿を見つけた。笑顔で手を振る佐々木に対して、富田は複雑そうな表情のままではあったが、芳佳は純粋のその無事が嬉しかった。まだ、彼女は自分が何が出来たのか、それは分からなかったが、少なくとも、何かはしたのだと、それだけは胸を張って言えた。そして、自分が守った者達の姿を目の当たりにして、ようやく、芳佳の表情が綻ぶ。
その時、そいつは現れた。
芳佳の背後で大瀑布が巻き上がり、それは、その姿を晒した。勝ちどきを上げた、その一瞬を衝かれて、その場にいた誰も、坂本さえ硬直し、その成り行きを眺める事しか出来ない。
芳佳がゆっくりと振り向くと、そこには、たった今倒したばかりのネウロイと、ほぼ同等の大きさのそれが、不気味な唸りを上げて、彼女を見ている様だった。そして、攻撃色の赤、人が本能的に危機を感じるその色が、芳佳の視界を埋め尽くす。
はずであった。
その光が、芳佳の小さな体を呑み込もうとする寸前、それはもう一人の乱入者によって遮られた。ネウロイを追いかける様に水中から現れた、異質な灰色の表皮を持つその巨人は、まるで芳佳を護る様に、ネウロイと芳佳の間に割り込んで、圧倒的な熱量を持つ光線を、まるで鎧の様なその分厚い身体で受け止めていた。
余りにそぐわない、異様な静寂が周囲を支配する。誰一人、この状況を理解している者はおらず、時が止まったかの様なその中で、灰色の巨人だけが、ゆっくりとした動きで芳佳の方を向いた。その頭部にあたる部位は、左半分は左肩から繋がる様に表皮に覆われ、まるで顔半分を仮面で隠しているかの様に、露出した右目だけが、物言わず芳佳の姿を捉えている。
不思議と、芳佳は恐怖を感じていなかった。何処か間延びした様な時間が流れる中、まるで、無視された事に異を唱えるかの様に、ネウロイが、自分より一回り小さい謎の巨人へ左腕を伸ばした。それに反応して、振り返る巨人の頭部を、ネウロイの手が抑え込む様に覆い隠す。無抵抗に、それを受け入れる巨人に対して、ネウロイは明確な敵意を向けて、その眼前で赤い光が収束した。
その光が弾けた瞬間、巨人は対抗する様に右腕を伸ばし、ネウロイの頭部を抑え付けて、その射線をずらす。あらぬ方向へ光が飛び、雲を裂いた。ネウロイは仰け反りながら、巨人の頭部を掴んだまま、左腕を振り上げて、それを投げ飛ばした。
巨大な体躯が、そぐわぬ軽々しさで宙を舞う。そして、ネウロイは振り返り、空中でその体勢を立て直しつつあった巨人へ、追撃の光線を放った。しかし、巨人はその身体に対して異様に大きい、棍棒の様な左腕を翳して、ネウロイの攻撃を受け止める。その左腕は、防御した光線とは全く異質な、目の眩む様な白色の光を纏い、巨人は雄叫びにも似た唸りを上げながら左腕を振り上げ、ネウロイへ突進した。
ごう、という風を裂く音と共に、巨人の左腕が振り抜かれる。けたたましい衝撃音が辺りに響き渡り、その猛威をもろに受けたネウロイの頭部は、まるで豆腐か何かの様に、いとも簡単に消し飛ばされた。残ったネウロイの胴体が、結晶化し砕けてなお、その場に居合わせた人間達は、誰一人として行動を起こす事は出来ない。波のざわめきだけが耳を満たすその中で、灰色の巨人はまるで何事も無かったかの様に動きを止め、その風景に溶け込む様に、静かに佇んでいた。
夕焼けが街を赤く染め、人々に夜の支度を急がせる。昼から夜へと変わる短い時間の、精一杯の主張であろう赤い陽光が、タクト・カネシロの横たわる病室にも入り込み、日除け越しながらも彼に時間の移ろいを訴えかけていた。しかし、既に見飽きたその光景は、彼に何らかの感動を起こす事は無く、タクトは変わらず無言のまま、何時も通りに、徐々に赤から黒へと変わって行く天井に、ぼやけた視線を向けている。
「おぉ、辛い」
その視界に、一人の男が割り込んだ。タクトは声こそ上げなかったものの、驚いてその表情を見ようと目を凝らすが、ベッドの左脇から、窓に背を向ける様にして覗き込んでいるその男の顔は暗がりになり、誰そ彼の言葉通り、人相を確認する事さえ叶わない。
「実に、辛そうだねぇ。タクト・カネシロ君?」
しかし、男は名乗る事もせず、両腕を大きく広げながら、タクトに背を向け、窓の方へ近付いた。その時、タクトは男が大きな袋を左手に持っているのを見止めるが、何が入っているのかまでは分からない。真っ白いスーツに、赤みの強い肩までのロングヘアという、奇妙な出で立ちの男は、部屋を暗くしているブラインドを開け、まだ明るさの残る外の光を、室内へと招き入れた。
「人は忘れる事で生きて行ける。その忘却を、君は出来ないと言うのかね」
男は言いながら、ベッドの脇に戻って来ると、躊躇無く、その端に腰を下ろした。そして、手に持った袋からその中身を取り出し、タクトにも見える様に晒して見せる。
「禁断の実は、蜜の味」
勿体ぶる様にそう言うと、男は手に持った禁断の果実、林檎に、皮ごとがぶりとかじり付いた。
「何て言ったかな……軍では『実験複合体《EX-1》』、なんて呼ばれていたっけ」
しゃりしゃりと、食欲をそそる様な咀嚼音を鳴らしながら、男はそう言った。
「……フランクの事か」
「あぁ、そうそう」男はもう一口、林檎をかじった。「哀れ、大海へ羽ばたいた小鳥は、再び籠の中へと閉じ込められる。彼は飼い主たる軍に捕縛され、今や籠の中の鳥というわけさ」
男の言葉に、タクトは目を見開いた。覚醒して数日、考えもしなかった、というより、考える事を放棄していた、憎い相手の行く先を知らされて、燻っていた炎が再び燃え上がる様に、彼の心に憎しみを湧き上がらせる。
「憎いよねぇ。殺したいよねぇ」
まるで煽る様な男の言い振りに、タクトは事故を思い出し、右拳を握り締めた。その様子を見て、男は目を細める。
「デミトリアス曰く、全くの五分と、五分。それを天秤に掛ければ、塵一つ乗せた方が重い」
男は立ち上がり、両腕を広げそれを天秤に見立てる様に上下に動かし、芝居がかった口調で言った。
「……何が、言いたい?」
「分かるだろう? 復讐か、忘却か。君は、果たしてどちらに、心の欠片を置くのかな」
タクトは、男の方へ視線を向ける。しかし、まるで狙ったかの様に、男の顔はタクトの腕に刺さった点滴の袋に遮られて、その表情を窺う事は出来ない。
「……俺は」タクトは呟く様に言った。「俺は、奴が憎い。あいつを殺せるなら、これまでの自分を捨てても構わない。そう、思えるくらい……」
タクトの返答を聞いて、男は口の端を吊り上げ、妖しく笑った。
「そいつは結構。しかし、いいのかね? 悪魔が最悪の人間を誘う時、奴らはまず天使の姿で現れる。君は信じる事が出来るのかい? 天使たる僕を……さ」
男は、まるで値踏みするかの様に、そう問うた。逢魔時が終わり、徐々に闇が深くなりつつある部屋の中で、その言葉は、まさに悪魔的な響きを伴って、タクトの心を侵食していく。
「天使も、悪魔も関係無い。復讐の機会が与えられるなら、それだけで」
男の問いに、タクトは淡々とそう答えた。しかし、まるで男の言葉に当てられた様に、そこには隠し切れない憎悪が込められ、それを聞いた男は一言、「いいだろう」と言うと、懐から薬品の入った注射器を取り出し、タクトの腕にそれをあてがう。
「ならば眠れ。この闇夜に抱かれて」
注射器の中身が、タクトの身体へ注ぎ込まれた。程無くして訪れた、どろりとした眠気の渦に翻弄されながら、眠りに落ちる直前、タクトは混濁した意識の中で、男に尋ねた。
「……お前は……一体」
男のぎらりとした目が、タクトのそれを覗き込む。
「第三の男……かな」
その言葉を最後の記憶に、タクトは意識を失った。
第五○一統合戦闘航空団の、ストライカーユニット収納の為に設けられている、広大な格納庫。その格納庫の一部は、今は無骨で分厚い鉄板で仕切られ、その中にある物を封印する檻となっていた。小さな扉が申し訳程度に設置され、一応は出入りする事が出来る様になっているその場所で、芳佳はその中に閉じ込められた、籠の中の小鳥の姿を、ただじいと眺め続けていた。その視線の先にいる、実験複合体《EX-1》、或いはフランクと呼ばれていた、灰色の身体を持つその巨人は、それに応える事無く、厳重な拘束具に縛られたまま、無言でその体躯を晒していた。
「宮藤、まだここにいたのか」
外部と通じる唯一の扉が開いて、坂本が入って来る。彼女は、少し驚いた様な表情をして、芳佳の方へと近付いた。
「危険だとまでは言わないが……余り、心配をさせないでくれ」
眉を潜める坂本に対し、芳佳は申し訳なさそうな顔になって、俯いて下を向いてしまう。その様子を見て、坂本は肩を竦め、短く息を吐いた。
「お前の気持ちも分かる。だが、こいつがどういう行動に出るか、私達にも分からないんだ」
そう言って、坂本は眼前の巨人を見上げた。しかし、彼はそれに応える事も、何か言う事も無く、光を失った、瞳の様な物を虚空に向けたまま、静かに佇むばかりであった。にも関わらず、まるでそれが世界の破滅を導く死神であるかの様に、巨大な鎖を幾重にもして、封印しようとしているその様は、坂本の目に酷く滑稽に映る。
「……実験複合体《EX-1》か。自分達で作った物も御せないとはな」
ふと気付くと、坂本は思わずそう口走っていた。目の前の存在、人工的に再生されたネウロイの死体の継ぎ接ぎ、そう聞かされた時に、彼女が抱いたのは危機感では無く、嫌悪感であった。そして、その対象がネウロイでは無く、味方であるはずの、これを作り出した人間達へ向けられていた事は、少なからず彼女自身を驚かせた。
「……私、これがそんなに危険な物だなんて、思えません」
不意に、芳佳が少し遠慮がちに、それでもはっきりと口を開いた。坂本が振り向くと、芳佳は眉を顰めて、巨人の姿を見つめている。
「この……人がいなかったら、私はここにいる事は出来ませんでした」
強い調子になって、芳佳が言った。それを聞いて、坂本は目を細める。
この巨人の行動は、何とも奇妙であった。芳佳を屠ろうとするネウロイと、芳佳の間に身体を割り込ませその攻撃を防ぎ、一度だけ芳佳の方を見る様に振り返り、その後、敵意を示すネウロイを倒した。それは、見様によっては芳佳を助けた様にも見え、そして事実、その行為によって、芳佳だけでなく、扶桑艦隊の乗組員達まで救われた結果になっているのだ。坂本自身、芳佳と同じ様に、この巨人に危険を感じる事が出来ないのは、それを認識し、心の何処かでささやかな感謝の念を、抱いているせいかも知れなかった。
「……そうだな。見極めるべきなのだろう、私達は」
そこまで考えて、坂本は柔らかく笑った。何事かと、驚いて見上げる芳佳の方を向いて、坂本は真っ直ぐにその目を見つめる。
「たった今、軍司令部から指示があった。実験複合体《EX-1》は、一旦、第五○一統合戦闘航空団の管理下に置かれる」
「それって……」
「こいつは当分の間、この基地で保護する、という事だ」
言いながら、巨人の方へ視線を向ける坂本を追う様に、芳佳も巨人の方を見た。変わらず、静かにうずくまったままの巨人の姿を、芳佳は見つめる。
「どうする、宮藤。お前も、ここにしばらく留まるというなら、私が何とかするが」
坂本にそう言われると、芳佳は何かを考え込む様に、巨人から視線を外し、自分の足元を見つめていた。そして、暫しの後、彼女は意を決した様に顔を上げ、坂本の姿を真っ直ぐ見据える。
「坂本さん、私を『ストライクウィッチーズ』に入れて貰えませんか」
「何?」
予想だにしなかった言葉を聞かされて、坂本は自分でも驚くほど大きな声を上げて、芳佳の方を見た。その視線の先にいる芳佳の表情は決意に満ちて、その一言が決して浅い考えの元に出た物では無い事を、強烈に坂本へ印象付ける。
「本気か、宮藤?」
だが、それでも、余りに唐突な芳佳の言葉に、坂本はそう言わざるを得なかった。坂本の言葉に、芳佳が黙る。水を打った様に静まる中で、芳佳は真一文字に結んでいた口を、やがてゆっくりと開いた。
「……きっと、私は甘えていたんだと思います」芳佳は言った。「戦争は、今でも嫌いです。でも、嫌いだからって、無関係でなんていられない。私は、人の為になりたいとか、自分の力を役立てたいとか言うだけで、何もしていなかった。自分が友達と笑い合っている間にも、誰かが戦争で、死にたくないのに死んでいるっていう事を、仕方ないよって思って、自分を納得させて目を背けてたんです」
芳佳は、言いながら、自嘲する様に笑う。
「馬鹿ですよね、私。戦争で家族を失った人なんてたくさんいるのに、自分だけ特別みたいに勘違いして」
そこまで言って、芳佳は言葉を切った。彼女の脳裏に浮かぶのは、『赤城』で経験した事であった。富田や佐々木と交わした言葉、目の当たりにした惨劇、それらを思い出しながら、まるで自分の愚かしさを、自ら侮蔑する様に、困った様な顔で笑うその様子を、坂本は静かに見守りながら、次の言葉を待っていた。
「今更かも知れないし、手遅れなのかも知れないんですけど、それでも、何かしなきゃいけないって、ようやく気付いたんです。何が出来るか分からないけど、何でもいいから、出来る事をしようって。だから――」
言い掛けた芳佳の言葉を、遮る様に、坂本は彼女の両肩に手を掛けた。驚いて、見上げる芳佳の顔を、坂本は優しい笑顔を浮かべて見つめる。
「恥じる事は無い。宮藤、お前は立派だ。自分で考え、行動した。それは、十分に胸を張って良い事だ」坂本はそう言って、芳佳の肩から手を離した。「私が、お前を一人前の魔女にしてやる。一緒に、ネウロイと闘おう」
「はい! えっと……さ、坂本少佐」
戸惑いがちに、坂本を階級付で呼ぶ芳佳を見て、坂本は微笑んだ。
「私とお前は海軍だ。階級はいらん」
芳佳は、その言葉を聞いて、一瞬呆けた後、すぐに満面の笑顔にその表情を変えた。
「よろしくお願いします! 坂本さん!」
そして、元気の良い芳佳の声が、格納庫に反響して、消えて行く。その様子を、物言わぬ巨人が、まるで見守る様に、静かに見つめていた。
連合軍対ネウロイ特殊部隊「フューネラル」。複数存在する、統合戦闘航空団をまとめ上げるその組織の本拠は、ブリタニア北部の、ネス湖畔にあった。明らかに、戦線から離れた場所にその基地が設けられているのは、その性格が戦闘部隊というより、航空団の管理組織に近い事を暗に示している。
その司令室の扉が、四度、乾いた音を立てて叩かれた。中で、椅子に座り、書類に目を通していた司令官、ラナ・イネスが、手を止め「入り給え」と、扉へ向かって短く言うと、一瞬の沈黙の後、扉が開き、一人の青年が入室してくる。
「良く来た。まずは歓迎する」 敬礼する青年を手で制すると、イネスは立ち上がった。「だが、分かっていると思うが、君の仕事場はここではない。君には、第五○一統合戦闘航空団へ出向し、機動兵器《ザルグ》のテストパイロットをして貰う事になる」
言いながら、イネスは机の引き出しを開け、中から一枚の書類を取り出し、青年に手渡した。
「厳密には、君の所属はあくまでも『フューネラル』、つまり、私の直属の部下という形になる。だが、現場においては、部隊長であるミーナ・ディートリンデ・ヴィルケ中佐の指示が、全て私のそれを代理すると心得て欲しい」
手渡された書類、すなわち辞令に目を通す青年の様子を窺いながら、イネスは言った。無表情で、手元を眺める青年の姿は、実に奇妙な出で立ちであった。
まず、目に付くのは、左頬の大きな傷跡。そして、その傷のせいか、端正なその顔は左半分が大きく歪んだ様で、色素を失った様に色の薄くなった左目を吊り上がらせている。更に、左前髪は白髪化し、その異形を強調してるかの様に跳ね上がっていた。イネスが受けた報告によれば、それらはバイク事故による傷跡で、一ヶ月間の休養を経ての復帰という事らしかったが、事前に知らされていなければ、流石の彼女も冷静に対応出来なかったであろう。およそ、人体の基本である、左右対称を無視したその有り様は、それほど初見には衝撃的なものであった。
「何か、聞きたい事はあるかな?」
イネスが問い掛けると、青年は書類から視線を上げ、一言「問題ありません」と答えた。まるで、問うた自分の姿を映す鏡の様に、無表情で無感情な青年の姿に、イネスは違和感を覚える。
「フューネラル」という組織に来る者の反応は、得てして二通りであった。一つは、配属された事を嘆く者。もう一つは、逆に喜ぶ者。優秀ではあるが、本人、或いは周囲の問題で厄介払いをされた者達が集まる場所。対ネウロイという、人類の命運を背負う航空団の、管轄組織と言う華やかな表向きとは裏腹に、その内面は、はみ出し者達の吹き溜まりとも言うべき状態であった。そんな部隊に配置されれば、まともな神経を持つ者は嘆き、周囲から孤立する傾奇者は喜ぶのである、
しかし、イネスの眼前にいる青年には、そのどちらも感じられなかった。一か月の治療を要する怪我を負い、復帰と同時に転属命令が出るなど、表面上こそ、戦闘機操縦の実力を買われての、新型機動兵器のテストパイロットへの抜擢ではあるが、体の良い厄介払いであるのは自明の理である。だが、この青年は、それを悲しむ感性も、喜ぶ異常性も持ち合わせていない様に、イネスには思えた。
とはいえ、それは大した問題であるはずも無かった。上層部がわざわざ寄越すのだから、その操縦技術に疑う余地は無く、イネスはその些細な思いを、きっとデスクワークに忙殺される、自分の姿を嘆く心が抱いた感傷だと割り切り、姿勢を正して青年の方へ向き直った。
「君が、多大な成果を上げる事を期待している。頑張ってくれ、リウ・ソーマ少尉」
イネスの敬礼に、リウ・ソーマ――すなわち、タクト・カネシロその人は、同じ様に敬礼で応えて見せる。
名も、姿さえも変え、復讐の場へと向かうその姿は、正に、闇夜の生み出した怪物その物であった。
次回
Phase05:出会と憎悪と