――物心ついた時から、男には、自分という存在が解らなかった。
どんな理念も崇高と思えず、どんな探求にも快楽など無く、どんな娯楽も安息をもたらさない。万人が美しさや喜びを感じる対象をそうと感じる事のできない破綻者。
美徳より悪徳に、 清廉より汚濁に、 己が心は打ち震える。 罪深さに魂さえねじ切れる。
神の家に身を置きながら、 この体は、あまりにも救いがない。
何故そこまで自分の価値観が世間一般のものと
それでも神はいるものと信じた。まだ自分が未熟であるが故に、真に崇高なるものが見えないだけだと。
いつの日か、より崇高なる真理に導かれるものと、より神聖なる福音に救われるものと信じて生きてきた。その希望に賭け、縋った。
だが男とて、既に理解してしまっていたのだ。
―――もはや自分という人間は、神の愛をもってしても救い切れぬ。
そんな自分に対する怒りと絶望に駆り立てられ、男はひたすらに己を虐げ続けた。修身の名目を借りて徒に繰り返された自傷行為。無謀な戦いに臨んだ事など一度どころではなく、避けれる苦難に自ら飛び込んだ事など数え切れるものではなかった。だがそうやって責め苛むほどに男の肉体は鋼の如く鍛えられ、気付けば『代行者』と呼ばれる教会のエリートにまで上り詰めていた。
誰もがそれを『栄光』と呼んだ。男の克己と献身を聖職者の鑑として褒めそやした。父も例外ではなかった。
男の抱えた人格の欠落は、生涯の中で誰にも理解された事がない。
―――その筈だった。
『おーおー、腐った目ぇしてんなあ。話は聞いていたが、予想通りのツラしてやがる』
その時受けた衝撃は、言葉で表現できる領域を超えていた。
長く伸びた赤い髪、顔の半分を覆い隠した仮面、口元に咥える煙草。
男の元を訪れた際の荒っぽい口調や暴言の数々も相まってとても神父に見える人間ではなかったが、その言葉だけで男は悟った。
全て、見通されている。
男を『神の結晶』と呼ばれる物質、イノセンスの適合者であると語った彼は、ぞんざいに告げた。
『エクソシストになれ、代行者。もう聖堂教会の方に話は通してあるからな、拒否権はねぇぞ』
どこまでも一方的な言い方だったが、彼は文句一つ言わなかった。
赤い男についていけば、きっと答えが見つかると思ったからだ。
知り合いや家族に転属の事を話し、準備を進め―――彼は、赤い男と共に『黒の教団』へと向かった。
そうして、男はエクソシストになった。
彼の名は言峰綺礼。
かつて代行者として異端を排除し、今は黒の
日が沈み、暗闇に包まれた街。
三日月が高く昇り、昼間は雑踏とざわめきが絶える事のなかった街が、今は人気もなく静まり返っている。
そんな中。
「―――ハッ、ハッ!」
静寂に包まれた空間を切り裂くかのように、闇夜を駆ける一つの影があった。
月明かりに照らされるのは、ヒトのシルエットを持った異形。
AKUMA。
とある人物によって造られる生きた悪性兵器であるそれは片腕を失い、満身創痍の体で逃げ惑っていた。
「畜生、くそったれ、ファック!何だアレ、何だアレ!?」
袋小路。目の前に迫る人家の壁に対し、AKUMAは人間離れした身体能力で跳躍した。
屋根に危なげなく着地、肩の傷口から猛毒の
数分前とある神父と交戦した場所からかなりの距離を稼いだ筈だったが、それでもAKUMAに余裕は無い。
イノセンスの中でも対AKUMA武器でしか破壊できないAKUMA、その中でも殺人を重ねて進化した存在の群れをダース単位で圧倒する存在など、高位のエクソシストに他ならない。
だが―――血反吐を口端から漏らし、荒い呼吸をするAKUMAは呻いた。
「
本来イノセンス、対AKUMA武器には、装備型、寄生型の二種が存在する。
それ等の形状、性質によって肉弾戦でAKUMAと戦うエクソシストも存在するだろうが、それでも装備や身体に何らかの変化がある筈だ。
しかし―――Lv3のAKUMAまでいた彼等を圧倒したエクソシストは、イノセンスを使わなかった。
いやイノセンスこそ行使を確認したが、そもそもあれは対AKUMA武器などでは決して無い。
「何なんだよ、あの馬鹿げた力は―――!」
「そうか?大した事ではないさ。元々私の所属していた組織は異端を狩る技術に特化していたからな。それを貴様等に振るっただけの事だ。直接的な攻撃力を持つ訳でもない私のイノセンスを使うよりは遥かに都合が良い」
「!?」
決して大きくはない静かな声。
それは高速で走るAKUMAに、確かに届いた。
腰を捻って後方を向き、半ば反射的に能力を行使する。その能力は身体の形状変化。残った左腕を直径2メートルの盾にした。
AKUMAの胴を守る様に掲げられた盾。並以下のエクソシストでは傷一つ付ける事のできないLv2の鉄壁。
それを―――弾丸の様な勢いで投擲された刃が、一撃で貫いた。
「かッ……!?」
体勢を崩し屋根から落下する直後、更なる刃がAKUMAの身体を穿つ。
それはさながら磔だった。
地面に叩きつけられたAKUMAの身体が複数の剣によって縫い止められ、身動きを封じられる。
「ぁ、が……!!」
もがき苦しむAKUMAが束縛から逃れようと足掻く中、その淀んだ目は自分の落ちた屋根から一切の躊躇なく飛び降りた男を捉えた。
AKUMAの側に着地した男は、悠然と足元の異形を見下ろす。
「やれやれ、自我を持ったAKUMAの扱いには中々どうして難儀する。迂闊に逃げられて無為な被害を出されては堪ったものではないからな」
そんな文句を言いながらも、その口元はいびつに歪んでいた。
笑う、わらう、嗤う。
足元で醜く足掻く異形を見て、彼は愉悦に浸っていた。
「……くっ、くく。やはり貴様等は面白い。千年伯爵によって弄ばれ偽りの自我でもって罪のなき人々を殺す
「ッ―――」
大きく口を開く。
本来舌があるべき場所にあったのは、黒塗りの銃口。
銃身に
「くたばれ、エクソシストがァァああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
ゴグシャァっっ!!と。
爆砕音と共に、踏み潰された。
「―――」
「ふん」
石畳ごとAKUMAの頭部を踏み砕いた長身の男は、毒に侵された様子もなく背を翻す。
首元で輝きを放つ十字架、纏う黒の団服、その胸に刻まれたのはローズクロス。
再び、夜の街に静寂が戻る。
イノセンスを回収したエクソシスト―――言峰綺礼は、教団本部への帰路についた。