「分かっていると思うけど、これは内緒だよ」
「皆の力を貸して欲しいでやんす」
「小生からも、皆の尽力を請う」
三人の言葉に皆が頷いたのは言うまでもない。
かくして、何かが動き始めた。
甲子園予選秋季大会。翌年に行われる春の選抜甲子園へ向けての予選大会である。世間は夏ほどの熱気に浮かされはしないが、球児にとってはどちらも同じくらいの価値を持つ大会だ。いままさに恋恋高校野球部は、この初めての秋季大会に臨もうとしていた。そしてまたこれは、初めて早川あおい抜きで臨む試合でもある。頼れる投手を一人欠いての試合、チームにとってこれほどプレッシャーになることもない。手塚が良い例だった。何せ二条の後には自分しかいない、しかもあの早川あおいの代わりを果たさなければならないのだ。いつもは試合前にも調子良くおどけてみせていた手塚だが、今回ばかりはそんな余裕もないようで、気を紛らわすようにひたすらブルペンで投げ込みをしていた。
こちらにまで緊張が伝わってくるような震えた球を受けながら、樹は思う。
(やっぱやめといた方が良かったかな……)
実は今日の試合は、度胸をつけさせるという意味で手塚を先発に指名してあるのだ。この試合に限っては二条が投げようと手塚が投げようと結果は同じなのだから、一年生の内に大舞台を踏ませてやろうというのが加藤監督と樹の共通の意見だった。もともと勝負に出るような度胸が足りない手塚であるから、これを機会に一皮剥けてほしいのだが。
(うん、やりすぎかもね……)
バックスタンドに掲げられた校名のボードをちらっと見やりながら、樹は嘆息した。
本日秋の甲子園予選、第一試合は、恋恋高校対あかつき大学附属高校
いくら主要選手が充実している恋恋とは言え、あかつき大附属のようなトップクラスの高校に敵うはずもない。勝負を諦めるということは嫌いな樹であるが、こればっかりはもうどうしようもなかった。
相手側のブルペンに目をやると、よく知らない選手が二人、投げ込みをしている。やはり恋恋高校程度の相手では、かの猪狩兄弟の投入はないようだった。悔しいが、実績がないのだから仕方が無い。
いつか見返せるほどのチームにしてみせよう。そう胸に誓いながら、樹は手塚の投げ込みに付き合い続けた。
あかつき大学附属高校戦 11-0 完封コールド負け
これが、今年の恋恋高校最後の結果だった。
秋の大会も終わり、野球部はどこか気だるい雰囲気に包まれ始める。高校に入ってから野球を始めた人間たちが、まともな試合を含めた高校球児としての生活を送り、そして一年のうちで最後の公式戦が終わったのだ。気が抜けて然りだろう。これに関しては樹やあおい、二条や矢部、加藤監督といった皆も特に口出しはしなかった。休息は必要である。少しぐらい気が抜けたって構わない。
そして世間では野球の熱気が冷め、ここからはサッカーの季節になる。プロ野球も優勝候補があらかた決まってきて、全体の試合としては盛り上がらない時期だ。
まだ寒くはないものの、日が落ちるのは早い。夕日が辺りをオレンジに照らし出し、どことなく時間が止まってしまったような雰囲気の街を歩きながら、二条神谷は一人考え事をしていた。と言っても大したことではない。学校の帰りに好きな夕飯の材料を買ってきなさいと母から言われたものだから、メニューをどうしようかと一思案抱えているのだ。チームメイトが聞けば思わず笑い出しているだろう。
しかし神谷はいたって真面目だった。母の手料理が大好きである自分にとって、メニューはとても重要な項目である。夕飯の楽しさは即ち今この瞬間の自分の決断にかかっているのだ。
手近なスーパーに入り、生鮮野菜コーナーを物色する。流行りのドラマにでも出てきそうな綺麗な顔つきをした男子高校生が、ジャガイモやニンジンと睨めっこしながら真剣に何かを悩んでいるところなど、傍から見れば随分と違和感のある光景だろう。
神谷の好物は肉より魚、魚より野菜である。特にジャガイモとニンジン、タマネギなどの甘みある野菜には目が無い。だったらカレーで決まりだとするのは考えの浅い小市民たる証である。神谷は決してカレーなどという安直なものには流れない。甘味ある野菜は、とにかく天麩羅に限る。というのが、神谷の持論だった。むしろこれは古風な父に育てられた所為であるのだが。
かと言って天麩羅でよしとするのもまた安直なもの。煮付けにするもよし、しかし肉じゃがという手もある。いやいっそ別の野菜を買って帰るかと、右へ左へ野菜コーナーをうろうろ。
そして暫くののち、神谷は一人うんと頷くと、ようやく決定した野菜を買い物カゴの中に入れた。ジャガイモとニンジンとタマネギとカボチャ、ピーマンである。あんまり変わっていなかった。
よし、今日は母にこれで何かを作ってもらおう。あえて内容はリクエストしない。料理上手な母ならば、これだけの材料があれば何か作れるはずである。自分は料理というものに造詣は深くないが、とにかく母の作る料理が美味しいことだけは知っている。ならば迷う必要なし。
そして神谷は勇み足でレジに並び、来るべき夕飯を楽しみにしながら、会計を済ませる。
「こちらジャガイモが一袋、ニンジンが三、タマネギが二、カボチャが一、ピーマンが三」
会計のおばさんが一つ一つ、内容を読み上げながらレジに打ち込んでいく。
「カーレールーが一」
予想外の単語が出てきた。
神谷はきょとんとして買い物カゴを見つめた。なんと、まさしくジョンカレー(激辛)のルーがそこに入っている。いつだ、いつ自分はこんなものを入れてしまったのだ。これでは帰り道、夕飯のメニューを想像しながら歩くという楽しみがなくなってしまうではないか。驚愕しながら一瞬硬直した神谷だったが、その硬直は、すぐにとけることとなった。
「ああ、入れといたぜ。なんかカレーっぽかったから」
背後からの声。知っている声だ。嫌というほど知っている声だ。ゆっくり、振り向く。
「おす」
そこには昔から知り合いである男が、以前と少しも変わらない嫌味な顔をして立っていた。きゅっとつり上がったキツネ目が、その性格の悪さを強調している。
「久しぶりじゃん、神谷。んで早速だけどちっと話がある」
「……」
無言で肯定の意思を告げる神谷。
ぶつかり合う視線がいっそ痛いほど、張り詰めた空気がその場を支配していた。ゴゴゴゴゴゴ、とかそういう効果音がよく似合う。
ゆえに、レジのおばさんと次に並んでいるお客はとても気まずそうに、いつ「そこをどいてくれませんか」と切り出そうかと暫く考えていた。
「ったく一回戦敗退っちゃー情けねぇなーお前、ちっと気が抜けてんじゃねーのか?」
「手を抜いているつもりはないが、結果が追いつかないものは反論のしようがないな」
「周りに女の子ばっかだからって、流石の神谷も腑抜けになっちまったもんだぜ、ったくよー」
「お前は相変わらずだな。せめて我が家に来た時は言葉を正せ」
「可愛い子、紹介してくれたら考えてやるよ」
「断る。自分は婦女子の方々とは縁が無い」
「お堅いねー全く」
やれやれといったように、出されたお茶を一気飲みする男。男とは少し言い過ぎかも知れない。彼は紛うことなき高校生であり、ついでに言うと神谷と同い年なのだが、その身体つきは痩身中背で、表情や仕草はから大きな中学生と言ったほうが適切である。落ち着き払った神谷との対比は一目瞭然であった。
彼の名は紅咲憂弥。神谷とは中学時代の野球部のチームメイト、そして何を隠そう二条神谷という人間を野球の世界へ引きずり込んだ張本人なのである。今も強豪校で野球を続けているのだが、地区リーグが違うほど離れている為、滅多に会うことはないし、また彼の噂を聞くこともなかった。
それで久方ぶりに会ったということで、神谷は彼を家に招き、応接室で茶など振舞いながら話を聞いていた。普段なら食卓についている時間であるが、旧友の話ならば仕方があるまい。
「それで、話の本題は何だ。手間が過ぎるなら機会を改めてくれ」
座り心地の良い来客用のふかふかの椅子、それに深く腰掛けて腕を組み、いっそ図々しさすら通り越した様子を見せつつ紅咲は口を開いた。
「ウチの高校は、予選リーグで恋恋と当たることはない」
今更のような確認。そんなことは、神谷も知っている。
「というわけでだ、やるぞ。練習試合」
あまりに唐突な提案だった。流石の神谷も一瞬呆然としてしまい、しばしの思案の後で言葉を返す。
「……我が校と雲龍がか?」
「グローブ納めに丁度いいだろ。ウチが相手してやるって言ってんだ。ありがたく受けとけよ」
挑発的な狐目で口元をニヤけさせる紅咲は、神谷の返事を待って視線をぶつけ合わせた。
公立雲龍高校――生徒総数約九〇〇人ほどの、公立にしては少々大きめの学校だ。勉学には運動が不可欠という考えの下、スポーツ系部活への入部は必須となっており、特に武道系の部活に関しては日本有数の成績を誇っている。また他の部活も強豪として有名で、野球部は甲子園の常連だ。
その名門を相手に、恋恋高校が果たして立ち向かえるか否か。答えは勿論ノーである。しかし神谷はこの提案をとても良いものとして受け止めていた。
先日あかつき大附属に大敗した原因は、言うまでもなくムードメーカーたる早川あおいを欠いたことだ。野球は技術よりも何よりも士気に左右される。普段あって当然だったものがなくなっただけで、チームは大きく動揺していた。だからといってこのままでは駄目である。
チームのリハビリとして、あかつきと同等の力を持った雲龍高校との試合はとても有意義なものなのではないか。そう思い立ったと同時に、神谷は返事をした。
「……そうだな、その申し出、有り難く頂戴しよう。話は自分が通しておく。よろしく頼む」
「うむうむ、くるしゅーない」
深々と頭を下げる神谷を見て、紅咲はケラケラ笑い殿様のように手をひらひらさせた。しかし突如立場は逆転する。
「んでだ、俺は腹が減った。……というわけで二条! 頼む、飯くれ。家までもたねーわ」
今度は紅咲が頭を下げる。神谷はいつものことと笑い、彼を居間へと通した。こんな性格の紅咲であるが、実は神谷の父二条宗次にはとても気に入られている。曰く、このふてぶてしさは大物の器らしい。
試合になれば敵同士であるが、そうでないときは仲が良いのが高校球児というもの。その日は久しぶりの再会に、夜遅くまで話は盛り上がった。
翌日、寝坊しそうになり朝慌てて身支度をしたものの、よく考えれば日曜日だったことに気が付いて一人恥ずかしい思いをしたのは、神谷だけの秘密である。
二条があの雲龍高校との練習試合を取り付けてきてくれた。この話に素直に樹はよろこんだ。何せ名前がろくに売れていない弱小校は、練習試合の相手探しにも一苦労するというもの。いくら夏に地区ベスト8進出を果たしたとは言え、主力投手は出場停止。その結果の、今大会一回戦敗退。こんな体たらくで、近場の高校に練習試合など申し込めるわけがない。だからこそ、強豪校との練習試合なんて願ったり叶ったりだ。聞けば、二条の元チームメイトが、雲龍野球部にいるのだという。持つべきものは友達なのだなと実感するばかりである。
雲龍高校とは地区リーグが違う為、甲子園予選で当たることはない。しかしその強さはあかつき大附属と張り合えるほどにあるということは重々聞き及んでいた。そんな強豪校と練習試合ができるなんて、本当に二条には感謝してもし足りない。
ただ一つ――、
「ほらー、皆気合入れて練習しなきゃー! そんなんじゃまた惨敗しちゃうぞー!」
「頑張ってくださーい!」
その試合が、今週末の日曜という急な日程である事を除いて。
勝手な応援旗なんか作ってパタパタと笑顔で振っているはるかを尻目に、矢部ははぁと溜め息をつく。
「頑張っていいところ見せたいのは山々でやんすけど……」
「流石に数日でどうこうなるもんでもないしね。負けて当然、気楽にいこう」
その横に並んでランニングしながら、樹が反応した。
「大体、雲龍高校って言ったら全国でも有名な文武両道の学校でやんすよ。運動そこそこ勉強真っ暗なオイラたちが勝てる相手じゃないでやんす」
「だから勝つ必要はないんだ……って、矢部君、俺を巻き込まないでくれるかな。勉強真っ暗に」
「何言ってるでやんすか。西条君とオイラの仲でやんすよ。一蓮托生でやんす」
「俺、この前の中間考査は赤点無し」
「へへん、そんなのオイラもでやんす」
「全科目の平均点六十八点」
「ゲゲェッっでやんす?! 西条君いつの間にそんなハイソサエティに行っちゃったでやんすか……?!」
「こらぁーっ! そこぉっ! 喋りながら走るなぁっ!」
後ろであおいの怒声が聞こえたところで、二人はくすりと笑い、真面目にランニングすることにした。
しかし樹には、少し気になることがある。今ブルペンで二条に向かって投げ込みをしている、手塚のことだ。あかつき大附属に大量点を取られてからというもの、しばらく落ち込んでいたかと思えば、今はああやってがむしゃらに投げ込みをすることで投手としての力量アップに努めている。その姿勢はとても評価できるものだ。
(だけど、ちょっと頑張り過ぎかな……)
毎日の度を過ぎた投げ込みは、言うまでもなく投手生命そのものを脅かす。一心不乱に速球を投げ続ける手塚が、樹にはとても危なっかしく思えた。
「手塚、暫時休憩を取るべきだと思うが」
「いえいえ、まだヨユーっすよ! 先輩、あと五〇球お願いしまっす!」
元気に言う手塚を遠目に見つつ、樹はともかくランニングをこなすことに集中した。
「手塚」
カランッ! という小気味良い音が響く。音に少し遅れて、夕焼けのグラウンドに空き缶が一つ転がった。
「え? あ、西条先輩! どうも、お疲れ様ですっ!」
「的当て? 上手いんだね」
「へへへ、実はオレっち、これ大得意なんすよ」
ニヤけ面で言いながら、手塚はさっき地面に転がった空き缶を、もとの板の上にセットし直す。これを十八メートルの距離からボールで狙うのが、的当てというわけだ。コントロールアップを図るための、昔からある代表的な練習法である。
「見てて下さいよー!」
そう言って振りかぶり、いつもと同じ投球フォームで放たれる白球は、見事にまた空き缶を射抜いた。カランッという音が、再び夕焼け空の下に響く。
「うわ、こりゃ凄いや」
「へっへーん、どうですかオレっちのコントロール!」
手塚のコントロールの良さは、直球にしろ変化球にしろ目を見張るものがある。特に直球においては、二条に匹敵するほどの制球力だ。試合でのストライク率は常に九割に近く、ボール球は滅多な事では出さない。それが、手塚の最大の欠点なのだ。
「まぁ見てて下さいよ先輩! 次の、雲龍相手には、この前みたいにパカパカ打たれやしませんって! バンバンストライク決めて、ばったばったと三振に打ち取ってやりますよ!」
「なぁ手塚」
「なんすか? あ、先輩もやってみます?」
調子良さそうにほいほいと片手でお手玉して見せる手塚。
「なんでもっとボール球投げないんだ?」
その手が、ピタリと止まった。
呆気にとられたような手塚の視線と、それを真っ直ぐ見つめ返す樹の視線とがぶつかり合う。睨み合うように時間が止まる両者だが、その緊迫感をもろともせず先に手塚がケラケラと笑いだした。
「ギャハハハハ! 何言ってるんですか先輩。ピッチャーがボール球投げてどうするんすか。ストライク入れてなんぼ! バッター追い込まない限りは始まらないでしょー!」
そう言って再び投げられるボールは、やはり見事に空き缶を打ち抜いた。自慢げにへへんと鼻を鳴らす手塚。
その指先がかすかに震えているのを、樹は見逃さなかった。
手塚の球質は、はっきり言ってかなり軽い。二条は勿論、アンダースロー投手であるあおいちゃんよりも。それは体格や体重などの差ではなく、ただ一つ、投げ方の問題だ。とは言え、投球フォームは最速投法のオーバースローであるし姿勢も綺麗でありそこに問題はない。あるのはもっと別のところ。
「というわけで、手塚のことをちょっと探ろうかと思ってさ」
『それで俺ですか……なんか、えらく直球ッスね』
夜、自宅から樹は電話をかけていた。相手は勿論、手塚とは中学の頃からのチームメイトである円谷だ。こういうときの為に連絡網を作成しておいて良かった。ベッドの上に寝っ転がりながら、話を続ける。
「こういうことは早い方がいいかなってね。それで、手塚がボール球を投げることを嫌がるようなことが過去にあったの?」
『うーん、というか、なんでそんな突飛な話になるのかが分かんないッスよ。たまたま、近頃ボール球が少ないってだけじゃないんッスか? それに、ボールが少ないのはピッチャーとして良いことだと思うッスけど』
「少な過ぎるんだ」
きっぱりと答えた。
「ボールを要求しても、手塚は意地でもストライクを入れたがる。あれじゃ駆け引きにならない。狙い打ちしてくれと言っているようなものなんだ。投手は何も、ストライクで勝負する必要はない。場合によっては、ボール球だけで三振を取ることだって可能なのに」
『…………』
「今度の雲龍高校との試合で、少しでもアイツには成長してもらわなくちゃならない。ストライクとボールを自由自在に投げられるピッチャーとして」
『中二の頃なんスけど』
樹はそこで言葉を止め、円谷の次を待った。
『俺たちのチーム、地区決勝で逆転負けしたッスよ。……原因は、あいつ、手塚のワイルドピッチで』
呼吸すら止めて、その言葉に聞き入る。
『一球じゃなくて、イニングスに三つぐらいッス。あいつ一度落ち込むととことん沈むッスからね。そりゃ酷い落ち込みぶりだったッスよ。……それからッスかね、あいつが、コントロールにこだわるようになったのは』
樹は何も聞き返さなかった。聞き返さずとも、きっと円谷は全てを話してくれる。
『毎日毎日投げ込んで、足腰が弱いと思えば走って……周りが心配するぐらい頑張って、そんで、手塚は滅多なことではボール球を出さない、ワイルドピッチになる要素は一つもない、アイツの理想の投手になったんスよ』
樹は無言でベッドからのそりと起き上がり、礼を告げる。
「……ありがとう円谷、ようやく手塚の本音が見えてきたよ。今度、ジュースおごるから、それで勘弁して」
『お役に立てたなら結構ッス。んじゃ』
ガチャリと電話の切れる音。ちょっと荒療治が必要になるかも知れないが、仕方がない。受話器をそっと耳から外して、樹は立ち上がった。
試合当日の朝。部員らは、恋恋高校グラウンドで相手を待った。大人数での移動ゆえ、自前のバスを持っているアチラの野球部がビジターになってくれたのである。本来ならば練習試合すら取り持ってはもらえないような実力差がありながらも、こういった気遣いをしてくれるとはやはり強豪校は何かが違う。
ついでにその場でスタメンを発表したのだが、その内容に一人、不満がある者がいた。
「えぇぇえっ?! またオレっちが先発ですかぁっ?!」
それはやはり手塚。この前のあかつき大附属の試合といい、強豪校相手はどうも気が引けるらしい。
「先発どころか、怪我でもしない限りは続投。投げきってもらうからね」
笑顔で言う樹。しかしそれは手塚にとって、死刑宣告のように聞こえたに違いない。そ、そんなぁ~と消え入りそうな表情でうなだれている。後ろからそっと肩を叩かれてそちらを見やると、あおいが耳を貸せというポーズをしていた。それに応じる。
「なに?」
「手塚君、この前ぼっこぼこになったばっかりなのに、また自信失くすようなことさせて大丈夫なの?」
もっともな疑問だった。しかし樹には考えがある。
「ここで一つ、壁を越えてもらわなきゃならないからね」
「……どゆこと?」
とそこで二条から声がかかった。
「並ばせてくれ西条。バスが来た」
言われて振り向くと、側面に達筆で雲龍高校とプリントされたバスが、正門から入り、今グラウンドの横の大きな道路へと乗りつけてきていた。慌てて樹は部員を並ばせ、礼の体勢を作る。
バスから降りてくる面々は、まさに強豪校に相応しい威圧感を纏っていた。見たこともないような筋肉を両肩にのっけてずんずんと歩く巨漢もいれば、見るからに足の速そうな中肉中背の者までずらりと高校球児がそろっている。
よろしくおねがいしまーっす!
恋恋野球部一同で礼をすると、あちらも並んでグラウンドに入る際に、言葉を返してくれた。
そんなありふれた光景の中、少し異質だったことは、雲龍の一団から一人、こちらへとずかずか歩いてきた者がいたことぐらいである。狐目がヘビのように吊りあがった、しかし控えめに言っても二枚目の顔つきの男が、樹へと歩み寄ってくる。
「あ、おいまた紅咲が勝手な事……」
「マネージャー呼んでこいマネージャー!」
そんな会話が向こうから聞こえる。
男が前に立ち、睨みつけてくる。身長は樹より少し低いくらいだが、この男の威圧感は尋常ではなかった。少しでも油断したら喉笛を食いちぎられるのではないかという野生的な危なさが、この目からは滲み出ている。若干腰が引け気味になりながら、樹はなんとか逃げ出さないでいた。
「テメェが西条か……ふぅん、へぇ……ふーん」
下から覗き込むように四方八方から樹をジロジロと見てくる男。
「よし」
やがて何を思ったか、バッグからなにやら冊子を複数取り出して押し付けてくる。
「ほら」
「え?」
「転入届けと試験要項」
そしてこちらの肩に手を置き。
「お前、雲龍に入れ」
直後、酷く鈍い音が響いた。例えて言うなら金属で人間の一部位を強く殴ったときに鳴るような音。もっと言うなら、野球のバットで頭を強く殴ったときに鳴るような音である。
というかその通りだった。
「このバカ死んでろ!」
男が崩れ落ち、その背後から追い討ちをかけるように女性の声が響く。その手には、今しがた起こった惨劇の凶器が握られていた。滴っている赤い液体は絵の具とかペンキとか、その類のものだろう。きっとそうに違いない。
「先輩方お願いします!」
女性が声をかけると、雲龍の選手二人がこちらに駆け寄ってきて、気絶した男をずりずりと引きずって退散していく。随分と手馴れた様子であった。
「本当にすいません! あの猿いつもあの調子なんです! どうもご迷惑おかけしました!」
そしてすぐさま、土下座してくる女性。背中にロゴの入ったジャージ姿なところを見ると、どうやら雲龍のマネージャーらしかった。背格好は普通の女の子という感じだが、今時流行らないポニーテールが妙に印象的である。
「い、いえいえそんなとんでもない……」
そのように樹が困惑していると、後ろから声が。
「奴が雲龍の主力投手、紅咲憂弥だ。少々下世話な面もあるが、気概は良い男だ。気にしないでやってくれ。……久しいな、玲奈。相変わらずで何よりだ」
玲奈と呼ばれた女性は、すっと立ち上がって二条と顔を合わせた。お互いに遠慮も愛想笑いもない、よく見知った者同士が見せる微笑を浮かべている。
「うん、お久しぶり。二条も相変わらずカタそうな顔してんね。いつもスマイル忘れちゃダメよー」
和気藹々とした様子の二人に、樹はおそるおそる声をかけた。
「あれ? もしかして、知り合い?」
「昔馴染みだ。小学から中学まで共に学び共に遊んだ」
「共に部活に励んだが抜けてるよ。ところでアンタ、恋恋のキャプテン? 私は小倉川玲奈。よろしくね」
「あ、どうも」
差し出された手に握手し、恭しく一礼する樹。
「そして、先刻頭部に重傷を負った紅咲も、昔馴染みの一員だ」
「ほんと、不本意なことにねぇ」
二条とは対照的に、玲奈は吐き捨てるような表情である。
「アホで空気読めなくて礼儀知らずなのはアイツの特徴だから、何かあっても気にしないでやって。……何はともあれ、今日はよろしく」
それだけ言うと、玲奈は雲龍側のベンチへと帰っていった。それを見送った後で、樹は二条に訊く。
「さっきのピッチャー、やっぱ凄いんだよね?」
「球速の速さ、危険球の多さだけは保障する」
「……それって危ないピッチャーなんじゃ……?」
「そうだな、注意しておけ。そろそろ戻ろう」
試合開始時刻が近付いたので、こちらも準備運動へと向かうことにする。
そのとき樹はまだ、二条の言葉の真意には気付けないでいた。
マウンドに立った紅咲憂弥は、いつも通り守備全体を見渡した後で、青い空を仰いだ。十一月の冷たい秋風が突き抜けて、第一投を今か今かと待ちわびている。まるで自分が世界の中心にでも立っているかのような、このマウンドから見る景色が、憂弥は大好きだった。
バッターボックスには既に一番打者が構えている。恐らく一年生だろう。まだ中学生野球が抜け切れていないような、真っ直ぐな目。危険な駆け引きには慣れていない様子が伺い知れた。
反則でなければ何を使ってでも、とにかく勝てば全てよし。それが憂弥の信条である。
一度だけ深呼吸をしたあとで、大きく振りかぶった。小柄な身体に見合わない、とても大きなフォーム。
そして憂弥はそのまま、打者の顔面めがけて渾身の球を投げた。
予想外だった。
自分の思う高校野球の「良い投手」というものは、球速が一三〇キロを超えて、球種は最低でもカーブとスライダーの二種を持ち、ストライクとボール球をしっかり投げ分けることのできる投手という範囲である。これを超えるレベルの投手と言えば、身近には二条と、かの猪狩守ぐらいしか知らない。
この紅咲という投手は、猪狩守には及ばないかも知れないが、どう控えめに考えても二条のレベルは超えていた。
速球は明らかに一四〇キロオーバー。キレるスライダーに、急失速するチェンジアップ、右バッターの胸元に食い込むようなシュート。そして何より……。
「うひゃっでやんす!」
「ボール!」
顔面すれすれの危険球に、打者が尻もちをついた。まただ。またこのパターンである。
続いて投げられるアウトコースへのただのスローボール。明らかなボールコース。冷静ならば見送るであろうこの球。
しかし打者はどうしても、手を出してしまう。
バッターアウトの声が、冷たく響いた。
巧い……! 樹はベンチから、奥歯を噛み締めた。このピッチャーは、打者の思考を完全に手玉に取っている。
顔面付近へのボール球は、理性では当たらないと判断できる距離であろうと、この速さの速球が間近に迫れば、逃げ腰になってしまうのは仕方がない。しかも避けずともデッドボールになる球筋ではないので、故意の反則球として訴えることもできない。精密なコントロールがあってこそ可能になる荒業だった。
インハイに身体すれすれのボール球を投げられた打者は焦燥感が募り、打ち気に逸ってしまう。結果、普段なら手も出さないようなアウトコースの球を打ちに行き、腰の据わっていない状態でスイングをしてしまう。俗にいう「泳ぐ」スイングだ。これでは当たっても内野フライを打ち上げるのが関の山。これには小手先の技術でなく、いかなる状況でも動じない精神力と、より多くの打席に立ったという自信や経験があってこそ初めて対抗できるのだ。
恋恋野球部の面々には、この経験と自信が圧倒的に不足していた。
かくいう樹も偉そうなことは言えず、アウトコースには手を出さなかったものの、決め球のチェンジアップで空振り三振を喰らっている。現在は四回表、打者は二順目、二番打者の矢部が三振してとぼとぼと帰ってきたところだ。
頼みの綱である二条も内野ゴロに終わり、恋恋側のベンチは重苦しい空気に包まれていた。スコアブックをつけているはるかが、心配そうにこちらを覗きこんでくる。
「西条さん……皆さんが、自信を失くさなければいいんですけど……」
「大丈夫だよ」
精一杯の強がりを吐き捨てて、樹は立ち上がり、手塚の元へ歩いた。今のところ、手塚の失点は六。そのうち自責点は四。投手として、お世辞にも良い成績とは言えない。
強く責任を感じているのだろう。皆に会わせる顔がないという様子で、手塚は俯いていた。そこに樹は話しかける。
「手塚、どうして打たれるか、分かるか?」
「…………いえ」
少し間があっての返事。声の調子から察するに、随分と落ち込んでいるようである。
「あっちのピッチャーがどうして、あそこまで三振を奪えるか、分かるか?」
「……球が速いからじゃないんすか」
「……一つ、お前に指示を出す」
樹が言うと、手塚はゆっくりと顔を上げた。
「次のイニングス、全球全力で、ショートバウンドしか投げるな」
「……え、えっ?!」
その発言に驚いたのは、手塚だけではない。近くにいたあおいや円谷も、目を丸くしていた。
しかしそんなことを気に留めるでもなく、樹は踵を返すと、レガースの装着に取り掛かる。直後に響くバッターアウトの声。
呆然としていた手塚がハッとして見やると、三振に打ち取られた三番打者が、申し訳無さそうに戻ってくるのが見えた。
ショートバウンドというのは、キャッチャーのすぐ手前でワンバウンドする、手の届く範囲では一番取りにくいとされるワイルドピッチである。球筋が低い為、キャッチャーは全身を使って球を覆わねばならず、それでも股下をすり抜けて後ろへ逃してしまうことは多々ある。球筋の低さでボール球になることは打者から見ても明らかであり、駆け引きには使えない。変化球のすっぽ抜けやストレートの投げ損じで生じる球である。そんな無意味なものを、故意に投げる投手など存在しない。
それを、しかも全力で投げろというのが、樹が手塚に下した指示だった。
マウンドに上がった手塚は、かつてない緊張と不安感に駆られていた。手先が震え、冷や汗が首筋をつたう。今まで散々避けてきたワイルドピッチを、ここで無理やり投げろというのか。
(オレっちが今までやってきたコントロール練習は……伊達じゃねぇんだぞ……!)
ふつふつと、西条への怒りが沸いてくる。自分は今、中学で積み上げたの野球を全て否定されたのだ。怒って当然。このような横暴には反抗する権利がある。
(わざとじゃねぇんだよ、あの時の暴投は……! なのに、なのに……!)
「手塚の暴投さえなけりゃなぁ……」
「せっかく追いついたっつーのに、あれはマジでねーわ」
「自分の暴投でサヨナラ負けとか恥ずかし過ぎね?」
「一回だけじゃねぇもんな。あれなら俺が投げた方がマシだって」
「なんでピッチャーやってんのアイツ?」
「肝心なときにストライク入らねーとかマジ使えねー」
(ストライク入れればいいんだろ! 入れれば!)
襲ってくる過去の記憶に、手塚は叫び返した。
(ストライクさえ入れてりゃ文句は言われねぇ……打たれて点が入っても、守れなかったお前らの所為だ……!)
マウンドを乱暴に踏んで整地し、手塚は西条の構えるミットに目をやった。ミットは、とても低く、ワンバウンドを誘発するような位置で構えられている。
(やって……られるか!)
渾身のストレートを、アウトコース高めに向かって投げる。高め一杯のストライク。初球としては充分に機能する球である。
しかし、雲龍の打者はそれを正確に捉えた。
勢いよく飛んでいくライナーが、手塚の頭上を高くを突き抜け、センターへと飛翔する。が、その飛翔も虚しく、矢部の果敢の猛ダッシュがそれに追いつき、あえなくアウトとなった。
(見ろ、打たせて取るのがオレっちのスタイルなんだよ!)
「タイム!」
大きく響く声。つられてそちらを見やると、西条がゆっくりとこちらへと歩いてきていた。要求したワイルドピッチが来なかったのが不満だったのか、だが生憎、自分は今しっかりとアウトに打ち取った。文句なんか言われれば、それはお門違いというものである。
こちらが悠然と構えていると、西条は立ち止まって言う。
「どうした? 随分とコントロールが悪くなったんじゃないか?」
「……え?」
その言葉は、自分の予想とは大きく違った。
「俺が構えていたのはもっともっと下の方だぞ、アウトハイまで逸れるなんてお前らしくないな。またコントロール練習しなおしたらどうだ?」
それだけ言い置いて、戻って行く西条。後に残された手塚は、ぎりぎりとボールを強く握り締めた。
(やってやろーじゃんか……)
西条は自分の中学野球を否定したばかりではない、あまつさえコントロールさえ小馬鹿にしたのだ。
(取れなくても文句言うんじゃねぇぞ!)
そして、要求通りのワイルドピッチを投げた。ホームベースの向こう側、キャッチャーの手前でバウンドする。理想的なショートバウンドである。判定は当然ボール。
(おらっ!)
続く二球目も同じショートバウンド。
三球目も。四球目も。
次の打者にも、その次の打者にも、全力投球のショートバウンドが続く。流石に異変を感じたのか、雲龍側のベンチが徐々にざわついてくる。何故、あのような暴投ばかりを投げるのか、何故、それでもあの投手を替えないのか。そんな言葉が、聞こえなくとも頭の中に響いてくるようだった。
ついに押し出しで一点が入る。しかしそれで手塚の暴走が止まることはなかった。真ん中のショートバウンドの次は、アウトコースにスライダーのショートバウンド。わざとホームベースの手前でバウンドさせてみたりと、手を変え品を変え、手塚はあらゆるショートバウンドを投げ続けた。
気付けば、押し出しでの失点は五点にもなり、塁は全て走者で埋まっていた。
ここまで連続の全力投球を行なったのだ。手塚の体力は限界だった。肩で息をし、帽子を脱ぎ、袖で汗を拭う。まるで今は真夏ではと錯覚するほどの身体の火照り具合だ。
西条が、今までと打って変わり、ど真ん中にミットを構えている。これだけ暴投を投げさせておいて、今度は真ん中に投げろとは、随分ワガママなキャッチャーもいたものである。しかし意地を張ってショートバウンドを投げ続ければ、またコントロールがどうのと嫌味を言われるに違いない。
(……わーったよ……投げりゃいいんだろ投げりゃ……)
手塚はセットポジションも忘れ、大きく振りかぶって、ど真ん中めがけ投げる。
その時であった。
指先が、滑る。
しまったと思った時はもう遅かった。
ロージンバッグをおろそかにした為に起こった事故。
腕から流れた汗が指先につたっているのに気付かなかったのである。
今までの行儀の良いショートバウンドとは違う、予測不能な回転と軌道を持った球が西条へと飛んでいく。それはインコース低め、打者の足元という最悪のコースであった。ショートバウンドという凶暴な球に、打者という障害物が加わるのである。
更に踏み荒らされたバッターボックス内でのバウンドは、方向が定まらない上に地面を蹴って加速する。捕球の難易度は跳ね上がる。
球の軌道を見た瞬間、各ランナーが走り始める。それに気付いたとき、手塚は恐怖した。押し出しではなく、点が入る。しかも故意ではない、本当のワイルドピッチで。中学二年の大会で経験したあの出来事が、強烈にフラッシュバックする。
「手塚の暴投」
「せっかく追いついた」
「自分の暴投で」
「一回だけじゃ」
「なんで」
「肝心なときに」
「うあああああっ!!」
ボールがキャッチャーに届く前に、手塚は叫んだ。当然、意味はなかった。虚しくも投げられた球は予想通りの軌道を辿り、打者の足元を打ち抜く。
スローになった感覚が、その球の行く先を追った。
打者が飛び退き、速球を避けた。
やってしまった――。
スパイク跡の多い地面を蹴って、ボールはホームベースから離れるように外に飛んだ。
打者は顔ごと身体を逃がし、主審までも飛び退いてバランスを崩している。
もう、ダメだ――。
その中で、一つだけ、暴れ球に向かっていく影があった。
ちくしょう――。
その影は顔を逸らすことなく球を受け止め、全身で押さえ込んだ。
また、オレっちは――。
そしてそのまま送球モーションに移り、腕のしなりだけで三塁へと送球する。
「アウト!」
手塚の意識がはっきりとしたのは、その声が響いた時だった。すぐさまそちらを見やると、飛び出していたランナーにタッチした三塁手が、こちらへと返球しようとしていた。半ば戸惑いながら、その球を受け取る。
そして何事もなかったかのように試合は再開し、続くバッターを内野ゴロに打ち取って、手塚はベンチへと引き上げるのだった。
「不満そうだね」
樹がバッターボックスに立っている中、ベンチの隅でふてくされたように座る手塚に、あおいは声をかけた。自分も元ピッチャーだ、今の手塚が考えてることぐらい、大体分かる。話しかけられた手塚は、やはり不機嫌な様子で口を尖らせた。
「当たり前ですよ。ショーバン投げろって言ったり、いきなりストライク要求してきたり……意味が分かりません」
「ははは、だろうね」
あっけらかんとしたあおいの笑い方に、手塚は一瞬ムカっとしたようだったが、反論する気もないようだった。すぐにまた、ふてくされた顔に戻って俯く。響くストライクは、樹が速球を空振りしたものだった。
「西条君ってさ、凄いよね」
ぴくっと手塚の肩が反応する。
「あんなにたくさんのショートバウンド、全部捕っちゃうんだもん。最後の一球はヒヤっとしたけど、それでも、全力で向かっていってさ……」
一旦バッターボックスを離れた西条が、再び構えを取り直す。
「キャッチャーが後ろに逃がしたらワイルドピッチで、捕ったらただのボールなんて、なんか不公平だよね」
「…………」
「……ワイルドピッチってさ、ピッチャーだけの責任に思われるかもしれないけど、キャッチャーの責任でもあるんだよ」
手塚は、そこで気がついた。
「押し出しで、手塚君の失点は多くなっちゃったけど、暴投で入った点は、一点もないんだよ」
そうか、そうなんだ。
「全部、西条君が捕ったから」
今日の自分は、ワイルドピッチを一つも投げていない。
「ボール球投げるのってさ、怖いよね。責任、たくさん背負わなきゃいけないから」
でもそれは――
「でもね、ボクらは、そんな心配しなくていいんだよ。ボクたちが真剣に投げた球は、どんな悪球でも、必ず、西条君が受け止めてくれるから」
西条先輩が、全部捕ってくれたから。
「手塚君さ、キミ、一人で野球やってない?」
そんな言葉に、手塚は顔を上げてあおいの顔を見る。
「打たれなかったらピッチャーとキャッチャーのおかげ。打たれて点が入ったら全員の責任。打たれてもアウトにできたら皆のおかげ。野球って、そうじゃない?」
恋恋のベンチがわーっ! と湧き立つ。どうやら、西条がレフト前にヒットを放ったようだった。
「キミひとりで責任負わなくても、いいんだよ。今日、西条君のやったことは、多分、俺を信用してくれっていう意味だったんじゃないかな」
中学の頃の悪夢が、音を立てて崩れていくのが分かった。今まで自分をここまでコントロールに固執させていた何かが、心から消えていく。重く苦しい鉛の塊を、ようやく手放せた気がした。
一塁に立ちリードを取り、牽制球をヘッドスライディングでくぐる西条を見て、あおいが言う。
「ねぇ手塚君、安心していいんだよ」
いつの間にか、ベンチが一体となって西条樹に声援を送っていた。
「ボクらのキャプテンは、あんなに頼もしいんだから」
「…………ぁい」
手塚の震える肩にそっと手を置き、数度背中を叩いてから、あおいは周りに負けじと西条への声援を大きく叫んだ。
樹の背中に映える青空が、全ての球児たちを応援しているようだった。
「先程は失礼したな、紅咲」
「ああ、凡打なんてらしくねぇぜ」
西条の次にバッターボックスに立った神谷と、対峙する投手紅咲の間に、見えない火花が散る。
「お前の球種を忘却していた。同じ失態は犯さん」
「頼もしいねぇ」
小柄な身体に似合わない大袈裟なフォームで投げられる初球。やはり顔面すれすれを通過したその球を、神谷は身体をそらすことなく見送った。
「流石に見えてるってか」
キャッチャーからの返球を受け取りながら、紅咲は相変わらずの高飛車な表情を崩さない。
「んじゃ、これはどうよ」
続いて投げられる二球目は、どう見てもデッドボールコースだった。このまま避けなければ、間違いなく、神谷の横腹を射抜くだろう。一四〇キロクラスのデッドボールが直撃ともなれば、冗談では済まない。
それでも、神谷は動かなかった。
すると横腹を狙っていたように見えた球が、突然軌道を変えてインコースぎりぎりのボール球になる。危険球に見えたボールの正体は、とんでもないキレをもったシュートだった。
「そんな棒球より」
バットの先を紅咲に向けて、
「父上の拳の方が余程強い」
睨みつけるようにして言い切った。
「……オーライ、分かったよ。やっぱお前にゃ無駄か……なら、真剣勝負といこうや」
「承知」
三球目は、勝負球。雲龍のエース紅咲の持ちうる最高速度のストレートだった。
それを神谷は、渾身のスイングで捉えた。
右中間を叩き割ったライナーは、勢いを殺すことなく一気に転げていく。ここは球場でなく、広いグラウンドである。一般的なグラウンドより少し狭いものの、芝生の無い外野でボールは失速しない。それが幸いした。ようやく外野手がボールに追いついた頃には、神谷は既に二塁を回っている。
先に西条がホームインし、続く神谷を見守る。外野から返球された球が、中継へと渡った。内野に返球されるまで、あと少し。
三塁を蹴った神谷はランナーコーチの制止も聞かず、ホームへと突進する。球が速いか、己が早いか。
そして、神谷は飛んだ。
遊撃手がホームへと送球したボールとほぼ同じタイミング、だが、キャッチャーのミットは、自分の腕の上に置かれていた。一瞬だが、勝ったのだ。
セーフ!
その声に、ベンチからの歓声が応える。二点を奪い取った。試合には負けるだろうが、勝負には勝った。
「西条が、一人の投手を救う、偉業を為した……」
立ち上がり、土を払いながら言う。
「自分が、屈する訳にはいかない」
マウンド上の紅咲を見やると、あちらは参った参ったといった表情で、脱いだ帽子をひらひらとさせていた。
「気をつけ、礼っ!」
ありがとうございましたー!
両チーム整列し、一礼を行う。結果は14-2と無残だったが、それでも大きなものを収穫することが出来た試合だった。
今回試合に招いたのは恋恋側なので、グラウンド整備は恋恋側が受け持つ。バスに乗り込む雲龍の皆さんを見送りながら、二条は樹に話しかけてきた。
「良い試合だったな」
「ああ、本当に。また頼めるかな?」
「奴が頷けば、な」
二条の視線の先を辿ると、雲龍のエース紅咲憂弥が、荷物を置いてこちらへと歩み寄ってくるところが見えた。
「よう、また俺の負けだな神谷」
「戯言を。凡打を喰らった」
「その後、二安打も打ちゃ充分だろうがちくしょう」
ケッと吐き捨てるように言った後、紅咲のヘビのような目は樹へと向けられた。思わず一瞬あとずさりしそうになる。
「まさか神谷以外に打たれるとは思ってもみなかった。そんで、あんだけのショートバウンドを一つもパスボールしないのは大したもんだ」
そこで一旦言葉を切る。
「神谷、そんで、西条っつったか。雲龍に来る気はねぇか? 本気で甲子園目指してんなら、悪い話じゃないと思うぜ」
そう誘いを受けた二条と樹は、少し顔を見合わせたあと、二人して微笑んだ。一流の野球部からお誘いを受けるなんて、高校球児としてこんなに嬉しいことはなかなかない。それでも、頷くのは無理な話だ。
「悪いが、謹んで遠慮させて頂く。自分達は、ただ甲子園に行きたい訳ではない」
「お誘いはとても嬉しいんだけどね」
二人の笑みから悟ったように、紅咲は「そうかい」とだけ呟いて、背中を見せる。
「んじゃ、証明してくれよ。次は甲子園で会おうや」
そしてそれだけ残すと、手をひらひらさせて去っていった。その背中に掲げられたエースナンバーは、あまりにも誇りに満ちていて気高く、決して近いものではない。でも、決して届かないものでもないはずだ。
いつか、会おう。甲子園で。
いつか、行こう。甲子園に。
「このチームで、ね」
「是非」
それは寒空の下で交わされた、野球の歴史にも残らない小さな小さな約束だった。
解散したあと、夕暮れ時。
一人でこっそりとグラウンドに戻ってきた樹は、再びトンボを片手に持ち、グラウンド整備を始めた。整備は一回ならしただけではダメだ、最低二回はやれ、というのが中学時代の監督の意向であり、それに慣れてしまってから今まで続いている習慣である。しかしこんなことを恋恋の皆に押し付けるわけにはいかないので、こうしてこっそりとやることにしているのだ。手首や足腰のトレーニングにもなるので、無駄なことではない。元来掃除好きな性格である樹にとって、むしろ楽しいものだったりする。
また、がりがりと地面が音を立てているとき、なんとなく、心が落ち着く。身体を整備に集中させている最中、考え事をするのが、樹は好きだった。いつもとは違った考えがふと浮かんできそうで、面白いのである。
今日対戦した雲龍高校は、間違いなく全国クラスの高校だ。話に聞いてはいたが、実際に戦ってみるとその強さは恐ろしいほど分かるものである。
特に投手の紅咲。あそこまで自信を持って危険球ギリギリのボールを投げられるのは、一級の投手たる証である。自分もかろうじて打てたとは言え、恐らくまぐれというやつだろう。しかも、あちらは随分と手加減をして臨んできていた。それは変化球の使い方を見れば一目瞭然だ。
次に対戦したときは、勝てるだろうか。勝てるチームになっているだろうか。
(ま、その前に甲子園に行かなきゃ会えないんだけど……)
ハァと溜め息をつく。なによりも今日の荒療治で、手塚がどこまで成長してくれるかが一番の悩みだ。もしかしたらただ恨まれて終わるだけということも充分にありえる。あんなとんでもない指示を出すキャッチャーなんてどこを探したっていないだろう。
やりすぎちゃったかなーと、立ち止まって考えていたときだった。
がりがりと、トンボで地ならしをする音が聞こえる。いつも自分が聞いている音と同じだが、少し違う。しかも自分はいま止まっている。音なんて出せるわけがない。え? じゃあ何? しないはずの音が鳴ってるの? いないはずの何かがいるの? え。B級だろうがホラーは勘弁してよちょっと。
「先輩」
声がかかる。ホラーな何者かに先輩扱いされるなんて思ってもみなかった。だがここで慌てては相手の思うツボに違いない。ええいそんなことになってたまるか。
「オ、オンハラビンケンソワカ……だっけ? いや違うな、南無妙ほうれんそじゃなくてゲキョー」
「先輩」
「うわ手塚だったごめん!」
振り返ってみると、正体は真剣な表情をした手塚だった。いやはや、勘違いとは時に恐ろしいものである。
……真剣な表情?
訝って、樹はそーっと聞いた。もしかしたら退部届けとか提出されたりして……いや本当にどうしよう。
「あ、え、えっとどうしたんだ? 今日は、あ、あんだけ投げたんだから、うん、その早く家に帰って休んだほうが……ああ、これは決して帰れ! って言ってるわけではなくて」
「先輩!」
「わっ!」
一瞬手塚が勢いよく動いたので、拳の一つ飛んでくるのではないかと咄嗟に顔を守る。しかし数秒待っても何も起こらないので、強くつぶった目を薄っすら開いてみると、手塚が脱帽して深く頭を下げていた。
「ありがとうございましたっ! オレっち……オレ……、オレなんか……オレのために……」
手塚の言葉は、その肩と一緒に震えていた。
「目が、覚めました……! オレの野球、ダメです……! ひとりで、ひとりで投げて! 先輩を、……キャッチャーを……全然、信用してませんでしたっ……!」
それだけ言ったあと、手塚は言葉を失う。礼の姿勢を崩さず押し黙ったまま立ち、ただその嗚咽をのみ響かせていた。その足元の土が少しずつ濡れていく。樹は、なんだかほっとして声をかけた。
「お前のコントロールは一級だよ。それは間違いない。自信持って、ボール球、投げてくれよ」
「…………はい」
「全部、捕ってやる」
「……はいっ!」
「よし、んじゃ、グラウンド整備続けるぞ、ピッチャー手塚」
「はいっ!」
それから二人は無言でグラウンド整備を続け、終わった後も、無言で別れた。無言の中に、何か通じ合うものがあった。それが何なのかは分からないけど、悪いものではなさそうだから、それでいい。
自転車を押しながら、夕焼け空を眺めて思う。恋恋高校野球部の絆は、また少し深まった。
樹は、ただそれだけに満足した。
樹が手塚にショートバウンドを投げろと指示するくだりは、松坂大輔選手と高校時代にバッテリーを組んだ、小山良男選手の指示を参考にしています。甲子園で松坂選手の緊張をほぐす為に、初球を思いっきりバックネットにぶつけさせたとのこと。こういうアツい話大好きです。
典拠:旺文社刊 松坂大輔「160キロへの闘志」