目の前の小箱を一つ一つ慎重に手に取り、じっと睨みつけ、充分に吟味する。
しかしそれで結論など出るわけもなく、さっきからあの箱この箱そっちの箱と行ったり来たりする。
赤いラベルが良いのか、青いラベルが良いのか。ミルクが良いのか、それともビターが良いのか。買うときになってあれこれと迷い始めるのが、こういうことの常というもの。そして実はこの時が一番楽しいものなのだが……これに関して右も左も分からない彩乃は、そんなこと思いもせず、目の前に積まれたチョコ群に右往左往していた。
市街でも有数のデパートの地下、食品コーナーのある一角にて、道行く女性の誰もが歩みを止めて集まっている場所がある。時は二月に入ったばかり暦の上ではただそれだけのことだが、世間様はそれどころではない。二週間後に迫ったバレンタイン。女性達は意中の男性のハートを射止めようと小さなチョコレートに命運を託し、製菓企業はそれを狙ってあらゆる手を尽くし自社のチョコレートを売り込みにかかる。国内のお菓子業界がここまで盛り上がる日と言うのは、他に例を見ない。
そんなわけで彩乃もまた然り、憧れの西条樹のハートを射抜く最後のチャンスだと己に言い聞かせながら、こうしてバレンタイン商戦に参戦しているわけである。
(わ……分かりませんわ……)
しかしそもそも、今時の女子高生たちの流行もろくに知らない彩乃が選べるはずもない。あれを手に取りこれを手に取り、落ち着かない状態が続く。
西条樹に想いを寄せるようになってから、丸二年が経過しようとしていた。その間、接触できたことは幾らでもあるが、会話ができたのは数度。勉強を教えてくれと言われたことが二回、そして廊下ですれ違いざまに立ち話をしたことが三回。よく数えてみたら合計五回である。少ない。あまりに少ない。しかしそれが恋愛ド素人の倉橋彩乃の限界だった。
だから恋愛を極めんと、一般的な女子高生が買うような妙にキラキラした週刊誌や月刊誌を読み漁り、恋愛とは何かというとても哲学的な問いにまで発展しかけたのだが、よく分からない単語が頻出するので購読を止めてしまった。「男とハメる三つのテク♪」など、指輪を嵌めるのにも「テク」なるものが三つも必要だと知った時は驚いたが、しかしテクという単語が分からない、といった調子だったのだ。どうやら昨今は雑誌を読むにも特別な知識と、辞書が必要になっているようである。
少しレベルを落として少女漫画雑誌のバレンタイン特集に目を通したものの、総じて手作りチョコに関する話題だったため、これも論外。危ないからと台所に一人で立たせてもらえない彩乃に、調理能力は皆無である。
だから手っ取り早くベストなチョコが選べる情報が欲しかったのだが、それがない今、こうして大量のチョコを目の前に一人悩むしかないわけで。
(うう、多過ぎますわ……あら?)
チョコの特設コーナーの端っこをチラと見やると、見覚えのある顔があった。普段学校の中で何度もすれ違ったことのある顔だ。同学年のはずであるが、名前は思い出せない。もう三年生になろうかというのに、あまつさえ念願の生徒会長にまでなったというのに、未だに顔と名前が合致しない生徒は同学年に多い。あの程度よく日焼けした肌と、羨ましいように大きな胸が、記憶に引っかかってはいるのだが。
(確か理事長賞の賞状をお渡したことがある、えっと、運動部の……どこの運動部でしたっけ?)
そんな彩乃の頭の中は概ねそんな調子だった。
(彼氏さんにでもあげるのかしら……ハァ、手馴れてる感じが羨ましいですわ……)
溜め息をつき、吟味を再開する。手に取った、クマさんがプリントされた小箱に少し和んだ。
目の前の小箱を一つ一つ慎重に手に取り、じっと睨みつけ、充分に吟味する。
しかしそれで結論など出るわけもなく、さっきからあの箱この箱そっちの箱と行ったり来たりする。
赤いラベルが良いのか、青いラベルが良いのか。ミルクが良いのか、それともビターが良いのか。買うときになってあれこれと迷い始めるのが、こういうことの常というもの。そして実はこの時が一番楽しいものなのだが……これに関して右も左も分からない幸子は、そんなこと思いもせず、目の前に積まれたチョコ群に右往左往していた。
去年の合宿での雪辱を果たすべく、西条樹への想いを胸に片っ端からチョコを見ているのだが、いかんせん幸子には女子高生としての知識が不足していた。どんなものを選べばいいのか皆目見当もつかないのである。一応部室で、先輩や後輩の話しに小耳を立てつつ近頃のバレンタイン事情など窺ってはいるのだが、チョコの詳しい銘柄を言われてもよく分からない。そして男になんてまだ興味はない、と周囲には言い放っているため、選ぶのを手伝ってくれともいえない。全く救えないものである。
ついでに言うと、好きなチョコの話題をそれとなく友達と話した日には、どこから聞きつけたのか、幸子が好きだと言ったメーカーのチョコがバレンタイン当日に下駄箱や机の中に詰め込まれることになる。主に同輩後輩の女子から。それは中学の頃からの経験で重々承知だった。
同性からの評判が高いのはもちろん嬉しい話であるが、今は場合が違う。とにかく西条樹という異性の心を射止めなければならないのだ。
(うう……全然わかんない……なんだよこれ、え? ワイン入ってんの? こっちはウイスキー? いつの間にチョコってこんなに進化したんだよ……)
見慣れないチョコの群れに戸惑う。どうやら幸子の知らぬうちに、世間のチョコ事情は随分と様変わりしてしまったようである。
手っ取り早くベストなチョコが選べればそれに越したことは無いが、いかんせん情報に疎い幸子に、それは無理な話であった。決まる見通しなど立たぬままに右往左往していたそのとき、ふと横を見やると、見覚えのある顔がこちらを見ていた。
よく校内でも見かけるが、以前全校集会の際に、ソフト部代表として理事長賞の賞状を受け取る際に、それを渡してくれた人である。というか、恋恋の生徒会長だったはず。世間知らずな顔と綺麗な金髪に白い肌、おおよその女の子が望む可愛らしさを兼ね備えた顔は、それだけで強く記憶に残っている。
確か、名前は……。
「あ」
「あ」
思い出す間もなく、互いに目が合った幸子と彩乃は、脊髄反射で二人同時に会釈をしていた。
「知り合いがいて安心しましたわ。高木さん、手伝って頂いて恐縮です」
「い、いやー、アタシもたいしたことはしてないし」
会釈後の挨拶もほどほどに、二人はお互いのアドバイスの上でそれぞれのチョコを買い、デパートを後にしていた。可愛らしくラッピングされたチョコを、大切に緑の袋に入れて片手に提げている。デパート前の大通りは、こんな時間でも人通りで溢れていた。雑踏の中に紛れて話す。
「にしても流石は高木さんですのね、チョコ選びも手馴れていらして、羨ましいですわ」
「あ、うん、ま、まーね」
幸子は倉橋彩乃からチョコの選び方を問われ、つい手馴れているフリをして偉そうにアドバイスをしてしまっていた。頼られるとつい見栄っ張りになってしまうのが、幸子の悪い癖である。ちなみに幸子も、彩乃の意見を取り入れつつ、自分のチョコは確保してある。
「にしても、会長さんがチョコ買いに来てるとは思わなかったよ。恋愛とかしそうに見えないからさ」
あっけらかんと、思ったままの感想を述べる幸子。倉橋彩乃という人物に対する評価は、自分の周囲でもかなり様々と分かれている。幼くてわがままそう、祖父の威光を駆って威張っていそう、可愛い抱きしめて振り回したい、世間知らずそうなところが愛らしい、などあるが、誰もが口をそろえて言うことには「男には縁がなさそう」ということだった。それには自分も全く同意見だったため、幸子にとって今この状況はかなり意外なものなのだ。
幸子の言葉に、彩乃はすこしムッっとして答える。
「し、失礼ですわね。わ、私だってその、恋愛、ぐらいしますわよ」
胸に手を添え、背筋を伸ばして主張する。どうやらお嬢様の機嫌を損ねてしまったようだ。可愛い仕草だな、と幸子は思った。
「ごめんごめん。でも、会長さんが惚れるって、どんな男子なんだろうね。想像できないよ」
「そんな、普通の男性ですわ」
正直言って、倉橋彩乃という人物の持つ容姿は、とても優れている。綺麗な天然の金髪に、長い睫、大きくて潤んだ瞳、雪のように白い肌にすらっとした細い指先。「深窓の令嬢」という言葉をそのまま具現化したようなその姿は、とても並みの男子風情では手も届くまい。どんな育てられ方をしたらこうも美しく、人形のように整った女の子が育つのか。
そんな令嬢が自らチョコを渡そうなどと考えるほどの人間なのだから、相手は相当な美男子に違いない。間違っても普通の男性なんてことはないだろう。
(やっぱあの二条とかいう野球部のヤツかな。去年もウチの部から相当な人数がアタックしてたし)
恋恋高校男子勢一番の人気は、勿論野球部の美男子、二条神谷である。ここ二年間で相当な人数が、彼に告白し、そしてその高い壁の前に散っていった。なるほど、あれぐらいの人間だったなら頷ける話だ。
「……もしかしてさ、その人、野球部?」
「っ!!」
途端に彩乃は目を見開き、顔を真っ赤にして驚愕した。声にならない叫びを上げたいらしいが、それもままならず、口をパクパク手をバタバタさせている。
「っい、いやっ、ちが、そんな……っ!!」
大慌てで隠そうとする彩乃。いやこれは抜かった。どうやらお嬢様は予想以上にこういった局面に慣れていなかったらしい。こんな大通りでパニックになられては大変と、幸子は慌ててなだめにかかる。
「うわぁっ! ご、ごめんごめん! そんなつもりじゃなかったの! 別に特定しようとかしてるわけじゃないし誰にも言うつもりないから! うん大丈夫! 落ち着いて! ごめんね!」
それだけまくしたてると、少しは気持ちがおさまったらしく、彩乃は数度の深呼吸を繰り返して冷静さを取り戻したようだった。
「……あまりからかわないで下さい……心臓が止まるかと思いましたわ」
「本当にごめん! あはは……アタシも間が悪いなぁー」
その後しばらく、気まずい時間が流れる。お互いに会話の糸口をなんとか探ろうとしているとき独特の、あの何ともいえない重く鈍ったような感覚が支配する時間である。
責任を感じて、幸子は口を開いた。
「いやその、実はアタシのチョコあげようかなと思ってるやつも、野球部なんだ」
「え……?」
その言葉に興味を示し、彩乃の顔がこちらを向く。あちらも相当意外そうだった。
「あ、でも! 多分、会長さんの好きな相手とは、全然違うと思うよ。そいつ、結構地味だし、特に顔が良いってわけでもないし、目立つような人間でもないから」
言っていて、なんだか自分がしょうもない相手を好きになっているような気になってくる。が、断じてそんなことはない。
「……でも、そいつ、格好良いんだよ。なんていうか、見た目……表面じゃなくってさ、背中で語るっていうか、すっごく純粋で、真っ直ぐな性格っていうか……ああ、なんだか自分でも分かんなくなっちゃった」
よくよく言葉にして考えようとしてみると、何故自分がアイツを好きになったのか、具体的な理由が全く出てこない。いつの間にか好きになっていて、好きになってから見つけたことが大半だ。恋愛とはそういうものなのだろうが、モヤモヤと頭の中に残る違和感にこらえきれず、幸子は髪をくしゃくしゃと揉んだ。
あははと照れて笑ってみせると、彩乃もそれに同調して微笑んでくれる。はにかむ様子もお上品だった。
「高木さんは……立派に恋をしてらっしゃるのですわね……羨ましいですわ」
「……え? どういうこと?」
「私、一目惚れでしたの」
街の雑踏を歩く中で、喧騒に掻き消されそうなぐらい小さい声で、彩乃は語り始める。二人の横を、腕を組んだカップルが通り過ぎていった。
「入学式で見かけて、すぐに好きになってしまって、何度かお話する機会は持ちましたけど、結局想いの丈の少しも伝えられないまま、ずっと片想い……どうして好きになったのかなんて理由、考えたこともありませんでしたわ」
チョコの袋を胸に抱えるその横顔は、不安に満ちた表情だった。
「恥ずかしいことですけれど、私、今まで恋なんてもの、したことがなかったんですの……だからこれが本当に恋なのかと疑うことだって、よくありましたわ……」
「会長さん……」
おしとやかで世間知らずなお人形さんにはとても似つかわしくない、とても人間味溢れる悩みに、幸子は少し驚いた。理事長の孫にして才色兼備のお嬢様ともなれば、自分とはやることも悩みも全て違うものだという先入観があったのだが、それがこのほんの少しの時間で一気に覆されてゆく。
「でも、もう覚悟を決めないと、あと一年で、彼とは会えなくなってしまう……。ですから、今年の、バレンタインこそは勇気を持って……彼に告白しようと、決めましたの」
「幸せモンだね……そいつ」
「え……?」
幸子の一言を理解しかねたらしく、彩乃が言葉の意味を求めて振り向く。
「こーんな美人な会長さんに、ここまで想ってもらえてるなんてさ。やっぱ得な人間ってのはいるんだね」
「っあ、あの、いえ……そんな……」
女の自分から見たって、倉橋彩乃という人物から好かれるなんてとても凄いことだと思うし、こんなにも純粋な思いで好きでいてもらえるなんて、それはとても素晴らしいことだと思う。幸子は白旗を揚げたい気持ちで一杯だった。
街中で周りに溢れる恋人達を眺めながら、思う。この中に、これほどまでに純粋な願いから恋の成就を果たした人間がどれほどいるのだろうか。恋の程度に優劣をつけるなんてナンセンスではあるが、それでも、こんな彩乃の思いを聞いた上では比較せずにはいられなかった。
「会長のは立派な恋だよ。アタシのなんか比べ物にならないくらい……だから、自信持って。大丈夫! 会長なら絶対イケるよ! アタシが保証するって!」
「……はい、ありがとうございます」
ペコリと頭を下げる。その動作すら、子猫のようで愛らしかった。やはり世の中、得な人間ってのはいるもんだ。
「二条か……アタシには高嶺の花だね。釣り合わないったらありゃしない」
「……?」
「たくさん玉砕してるから不安かも知れないけど、大丈夫だよ。会長さんくらいの可愛らしさがあれば、絶対」
「……はぁ……そうなのですか…………えっと、あの」
直後、幸子の頭に衝撃が走ることになる。
「二条……とは? どなたのこと、なのですか」
走った。ご丁寧にズキューンという効果音まで添えて。
「……へ?」
ほとんど声にならない疑問符だった。その様子を受けて、彩乃はまた訊いてくる。
「二条とは、どなたですか? 顔が思い浮かばないので」
「え? あ、そう、なの……?」
よもや、好きな男性の顔を知らないなんてことはありえないだろう。もしかすると、別の二条という人物のことを話していると勘違いしているのかも知れない。
「いやだから、ほら、野球部の、ね」
「野球部……二条という方がいらっしゃるのですか。その方が、高嶺の花ですの?」
「そ、そうそう、アタシにしちゃ手も届かないような美男子! でも、会長さんなら……」
「私なら……?」
「絶対大丈夫だから頑張って……」
そこまで言って、幸子は沈黙した。冷や汗をかきながらしばし黙り込む。片手を唇に添え目は泳がせて、必死に思考をめぐらせるその様は、明らかに動揺を隠しきれていなかったが、幸いにも彩乃は全く気付いていない様子だった。
二条では、ない。
それが、このたった少しのやり取りで判明した。彼女の想い人が野球部にいるだろうことは先程の反応を見る限り明らかなので、それは野球部男子における二条以外の誰かだということになる。
背筋に、ゾゾっとした悪寒が走った。
周囲に知り合いが一切いないことを確認してから、幸子は強行手段に出た。普段なら決してしない暴挙であるが、こちらも一世一代の恋が懸かっているのだ。
「会長さん」
「? どういたしました?」
「矢部!」
「?」
「宮岡!」
「?」
「黒田!」
「はぁ……?」
「藤木!」
「あの……高木さん?」
「久保木!」
「あの、意味が」
「……っ、西条!」
「ぇっ!!」
それが野球部二年男子の名を順々に言っていった結果だった。何を語らずとも、彼女の真っ赤に上気して慌てた表情を見れば分かる。そうでないことを願いつつ、すがるように最後に回した名前で、彼女は言葉を失った。そして自分も。彼女は自身の想い人を言い当てられたという焦りで落ち着かずわたわたとしているが、こちらの絶望感はそれ以上だった。
まさか自分の恋敵がこんなにも間近にいて、しかもこんなにも強敵であろうとは、到底予想もできなかった。
だがしかし、諦めるつもりは、
「あああああの、どうか、その、そのことは、御内密に……っ!」
ない。真っ赤になって取り乱す倉橋彩乃に、幸子は面と向かって告げた。
「会長さん」
「な、なんですの……!?」
「勝負だよ」
「…………え?」
「アタシも西条が好きだ。すっごい好きだ。だから会長さんには譲れない」
きりっとした目つきで言うと、向こうも状況を把握したようだった。一瞬ハッとした表情になったかと思えば、幸子と同じく、戦う女の目つきになる。さながら縄張りを争う野生の猫のように睨みあう両者。
「私とて、西条様を想って二年……愛で負けるつもりは御座いませんわ」
「上等」
路上で火花を飛ばしあっていた二人は、しばし経つと踵を返し、お互いに逆の方向へと消えていった。その手に、決戦兵器であるチョコの入った袋を提げて。
かくして、一人の男を賭けた乙女の熾烈なバトルが幕を開けたのだった。
それから何事もなく、二週間が経った。
待ちに待ったバレンタイン。数少ない男子たちのハートを射止めるために奮闘する女の子もいれば、ただ友達とチョコの交換をするだけの女の子もいる。この日ばかりは学校側もとやかく言わずにチョコの持込を黙認しているため、学校中が慌慌ただしい雰囲気に包まれ、一大行事のようになる。特に男子生徒の加入から際立った熱気を見せるようになったこの日であるが、その中でも、やはりこの者の存在は欠かせない。
「…………」
靴箱を前にし口を半開きで顔面蒼白になり無言で震える男子生徒が一人。彼の前には、はちきれんばかりにチョコの詰め込まれた靴箱と、足元に散乱するラブレターの大海原が広がっていた。
言わずもがな、彼の名前は二条神谷という。去年一度経験しているはずなのだが、どうやらバレンタインという日そのものを忘れていたらしい。呆然と立ち尽くし脳の処理が追いついていない様子が、その表情から読み取れた。
そんな様子を傍観しながらしみじみ呟く影が二つ。
「二条も大変だね」
「まったくでやんす」
「矢部君、今年は?」
「去年の百倍もらったでやんす」
「ゼロは何倍してもゼロってね」
「うるせーでやんす! ほっとけでやんす! そういう西条君はどうなんでやんすか」
「靴箱あけてみるまで分からない。もしかしたら三つぐらい入ってるかもね」
「シュレーディンガーのチョコでやんすか。せいぜい妄想平行世界で楽しむでやんす」
「そだね。さっさと教室に行こう」
正味な話、学校の女子の話題は全て二条がかっさらっているため、樹たちがこの日をわくわくして待つことはない。一部野球部内でも彼女ができた者がいるようだが、それも少数派だ。大部分はこうして、周囲の雰囲気に当てられて多少はワクワクするものの、結局は肩を落として空っぽの笑いをこぼしながら帰るのである。
矢部も樹も、例外ではない。
はずだったのだ。
「さてと」
靴を脱ぎ、上履きに履き替えるために靴箱を開ける。すると中にゴミが入っていた。チョコがもらえないばかりかゴミ入れのいたずらまであるとは、勘弁して欲しい。浮かれた気分のなかで悪戯心があるのは仕方ないとも言えるけど。やけに角張ったゴミを、樹は靴箱から払い落とした。朝からいやな気分である。
靴を履き替えて見やると、矢部が驚いた顔をして地面を見つめていた。
「どうしたの矢部君?」
「あ……ああ……あ……!」
わなわなと震え、がくがくと首を振り、ぷるぷると手を動かしている。どこからどうみても動揺し、気分が悪そうであった。樹の直感が働く。
「?! 矢部君?! どうしたの?! 気分でも」
「さ……さい」
「さい?」
「西条君のでやんでぇばっきゃろー裏切り者―! でやんすーっ!!」
「ち、ちょちょっと、矢部君!!」
叫ぶと同時に大量の涙を流しながら駆け出して遠ざかっていく矢部の姿に、樹はしばらく呆気にとられていた。何が起こったのか理解できず、しばらく時間が過ぎる。
そして自身の足元に落ちた、ゴミだと思っていたもの。それが一つのチョコと、一通のラブレターであると気付いた瞬間、樹は口を半開きで顔面蒼白になり無言で震えるのだった。
ラブレターなんてもらった日には、その一日何事にも身が入らず、ぼけーっと上の空になってしまうのは全男子共通のことである。樹は退屈な授業中、いつもの野球ノートを開くこともせず、ただぼーっと窓の外を眺めていた。
『放課後、屋上で待っています。』
それは、例え文面がこのように月並みであっても変わることはない。
未だにこれが自分のもらったものであるのか疑問に思えてならず、しかし文章の最後に添えられた「西条樹様へ」の一言がそれを証明しており、樹は困惑の中にいた。確かに嬉しい。嬉しいのだが。ただどんな表情をして会いにいけばよいのか、どんな態度でまだ見ぬその人と話せばいいのか、そんなことを考えるたびに頭の中がぐるぐると回っていた。
告白なんてものは、小学校以来だ。あの頃は子ども同士の他愛のない、可愛らしい恋だったから、難しく考えるようなこともなかったけど、今度は少し勝手が違う。相手は同じ高校生。もう恋愛の何たるかも理解できている年頃。だからこそ、真剣に考える必要がある。
恋愛とは、自分の時間を相手に与えること。そして相手の時間を奪うこと。自分のやりたいことと、恋愛、その二つを量りにかけて、重いのは果たしてどちらだろう。
溜め息すら重くなる。ちらっと二条の方を見やると、あちらは既に落ち着いた様子で授業に聞き入っていた。一流の選手であるならば、自己の精神の操縦はお手のものといったところか。そう考えると、自分はまだまだ三流だろう。
断わるか、受け入れるか。イエスかノーか。どちらが正解とも言えぬもの。樹は答えつきの問題集を恨めしそうに睨んだのち、ノートにアミダくじを作った。
さっそく入り組んだ縦棒と横棒をなぞると、結果が出る。
そこでチャイムが鳴った。
「この勝負」
「勝った方が」
「西条様に」
「告白する!」
昼休みのテニスコート。そこには二人の女の子……いや、互いに敵対心をむき出しにした二人の夜叉が立っていた。互いに想うは同じ人。ならばその想い、ぶつけって勝った方が強いは道理。ぶつけてみせましょ春の花。散らずに魅せます女の意地。とかなんとかそんな名乗り口上が聞こえてきそうな役者振りで、二人は睨み威嚇し合う。
片やソフトボール部のユニフォーム、片や女子テニスの公式ユニフォーム。ズボンとミニスカートの特異な組み合わせであった。手に持つものもまた然り。バット及びグローブとテニスラケットでは一体何をどうするのか皆目見当もつかない。
すっと、高木幸子がソフトボールを掲げる。
「宣誓ーっ! 我々ーっ! 選手一同はーっ!」
それに応える倉橋彩乃。
「日頃の練習の成果を、十二分に発揮し!」
「正々堂々ーっ!」
「相手が!」
「この恋を諦めるまで!」
「戦うことを!」
『誓います!』
二人が同時に声を上げたところで、戦いの火蓋は切られた。
「うおおおおおらああああああっ!!」
幸子が渾身の力を込めて投げたボールが、彩乃を狙う。しかし彩乃はひるむことなく、
「余裕ですわっ!」
打ち返した。とても深窓の令嬢とは思えない身のこなしである。しかしスポーツ少女が引けをとることもなく、幸子はそれをバットのスイングで持ってまた弾き返す。
再び迫るボールを、彩乃が弾き、それをまた、幸子が返す。ラリーの応酬だ。
先にミスをしたのは彩乃。上手く返せなかったボールが自身の足に当たる。
「きゃっ!」
「その程度かい会長さん!」
「隙アリですわっ!」
「うっ!」
油断した幸子の横っ腹を、一瞬のスマッシュによるテニスボールが射抜く。
「……やるじゃん」
「全部、本気で行きますわよ」
「のぞむところぉっ!」
聖戦が始まった――。
「くらええええっ!」
幸子の投げたドロップボールが彩乃の前で急失速。コートをえぐり、地面の破片を空中にばらまく。
「くっ……!」
視界を乱されたことを悟った彩乃は横っ飛びし、すぐさま打ち込まれる無数のソフトボール弾の連射をかわした。破壊された元の居場所は、もはや見る影もない。まだ続く、爆発したようにえぐりとられていく地面は、もはや戦場。
彩乃は反撃に出る。
「えいっ、やあああああああ!」
近場にあったカゴごとボールを宙に放り投げ、落ちてくるボールを全て打ち飛ばす。
幸子はいくつかを喰らいながら、大半をキャッチした。しかし威力が高い。そして彩乃の攻撃は終わらない。
「えいっですわっ!」
飛んでくる予備のラケット。防ぎきれず、幸子は左手をやられた。
「あうっ!」
「おーっほっほっほ! もう終わりですの? 高木さん?」
「んなわけ」
バットを握り締め
「あるかぁー!」
気合とともに地面を踏みつける。その衝撃で、一斉に宙に舞い上がるテニスボールたち。幸子は一瞬の計算で全てを見切ると、その中の一球を、別の方向にある一球に向けて打った。
その球に弾かれた球は別の球に向かい、それに弾かれた球はまた別の球に向かい――。
「!!」
彩乃が気付いたときにはもう遅かった。ビリヤードの要領で連鎖を起こした球は、予測不能な動きで、確実に彩乃に迫る。
右か左か――!
「きゃぁ!」
正面だった。腹をぶち抜かれて、彩乃は倒れかける。しかし倒れるものか。
落ちる球を足でリフティングしスマッシュのポジションにする。そして真上に打つ!
「なにっ?!」
一瞬の不可解な出来事に目を丸くした幸子。戦場では一瞬の躊躇が命取りにことを、彼女はまだ理解していなかった。
彩乃がソフトボールとテニスボールの連打をしかけてくる。弾道が低い。反応に遅れながらも、幸子は天高く飛び上がってかわした。
地上でニヤりと笑う彩乃の姿に気付いた頃には、もう遅かった。
「まさか!?」
彩乃も高くジャンプし、先程打ち上げたボールに追いつく。
「ジ・エンドですわ」
「しまった――っ!!」
そして彩乃は空中で、幸子に向かって、ボールを、打ちそこなった。
両者、着地。
「…………」
「…………」
しばし無言。
「まだまだですわぁー!」
「上等だぁー!」
何事もなかったかのように戦いは再開した。
とっくに昼休みなど終わり、既に午後の授業が始まっていることにこの二人が気付くのは、あと四、五時間ばかり後のことである。
いつも通りの道順で、三年間馴染んだ屋上へと歩みを進める。しかし今の心境はとてもいつも通りとは言えない、むしろ初めて体験しているものである。何しろこれから樹が向かうのは、自分にとって全く未知の空間なのだ。
一歩一歩を踏みしめる毎に、胸がズキリと痛む。一段一段踏み上がる度に、つらくなる。答えはもう用意してあるが、この答えを告げたとき、果たして、女の子はどう思うのだろう。もし相手が傷ついたならば、そのとき、自分はするべきなのだろう。冷たくあしらうことが、優しさなのだろうか。
考えている間に、ついに屋上へと続く扉の前に到着してしまう。思った以上に重い扉をぐいっと押し開けて、樹は屋上へと出た。扉の開閉の金属音が、甲高くこだまする。
二月の夕暮れは早い。まだ五時を回ったばかりだというのに、空には夜の帳が降りかけていた。冷たい風が、樹の冷静ぶった心を象徴するかのように、すーっと吹いてはすぐに消えていく。手のひらに風を感じて、そこで初めて手汗をかいていることに気がついた。
屋上には、一つの人影すらなかった。風が突き抜ける寂しい空間には、ただ静けさだけが佇んでいる。コンクリートの地面が、やけに重々しく思えた。女の子は、まだ来ていないのだろうか。屋上のいつもたむろしている辺りまで来て思う。今日見下ろす景色は、いつもよりひっそりとしている。
安心したやら拍子抜けしたやら、樹はほっと溜め息をつく。そうか、きっと、いたずら手紙だったのだ。今頃物陰から、自分のことを笑っている人がいるに違いない。よかった。
樹は振り返り、帰ろうとする。
扉のところに、七瀬はるかが立っていた。
無言のままに、お互い歩み寄る。そしてあと数メートルというところまで近づいたところで、どちらともなく立ち止まった。
「あおいは、私の憧れでした」
夕焼け空が徐々に夜に呑み込まれていく。その様子はどこか幻想的で、悲しくて、切なかった。冷たい風は、今はもう吹かない。
「私は生まれつき身体が弱くて、内気で、人と接するのが苦手だった。そんな私を変えてくれたのが、あおいだったんです。あの子は、どんなことがあっても自分を諦めない。強くて格好いい、私の理想像でした」
痛いように冷たかった風は、優しい空気の流れへと姿を変えている。何かを包み、何かを運ぶような。あるいは、何かを慈しむような。
「だから高校になって、あおいが野球を続けると聞いたときは、私も喜びました。これからは、私があおいを支えていこうと思っていたんです……あの時、あなたに怒られてから、いろんなことを考えました」
樹はじっとはるかの瞳をみつめ、はるかも樹の視線から目をそらさなかった。
「私の方があおいのことを理解しているはずなのに、どうして私が間違うんだろう。私の方があおいの為を想っているのに、なんで私が……たくさん、たくさん考えました」
はるかの髪が風に舞い、栗色のいくつもの曲線が景色に溶け込む。しなやかな指先がそれをかきわけ、淡い香りがあたりに散らばった。
「しばらくして、わかったんです。やる気だけが空回りして、正しい知識も持たないままに、ただあおいの役に立ちたいだけの思いで、何度も足を引っ張っていたことが……優しいあおいが、私なんかが期待をかけているあまり、無理をしていることに、気付いたんです。」
はるかはそっと深呼吸をして、またそっと目を開いた。それは呼吸を整えるためのものではなく、決意を固めるためのもの。
「あなたが怒鳴ってくれなかったら、きっと私は、またあおいに無理をさせていた。あのまま、あおいの役に立っているつもりで、あおいに気を遣わせていた。あおいが、壊れてしまうかもしれなかった。……本当に、ありがとうございました」
樹の中にあった七瀬はるかのイメージは、優しく臆病で、大人しい女の子というもの。しかしこの、今目の前にいる七瀬はるかは、そんなイメージとはかけ離れた、強い意志と迫力を持った女の子のように思えた。
「そんなことで、怒鳴られたのがきっかけなんて……すごく、情けないですけど、それでも……言います」
風が、ぴたりとやんだ。無音の空間の中、お互いの鼓動が聞こえる。
「あなたが、好きです」
その一言が、いつまでも耳に残った。
とても強い意思と、ダイヤのような決意。彼女の想いが、痛いほど伝わってくるその言葉に、樹はしばらく絶句した。しかし、答えなければならない。全身全霊の想いを、ありったけの想いをぶつけてくれた彼女に、自分はまた、強い意思で答えなければならない。
それが、こちらの義務である。
「俺も、あおいちゃんが大好きだ。はるかちゃんに負けないくらいに。
だからこそ、まだまだ支えていきたい。あおいちゃんと俺に限界がくるまで、全力で支えていきたい。
それが、チームメイトの仕事。俺からあおいちゃんにしてあげられる精一杯だ……だから」
深々と、頭を下げた。
「だから今は、ごめん」
全力で野球をやりたいのに、出来なくなった。そんなあおいの為に自分がしてあげられることは、自分が全力で野球に挑むこと。今、他に大事なものは作るわけにはいかない。
「でも、本当の返事は、まだ言わない。いつか、俺から言うよ。ありがとう、はるかちゃん」
「……はい!」
抱え込んでいたものをはき出したような、元気な笑顔。今まで見たことのない活き活きとした顔だ。強く返事をして、はるかは堂々と足取り軽く屋上を出て行った。
樹は、七瀬はるかのことは好きだ。友人としてもチームメイトとしても、異性としても。でも今はまだ、自分に大きな仕事があるから、付き合うことに全力は注げない。はるかが納得してくれるならば、全てが終わったあとに、答えを出そう。七瀬はるかという女の子に全力で向き合うには、まだまだ自分は未熟だ。
薄雲を覆うように夕闇がかった空を見上げながら、ひとしきり感傷にひたった後、樹は屋上から去ろうと扉に近付いた。
その瞬間、扉のある壁の陰から、何かが飛び出してくる。
人影だった。
「えっ?! あ、あおいちゃ……!」
言葉に詰まる。というより、それ以上喋れなかった。唇が動かなかった。動かせなかった。
目を閉じたあおいの顔が目の前にあり、鼓動が高鳴り、息すらも止まる。
キスをしていた。
驚きと緊張から時間感覚が狂う。どれほどの時間、唇を重ねていただろう。分からない。甘酸っぱい味なんて、するわけがない。
ふっと唇が離れる。完全に硬直してしまっている樹から体を離すと、早川あおいは真っ赤な顔で
「今の、ファーストだから!」
とだけ叫んで屋上から走り去った。全ては一瞬の出来事。
樹はその後、たっぷり十分ぐらい、その場で棒立ちになっていた。
夕暮れも過ぎた夜。恋恋高校テニスコートで、疲労のあまり倒れている二人がいた。
「な、なかなかやるじゃん、会長……お嬢様だと思って……油断してたぜ……」
ガクッ
「あ、あなた、こそ……でも、西条様は……渡しません、わ……」
バタッ
この後、たまたま通りかかった守衛さんに発見され、二人は無事保護される。
そして翌日から、この二人の間には固い友情が芽生え、周囲の人間を驚かせたのだとか。しかし何故この二人がそれほどの友情を培ったのかについては、誰の知るところでもなかったといふ。
二人の鞄の中に残された、それぞれの渡せぬチョコだけが、全てを物語っていた。