「ふぁー、でやんす。青春の春眠は暁を覚えないでやんすね」
妙に文学的な言葉と共に、矢部君が大欠伸をする。
言ったのが矢部君でなければ、欲を言ってここが休み時間の教室でなければ、少しは感心できたかも知れないが、残念なことに彼は矢部君であり、ここは気だるさ満点の午後の教室だった。
今年の一年生総数は約三百人。その内男子生徒はわずか七人。計八クラスで構成されているこの学年での、一クラス当たりの男子数は多くて三人。そして二人。もしくはゼロ。学校側もその辺は配慮したようで、流石に女子の園に男子一人を放り出すといったことはしていないようであった。
そしてこのクラスの男子は樹と矢部君の二人だけ。というわけでこの二つの机周辺以外は、樹たちにとって別空間でしかない。女装趣味があれば化粧品の話題くらいついていけそうであるが、残念ながら(?)二人ともそんなご大層な趣味はしていなかった。
「また遅くまで深夜アニメでも観てたんでしょ。まぁ眠いのは俺も同じだけどね……」
矢部君のアニメ趣味は、本人に隠す気が無いのか、愛好会の中では極普通に露呈している。ロッカーの中にあれだけのフィギュアが陳列していれば、それも当然か。
「そうでやんす。昨日は“超装甲カブトロス”の再放送の最終回だったでやんす。ビデオで全部観たはずが、やっぱりあのラストシーンは感動するしかないでやんすよ」
昼休みということで、さっさと持参の弁当を広げ始める周囲のお嬢様方。家柄云々も然りだが、基本的に静かなお嬢様タイプの集う学校というのはどうやら本当らしかった。現に、初の男子である樹や矢部君がちやほやと質問攻めに遭ったのは最初の数週間で、最近はめっきり落ち着いている。とは言っても昼食のお誘いがかかることもあるが、それをこちらから断っていることも事実であった。
「樹君はゴハン食べないでやんすか?」
「屋上にでも行って食べるよ」
だが男子に対する興味が失われたわけではないらしく、ほんの些細な事あるごとに周囲の視線は頻繁にこちらへと向けられるのだ。食欲だってわかなくなる。
こうした昼休み、以前は珍しがって自分たちを見に来る上級生も多かったが、別クラスに居る別の男子(勿論、野球愛好会員である)の方が御気に召したらしく、最近はそっちが人気を総取りしているので、こっちへ流れてくることはまず有り得ない。ちょっと妬けるところはあるが、それで良かった。多分、女の子と気の良い話はできないと思う。
というわけで話しかけられても適当な返答しかしないようにしている。矢部君はどちらかと言うと積極的に会話に混じろうとしていたが、最近になってようやく世界の違いを実感したらしい。黒一点と書いてハーレムと読む、とはよく言ったものだ。実際、かなりの女好きという性癖でもなければ、ここはとてつもなく存在しにくい空間だろう。
「はぁ……おいら、周りが女の子ばっかりだと思って喜んで受験したんでやんすが……」
「良かったね。その通りじゃないか」
「そうでやんす。その通りなんでやんすよ。だから、この孤独感は耐えられないでやんす」
矢部君の中では視覚からの悦楽より、感覚からの苦痛のほうが勝ったらしい。同意だ。
「五月病かな」
「もう七月でやんすよ」
…………。
無言。
「…………屋上、行くでやんす」
「そうだね」
しばしの沈黙の後、このままでは胃潰瘍にでもなりかねないということで、戦略的撤退をとる。だがこれは決して逃げではない。そうでしょう大佐?
胸中で自分でも誰だか分からない人物に訊ねたところで、返答を待たずして樹は矢部君と共に、足早に教室を後にした。
少し教室を離れたところで、もう少し明瞭な表現をするならば自分たち男子生徒が完全に彼女らの縄張りから脱した時、教室内の話し声が途端に大きくなるのが聞こえる。
樹は歩幅を広くして、屋上へと急いだ。
「おっす! 遅かったね二人とも!」
屋上への扉を開けると、そこにはフェンスに寄りかかりながらイチゴジュースを片手に勢いよく購買パンを齧るあおいと、その足元にちょこんと――まさに、そんな擬音がピッタリだ――座って弁当をあけている愛好会マネージャー、七瀬はるかの姿があった。
と、省略してしまうのも忍びないので言っていくと、他数名の愛好会男子会員の姿もある。恐らくこちらと同じで、今日もまたあの空間に耐えられず逃げてきたのだろう。いや、戦略的撤退か。とにかく毎日同じ様な理由でここに集まっていた結果、いつしかここは学校内での野球愛好会の溜まり場となっている。
が、勘違いされないように補足をしておくと、屋上には様々な友人同士やら、一時の語らいの為に昼食へ集まる他部活動の人間の姿もあるということだ。つまり野球愛好会はその一部なわけで、何も貸し切りだというわけではない。
「あ、こんにちは」
はつらつとしたあおいとは対照的に、視線を下げておどおどとした声色で挨拶してくるはるか。性格が根底から違う二人であるが、それはそれで気が合うらしく、お互い中学の頃からの大親友であるらしい。
他の男子会員からの挨拶にも適当に返事をしたところで、樹はあおいの隣で、フェンスに寄りかかった。こういう女の子は男友達と同じ様に付き合えるので、気が楽だ。先程までの環境を考えると非常に有難い。
「で、例の如く、二条はいないか」
改めて見回してボヤく。いつもの如く、愛好会一の美男の姿はない。
「そ、やっぱり顔の良い不思議君って女の子ウケするんだよね。ボクのクラスからも何人か参戦してるよ」
二条神谷。例の、現在全校の人気を一手に担う、愛好会随一の美形男子だ。少し細く整った顔立ちに、性格は冷静沈着、頭脳は明晰。古風で和一色の硬派な家柄に育ったらしく、本人も一人称が「自分」で妙に昔染みた敬語口調が特徴だ。元女子校である恋恋への入学を、親には散々反対されたらしいが、それをも振り切って強引に入学してきたらしい。しかしその理由は不明だ。ちなみに、愛好会には貴重な野球経験者である。
いつも周囲には数人の女子がくっついているが、今の自分にとって、それはあまり羨ましい状況とは言えない。そして今日もまた女子たちによる“昼休み二条君争奪戦”が行われているらしく、無理矢理に巻き込まれている二条本人も、そう易々とは抜け出せないようだ。
「うーん、ボクにしてみればあんまり魅力的ではないんだけどねぇ。あの物腰落ち着いた性格と、常に冷静な顔から紡ぎ出される渋ーいお声に、もう奥様方はメロメロってわけ。ホント、女の子って分かんないよね。……で、男子諸君としてはどうなのよ?」
手にしたジャムパンを齧りながらさらっと自分の性別を批判して、今度はこちらの意見を問うてくるあおい。
「おいらたちにしてみては、どっちかというと有難いでやんすよ」
溜め息をつく矢部君。そこにはしっかりと、夢想と現実の差異に対する諦念が込められていた。全員同時に頷く、男子会員達。それぞれがそれぞれ、恋恋高校という学校に持参した希望を打ち砕かれた事実を如実に表す表情をしている。
あおいはそれを至極的確に汲み取ったようだった。
「あー、そりゃご愁傷様だね。でもいいんじゃない? 周り女の子ばっかりなんだからさ、目の保養にはなるでしょ?」
「見る事ばっかり考えて、見られる事を考えてなかったでやんす。まるで見世物にされる珍獣の気分でやんすよ」
またも頷く、全男子諸君。その表情は、ただひたすらに悲しかった。それを見て、あおいは返す言葉に困っているようである。ちなみにはるかは、その足元で度々上を見上げながら弁当を食べ続けていた。
「えーっと……まぁいいや、で、いつものことだけど、話題っていったらやっぱり野球のことしかないよね。皆の上達を考えて、ほら、今日はボクがこんなものを持って来ましたー! ジャジャーン! 作るのに一週間もかかったんだぞ! 皆、ボクに感謝してよね」
言葉と共に地面から取り上げられて、頭上高く掲げられる一冊のノート。先程から何の為に置かれていたものかと思ったが、こういうことだったわけだ。はるかが始めた拍手につられて、その場の皆がパチパチと手を鳴らす。
「皆の弱点とか不得意なところとかをまとめて、その改良に必要な練習やその方法などを書いた上、なんと分かりやすい野球レクチャー付きの野球ノート! どう? すっごいボリュームでしょ」
掲げられたえらく少女趣味なノートは、別の意味でも皆の度肝を抜くには充分だっただろう。さも自分は偉人であるかのように、鼻高々に誇ってみせるあおい。その唯一の誤算は、ノートの名前欄に、丁寧な字で七瀬はるかの名が入っていたことか。
皆の反応が少し冷たくなったところで、本人もそれに気付いたらしい。
「はるかっ! あんた持ち物全部に名前書かないと気が済まないの?!」
「あぅ、ご、ごめんね。癖なの」
横暴なあおいの剣幕の前に萎縮するはるかちゃん。だが安心してくれ、周囲は全て君の味方だ。
「で、漫才はそのぐらいにしといて。あおいちゃん……いや、はるかちゃん。そのノート見せてくれる?」
「あ、ど、どうぞ」
「こらはるか、ボクのおしおきはまだ終わってないぞ!」
「や、やめてぇー」
間延びしたいまいち悲鳴に成りきれていない悲鳴とそれを促す暴虐行為、そしてそれを制止しようとする男子数名。それらを後ろに、残った男子と矢部君、樹は、受け取ったノートに目を通した。
「分析はあおいちゃん、まとめ解説ははるかちゃんってとこかな」
どちらとも流石だった。小学校の頃からリトル・リーグに属していたというあおいの野球眼とその戦力分析は当然ながら、学年最高の学力を持つはるかの文章力がより解り易くそれらを解説している。ところどころに入っている落書きや汚い殴り書きはあおいのものだろう。しかし字こそ汚いと言えど、書いてあることは重要なことばかりである。しかも人物別に書き記しているのだから、あおいの視野の広さと観察力には平伏するばかりだ。
「肘の上げ方に捕球時の構え方。凄いな……うわぁ、こんな細かいことまで」
ノートこそはるかの物であったが、その実これはあおいのノートと言ってもいいだろう。だがいずれにせよ、これが貴重且つ拝読価値のあるノートだと言うことは間違いない。
「気に入ってもらえたかな?」
爽やかな――更に付け加えるなら、えらくすっきりしたような――笑顔で訊いてくるあおい。その背後ですすり泣くはるかを見て見ぬフリしながら、樹は返答した。
「気に入るも何も、凄いよ。これだけのものを一週間で完成させるなんて、やっぱりあおいちゃんは野球センスあるね」
「同じくでやんす」
「あはは、もっと褒めてくれてもいいんだゾ!」
言いながら高笑いするあおいは、失礼ながら、やはり男子と何の変わりもないように思えた。だがこれは決して、馬鹿にした意を込めたものではない。恋愛対象よりも友人、恋人よりも親友として付き合えるような、樹が同性に対して抱ける感情を沸かせる女の子という意味だ。
それは多分、この場に居る皆が同じ気持ちだろう。だからこそ、皆ここに居場所を求めてくるのだ。
そしてそのまま野球ノートとやらを見ながら、全員で野球というものの総復習をして昼休みは終了した。樹や矢部君にしてみても皆に教えるという役割があるので、それは暇な時間ではなかった。
こんな昼休みに屋上で行われる少しの講義が、午後から野球のみに熱中する強豪校の姿勢にどれほど張り合えるのかは分からないが、それはどうでもいいことだった。
とりあえず昨日より一歩でも進めていればいい。それが樹の人生哲学である。
熱い。
と、こんな誤字にすら納得できてしまうほどに、今日の天気は当社比五割増の快晴だった。その炎天下の中で遠慮なく鳴き続けている蝉も、全身に纏わりつくような湿気の多い空気も、不快指数向上に一役買っている。歩くだけでも汗が出るような環境下。これで打って走ってなどした時には、脱水でなくとも倒れるかも知れない。今日の練習は、皆のメニューを少し緩めたほうがいいかも知れなかった。
しかし五月蝿い。五月の蝿とはよく言ったものだが、今に限っては七月の蝉とでも表記した方が幾らか正確であるだろう。
そんな中で樹は、手に持った“野球ノート”へと目をやりながら、今日の練習について考えていた。
流石に一から初めたとしても、高校生が一日数時間の練習を二ヶ月と少しだ。大分皆の野球技術も板についてきて、もうボールを握りそこなうということも無くなった。ようやく野球らしい練習ができるようになったというところだが、それは技術の話である。自慢することになるが、スポーツ歴数年で培われた基本体力と、二ヶ月ちょっととで得られたそれというものは、文字通り桁が違う。今日という日に自分や矢部君、あおいちゃんや他の野球経験者と同じ練習を課せば、『元』未経験者は恐らく次々に脱落するだろう。
ちょくちょく休憩を入れながら全体でやるべきか、それぞれ個々の体力に合わせて適時休憩をとらせるべきか。樹の頭の出した答えは前者だった。理由は簡単である。あおいちゃんならきっと「全体で同じ動きをしないと士気が下がるでしょ」とか何とか言うだろうと思った。それだけ。
コンクリートの地面を足早に歩いていると、そろそろグラウンドが見えてくる頃だ。余談だが、今はまだスパイクを履いていない。あれでコンクリートの上を歩くと、自分とスパイクと地面、全ての健康によろしくないからだ。
並んだ植木の側を通り、グラウンドを覗く。まだ人数はあまり揃っていないみたいだ。迷惑そうな表情でベンチ側を見る男子会員が三人、バッターボックスの位置でたむろしている。
迷惑そうな表情?
「私がお爺様におねだりすれば、こんな愛好会の一つや二つ、明日にでも潰せますのよ!」
声のした方を見やると、グラウンド入り口から一番近い一塁側ベンチ付近にて、あおいちゃんと誰か、見慣れない女の子が睨みあっていた。
何時になくギロ目のあおいちゃんと対峙する女の子は、一人称私(わたくし)に代表されるように、見た目からしてお嬢様丸出しな容貌である。バックに薔薇が咲いていたとしても、何ら不思議ではない。生まれつきらしい綺麗な金髪に、留められた赤いリボン。そして端麗な顔立ちと流れるような仕草。
うん、紛う事無きお嬢様だ。スポーツドリンクを口に含みながら、樹は一人頷いた。
遠巻きに見守る。
「あのね、ボクたちは練習をしたいんだ。邪魔だからどいてくれる?」
「な?! それがこの倉橋彩乃に取るべき態度ですこと? いいんですの? そんな挑戦的な態度で?」
どうやら決して穏やかな雰囲気ではなさそうだ。
口元に手をやって、嘲笑するかのように言い放つ金髪の女の子。と、それに簡単に乗せられるあおいちゃん。やはり短気は伊達ではない。
「あのねぇ、あんまりしつこいとこっちもいい加減腹が立ってくるんだけど?」
「あら、忘れましたの? この私はここの学校理事長の孫娘でございますのよ? 私に手を挙げれば、愛好会は言わずもがな、退学も必至でしょうね」
「うぬぬ……」
へえ、理事長のお孫さんか。道理で下々の者には挑発的なわけだ。
幻覚か。駄目だ。本気で薔薇が見えてきた。イバラだけど。
あおいちゃん、ここは堪えどころだよ。
さっさと争いの仲裁に入るべく歩を進めた樹だったが、正直じゃじゃ馬を乗りこなす自信はあまりなかった。仕方がない、適当に折り合いをつけて、なるべく早く帰ってもらうことにしよう。そして遠巻きに声を掛けようとした、その時である。
「あの、どうしたんですか?」
一触即発の危険領域にある双方の間に割って入ったのは、騒ぎに気付いて飛んできたらしいはるかだった。だが明らかに、ここは彼女の居るべき場面ではないだろう。ここは戦場だ。生きるか死ぬかの競り合いだ。はるかちゃん、君のような争いと無縁の人間が居ていい場所じゃあない。さぁ帰ってくるんだ。
わ、何言ってんだ俺。
どうやら真夏日で腐敗してしまったらしい脳髄に苦情を垂れる。が、彼女が居てどうにかなる状況ではないだろう。それは確かだった。
「あ、あなたは七瀬はるか!?」
突然の介入者に、驚愕に満ちるお嬢様もとい倉橋彩乃の表情。手を口元に当てて、目を見開いている。どうでもいいけど、昔読んだ少女漫画にもこんなシーンがあった気がするなぁ。とは、樹とあおい共通の思考。
「え、あの……どこかでお会いしましたっけ?」
「忘れたとは言わせませんわ。あなたのお蔭で、私は入学試験次席の座に甘んじることになったのですわよ」
忘れたどころか面識は無い訳だ。しかも、内容は野球とは別のお話。そして樹が最も退屈をあぐねる話である。
「え……いや、その、すいません」
「それは同情かしら? ふざけないで。いいですわ、そんなに愛好会の排除がお望みなら、すぐにでもそうして差し上げますわよ」
うわぁ。言いたい放題だな。
いい加減に堪忍袋がきつくなってきた樹は、その場で大声を上げた。
「おーい、あおいちゃん、はるかちゃん! 道具運ぶの手伝って!」
その言葉に聴覚的に反応する、女の子三人。と、傍観者である男子三名。
「あ、うん! 行こ、はるか」
いち早くこの大声の意図に気付いてくれたらしいあおいが、にこやかにはるかの手を引いて走ってくる。無理な作り笑顔をするのには慣れているのか、あおいの笑顔は無闇に素敵に爽やかだった。だが、その裏側は語る必要も無いだろう。
そのあおいちゃんから目を逸らすと、かの倉橋彩乃と目が合う。その瞳は、髪と同じくして金色をしていた。多分、ハーフかクォーターだろう。
「――――!!」
そして数秒の硬直の後、途端に顔を真っ赤に蒸気させて、彼女は逃げるようにその場を去った。
妙に慌てていたところを見ると、男子と視線が合うことに、というよりも、男子と接することに全く慣れていないのだろう。流石お嬢様だ。異性関係も随分希薄と見える。
そこまで分析したところで、ようやくあおいちゃんとはるかちゃんがこちらへと到達したようだった。あおいちゃんは平気な顔をしているが、はるかちゃんは息も絶え絶えである。
「助けてくれてありがと。ったく、本気でムカつくわねあの女!」
そう言って視線を、逃げ帰った女の子の方へと向けるあおいちゃん。関節が悲鳴を上げるほど強く握られた拳を見ると、心底、あそこで止めてよかったと思える。
「あ、あの、あ、ありが」
「いいよあれぐらい」
依然として酸素を求めている喉を無理に使ってでも礼の言葉を述べようとするはるかちゃんを諌めながら、樹は再びあおいへと視線を戻した。
「で、何があったの?」
「ボクが聞きたいくらいだよ! 突然『あら、野球愛好会の方かしら?』って声かけられたかと思えば途端に嫌味の嵐。あーもうこれだからオジョーサマって嫌い!」
ご丁寧に声色まで真似て説明してくるあおい。お嬢様言葉も、言う人間が違うだけでここまで印象が違うとは。
「まぁ、理由は何にせよ、あおいちゃんももう少し気を長く持ったほうがいいんじゃない? 爆発寸前だったでしょ? 今」
「まーね。だから八つ当たりしたい気で一杯だよ。ようし西条君、今日はボクのギザギザハートの詰まった全力投球が待っているから、覚悟してしっかり捕球するように!」
勘弁してくれ。
胸中で反論しながらも、口には出さない樹。どうせこの気温と湿気だ。全力投球なんてした日には、甲子園のマウンドでもない限り十数球でバテるだろう。まぁ思わず図らずの怒りに任せたワイルドピッチが何度も来れば、受けるこちらも堪ったものではないが。
「ほどほどにね」
言いながら静かになったグラウンドに向かうと、はるかが逆方向へと歩こうとしていることに気付く。
「って、はるかちゃん? 練習始めるよ?」
トイレだろうか。訝った樹には思慮が足りなかった。
「え? あの、道具を運ぶんじゃなかったんですか?」
…………。
ポンと、何故か視線を下へ逸らしたあおいちゃんから、肩を叩かれる。
七瀬はるかは天然だった。
幾らほどの距離を走っただろうか。普段はテニスを軽く嗜む程度の足なので、全力で走った時間とそれによる距離を比例させて予測を立てることができない。しかしそれは感覚的な話であって、視覚からの情報を落ち着いて分析すれば、この距離程度を計算するのは簡単だった。
グラウンドから、一番近い校舎の影。距離にしてみれば百メートルもないだろう。
肩で息をしながら、乱れる呼吸を整えて、校舎の壁に寄りかかりながら胸に手をやる。
鼓動が早い。脈打つ音が耳にさえ響く。いやそれ以上に、頭の中が妙に霞んでいる。いまいち正常な思考が保てない。理由は突然の短距離無酸素運動然りだが、もう一つあることは明白だった。それは恐らく、この状況下で自分だけが陥る状態。
絡んだ視線が忘れられない。思わず顔が火照ってしまう。
「まさか……あの方が野球愛好会に入っていらしたなんて……」
ひっそりと、いつも影から見ていた彼の声が、初めて大仰に聞こえた。感動に手が少し震えてしまう。
入学式で一目見た瞬間に高鳴った胸の鼓動。以来、彼を見かける度にそれは続いた。幾度となく足を運んだ彼のクラス。そこで目にした彼の気さくな笑顔や、楽しげな立ち振る舞い。今まで自分の知らなかった感情が、彼を見るたびに沸き上がる。
これを恋と形容したのは、いつの日からだったか。
「これでは迂闊に手が出せませんわ……嫌われでもしたら、私……」
恐らく、耐えられない。生まれて初めて恋焦がれた人物に嫌悪の表情を向けられるなどと、何にも勝る苦痛だろう。想像したくもない。
「命拾いしましたわね……七瀬はるか。あと、それと……」
緑色の女。ああ、名前を聞くのを忘れていた。
何はともあれ倉橋彩乃、野球愛好会員西条樹に恋する十六歳。花も恥らう乙女は純情である。
かくして、午後のひと嵐は去ったのであった。