学校と言う場所は勉学に励み、知識見聞を深める為の場所だと聞いて頷かない者は、その場によほどの恨みを持つ者か、よほどの常識知らずにして見解違いか、ただ学校と言う場所を知らない者かのいずれかであろう。しかし、そのいずれにも属さないにも関わらず、むしろそうだと理解した上で学生の本分とやらである勉学に勤しまないのは、つまるところただ怠惰なだけということだ。
時計の針が昼前を指す、授業中の教室内。欠伸とともに募る眠気を堪えながら、樹は怠惰な時間を潰していた。
机の上には、教科書に敷くようにして広げられた“野球ノート”が。席は一番後ろ且つ矢部君の隣なので、教師やその他女生徒に悟られることはまずない。ここ数日、皆の進歩したところや新たな要改善点などを密かに書き込むのが、樹の授業中の暇潰しとなっていた。
流石に数学や英語の時間などにするほど無謀ではないが、現国などの、特に襲い来る眠気の多い授業ではまさに常習だ。教師には悪いが、ここは居眠りしないだけましと、寛大な心で構えてほしい。
ところで最近気づいたことだが、やはり聡明なお嬢様方も、昼寝と言うものは嗜むらしい。寝息などは聞こえないが、机に突っ伏している方々は、周囲に何人も見受けられる。ひょっとするとクラスの半分近くがボイコット状態なのかも知れなかった。
そしてそれを気にも留めない、初老の紳士たる男性教師。それが彼の許容の範囲内なのか、はたまた単純な興味の有無なのかは理解しかねたが、とりあえず樹にとっての不利益はないようである。
まぁそんな人間観察はどうでもいい。
隣で間抜けな居眠り面をして惰眠を貪っている矢部君を一瞥してから、樹は野球ノートにおける矢部君に関するページを開き、一度だけペンを走らせた。
書き込まれたのは、「正」という字の三画目。
通算三つ目の「正」の字が、あと少しで完成しそうである。そして唐突に思い立った遊び心でそのページの隅に矢部君の似顔絵を書いてみるが、あまり似なかったのですぐに消すことにした。
きんこんかんこん。
間延びした妙な脱力感に満ちた音が、授業終了の時報を告げるべく学校中に響き渡る。例外なくそれが響いたこの教室でも、教師を含む一同がさっさと片づけを始めた。勿論、樹もである。
これで、午前の授業は終了だ。
気が緩んだらしい、堪えきれなかった大きな欠伸とともに、樹は席を立った。
「コラそこぉ! だらだらしない!」
怒りの剣幕で怒るあおいに驚いてか、のんびりベンチで雑談にふけっていた数名の男子会員は脱兎のごとく駆け出すと、そのまま外野ランニングへと走っていった。
「ったくもー、やる気あるのかしら」
「やる気を出せっていうのが、無理な話かも知れないね」
素振りのバットを片手に毒づくあおいに、樹は諭すように言った。
「六月下旬、夏目前。世間の高校野球部は甲子園へのキップを賭けて県予選の真っ最中。なのに、野球部ですらない愛好会は、それに参加することもできない。結果の見込めない練習だからね。ああなるのも当然の話だと思うよ」
言いながら予想した通りに、あおいは少し不機嫌そうな顔になる。
「それはそうだけどさ……来年までに出来上がっていれば地区大会でも結構イケると思うのに……もったいないよ」
その言葉には苛立ちや怒りよりも、やるせなさや残念さが滲んでいるように思えた。いや、それは恐らく事実だろう。
小学生の頃からリトル・リーグで投手として活躍し、頭角を現し、周囲の男子よりも頭一つ秀でた実力を持っていた野球好きの少女、早川あおい。中学校に上がっても変わらず投手を務め、キャプテンならずともチームを率いる存在であったことは確かだと言う。(これは勿論、はるかちゃんから聞いた話だ)
しかし惜しむらくは、少女の文字を代表に、彼女が女性であったことだろう。
男女平等が叫ばれて久しい今日ではあるが、やはりそれは無謀というものである。社会的立場云々は別としても、どう足掻いても女性は運動という分野において、同じ分の訓練をした男性に少なからず劣ってしまう。そもそも男性と女性では、身体的に殆ど別の生物だと言えるぐらいの違いがあるのだ。そしてその肉体における確定的な差異は、成熟期を迎える高校生という時期においてより決定的なものとなる。それをどう覆せというのだろう。
早川あおいも例外なく、その壁に見事に衝突した人間であった。
小学、中学校時代に女性選手として数々の実績を残した彼女を、高校野球における強豪校は認めなかった。ただひたすらに「女性選手であるから」というそれだけの理由で。
その完膚なきまでに冷徹な事実を、また思い出してでもいるのだろう。外野を走る他会員達を見つめる目には、羨みさえも混じっているように見えた。
傍観者の立場とは言え、やりきれない気持ちになる。
見ちゃいられない。それが正直な気持ちだ。
と。
「待つでやんすー! オイラのレアフィギュア返すでやんすー!!」
その時ちょうど聞こえたのは、そんな矢部君の叫び声だった。振り返ってみると、無残にも犬に咥えられたフィギュアを追ってグラウンド中を疾走する矢部君の姿があった。
犬のほうはガンダーと言い、先日グラウンド近くに住み着いたらしい野良犬で、矢部君が命名者だ。餌などやっている内に皆懐かれたらしく、今では愛好会のマスコットにもなっている、学園内でも知名度ある犬だ。
今までもちょっとした道具紛失事件に関わってはいたが、まさか矢部君秘蔵のお宝にまで目をつけるとは考えてもいなかった。それは矢部君自身も同じだろう。憔悴しきった表情からは、まさに飼い犬に手を噛まれたという心情が受け取れる。
「よっぽどガンダーにしてやられたと思ってるんだろうなぁ」
「いや、レアフィギュアって言ってたし……単にアレが大事なモノなんじゃないの?」
あ、そういうことか。
犬の身体は走ることに適しているため、体力など関係無しに人間よりも速い速度が出せる。これは生物としての構造上仕方のないことであって、人間が人間である限りどうしても超えられない壁であるのだ。現に人間の陸上選手よりも、そこらの野良犬の方がよっぽど速い。
彼、矢部昭雄もまた例外なく、その壁に見事に衝突した人間であった。
俊足巧打の外野手として名を――まぁこの上なく一部で――馳せた彼を、茶色い毛並みの瞬発型動物は軽々と突き放した。彼の命より大切――かどうかは定かではないが――な一物を奪い去って。
その完膚なきまでな事実を、彼は認めようとしなかった。これでもかというくらいに犬の後方に喰らい付き、自らの体力の範疇をとっくに超えているだろう速度で走り続ける。彼は諦めない。何故ならその目にはまだ闘志が宿っているからだ。彼はまだ走る。目標を達成しない限り、彼が倒れることはないだろう。その物理的に不可能な事柄さえも信用させてしまうほどに、彼の意気は凄まじかった。現にその放たれる気に触れてか、外野を走っていた他会員達も思わずその足を止めて、固唾を呑んで一事の行方を見守っている。彼と、その前方を走る犬。その勝負はもはや体力という枠ではない。尽きず折れぬ精神の領域の戦いと表現すべきが、この聖戦に対する礼儀と言えるだろう。
と、言葉を選ぶだけでここまでシリアス且つ重要なものに思えてくるのは、現代文学の妙である。
結局のところ、ぜぇはぁと息も荒く今にも死にそうな形相の矢部君がかのマイ○ル・●ャク◆ンもびっくりなほどの顔面蒼白さで迫るのでそれを見たガンダーが仰天し更に逃げ続けるという無駄に完成されたループが出来上がっているだけであって、他会員達にしても固唾を呑んでというよりはただ呆れて見ているというのが適切だろう。
内野で決しなかった勝負が外野外周にまで持ち込まれたのを確認した後で、樹は横を見やった。
あおいは少し口元をほころばせてはいるものの、元気な表情というには程遠い。
い、いい加減に、止まるでやんすー!! と、これは矢部君の声。
「投げ込み、しようか」
なるべく明るい声で言葉をかける。
振り返るあおいちゃんは、笑顔。
「うん!」
作り笑顔だった。
二条神谷は、焦っていた。
逃げるべきか諦めるべきか。答えは考えずとも知れていた。せめてもの呼吸を挟む間も与えずに襲い来る、葛藤にも似た焦燥感を押し殺しながら走る。
全身の緊張と思考の停滞を僅かに許しつつも、できるだけ俊敏さを継続させながら、背後という不可視の空間からの逃避を試みる。自分でも分かる程に普段の仏頂面は崩れていないのだから、傍から見れば冷静に何事かを見据えて走っているように映っただろう。
だが外観など問題にならないほどに焦っているというのは、当人である自分が一番良く理解している。
脳裏に描くものは、恐怖。それは背後の気配へと言うより、立ち止まった結果とその先に待っているであろう、自分を迎える悲惨な結末へ向けられたものだった。
一秒が惜しい。一歩が惜しい。一呼吸が惜しい。少しでも気を抜けば、恐らくここまでの無酸素運動に限界を見出した脳が、身体の活動を停止してしまうだろう。
「(振り切らねば……喰われるか)」
舌打ちして、ぼやく。後方から迫る追跡者達の速度は、未だ衰えることがない。むしろ速くなっているのではないかとまで錯覚する。
生粋且つ厳格たる二条家の人間として、猛き父の手ほどきの下、幼い頃から心身の鍛錬を積んだ自分の身体能力にここまでついてくるとは、なかなかに侮れない者達だ。貞淑貴嬢の寄せ集めのような生徒達と聞き及んでいたが、どうやら見解を間違えていたようである。
考えている場合か。
全ての弱音を一瞬で無理矢理にかき消して、神谷は最高速度を維持することに尽力した。そしてそのまま校舎近くの物陰に隠れると、引き離した者達の気配を探る。
破裂をも目前にした大きな心音。そして無理に抑えても漏れてしまう、酸素を求めて喘ぐ呼吸音。その喉に苛立ちを覚えながらも、緊張だけは決して解かない。全身はもういかなる運動さえも拒否するように脱力していたが、倒れこんでしまわぬように気力を保つ。
「あれ? こっちに来てなかったっけ?」
「ええーウソー! 二条君どこ行ったのー?」
「ああー、一緒に写真撮りたーい!!」
満身創痍のこちらを他所に聞こえてきた声は明るく、大きく、全く疲れを感じさせないものだった。
「(化け物か……)」
彼女達の動向を聴覚だけで探りながら、神谷は息をできるだけ殺して身体を潜めていた。未だに心臓はその拍動を落ち着けてはくれないが、一時の苦しみと数時に渡る苦痛とを選ぶのならば、答えは明白である。
その後数分間、彼女達がその場を立ち去るまで、神谷はただひたすらに隠れていた。
また今日も、愛好会の活動には遅れそうである。
自分で言うのもなんだが、中学時代にはなかなか名の知れたキャッチャーだったと思う。そりゃかの猪狩兄弟の名声とは比較にもならないけれど、一部では「あ、あのキャッチャーだ」程度に知れていた。つまりはまぁ、記憶にも残らないような捕手ではなかったということで、野球に対する打ち込みぶりは結構なものだったということだ。
朝練、部活、自主トレと。使える時間は大抵野球に費やしてきたし、食事云々にも結構気を遣っていた。継続は力なりという言葉は本当だと思う。とりあえず続けては来たから、凡才なりに上達はできたのだ。
「で?」
「俺は野球が好きだ」
「で?」
「野球馬鹿と言ってもいい」
「で?」
「野球しか能が無い」
「だから?」
「だから、つまりその」
「赤点取っても仕方がないと?」
「いやまぁ、そういう言い方も」
「で?」
「すいませんでした」
放課後の教室にて、樹は目の前に立つあおいに対して、深々と頭を地に付けた。すぐ隣の机の上には、二十一点と銘打たれた答案用紙が広げられている。筆跡や記名された名前など、どの要素から見てもそれが樹の物であることは疑いようがなかった。
一応と言い訳程度に言っておくと、樹は暗記と読み解きが得意な完全文系人間であって、数字の羅列を見ると頭痛と吐き気を催す種の人間でもあるのだ。
「だからって赤点取られてもねぇ……。追試いつ?」
「来週の今日」
ここ恋恋高校では定期テストにおける三十未満が赤点とされ、該当者には挽回の為の追試と、暫くの間は週一回の補習が課せられるのだ。全体統一した練習を重視するあおいが懸念しているのは、その欠員による穴だった。
「本当によく二十一点なんて取れるよね。ボクでさえ五十点だったっていうのに」
「もうーしわけない」
小学生の頃から培った柔軟性を活かして、土下座の形のまま上半身を床へへばりつかせる。全身で詫びを表現するという意図もあるが、八割がギャグである。
「まぁ済んだことは仕方がないってしてもさ、一応キャプテンみたいな立場なんだから、その辺は自覚持ってよね」
スルーされて、手厳しい一言。観客の失笑を誘った芸人は、きっとこんな気持ちなのだろう。
「しかしどう足掻こうと学習には個人差があるものだ。焦る必要はないだろう。他に遅れようとも、いずれそこを通過すればいい」
落ち着いた物腰で丁寧に言ってくるのは、噂の美男子、二条神谷だ。今日は上級生達による襲撃を早めに回避できた為、あおいちゃんと合流してこの教室に立ち寄ったらしい。そこで、出来損ないの答案用紙を目の前にしてノートを広げる樹と会ったというわけだ。ちなみに矢部君は三十八点だったので、憂うことなしにグラウンドへ駆けて行っている。
「ああ、二条は優しいなぁ……」
「二条君は何点だったの?」
「いや、自分は、その……悪くはない、点だ」
「えー?! 九十二点だったんだすごーい!」
前言撤回。
なんだか目の前の答案が、よけい惨めに思えてきた。
「……そう落胆するな。……しかし、捕手であるお前を欠くとなると、我々投手陣が受ける練習への影響は如実だからな。次回は、是非ともの躍進を目指して欲しい」
そう、二条は投手である。それも左投げの。つまりあおいちゃんとで両腕のエースというわけで、それだけでも投手陣はかなり高いレベルにあると言って良いだろう。試合すら出来ない状態というのが少し寂しいが。
「うーん、二条君の喋りって漢字多いよね。疲れない?」
「性分だからな。別段苦には思っていない」
机の乱れが気になったのか、側の机と椅子の位置を片手で直しながら、二条は返答する。
「じゃ、私たちはもう行くから。早めに立ち直ってきなよー」
「そういうことだ。また後で会おう」
手を振りながら、二人は教室を出て行く。登場人物の二人を欠いた舞台は、一気に物寂しくなった。残っている役者が役者ならば、その雰囲気の落ち込み具合も凄まじい。
「輝かないよなぁ、俺って」
溜め息の混じった愚痴を一度。妙に重い身体を動かして、惨めな答案を片手にノートに向き直る。追試は来週だ。今からでも遅すぎるぐらいだが、せめてもの悪あがきはしておけねばなるまい。模範解答を読みながら、とりあえずの理解に努める。
「……」
数式を眺め、様々な関連性を見落とさないように思考を巡らせる。
「……」
どうにも理解できそうにないので、教科書を開く。
「……」
少し、進んだ。
「……」
五分。
十分。
十五分。
「……よし!」
結論が出た。どうやら自分は思いのほか頭が悪かったらしい。
結局一問しか解けないまま、机に突っ伏す。
完全に脳の処理能力の限界を超えてしまったようだ。頭が痛い。ノートに頭を乗せたまま外を見やると、この辺りを巣にしているらしいスズメが何羽か飛んでいった。
同時に、カキンという小気味良い音が聞こえる。ボールをバットで弾いた時の、清々しい単音だ。捕手である自分の居ない今日だ、フリーバッティングでもしているのだろう。そう言えば最近は守備練習しかしていなかったから、素振りの感覚を定着させるにはいい機会だ。
嗚呼……。
「打ちたい……」
無論、パチンコのことではない。
しかしこれ以上野球に関することを考えていると流石に我慢が利かなくなるので、ここは欲望を遮断し、耳に栓をしたつもりでノートに向かうことにする。
が、今度は五分も持たなかった。
「うわぁ、もしかして俺って頭悪い?」
今更のように確認すべき事項でもないのだが、呟いてみる。教科書を見て進行しても問題は解けない。この状態で教科書を疑うか自身の能力を疑うかと言えば、間違いなく後者だろう。正直なところで、二十一点も取れたのが不思議なくらいだ。他の科目は七十、八十点代をマークしているというのに、何故なのだろう。
「誰か教えてくれる人でもいればなぁ……」
そう考えていた時だった。教室後ろのドアが開かれる音がする。引き戸特有の、ガラガラという音だ。殆んど反射的に振り返ると、そこには、女の子がいた。
まぁ全校における男子総数が八人などと言うと、廊下でさえ女子とすれ違う確率の方が圧倒的に高いわけだが、問題はそういったことではない。
ドアを開けてこちらを見て、驚愕したような表情を浮かべる女の子。彼女には確かに見覚えがあった。
一度見たら忘れないような、大きな印象を与える金髪に、それと同色の瞳。どことなく自己主張の激しいような雰囲気を持った、世間知らずな幼さを含んだ顔。
そしてその背後に湧き上がった赤々しい薔薇の花々を見て、樹はやっと思い出していた。
(な、なんでですの?!)
倉橋彩乃は、衝撃のあまり硬直していた。
自分はただ、未来の生徒会長として相応しい模範的行動を示そうと、一年生全ての教室の戸締りの確認に歩き回っていただけなのだ。入学早々続けていた習慣なのであって、他意はない。そう、特に何か見返りを期待していたり、周囲の羨望を集めようとか偽善的な思考を持って望んでいたわけではないのだ。
もし見返りがあるにしても、それは先生からの簡単な褒め言葉だったり、他生徒からの適当な賛美の噂程度のものだろう。
故にこの状況に対しては、偶然としか説明がつかない。これは数百分の一の確率を偶然に拾い上げた結果なのであって、自分が何かをして得たものというわけではないだろう。きっとそうなのである。
混乱する自分の目の前に在る光景は、一言で表すととても簡素に済む。
ドアを開けた瞬間教室に男子が居た。以上。
しかしその男子が誰であるのかとかそれは自分がどう想っている人物なのかとか彼の周囲の椅子机だけが妙に整頓されているとかそういったことを説明しようとすると、それには原稿用紙が最低数十枚は必要になりそうだった。
(ど、どうして西条様がっ?!)
とりあえず、自分の想い人がそこに居た。
彼は特に表情を崩してはいない。こういった状況に慣れているというだけなのか、もしくは単に自分という存在に全く関与するつもりがないのか、それらは把握しかねたが、対する自分の顔がみるみる朱に染まっていっているというのは考えずとも理解できた。多分、彼の表情が少しばかり疑問を持ったものに変わったのは、そんなこちらの顔を見たからだろう。
次の瞬間に自分がとった行動は、あまりにも稚拙でありふれた単純な行為だった。人間が、いや動物全てが未知既知を問わずして仰天したときに図らずしも本能的に取ってしまう行動。
即ち逃避である。
踏み込もうとしていた足がその踏み込みをバネにし、ドアを通過する際に縁に添えた手が羽ばたくように反動する。あまりにもはしたない行為ではあったが、こればかりは自律することができない。
と、それは唐突な一言で制止された。
「ちょ、ちょっと待ったぁ!!」
急速に思考が巡る。ここ一帯に居るのは恐らく自分と彼だけなのであって、不測の第三者に気を配らなければ、これはそのどちらかが発声したものだということは確定的と言えるだろう。そして自分が到底声など出せない心理下と状況下で、声が聞こえた。となれば、必然的に声を上げたのは自分以外の誰か、即ち後方に居る彼ということになる。
などと、妙に冷静に分析し終えたところで、状況には何の変化も無い。
彩乃は踏み止まり、確かめるように素早く振り向いた。
「あー倉橋、さん……だよね?」
「え、あ、はい。そうですわ」
名前を呼ばれたことにかなり動揺してしまったが、何とか表面には出さずにいれた。返答すると、彼は続けてくる。
「えっと、君、確か前に入学試験成績次席って言ってたよね?」
何故そのことを知っているのかと疑問に思いもしたが、そんなこと些細な問題でしかなかった。少なくとも、現在自分が彼と会話しようとしているという事実の方が、よっぽど重要である。彩乃は、躊躇わず返した。
「え、ええ、確かに、そうですわ」
「よかった、勉強できるんだ。じゃあ、その、お願いがあるんだけど……」
物腰低い声で言ってくる。なんだろう、それは自分にできることなのか、できないとしても努力はしたい。というか彼の頼みならばどうにかしたい。ああ、私の手に負える範疇の事を言って下さい。と逆に願う。
「これ……」
彼が背中から取り出したものは……。
息を呑む。
「これの、解き方を教えて下さいお願いします倉橋さん」
大袈裟な一礼とともに差し出されたのは、一冊のノート。
そこに解かれている数式には、幾らか見覚えがある。そういえば、今回の定期考査試験範囲だった問題ではないだろうか。
「え? これの……」
「いやぁ恥ずかしい話で、実は赤点取っちゃってさぁ、来週追試なもんで、せめて悪あがきでもしておこうかと思って」
そういえば、赤点者には追試があるという話を聞いた気がする。自分にはあまり関係のない話だと聞き流していたのかも知れない。
「というわけで、お願いします! あ、いや、何か用事とかあるんならいいんだけど」
用事ならばある。この後家に帰ってピアノの稽古が待っているし、その後は夕食を母と共に準備する約束をしていた。優しくて大好きな母との約束を意図的に破ったことは過去の一度としてない、というか、破ろうと思ったことさえなかったのだが。
今はそんなこと、どうでもよかった。
「い、いえ! よ、喜んでご教授致しますわ」
「ありがとう! 地獄で仏だよ……。じゃ、早速ここでつまづいてるんだけど……」
「あ。ここはaの要素を与えられていますから、判別式Dを0以上とおいて」
もし神がこの世に存在するとしたならば、これほど感謝をした日はなかったと思う。
恋する乙女倉橋彩乃。時に赤くなり、時に恥らいながら、樹の対追試勉強に付き添うのであった。