野球というものに飽きが来ない理由は、他のスポーツにも共通して、日々自身が成長しているということを実感できるということと、状態状況が様々な場面で全く違ってくるということが挙げられるだろう。球を打ったり投げたりしたときの爽快感も、また一役買っている。
スパン! と良い音を立ててミットに入り込む直球。その感触を左手に確かめながら、樹は軽く唸った。あおいちゃんのストレートを、荒々しいが力強い球と表現するならば、この二条の球は、速度から角度からを計算し尽くされた非常にスマートな球といったところだろう。強過ぎず弱過ぎず、最も抑えた力で出せる最速の球を常に放っている。思わず、その肩が精密機械ではないのかと疑ってしまうほどの正確さだ。
はっきり言って、二条の投手としての型はほぼ完璧に近い。後は身体の、時間に依存した成長でしか伸びることはないだろうとさえ思える。技術面に関しては、もはやこちらが口出しすべきところはなかった。
球速や変化球のレベルはそこそこだが、これ以上を望むというのは贅沢が過ぎるだろう。
「流石だな、綺麗なフォームしてるよ」
樹は、そう言いながら返球した。
「ありがとう。謙遜こそ美学と重んじたいところだが、賛辞を述べられると気分が良いな」
「女房役に遠慮することはないよ。いい投球だ。安心して付き合える」
こんな二条でもしっかり成長している。最初に球を受けたときと比べても、徐々に球の質が変化しつつあるのは確かだ。自分の成長もさることながら、他人の成長というものも見ていて楽しい。
そう思いながら、今一番、色々な面で成長して欲しい人間の方へと目を向ける。
「で、あおいちゃんは?」
「いや、まだ日課が終わらないらしい」
二条の呟きを体現して、あおいちゃんはグラウンドの中心に、一人の女の子と睨み合って立っていた。頭に巻かれたハチマキが印象的な、あおいちゃん以上に活発そうな女の子である。
二人は真正面から向き合って、お互いに睨み付けるような目つきで対峙している。
「部活でもない愛好会が、グラウンドを使わないで!」
「部活じゃなけりゃ使っちゃいけないなんて決まりはないでしょ!」
「じゃあせめて部活の邪魔にならないように隅で社会のゴミみたいに小さくなってなさい!」
「ゴミはそっちでしょ! こんな大声撒き散らして公害もいいとこだよ産業廃棄物も真っ青だね」
「何よ、所詮愛好会なんて○○で××××で◆◆のくせに!」
「ソフトボールだって似たようなもんじゃないの! ×××で○○○で××××××で!」
「――――!!」
「――――――!!」
およそ女の子の口から漏れるとは思えないような暴言珍言が飛び出しあう。決して聞き慣れるものではないが、こうも毎日のように聞かされていれば、脳が自然と聴覚を遮断するようになるのも道理というものである。今では皆諦めたのか、止めようとする者さえいない。
あおいの口喧嘩相手の名前は高木幸子。恋恋高校女子ソフトボール部の一年生(樹らと同級生だ)で、入部早々投手を務める、信頼と人望の厚い気丈な子である。
突然現れた野球愛好会なるものにグラウンドの半分近くを占領されて少々気立っているようで、暫く前からこうして毎日のようにあおいと口喧嘩に華を咲かせているのだが、その終着駅は未だ見えることがない。
途中からは互いの悪口雑言の言い合いになるのも、また見慣れた光景である。
「やっぱり止めたほうがいいのかな」
誰にともなく呟くが、遠くに見えるソフトボール部の皆さんは、既に諦めモードとなっている。そんななか反応してくれたのは二条だった。
「いや、それに関しての必要性は感じないな。ある程度の感情の鬱積が解消できれば、事は言わずと決するだろう。……雌雄は決しないだろうがな」
表情を滅多に崩さない二条にしては珍しい、苦笑を伴った笑み。
それを他所に相も変わらず響くのは、女二人で充分に姦しい怒鳴り声。
恋恋は、今日も平和です。
そう思っていたのだが、本当の波乱は、あおいちゃんが引き上げてきてからだった。
「よし、今からあっちと勝負するから!」
向けられた指が示す先にいるのは、言わずもがな、女子ソフトボール部の皆さんである。例の高木さんがこちらに対して――あおいちゃんと同じように――指を向けている辺り、向こうでも同じような宣言がされたらしい。
勿論、互いの部員や会員の反応にも、大して差はない。皆が皆唖然として、言葉を失っている。二条も堅い表情を保ってはいるが、その面皮の下では驚きに混乱していることだろう。
暫く続く沈黙。それを破ったのは、非常に嫌味なことにあおいちゃん本人であった。
「さぁ皆準備して! 今からあのソフトボール部を打ち負かすんだよ!」
「ちょ、ちょっと待った!」
かろうじて正気に戻ることができた樹は、意識の浮上した勢いそのままに大声を上げた。続いて今皆が最も考えうる、というか、こんな呆然状態になるべくした原因でもある疑問を投げかけようと、背筋を伸ばして手を挙げる。
「幾つか質問!」
「認める!」
「あっちはソフトボール部だよね?」
「そうだよ」
「俺たちは野球愛好会だよね?」
「そうだよ」
「相撲とカポエラが同じ土俵で戦えると思う?」
「そりゃ無理でしょ」
「でも今からあっちと勝負するんだよね?」
「そうだよ」
「それって野球? ソフトボール?」
「両者混合」
「で、どうやって?」
「やりながら考える」
樹は頭を抱えて座り込んだ。
「つまりは部活対抗異種格闘技戦をやろうと」
「さっすが西条君、物分りが早くてボク助かるなぁ」
暫く黙る。誰も口を挟もうとしないので、沈黙を保つことだけは容易だった。
「何の為に?」
「いやほらだって、グラウンド、一つしかないから」
なるほど。ただでさえそこまで広くなく、一つしかないグラウンドを二つの部活で分けようというのだから、どちらに優先権があるのかどうか白黒つけようじゃないか。という話なのだろう。体育会系の人間が考え付きそうな、至極短絡的な発想である。女子だからと言って、それはそうそう変わるものではないようだ。
溜め息を吐きつつ二条に顔を向けると、あちらは肩をすくめて見せる。既に決議されたことを無理矢理に転覆させるわけにもいくまいだのなんだのと、難しい言い回しすらその表情から伝わった。
かくして――
「男子がいるからって、こっちも引けは取らないわよ」
「望むところだね。ボクたちも、全力でいくつもりだから」
「あの、高木さん? 本気なの?」
「先輩は口出し無用です。これは、アタシたちの戦いですから」
「いやあの、一応付き合わされる身だから、その……」
「さぁさっさとキャッチボール始めて! 今日こそあの低知能な愛好会を完全無欠に完膚なきまでに再起不能になるまで叩き潰すのよ! 隙あらば凶器の使用も許可するわ!」
「既にスポーツじゃない気がしてきたんだけど、あおいちゃん?」
「あー、よく考えたらこっちって人数一人足りないんだよね……よし、西条君!」
「……なに?」
「二条君にキャッチャーやってもらうから、キミはライトとセンター掛け持ちね」
「え、それなら二条に外野を任せた方が」
「人気者、美男子二条君がキャッチャー」
「……?」
「相手打者も緊張するってもんでしょ」
「……ずるいなぁ」
……かくして、恋恋高校ソフトボール部対野球愛好会の、グラウンド使用権を懸けた壮絶な戦いの幕が上がったのだった。
結局のところ、ルールを簡潔に言ってしまうと――
ボールは守備側に合わせて使用すること
バットは打撃側の自由に使ってよい
塁間は目算で、野球のものより少し距離が短い程度
ピッチャーマウンドの位置は守備側に合わせる
リード、盗塁はなし
投手の変化球使用は可
デッドボールや四球、ファールなど、共通ルールはそのまま
イニングスは7回まで
審判はソフトボール部に一任
――といったところである。
そして現在、0対0で迎えた三回の裏、ソフトボール部の攻撃であるが、どうにも打ち慣れない野球の球に皆苦戦し、三振を大量に奪われる形となっていた。しかしそれは、決して彼女らが慣れていないという所為だけではない。そのことは、右中間にポツンと立たされた樹がよく分かっていた。
流石、あおいちゃんだ。頭のキレる投球をしてる。
後ろからだと、あおいの投球フォームは勿論、二条の構えるミットの動きやサインの様子なども確認できる。この二条がまた大したリードで、きちんと捕手の基本に則ってしっかりと配球を考えており、それは樹に正捕手としての自信をちょっと失わせる程だ。
だが、基本というものが如何に高等な技術の集合体であるとは言えど、所詮は一通りのものでしかない。基本だけでは、いずれ捉えられる。しかしその基本を予測不能な大技に変貌させているのが、あおいの持つ大胆な発想と、勝負好きな性格故の強引な攻めなのだ。
例えばワンストライク・ツーボール。打ち気に逸る打者は、次に来るだろうストライク取りの甘い球を狙おうと、真ん中付近からアウトコース寄りのストレートに賭けてくる。落ち着いている打者は、よほど甘い球が来たとき以外は打ちまいと、見送る覚悟で臨んでくる。
二条はここで無難にイン・ローにストレートを要求。あおいはここでそれを拒否、真ん中高めに、ボール覚悟の全力投球を叩き込むのだ。
前者は真ん中コースに来たということで、つい空振り、もしくは球の底をかすってしまい内野フライ。後者は反応できずにツーストライク目を奪われるか、もしくは同じく内野フライ。実際の高校野球で通用するかと聞かれれば疑問は残るが、それでも普段の駆け引きになれていない、更には野球ボールのサイズに慣れていないソフトボール部の皆さんには、充分通用するものだった。
先の話で前者に該当するソフトボール部一番打者の方が、景気の良い内野フライを青空に打ち上げて、それを見送るように溜め息をつく。ボールが完全に捕球されたところで、それに悔やみの声が混じった。彼女はヘルメットを外し、肩を落としてベンチへと引き返していく。
「ごめんね高木さん、やっぱり私には荷が重かったわ」
「いえ、まだ三回です。まだ二順目ですから、次、頑張って下さい!!」
そう慰めはするものの、もどかしいことには変わらず。幸子は唇を噛み締めながら、マウンド上の女投手を睨んだ。前回では二人もランナーを出していながら、得点に結びつくヒットがなかった。やはり野球ボールが相手では決定打に欠ける。
「飛んでけーっ!!」
掛け声と共に放られる速球。もはや女の子が投げているとは欠片も思わせられない威力に満ちたそれは、打者の反応を待たずしてミットに飛び込んだ。
「へっへーん、ツーストライクだね」
高飛車な声と挑発染みた言葉が耳に障り、このまま走っていって殴ってやりたくもなる。
「早川あおい……!!」
歯軋りをし、握り拳に血管が浮かぶ幸子を見て恐怖したのはソフトボール部の皆さんだけでなく、樹も同じだった。外野という離れた位置にいるため詳しい様子は窺えなかったが、それでも幸子一人が憤怒に駆られているということは雰囲気で分かった。
(頼むから乱闘だけは勘弁ね……)
「……っ!」
シャープなスイングが、ボールをとらえる。
投球フォームの違い、タイミングの違い、さらにはボールサイズの違い、様々な悪条件が重なる中、一番最初に綺麗なヒットを打ったのは二条だった。納得と言えば納得である。
流石の高木幸子には、あおいの“二条くんにメロメロ”作戦は通用していないようだったが、その他のソフトボール部の女性らには効果覿面だったようである。かの美男子が打って走り出したともなると平常心はどこへやら、レフト前へのシングルヒットのはずが、エラーに次ぐエラーによりいつの間にか二条はサードまでやってきていた。ユニフォーム姿の二条に横に立たれている所為か、サードの方は緊張も度が過ぎているようにカチコチになっている。
「ふふーん、よしよし効いてる効いてる」
「……あのー、あおいちゃん?」
樹は、隣で魔女のような薄ら笑いを浮かべるあおいに、恐る恐る問い掛けた。
「確かに反則でも何でもないけどさ、もうちょっとこう、スポーツマンシップっていうものを踏まえてさ、お互いにベストな状態でやんなきゃ意味が無い! ってぐらいのスポ根精神があってもいいんじゃないかと……」
「西条君」
「?」
「根性だけで甲子園いけるほど世の中甘くないんだよ」
「そりゃそうだけど……ってちょっと論点ずれてるって! 今はまだ公式戦でもないっていうかむしろ今世紀のどうでもいい試合ベスト3ぐらいに入る勢いの野球とは全く関係のない戦いだよ! だい○ひ○るもびっくりだよ! どーすんのコレ!」
「あり? 珍しく西条君が面白いこと言ってる」
「そういうこともどうでもいいの!」
と、そんな夫婦漫才を繰り広げていると、ベンチに座っている他のメンバーがぞろぞろと立ち上がり始める。何だ何だと冷静になり、周囲を見やると、どうやら二条の次に打席に立った愛好会会員が三振、スリーアウトチェンジのようだった。
高校野球の、マウンドからホームベースまでの距離は約十八メートル。大してソフトボールは十五メートル程度。ボールの大きさや投球フォームの違いもさることながら、実はこの距離の違いというものが非常に厄介なのである。
バッティングはタイミングが要だ。幾ら毎日何千本と素振りをしたところで、投手の投げる球にタイミングが合わなければ所詮は高々とフライになるのが関の山である。変化球による緩急というものは、実のところ、軌道の変化よりもこのタイミングをずらす為という意味合いが強い。
「うわっ?!」
普段練習に使っている球よりも二回り近く大きいソフトボールに対して豪快に三振をかまし、引き上げてくる愛好会会員。面目ないといった表情でごめんと言ってくるが、責めるわけにはいかない。
いつもあおいや二条にマウンドから球を放られ、バッティング練習をしている会員達は、通常より三メートルも近くから投げられるボールに対してすっかりタイミングを狂わせてしまっていた。かくいう樹や二条、矢部といった野球経験者たちも、やはりこの独特の投法によるボールには一苦労しており、ヒットも今のところ二条の打った左安打と、矢部の打った内野安打のみという状況なのだ。エラーで他にも何人か出塁したが、得点には至っていない。
経験すら裏目に出る、反射神経だけがモノを言う試合。もはや駆け引きではなく運の世界だった。
迎える五回の裏、一死走者無し、四番右中間の西条に打席が回ってきた。
「……次は俺か……はぁ」
「西条君ドカンと一発でやんす!」
「打てなかったらおしおきだよ!」
「小細工を狙う場面ではない、塁に出ることを最優先だ」
各々が声をかけてくれるが、ここまで二打席立ったがいずれも凡打に終わっている。正直言って、タイミングも球威も全く新鮮なこの大きなボールを打ち崩すことなど、樹には不可能に思えた。
(セーフティバントは……無理だよな、ピッチャーが近過ぎる)
何とか秘策を思いつけないものかと考えつつ、バッターボックスに入る。見えるのは、女の子とは思えない威圧感を纏った投手、同学年である高木幸子。
「それっ!」
放られる一球目。野球ではありえない回転のボールは、独特のアンダースローから浮くように飛び上がる。ライズボールという、独特な投法ゆえのナチュラルな変化球だ。
肘一杯をかすめるようにして、判定はストライク。息を吐き改めて前を見やると、投手はサディスティックな笑みを浮かべていた。格下をあざ笑うかのような、不真面目な笑いである。
(笑われても仕方ないか……目で追うのがやっとだ)
二球目はアウトコース高めにボール。慣れない「上」への変化だが、三打席目に入ってようやく樹にも軌道が読めるようになってきた。ようやく駆け引きに応じられる程度にはなったのである。
(とは言っても、打てるかどうかは)
三球目は高め一杯にストライク。浮いてボールゾーンに逃げる球かと思い見送ったのだが、裏をかかれたようだった。
(分からないよね……やっぱり、球がうまく見えないや)
もはや勝負はもらったと、嘲笑の顔色を濃くする投手。
(球が見えにくい……そういうときは、確か、顎が上がってるんだっけ……)
そこまできて、樹は一つのことを思い出した。
――試合中ってのはみんな緊張してな、顎が上がってしまうんだよ――
そうだ。もしかしたらタイミング云々ではなく、慣れない相手を前にしてフォームが崩れていたのではないか。思い立ったと同時に樹はタイムを取り、バッターボックスから足を退いた。
――顎が上がると、肩も上がる。そうすると、勝手にアッパースイングになる。それじゃバットはボールに当たらない。当たっても打ち上げるだけだ――
ボックス横でバットを構える。
――バッティングってのは常に前傾姿勢でやるんだ。なるべく極端な形を意識してな。ボールを見下ろすようにして――
小学生の頃、まだ少年野球団に入る前に、野球好きだった父からそう教えられた。
興味が出て、何とかそれを自分のものにするために、参考になるようなプロ野球選手を探した。だがどの選手もそれほど極端な前傾姿勢など取っておらず、小学生が見て参考にできるような選手はなかなかいなかった。半ば諦めかけて独学に努めようと思っていたとき、ふと目にしたのは、過去の名選手を扱った番組。画面に映ったある一人の選手に、一瞬で目を奪われた。
顎を肩に載せ、両手を高く掲げ、投手を睨みつけるように腰を据えるフォーム。それはまさしく、自分が求めていたものだった。それからはひたすら、新たに自分自身のフォームが確立されるまでは、ずっとその選手のフォームを真似していた。ボールを見下ろすスタイルは投げられるボールを見やすくし、同時にスムーズなダウンスイングを可能にし、樹は少年野球のチームで四番を任されるほどのバッティングをしていたのである。
そうか。中学校に上がってからは自分なりのフォームで構えていたから、ずっと忘れていた。どんなに緊張していたとしても、否応にも前傾姿勢になってしまうあの構え。日本プロ野球界が誇るスラッガーの一人、生涯通算五六七本塁打を放った、あの門田博光の構えを。
樹は深呼吸してから、顎を左肩に載せ、両腕を高く掲げた。マウンド上の高木幸子を見据え、ガニ股になって腰を落とす。一日に四〇〇本の素振りをしていた、懐かしい感覚が蘇ってくる。
スイングした瞬間、バットが空気を切り裂いた。
その振りの恐ろしさを一番強く感じ取ったのは、他ならぬ高木だろう。投手ならば誰しも、威圧感と存在感溢れる打者を目の前にした時に、「どこに何を投げても打たれるのではないか」という恐怖を感じることがあるものだ。
「…………」
幸子は、今まさにその恐怖に直面していた。タイムを解いて打席に入りなおす打者の目は、確かな自信に満ちている。そしてそれを具現化するが如く、ずっしりとした構えには迫力すら感じられた。明らかに、何かが違う。
(緊張が解けたの……? 上ずっていた顎が、もう引かれてる。今までみたいに高めで攻めることは難しいわね……いや、それだけじゃない)
手の内に少し汗が滲む。しかし幸子は、今焦っているのは自分であるということには気付けなかった。目の前に立つ大きな存在に終始注目し、それに対峙することで精一杯だったのだ。
(ストライクなら、どこに投げても打たれる気がする……)
背筋に言い知れぬ冷たさを感じた幸子は、外野へと振り向いて叫ぶ。
「外野、バック! 下がって!」
突然の号令にいささか戸惑うも、幸子の言葉を受けた外野陣は一斉に数メートル後ろへと下がった。そして三塁手である先輩が、少し近寄って不安そうに問い掛けてくる。彼女もまた、あの打者と幸子の行動に違和感を覚えたようだった。もっとも、その違和感の正体が何なのか、彼女には理解できていないようだったが。
「高木さん、大丈夫?」
ここでチームメイトに不安の種を撒くほど、幸子も馬鹿ではない。出来る限りの笑顔で応対する。
「何がですか? 大丈夫ですよ。ちょっと、そろそろ相手も球に慣れてきたんじゃないかと思っただけです」
先輩がポジションにつきなおすのを確認してから、幸子は打者に向き直った。こちらに少しのやりとりがあったというのに、打者は一度もフォームを崩さず、じっと待っていたようだった。高い集中力である。
ここはドロップボールでいくか? いや、ドロップはフォークボールと同じ変化。野球をやっている人間なら慣れているかも知れない。カーブもまた然りだ。ならばいつも通りにライズを放るべきか。いや、ライズこそ狙われて打たれるかも知れない。なら……
(難しいことはいい)
頭を埋め尽くしかけた幾つもの思考に一言でケリをつけると、幸子はゆっくりと投球モーションに入った。
(投げて、後悔しない球ならなんでもいいわ!)
もはや打者すら目に入れず、ただキャッチャーの構えるミット目掛けて全力で球を投げる。
その渾身のストレートは、恐らくこの日で一番の球だった。
指を離れた瞬間、その球に自分ごと乗っかって飛んでいくような感覚すら覚えた。見事キャッチャーミットに納まれば、パシィッと爽快な音をグラウンド中に響かせたことだろう。
だが、その音が幸子の耳に届くことはなかった。
代わりに響いたのは、爽快な金属音。そしてあのムカつく早川あおいを交えた、野球愛好会一同の歓声。それに少し遅れて、自分自身の溜め息が聞こえる。
後ろを振り返ると、後退守備を取っていた左翼手の遥か向こう側、グラウンドの周囲を囲む柵の一つを飛び越えて、白球はようやく自らの飛翔に満足したかのように落ちていった。
八月初旬の、空。本格的な夏の到来を告げるようにもくもくと空に浮かぶ入道雲の下、蝉の声がミンミンとうるさい。冷静さを取り戻した感覚が、自分の顎を伝う汗に気付く。それを拭ってから、幸子は帽子を取って、真上にある空を見上げた。ちょうどその時、今の打者がホームインしたようだった。吹き抜ける風が頬に触れ、熱のこもった汗を冷やしていく。
「……気持ち良い……」
そしてそのまま大の字になって倒れると、幸子の意識はひんやりとした深い谷の底へと落ちていった。
薄ら目を開けると、白い天上が目に映った。
「…………あっ! 気付いた?」
「んん……ん? って!? 早川っ……うぁ、頭が……」
驚きながら上体を起こしてみるも、妙な頭痛で動くこともままならない。
「熱中症一歩手前だったってさ。暫く安静にしとかなきゃダメだよ」
カーテンが揺れ、心地良い風が顔を撫でて行く。周囲を見やると、どうやら保健室のベッドに寝かされているらしかった。独特な消毒液のニオイが鼻をつく。ユニフォームの上着は脱がされており、着ているものはアンダーウェアとズボンだけだった。
「運んで……くれたの?」
「ボクじゃないけどね、ソフトボール部の皆さんが。皆心配してたから、後で顔出しといてよ。まだ、グラウンドにいるみたいだから」
「ああ、うん、分かった……」
暫くの間、沈黙がその場を支配する。保健の先生も出払っているようで、第三者の救いの手は期待できそうになかった。何時間ほど気絶していたのか分からないが、真夏の陽は、まだ元気に照っている。聞こえる掛け声は、近くにコートのあるテニス部のものらしかった。
「……今日は、ごめんなさい」
「………………え?」
思いもよらなかった言葉が聞こえたことに、一瞬何が起こったのかすら分からなくなってしまう。間の抜けた声で疑問符を表すと、神妙そうな顔で早川あおいは頭を下げてきた。
「ボクが、勝手なこと言い出してみんなを巻き込んで、そのうえ高木さんがこんなことになっちゃって……。あはは、みんな呆れててさ……流石に、やりすぎちゃったよね、反省してます」
「え? ああいや、別にそんなことは……」
頭を深く下げられ、気が動転してしまう。こんな状況は生まれて初めてだった。
「えっと、あの、いやだな……その、頭上げてよ……えっと、け、喧嘩したのはこっちも同じなんだからさ! 別に、あの、アンタが気に病む必要はないって!」
こんなことを言うのも初めてだ。昔から気は強い方で、男子生徒ともしょっちゅう言い争っては喧嘩してきたが、それは一過性のもので、気が付けば元のように話すようになっていることが殆どだった。だから、謝られて、それを制止する体験なんて、本当に生まれて初めてなのだ。
「なんていうかほら、アタシも、結構、言い過ぎたところあったし、どっちが巻き込まれたか、なんてことはないんだしさ……そんな、謝らないでよ」
肩に手を添えて頭を上げるように促す。早川は、唇を噛み締めていた。
「やっぱり、ボクがいけないのかな……」
「……え?」
「野球なんかやらないで、ソフトボール部に入ってれば……良かったのかな……」
夕方の涼しい風が、カーテンを揺らしている。すうっと通り抜けていく風に煽られたかのように、早川の目からは涙がひとしずく、こぼれ落ちた。
「女の子は大人しく、ソフトボール部に入ってれば、よかったんだよね……そうだよね」
「早川……さん?」
そういえば、忘れていた。彼女は、早川あおいは、女の子だったのだ。
小中学校と、いつでも頼れる姉貴分の地位を保ち続けていた幸子は、女の子同士の喧嘩の仲裁ならいつもこなしていたが、女の子を相手取って争ったことはなかった。いつも男子が相手。筋力も体格も上の人間と喧嘩していた。だから、分かっていても気付けなかった。こんなにも自分と張り合える彼女を、女の子として見つめられなかった。
続けざまにこぼれる早川の涙に、時間を奪われる。
「あはは、格好悪いよね……駄目もとで、もがいて、他人に……迷惑までかけて」
「……」
早川あおいが、甲子園を目指して、共に入学した男子らと野球をやれる場を確保しようとしていたのは、幸子も知っていた。女性選手は高野連に登録できず、彼女が他の高校から総弾きにされたこともまた、知っていた。
「駄目なのかな」
「…………」
「女の子が野球やっちゃ、駄目なのかな……」
「……アタシさ」
幸子が口を開くと、はっとしたように早川が視線を向けてくる。迷惑がられたと思ったのだろう、慌てて涙を拭き、体裁を取り繕うのが可愛らしく、猫のようだった。その直後、幸子は言う。
「アタシも野球、やってたんだ……小学校の頃、軟式」
瞬間、硬直する早川。子供をなだめるように優しく笑いながらその顔を見ると、え……? と声にもならない疑問を表情で表していた。
「近所の少年野球団に入っててさ、学校終わるなり河川敷まで直行してた。そうそう、学校にユニフォーム持ってってたの。おやつのバナナを一本、ランドセルに入れて、放課後食べながら着替えてた」
あっちこっちに視線を動かしながら懐かしい思い出を語る幸子とは対照的に、早川はただじっとその横顔に見入っていた。
「学年の中でも足は速い方でさ、一番ピッチャー高木幸子、背番号1、打率も結構良かった。スタミナもあったわよ。マラソン大会ではいつも五番以内だったしね。体育じゃ男子よりも活躍するもんだから、ゴリラとか呼ばれてたわ」
楽しそうに、これでもかというぐらい己の武勇伝を語る幸子だったが、そこで彼女の笑顔に、一つの陰りが宿る。
「でもさ、所詮は女の子だったんだよね」
あおいは感じた。自分と全く同じ境遇に置かれた人間の、悲しい想いを。
「中学でも野球部に入って、一年経ったぐらいでかな、辞めたんだ。……分かるでしょ?」
溜め息とも微笑みともつかない複雑な表情と共に向けられた、様々な感情の入り組んだ言葉を受けて、あおいはこくりと頷いた。外ではまだ、依然として練習を続けているらしいテニス部の、元気の良い掛け声が響いている。
「もうさ、中二に上がってから男子の成長の早いこと早いこと。身長はまだ勝ってたけど、体力ではもう無理だったな。周りはどんどん足が速くなってさ、アタシも粘ってたけど、時間の問題だって思ったわ」
淡々の紡がれる言葉。その裏に込められた感情の全てを、あおいは自分に重ねて、受け止めていた。
「高校受験も近くなると、本当に、部活も何もしてない奴でも筋肉がついて、背も高くなって、羨ましかった。ああ、女のアタシじゃもう無理なんだって分かった。……だから、高校ではソフトボール部に入ろうと思って、女子ソフトの設備が充実してる恋恋に入学した」
そこで言葉を区切り、突然、幸子は耐え切れなくなったようにぷっと吹き出す。
「アハハハ、そしてソフトのユニフォーム着て、初めて入るグラウンドに一礼しようとしたら、野球しようとしてるお下げ髪の女の子がいたんだから、もうびっくりしたどころじゃなかったわ」
「あ、えっと……え、えへへ」
数拍の間を置いてそれが自分の事だと気付いたあおいは、気恥ずかしく思って笑った。
「もしかして、プロとか目指してるんじゃないの?」
「…………えっと」
「いいよ言わなくても。分かってる」
あおいは、彼女には全て見透かされているような感じがした。
「本当のこと言うとさ」
「……?」
「羨ましいんだ、早川さん、あなたが」
「え……?」
不意にチャイムが鳴る。放送の内容は、下校時刻十分前を知らせるものだった。改めて時計をみやると、既に六時半を過ぎようとしている。流石の真夏の太陽も、だいぶその勢いは落ちていた。
「中学でも野球、ずっとやってたんでしょ。その勇気とやる気。そして今、女の子であることを気にもせず支えてくれる仲間がいること。……本当に、いい環境じゃない。羨ましいよ。だから、そのまま野球、頑張って」
言葉の最後に向けられた笑みは、今までのような微笑でなく、活発な幸子らしい元気な笑顔だった。向けられた者を勇気付け励ます、心根の強い人間だけができる力強い笑み。
「グラウンドのことだけどさ」
幸子が言う。
「曜日で分けて、メインで全体的に使う日と、端に寄って守備練習や体力づくりをする日で、交替で使わない? その方が、効率もいいと思うし」
「えっ……? いいの?」
遠慮がちに言うあおい。こんな目に合わせておいて、おまけに励ましてもらった。もうその時点で、あおいは胸中でグラウンドの話など譲ろうかと考えていたというのに。
「当たり前じゃない。っていうか、そもそもこっちが権利なんて主張したのが間違いだったのよ。使うなら平等が一番だわ」
「!!」
「いや、それならあの、ボクたちが権利なんて言い出したのも」
「もう、謝り合いはなし!」
「あ、うん……」
小さくなるあおいを見て、幸子はおかしくなって笑った。
「ハハ、ちょっと、いつもの気概はどうしたの。もう済んだことはいいんだから、元気出してよ!」
「あはは、うん、いろいろ……いろいろ、ありがとう」
返事をするあおいの目からは涙はすっかり消え、笑い方もいつもの調子に戻っている。
良かったと、幸子は胸中で安堵した。昔から泣いている同級生がいれば慰めていたが、いつも、それっぽい言葉で安心させてやるのが精一杯だった。涙一つ拭ってあげるのにここまで自分の過去を話し、相手の気持ちを考えたのは初めてだった。早川あおい、彼女と出会ってからというもの、初めてのことだらけだ。本当に不思議な女の子だなと、幸子は苦笑した。
「さて、そろそろ大丈夫そうだから、アタシは行こうかな……って、あれ?!」
ぐっと身体に力を込めて立ち上がるも、やはり熱中症とやらは伊達ではなかったらしく、少しふらつく。床に向かって前のめりに倒れこみそうになったとき、あおいが、肩で受け止めてくれた。
「あっごめん! 重いでしょ、よっと」
立ちくらみに打ち勝ち、床に足を降ろす。保健室独特の白い床の冷たい質感が、裸足に心地良かった。
「だ、大丈夫? 高木さん」
心配そうに覗き込んでくるあおいに、再びの元気な笑顔を見せる。
「平気平気! あと、アタシのことは、幸子、でいいわよ」
「え、いやそんな」
「アタシも、あおいって呼ぶから。おあいこ」
しばらく黙りあってから、どちらともなく、笑い出していた。数時間前は目くじらを立てて怒鳴りあい、無茶な試合にまで発展したというのに、今はどうだ。ぶつかり合って、お互いの弱さと強さを見せ合った二人は、いつの間にか無垢に笑い合える友人同士となっている。傍から見ては不思議な光景だろうが、何より当事者二人が一番不思議に思っているのだ。
「アハハ、なんか、自分で言うのもなんだけど、ちょっと感動しちゃったな」
「ハハハ、そうだね。ボクも、ちょっと感動しちゃった」
「ウウッ、オイラも感動したでやんす」
その瞬間、凍りついたように時が止まった。
人間が予想外の出来事に遭遇してしまったときに感じる、所謂“時間が止まる”という感覚には、科学的な根拠がある。人間は常に予測に次ぐ予測の中で生きており、その予測とは過去の経験や蓄積された知識から総合して成り立つもの。一つの行動をしているときに、ある程度次の行動への移行を視野に入れて予測いるからこそ、スムーズに行動できるのだ。しかしここでイレギュラー、つまりまったく“予測外”の事象が起こった場合……例えば、どう考えてもそこに居るのはおかしいだろうという人間が唐突に発言をしてきた場合など……脳はまず、その修正に動く。そして再び経験や知識を様々な引き出しから取り出して、総括し、次の行動への移行方法を立て直す。この処理を行う間、ほんのコンマ一秒にも満たないが、思考に空白が発生する。しかし凄まじいスピードで働く脳にとっては、その瞬間でさえ数秒の時に感じられてしまう。この一連の流れによって、人は“時間の停止”を体感時間の中で感じてしまうのだ。
要するにあおいと幸子にとって、この展開は到底予想などできないものであって、イレギュラーにしてももはや反則の域にまで達していたわけである。
この停止状態から抜け出すのに、二人はたっぷり数秒を要していた。チッチッチとマイペースに鳴る時計の針が、一層の滑稽さを提供している。
「やべ……くん?」
「うう、ぐすっ……オイラ号泣でやんす」
未だ驚愕に囚われつつも、あおいは恐る恐る訊いた。
「どこから……いたの……?」
「グラウンドについてのとこからでやんす。戻ってよく見てみるでやんすよ。セリフが一つ多いはずでやんすから」
「矢部君……それは踏み込んではいけない領域だよ」
「さ、西条君まで?!」
「いやごめん、聞くつもりはなかったんだけど……」
未だ驚きの表情が晴れないあおいに、樹は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「もう練習は終わったよ。あおいちゃんがなかなか帰ってこないからさ、様子を見にきたんだ」
そう言ってくる樹は既に制服に着替えており、水を被ったのか、髪が少し濡れている。気付いて自分の姿を見やると、あおいはまだユニフォームだった。
「え? うわっ! ぼ、ボクも着替えないと……!」
急がないと更衣室が施錠されてしまう。そうなったら明日は季節はずれの冬服で登校するほかない。仮にも女の子としてみなりを気にするあおいにとって、それは避けたい事態であった。
幸子との和解も成ったことだし、何より先ほどの青春真っ盛り会話を聞かれていたとあっては居心地が悪い。あおいは幸子に軽く会釈すると、逃げるようにその場を立ち去った。
「あ……アタシも着替えないと……」
歩こうとして再びふらつく幸子、もうそろそろ大丈夫かと思ったのだが、思いのほか立ちくらみのようなものが酷かった。すぐさま反応した樹がその肩を支え、ベッドへ座るように促す。
「程度は軽いとは言え脱水症状と熱中症を併発したんですよね? だったら、しっかり休んでおかなきゃ」
「え、いやでも、アタシはもうだいじょう……」
「馴染みの薄い症状だからね、よく熱中症は、身体を冷やしてある程度の水分さえ取れば大丈夫だと誤解されるんだ。でも、実際は代謝機能や平衡感覚、免疫能力とかが麻痺してて、二、三日は安静にしてなきゃいけない症状なんだよ。女の子なら尚更だ」
反論しかける幸子を、樹が制す。そうとまで言われては言い返すこともできず、幸子は俯いて両手の指を絡めた。すっかり熱の引いた手だが、心なしか力が入らない。
「高木さん!」
保健室に駆け込んで来るや否や幸子の元へと駆け寄る、ソフトボール部の方々。着替えはもう済ませているようだったが、ハードな練習をしていた証拠に、髪が薄っすらと汗で輝いている。
「先生に今日は車で送ってくれるように頼んでおいたから、まだ寝てていいわ。大丈夫? どこか痛かったり、気分悪かったりしない?」
「高木さんごめんなさい私たちが不甲斐ない所為で」
「水分取った? ほら、スポーツドリンク持ってきたから」
「え? ああ、ちょっと先輩……?!」
たちまち幸子は先輩方の波に埋もれ、姿が見えなくなってしまう。人気者もここまで来るとつらいものだ。樹は同時に、二条に対する哀れみも覚えていた。
「じゃ、矢部君、そろそろ行こう。すいません、お邪魔しました」
「失礼しましたでやんす」
これ以上の長居はお邪魔だと察し、樹は保健室から出ようとする。
「あ、ちょっと!」
突然声をかけられたもので何かと思い振り返ると、幸子がこちらを引きとめようと手を伸ばしていた。かと言って何の用か分かるはずもなく疑問符を表情に出すと、幸子は少し躊躇いながらも訊いてきた。
「アンタ、名前は?」
すぐさま名乗り出る、矢部。
「オイラは矢部明雄でやんす! よく覚えておくでやんすよ! それからサインは早めに……」
「いや、お前じゃなくて」
一言で斬り捨てられ、矢部は小さくなってしまう。
幸子の視線は、じっと樹を見つめていた。
「ソフトで柵越えなんて打たれたの、生まれて初めてだからさ。打者の名前くらい知りたいんだ」
打たれたことを恥と思わず、むしろ自分より強いものと戦えたことを誇りとする、一人前の投手の持ちえる自信。ひたむきな努力でのみ培えるその気概が、幸子の口元に微笑として現れていた。
樹はそれに、ちょっと気恥ずかしく思いながらも答える。
「西条樹。インパクトのない名前で申し訳ないんだけど」
「いいんじゃないの? シンプルで」
あおいと怒鳴りあっている時の鬼の形相とは似ても似つかず、歳相応の女の子らしくクスクスと笑う幸子に、樹はちょっと親しみを覚えた。怖いだけの女の子ではないと分かって安心したのだ。
「じゃ、俺たちはこれで」
矢部君共々ペコリと頭を下げて、そそくさとその場を後にする。慣れたはずの消毒液の匂いがしばらく付きまとってきた。
――やってみると、あながちソフト対野球も悪くはなかったかな。
喉元過ぎればなんとやら。試合前の脱力感も忘れ、とにかく和解が生まれてよかったよかったと、樹はすっかり日の沈んだ窓の外など眺めつつ思うのだった。
「幸子! あんた本当に大丈夫なの?! 倒れたって聞いたわよ何で家に連絡も入れないの!!」
「あーあー悪かったってば。仕方ないだろ意識なかったんだから」
「明日は学校はお休み! 縄つけてでも病院連れてくからね!」
「はいはい分かったよもー」
家に帰り着くなり炸裂する母のガミガミ声。こちらへの親心だとは分かりつつも、煩わしく感じてしまうのが子心というものである。幸子も母のことは大好きであるが、お喋りで怒鳴りっぽい上に声が大きいというのは勘弁してほしいところであった。
パタンと後ろ手に扉を閉めて、幸子は自室に入ると同時に、ベッドに転がり込んだ。先輩や母の前では割と気丈に振舞っていたのだが、実は今は、とんでもなく身体がだるいのだ。おまけに少し吐き気もある。先輩からもらったスポーツドリンクを一気に半分ほど飲んで、幸子は枕に顔を埋めた。
(うう、気持ち悪……熱中症ってこんなに酷いんだ)
水分さえ取って寝てれば大丈夫なのだろうと言う、樹に指摘されたことをそのまま誤って覚えていた自分が少し恥ずかしい。これからはもう少し、スポーツ医学についても本を読んでみるかと、ちらりと横目で本棚を見やる。
可愛らしいピンクのレースで飾られた小さな本棚の、普通なら漫画や女の子向け雑誌が詰まっているだろう場所には、数年かけて買い続けている野球雑誌とソフトのルールブックなどがずらりと並んでいる。そしてその本棚の上には、使い古した野球少女時代のグローブがホコリも被らずに鎮座していた。
プロ野球の選手になろうと、心から思っていたあの日々。そして性別の圧倒的差を突きつけられ、夢を諦めたあの日。
自分がかつて諦めた夢を、今も追い続けている女の子がいた。彼女なら、多分やれると思う。才能はあると認めるし、何より、支えてくれる強い仲間たちがいた。投げる球を真正面から受け止めてくれる捕手、打たれた球を本気で追いかけてくれる野手、そして
取られた点を取り返してくれる頼もしい打者が。
打たれたあの瞬間、その瞬間にホームランだと分かった。音の具合や、見えたスイングの美しさ、そして何より、彼の目が輝いていたからだ。
「……西条……か」
呟いて、襲ってきた心地良いまどろみに身を任せる。
顔がほてったのは、きっとまだ症状が後を引いているからだろうと、幸子は思うことにした。