今日の投げ込みにおいて、あおいちゃんはあまり好調とは言えなかった。普段からやる気だの気合だのにこだわるところは伊達ではないらしく、事実気分の乗らない状況での彼女はいつもの半分ほどの力しか見せない。
パスッと軽い音を立てて、数十球目の投球がミットに収まる。軽いだけならまだしもキレもないとなれば、投手としては最悪の投球だ。
「ダラダラしたって意味ないだろう? 二条と代わって、休んでなよ」
返球し、外野陣に混じって黙々と外野ランニングを続ける投手一人を目で指しながら言うと、あおいちゃんはらしくもなく、素直に頷いた。
「あー、うん。ごめん。そうさせてもらうよ……なんか足手纏いみたいだね。アハハ……」
いつもの作り笑顔の方がよっぽどましなほどの落胆した笑いである。見たくない顔だ。負けん気を強味にする人間の心理状態ではない。
肩を落としながらトボトボと木陰に歩いていくあおいちゃんの背中を、心配しつつ見ていると、外野から二条が走り寄ってきた。
「随分気に負っている様子だった、そっとしておくのが良いだろう」
言ってくるその目にも、やはり気遣いの色が強い。
「やっぱり一人だけ女の子ってなると、色々考え過ぎちゃうのかな」
「周囲に対する性別単位での劣等感、それを努力で埋め合わせようとする疲労、そしてそれが出来ないことに対する自責。彼女が己を責める要素など幾らでもある。我々に出来るのは見守ることと、折れそうになったときに柱となってやることぐらいだ」
木陰に座り込むあおいちゃんの身体は、見ていて痛々しい程に疲労困憊しているのが分かる。
そのあおいちゃんが先程投げていたボールを二条にトスしながら、距離を取っていく。
「努力ではどうにもならない、才能以前の問題、か」
「だが、彼女の努力は素晴らしい。強豪校に見劣らない程の練習量を、彼女は敢然とこなしている。その光景は時に誰かの胸を打つ。努力の価値を、言葉にせず、行動で他人に教えられる人間は偉大だ」
その言葉に、樹は少しばかりの引っかかりを覚えた。特に何かを閃いたというわけではない。ただ、記憶のどこかで糸が突起に絡まったような、妙な感覚に陥っただけだ。
そして、それを言葉にする。
「そういえば、二条。お前は何で恋恋に入学しようとか思ったんだ? お前ぐらいの実力なら、他の高校に行けば幾らでもレギュラーなんて狙えるだろ?」
これは暫く前から持っていたささやかな疑問。投手としての実力や肝の据え方は高校一流級と言っても過言ではない二条が、何故、野球部すらないこの高校に入学してきたのか。厳格且つ古風な家柄で、両親から散々反対をされつつも、それを強引に押し切ってまで入学しようとしていたのか。
その疑問を解く何かが、先程の言葉に隠されているような気がする。直感的にそう感じた。
「ああ……そうだな」
二条は俯いたように一言そう言うと、
「その問いにはまた、いつか答えよう」
曖昧に話をまとめる。これ以上踏み入って詮索するのは自分の領分でないので、樹はそっかとだけ返した。
愛好会発足から既に四ヶ月が経過しようとしている、八月も終わりに近付いた頃。夏休みというイベントと集中訓練を挟んで、会員たちの実力は、確実に向上していた。やはり中途半端な癖がついていなかったというのが、この向上の主な理由だろう。基礎さえ教え込めば、あとは体力と、経験の勝負だ。早く人数を揃えて、練習試合もしてみたいなと思う今日この頃である。
しかしこの流れの通り、夏季の練習中に、一つ問題が見つかっていた。
夏の暑さの中の練習に、あおいの体力がついていけないことがしばしばあったのだ。高校一年生の女の子の身体がどれほどデリケートなものなのか、樹も知らないわけではないので、気にかかったら休むように忠告していたのだが、気を遣われると無理をしたがるのが早川あおいの厄介なタチなのである。その所為でこの夏休みは、あおいはどのように言えば休んでくれるかという言い回しを考えさせられる日々でもあった。
「なぁ二条」
「何だ」
自然と口からこぼれる、ふとした問いかけ。
「女の子って、難しいね」
「……同意だ」
心なしか目線を伏せて頷く二条。自分の言葉の意味と、二条の受け取ったらしい意味、その二つに微妙なすれ違いを感じつつ、樹はあおいの歩いていった木陰を見やった。
しょっぱく湿った風に吹かれる、あおいの髪と同じ、薄緑色に映えた木の葉たち。そのざわざわと鳴る様子が、樹には、感傷的に思えてならなかった。
「あ、はるかちゃん、ちょっと」
練習もひと段落した、少しの休憩時間。会員たちを木陰へ移動させた後で、樹は近くにいたはるかを捕まえた。
「は、はいなんでしょうか」
「えっと、ちょっとベンチまで来てくれる?」
はるかを連れ立ってそそくさとベンチまで移動する。今日はグラウンドをメインで使っているので、ソフトボール部のベンチを借りているのだ。
着くなり樹は自分のバッグをあさり、何やら小さな袋を数個取り出した。続けてベンチの隅に置いていた、レジャー用の飲料水サーバを引き出してくる。円柱型の小さなタンクに三つの脚で立つのが可愛らしい、全国の運動部御用達の代物だ。
「そういえば、まだ作り方を教えてなかったよね」
「は、はいなんでしょうか」
果たして何が始まるのかと興味津々緊張至極といった様子のはるか。
流石に見かねたように、樹は頬をかきながら声をかけた。
「いや、えっとね……そんなに緊張しなくていいから、簡単だからさ、ちょっと見ててよ」
「はい、見学させてもらいます!」
どうにもかたさが抜けないはるか。性分というやつなのか、どうやら彼女にはかしこまって気楽さを求めても詮無いことのようである。
「じゃ、手製スポーツドリンクの作り方を教えておくから、これからは皆がランニングを始めたらはるかちゃんが作っておいてね」
「はい、分かりました!」
「えっと、まずは」
「ああ、ちょっと待って下さい!」
慌てて体操服のポケットをごそごそとあさる。取り出されたのは、三色ボールペンとうさぎのメモ帳だった。はるからしく可愛らしい一品である。
「どうぞ!」
気合充分。
「えっと、まずはこのスポーツドリンクの元、袋に入ってる粉末ね。これを、書いてある規定量の二倍の水で薄める。そしてそこに、このスプーンで二杯ぐらいの塩を入れて、よくかき混ぜて」
「ふんふん」
逐一細かくメモを取るはるか。
「あとは、このクエン酸って書いてる粉末を、ドリンクの粉末の半分くらい入れて、またかき混ぜる」
「ふんふん」
「以上、何か質問はあるかね七瀬はるか君」
「えっと、はい先生!」
元気良く手を上げる生徒一名。
「水は、ミネラル水とか、買ってきた方が良いのでしょうか」
「いや、そこらへんの水道水でいいよ。っていうか、水道水の方がいい」
「? どうしてでしょう?」
「鉄分が多い、そして何よりコストと手間がかからないからね」
「でしたら、ウチの両親とお手伝いさんたちに頼めば……」
「うーん、申し出はありがたいんだけど、いろいろ甘えちゃいそうだからそういうのはナシ」
はるかの家がどのようなところなのか、噂に聞く限り、あおいちゃんに聞く限りではよく知っている。門から玄関まで○○メートルだとか敷地に学校のグラウンドがすっぽり入ってしまうだとか、少なくとも樹のような一般市民その他大勢には想像もし難い世界だということだけは重々承知だ。確かにそんな御家様の力を借りればミネラルウォーターどころか、高級なスポーツドリンクでプール一個簡単に埋まりそうではあるが、ここは一つの部活というものを目指す一愛好会として、やれることは自分たちだけでやるのが筋というものだろう。
「それにしても、西条さんって凄いですね」
「……?」
唐突に切り込まれるそんな言葉に、樹はきょとんとした。
「野球について色んなことを知っていて、ちゃんと自分で応用できてて、尊敬します」
「んー……いや、殆どが雑誌とかテレビとかで仕入れた知識だから、信用できるかどうかも怪しいもんだよ」
テレビで言っていたことは専門書で裏づけを取ったりしていたが、それでも間違った知識を運用している可能性は否めない。ドリンク作りを皆に向けてやっているのは、例え間違っていたとしても身体に悪そうではないからだ。
「でも、やっぱりそういうことをしっかり実践できる人って凄いと思います」
「うーん、そうかな? ありがと」
二条曰く謙遜こそ美学と重んじたいところだが云々といったところ。褒められて悪い気はしない。
「よし、じゃあそろそろ練習再開。はるかちゃんは、今言ったことを順にやって、ドリンクを作っておいて。あ、タンクを満タンにする必要はないよ。もう時間も下がってきてるし、何より人数が人数だからね。失敗するつもりで、そうだな……タンクの半分ぐらいで作ってみて」
「はい、分かりました」
樹はさっさと、木陰でダラけきっている会員達を再起動させるべく、グラウンドへと戻る。数少ない野球経験者らのうち、二条だけが身体にストップをかけまいと柔軟体操をしており、矢部君らはぐてっと寝っ転がっているのがなんとも哀しかった。
声をかけて、皆を練習へと戻させる。先ほどまで打撃練習をしていたから、次はノックだ。可哀想だけど、矢部君にはまた、つらいノックバッターを頼むことにする。
そして矢部君に死刑宣告をしてから、ちょっと歩いて別の木陰へと移動する。あの、あおいちゃんが休んでいる木陰だ。
「あおいちゃん、大丈夫?」
そよ風に木の葉が少しざわつく中、木の向こう側にあおいの三つ編みを見た樹は、うるさくない程度に声をかける。名前を呼んでからしばらくしても、一向に反応がない。
「あおい、ちゃん?」
回り込んでそっと覗き込んでみると、木陰の気持ち良さに根負けしてしまったのか、帽子の下でくーくーと静かな寝息を立てるあおいの寝顔があった。
「……無理もないか」
二条が言っていたような心労や体力的な限界が、ここにきて、リラックスした瞬間にどっと出てしまったのだろう。今日ぐらいは大目に見てあげても罰は当たらないはずだ。これだけ涼しい木陰ならば、寝ていても脱水症状などの危険はない。太陽が西日に傾いたら、起こしにきてやればいいだろう。今起こしたら、気持ち良く寝ていただのなんだので、やかましくて仕方がないはずだ。きっと。
「あおいちゃんなら大丈夫だよ。頑張ろう」
聞こえているはずもないだろう言葉をかけて、樹は踵を返し、練習へと戻る。
あおいの頬に見えた涙の跡は、見なかったことにした。
昼休みのいつもの屋上。まだ陽射しは強いが、それでも吹く涼しい風に、ゆっくりとながらも秋の訪れを感じずにはいられない。回し読みですっかりぼろぼろになった“野球ノート”を片手に開きつつ、遠くに見える山を眺めながら、樹はそんな感想を胸中で一人ごちた。周りで各々野球の話やゲームの話などに盛り上がっているのは、見慣れた愛好会員たちだ。
その中に、あおいの姿はない。同じクラスのはるかの弁によれば、今日は体調不良で欠席らしかった。普段あおいがべたっと座っている地面が、主人の来訪を待ちぼうけて、秋の風に撫でられている。
不謹慎なようだが、近々あおい抜きで召集をかけようかと思っていたところなので手間が省けて良かったと思う。こういう時に、定時にどこかに集まる習慣がついているのはありがたかった。
「みんな、ちょっといいかな」
各々自由な昼休みを満喫している愛好会員らの視線を集めるようにして、樹は声を上げ、皆がこちらを振り向いたのを確認してから続ける。
「単刀直入に言うよ、あおいちゃんのことなんだけど」
そこまで言っただけで、みんなの顔色が変わったのが分かった。はっと真剣な表情になる者、気まずそうに目線を落とす者、反応はそれぞれだが、およそ心の内は同じであろう。はるかの何時になく神妙な表情が、それを一番よく物語っていた。
「やっぱり、いくら野球経験者とは言っても、あおいちゃんは女の子だ。夏を越えてから疲れが出始めてる。練習メニューを皆とは別に組んだほうがいいと思うんだ」
この提案にはやはり皆、一様に顔を曇らせた。うーんと唸る皆が考えていることは、大体想像がつく。
「勿論、そんなことしたらあおいちゃんが怒るのは目に見えてるから、名目上は投手陣の別メニューってことでね。二条にも影響は出るけど、我慢してくれ」
傍に立つ二条は、無論だと言わんばかりに強く頷いた。すると他の会員達にも納得の声が上がり始める。これならこの昼休み中にも話はまとまるかな。と、樹がほっと息を吐きかけたその時だった。
「あのぅ……やっぱり、私は反対します」
二条とは反対の方向から、控えめな声が上がる。へ? と不意を突かれた顔で樹が振り返ると、七瀬はるかが下を向きながら手を上げていた。
実は、はるかには誰よりも先にこの件を話し、女の子に肉体的な無理をさせることの危険性について訴え、あおいの練習メニュー変更について同意を得ていたのだ。いたはずだったのだ。だからこそ、はるかからの突然の異議に樹は驚いてしまった。
「あおいは、そんなに弱くない、です。確かに今はちょっと疲れが溜まってて、それで、あんまり元気もないかも知れないけど……それでも! あおいなら、大丈夫だと思います!」
「……えっと、はるかちゃん」
子供向けの野球漫画なんかでも、よくある。ボロボロになりながらも雨の中練習を続けたりする主人公の絵。そして根性とやる気と気合だけで逆境を乗り切り、友情でもってあらゆる困難を乗り越えるチーム。そういうのはいい話だと思うし、読んで清々しい気分になれるものだから、樹もそういう話は好きだ。実際、家の本棚にはそういう漫画本が何冊もある。
でもやっぱり、現実はそうはいかない。確かに根性とやる気と気合は重要だ。でもそれだけで過酷な訓練を続けていても、決して上達はしない。水分と休憩は適度に、根性だけでは甲子園には行けない。現代高校野球の鉄則である。身体の疲労期にはしっかりと休憩を取らなければ、体調を崩すどころか、深刻な故障も起こしかねないのだ。
今のあおいがまさにその時期である。女の身体は男とは違う。無理をして負担をかけてしまっては取り返しのつかなくなる体内器官だってある。確かに高校三年間の貴重な青春時代であるとは言え、ただそれだけのために、残りの一生に関わる傷を負う可能性を僅かでも持たせたくは無い。それが樹の考えだった。
「はるかちゃんの気持ちも分かるよ。あおいちゃんは強い、それは皆分かってる。でも無理をさせちゃダメなんだ」
「それは、あおいが女の子だからですよね?」
じっと目を見つめ返される。少し涙の浮かんだ、親友の訴えを代弁する真剣な瞳だった。樹はその目をしっかりと見つめ返し、強く断言した。
「そう。特別扱いすることになるのは分かってる。でもこれは」
「またあおいの居場所が無くなります!」
「故障するよりマシだっ!!」
怒鳴ってから、はっとする。つい、やってしまった。
樹がある種の不安を持って周囲を見ると、その不安を見事体現するかのごとく、はるかや愛好会員らは勿論のこと、屋上にいる普通の生徒――言うまでもなく女の子ばかりである――までもがシーンとなって樹を見ていた。
普段温厚な人間が怒声を発したときほど恐ろしい光景は無い。怒鳴りつけられたはるかはビクッと身を強張らせた後その場で俯いて、ごめんなさいと小さく呟いた。
流石にマズいと思った。このままでは親友のピンチに助太刀した少女を真正面から斬って捨てた悪役である。周りからの視線が非難に変わる前に何とかせねばと、樹は取り繕うように言葉をつなげた。
「い、いやー、だってほら、無理して故障なんかしたらそれこそ無理にでも長期間休まなきゃいけなくなるし、そうなる前に適度な休憩を取っといた方がいいかなー、なんて、いや俺ももう長いこと野球やってるからさそういう故障についても分かってるつもりだからというかなんというか」
「そう、ですよね……」
「だからその、分かってもらえたら……え?」
「西条さんは、野球を知ってますもんね……」
ポツリポツリと紡がれる言葉には、隠しようのない涙と嗚咽が滲んでいた。樹はいよいよ覚悟を決める。
「初心者の私が、口を挟むことじゃなかったですよね……。すいません、こんな不心得者で……」
「あ、あの、はるかちゃん……」
「本当に、本当にすいませんでしたっ!!」
はるかは下を向いたまま言い放ち、走り去る。屋上から階下へと続く階段のドアを開けたときに誰かにぶつかるが、謝りもせずそのまま階段を駆け下りていったようだった。ぶつかられた女の子は、何が起こったやらさっぱりといった表情で呆然と立ち尽くしている。
「あ、ちょ、待ってはるかちゃ」
言いかけたところで、袖を引っ張られる。振り返ると、矢部君が首を振りながら樹の袖をつまんでいた。
「今行っても意味がないでやんすよ。お互いに、頭が冷えるのを待つでやんす」
諭されて、樹は大人しくそれに従う。
「珍しいでやんすね。樹君があそこまで目くじら立てるなんて」
「あー、うん、自分でも驚いた」
あははと笑いつつ皆の顔色を窺う。すると樹が予測していた非難の目はなく、意外にも一様にしてしんみりと消沈していた。屋上にいる別の女の子たちからは予測通りの痛い視線を感じるも、愛好会員たちは樹を非難するつもりはないようである。
「あれ? 皆、どうしたの……?」
樹が不思議そうに声を漏らすと、矢部君が皆の心境を代弁した。
「何というか、オイラたちも樹君と同意見なもんでやんすから、オイラたち全員ではるかちゃんを泣かせたみたいで申し訳ないでやんす」
そういうことらしい。二条も肯定という意味の沈黙を守っている。
確かにはるかとあおい両名にとっては厳しい事かも知れないが、樹はその二人がどれほど反対しようと、この決定だけは貫き通してやろうと決心していたのだ。ちょっと納得のいかない形となってしまったが、はるかには明日、改めて話をしよう。
「……じゃ、ちょっとこじれちゃったとこもあるけど、とりあえずこの話はここでお終い。投手陣のメニュー変更は来週からにするから、とにかく皆、このことは内密にね」
全員の了承をとって、その場をしめる。昼休み終了まであと十分ほどと迫ってはいるが、皆はまだここでのんびりしていくつもりらしかった。樹は一人、教室に戻ることにする。
戻りながら一人歩くと、一層周りの女の子らからの視線が痛い。そりゃ学年一の癒し系とも呼べる秀才のお嬢様を泣かせたのだから、相応の報いというものだろう。階段へと続くドアを開け、逃げるように身体を滑り込ませて溜め息をつく。
入ってすぐ横を見ると、はるかが俯いて立っていた。
何も言わない。
何も言えない。
ただじっと立つ樹に、はるかは何も言わない。
ただじっと俯いて立っているはるかに、樹は何も声をかけられない。
結局樹は根負けして、さっさと階段を下りることにした。多分はるかは俯いたままなのだろうが、それでも樹は背中に刺さるような視線を感じた。
その日の放課後の愛好会活動に、はるかは来なかった。
九月になり、ようやく夏の暑さや湿っぽさも威勢が衰え始めた頃。時折吹く涼しい風はその頻度を増し、日の沈む時間も一段と早くなる。
あおいはランニングにダッシュにと精を出す会員たちを見つめながら、二条に向かってボールを投げた。投げ込みのようなキツいものではなく、身体をほぐす程度のキャッチボールである。
「ほいっ!」
キャッチボールと言ってもそこまで優しいものではない。距離は三十メートルほどで、それなりの力を込めなければ届かない距離だ。
「そりゃっ!」
とは言え、
「えいっ!」
今まで本格的な投げ込みを中心にやってきた投手からしてみれば、
「よっ!」
生易し過ぎた。
「ふぅ……」
数球の後に、あおいはボールをグローブに納めてつかつかと二条に歩み寄った
「ねぇ二条君」
「なんだ?」
腰に手を当て、あおいは遠くを走る西条ら愛好会員に目をやる。
「なんかさ、なまっちょろくない?」
「な、なにがだ?」
いつもクールな二条らしからぬ帽子の位置など正しながらの返答に、何かを感じたあおいはじとーっと二条の目を覗きこんだ。
「な・ん・か・さ、最近ボクたちだけ練習が甘くないかな?」
半目で睨まれた二条だったが、女性に目くらべで負けては二条家長男の恥だと自分に言い聞かせることでなんとか恐怖感を乗り越える。
「い、いや、そんなことはないと思うな。やはりピッチャーは肩をしっかりと作るべきだから、たまにはこういう遠投もやっておかなければ、いつも投げ込みばかりでは筋肉が硬くなってしまう」
「口調からびっくりするぐらい漢字が減ってるよ」
「か、勘違いだろう」
「ふーん」
あおいが不思議に思ったことは、何も練習内容のことだけではない。ちらっとベンチの方を見やると、いつもはそこでグラウンドに水を撒いているはるかの姿が、今日は見えない。学校には確かに来ていたはずで、元気が無さそうだったのも確かである。別に休みなら休みでよかったのだが、あおいは何も聞いていない。あの几帳面なはるかが何の連絡も無しに休むなんてこと考えられなかった。
止むを得ない事情かもしれないし、あまり首を突っ込むわけにもいかないが、今日は帰り道に家に寄ってみよう。
とりあえず目の前の問題にそう結論付けてから、あおいは二条を促してキャッチボールに戻る。たまにはこれぐらいの軽い練習もいいかなと、無理にでも納得することにした。
「ふんと、いや二条君こってるねぇ」
「ああ、凝り性なものでな」
無論、二条が何かについてマニアックという意味ではない。他の愛好会員たちが熱心に素振りをしている間、投手陣であるあおいと二条はいつも休憩に使っている木陰でストレッチをしていた。今は二条が股を割って身体を捻り、伸ばし、それをあおいが上から押しつぶす形でサポートしているところである。
あおいが苦戦しているように、二条の身体のコリ具合は半端ではなかった。それもそのはず、二条は今日のこのストレッチを出来る限り長引かせるという大役を背負っている為、昨夜一晩、竹刀を片手に一本ずつ地面と平行に持って明け方まで耐え続けるという苦行に耐えたばかりなのである。よって上半身はカチコチだ。しかもそれに飽き足らず、今日の授業中は全て両足を前へ持ち上げていた状態だったらしく、ふくらはぎも張っているというのである。もはや参ったという他ない。
「いやーそれでもこれはこり過ぎだよ……。整体院でも行った方がいいんじゃない?」
「あまり医療機関の世話にはなりたくない。自力で完治するものはさせる」
「うんまぁ個人の好き嫌いはあるだろうけどさ」
よいしょと背中を一押し。ズキっと筋が伸びるのを我慢する二条。昨日の夕方、はるかの家に寄ったのだが、本人は眠っていたらしく会うことはできなかった。が、玄関での家政婦さんの話では別に体調が悪いようではなかったという。そんなはるかは、今日は学校にすら来なかった。流石に何かあったのではないかと、少し心配しているところである。
未だ硬さのとれない二条の身体のことも心配しつつも、あおいは黙々とバットを振り続ける皆の方へと目をやった。西条が指示しているのだろう。遅すぎず早すぎず、いち、に、さんでスイングするテンポの良い素振りだ。
「ボクたち、素振りしなくていいのかな」
「ああ、まずは自分を頼む。迷惑をかけてすまない」
「え? いや、あはは、まぁいいんだけどさ」
笑いながら二条のストレッチを続行するも、違和感の晴れないあおい。そんな心境をおちょくるように、スズメが数羽、チチチッと鳴き声をあげて近くの木から羽ばたいていった。
「やっぱり何かおかしいよね絶対!」
昼休み。バンッと机を叩いて憤るあおい。目の前にいるのは西条でも二条でも矢部でもその他愛好会員でもない、ただの女友達だった。勿論、はるかでもない。彼女は今日も休みである。
「どーしたの? あんまり怒るとシワになるよオデコのとこ」
「そんなの大した問題じゃないっての!」
目を尖らせ、やろうと思えば顔で茶が沸かせるのではないかというぐらいに頬を上気させて憤慨する。
「はるかは来ないし愛好会の練習は妙な空気だし二条君の喋り方は狂うしどうなってんのさ!」
「えっえっ?! なになに?! 二条君がどうかしたの?!」
「論点はそこじゃないっ!」
二条君というワードにやたらと反応してきた近所の女子に消しゴムを投げつけ黙らせる。そのままイライラオーラを放っていると、目の前の友達があははと苦笑いしながら言ってきた。
「荒れてるねぇ姐さん。……愛好会でなんかあったの?」
「なんかあったも何もさぁ……聞いてよ」
あおいは、突然はるかが来なくなったことと、最近の練習が奇妙であることとを愚痴と不満を大量に織り交ぜつつ話した。二条の話は面倒なのでしなかった。
「あー、なるほどね……」
納得したように頷く友達に、あおいは素早く食いついた。
「え、どゆこと?」
思わず机から身を乗り出す。乗り出しすぎて、相手から両手で押し戻された。
「いや、愛好会の練習の方は分からないけどさ。その、七瀬さんの方はなんとなく」
「はるかがどうしたの?」
先を急ぐあおいを宥めるようにして、友達はなるべく小声で、囁くように喋り始める。
「なんかさ、西条君と、何かあったらしいよ」
「え……?」
「うん、ほら、アンタこの前休んだじゃない? あの日、屋上で西条君が怒鳴ってさ、七瀬さん泣いてどっかいっちゃったんだ」
初耳だった。
「え、それ、本当?」
「マジ。一応、あたしも現場に居たしね。噂好きな女子の間じゃいろいろ妄想憶測が飛び交ってるよーそりゃもうエラいぐらいに。休みがちになったのもそれからだしさ、愛好会の練習に顔も出さなくなったっていうなら、やっぱ原因はそれだろうね」
あおいは愕然とした。もともと噂話は好きではない方だが、それにしてもこれは失態である。仮にも中学からの親友の身に起きた事件すら全く把握できていなかったとは、不注意だったと言う他ない。
すぐさま時計を見やると、昼休みはあと二十分ほどある。今日は弁当も教室で食べて屋上には行かない予定だったが、変更だ。
友達に礼を言うとあおいは椅子を蹴飛ばして教室を出、一目散に屋上へと駆け出した。途中すれ違いざまに何人もと肩をぶつけそうになったが、うまくかわした。幾つかの階段と踊り場を経て、屋上へと通じるドアを開く。
いつもの時間、いつもの場所に、いつもの人物が居た。
「西条君!!」
名前を叫び、振り向いた人物に駆け寄る。周囲の視線などは全く気にしていない。
「あおいちゃん?」
相手は、突然現れたこちらに少し戸惑っているようだった。黙したままつかつかと歩み寄る。
「どうしたの突ぜ……」
相手の言葉がそこで途切れたのは、あおいがキッと鋭い視線をぶつけたからだ。
「……はるかに、何て言ったの?」
「え?」
「はるかに何言ったのさっ?!」
自分でも驚くぐらいの声量だった。誰も彼をも含めて、屋上中の空気が停止し、皆が息を止めてあおいに目線を集中させる。
樹は何も言わなかった。
「ボク、今日はるかの家にいくから」
「……」
「それだけ」
あおいはそれだけ言い放つと踵を返し、来た時とは違う少し穏やかな足取りでその場を去っていった。残された愛好会員らはただ呆然とし、樹は一人屋上の床をじっと見つめている。彼らが何を考え、何を戸惑っているのか、屋上にいる他の人間には何一つ分からない。
一旦静まったその場が再び活気を取り戻すまでには、かなりの時間が必要だった。
鉛筆を置き、背伸びをする。九月の落日は早い。まだ五時も過ぎたばかりだというのに、カーテンの向こう側は薄暗くなり始めている。もうちょっとすれば、秋の羽虫たちのコーラスが心地良く響いてくる頃だろう。今日の自習はこれくらいにしておこうと思い、傍らに置いてある紅茶を一飲みしてから、部屋の明かりを消す。そして仰向けにベッドに倒れこむと、まどろみに似た虚脱感というか、精神的な疲れが一気に全身を襲ってきた。
両親や先生は自分の事を、器用でよくできた子だという。
でもそれは間違いだ。もし器用ならば、あおいの置かれている状況に関して、もっと良い解決案を提示できたはずである。しかしそれもできないどころか、自分よりも野球の専門家である樹に対して反論もしてしまった。その上、会わす顔の無さにこうして家に閉じ篭ってしまっている。自分ほど不器用な人種もそうはいないと、はるかは重々感じていた。
はるかがあおいのことを心配しているのと同じくらい、樹だってあおいの身体を気遣っている。それは分かっているつもりだった。
多分、何食わぬ顔をして登校しても、樹や他の愛好会の面々は何もなかったかのように接してくれるだろうし、生活に全く不都合はないだろう。皆は大人だ。こんな何の権力も無いマネージャー風情の言ったことなんてさらりと流してくれているだろう。でも、自分がダメなのだ。
ボーっと天井を見つめる。答えの見つかりっこない問いかけが、延々と頭の中を巡り続ける。こういうのを、哲学していると言うのだろうか。それともただ時間を浪費していると言うのだろうか。それもまた、意味の無い問いかけであった。
思考が、徐々に眠気に侵され始める。疲れた時は、眠ればいい。
目を閉じて、睡魔に身を委ねる。意識が遠のいていき、視界が瞼の裏側に吸い込まれていきそうになる。
ドアがノックされた。
「はるか?」
同時に聞こえた声は、母のものであった。はるかはドア越しに、か細い声で返事をする。
「ん、なんですか……」
「居間まで下りてきて、あおいちゃんが来てるわよ」
胸がずきりと痛む。薄れかけていた意識が、一瞬で正常に戻り、それすら通り越して高ぶった。
何故あおいが来たのか。はるかの悪い予想は、結構当たる。
あおいに会って、問われたことに何と答える? 数年来の付き合いであるあおいには、適当な誤魔化しは通用しない。樹らのことをどう伝える? 悪いのは自分だ。あおいの感情の矛先は自分に向けさせなければ。
時間をかけても怪しまれるだけだと思い、はるかは立ち上がった。ドアを開け、母に礼を言って一階の玄関へと向かう。
はるかは昔から、隠し事が苦手な性格だった。そしてあおいははるかの下手な嘘を見抜くのが上手い。
隠しても無駄なことだと思う。きっとあおいは、何かを察するに違いない。そしてあおいから問い詰められれば、自分はきっと何もかもを話してしまう。
そこまで分かっていながらも、はるかは身を隠し、あおいを無視することを拒んだ。
はるかは、出来る限りの力をこめてゆっくりと玄関の扉を開けた。
日の沈みかけた夕暮れ時、そこには、悲しげな景色を背負ってあおいが立っていた。
家の電話が鳴ったのは、午後十時を回ってしばらくしてから。風呂と夕食を済ませ、タオルを首にかけただけの姿で課題を進めていたときのことだった。
電話口の向こう側で、はるかちゃんが泣きじゃくっていた。そして何度も何度も、ごめんなさいと謝り続けていた。
ただごとではないと踏んだ樹が冷静に訳を訊くと、どうやらあおいちゃんに例の事を話してしまったらしく、結果、あおいちゃんが行方知れずだというのだ。娘が帰らないことを心配したあおいちゃんの両親が、はるかちゃんの家に連絡を入れたことで発覚したらしい。はるかちゃんの家を訪れた午後五時以降、自宅には戻っていないという。
すぐさま樹が可能な限りの人数であおいちゃんの捜索に乗り出そうと、矢部君ら愛好会員に連絡入れたところ、在り難いことに全員が承諾してくれた。はるかちゃんも同行を願い出てくれたので、そちらは二条に迎えに行かせた。
そして今、樹は自転車にまたがり、一人夜の町中を奔走している。この辺りには繁華街がないので物騒ではないが、それでもガラの悪い連中がいることは確かである。あおいが妙なことに巻き込まれていないことを願いながら、樹は懸命にペダルを漕いだ。
夜中の十時ともなれば、光源はコンビニや外灯の光しかない。恋恋の目立つピンク色の制服とは言え、この暗さでは見失ってしまう可能性は充分にあった。
(やっちゃった……俺の所為だ……!)
視覚に全身系を集中して走行しつつも、樹の胸中は自責の念で満ちていた。
(あおいちゃんには頑張って練習についてきてもらうべきだったのか……いや、故障は命取りだ。仕方がなかった。……でももうちょっと上手く隠せていれば……)
もし。たら。れば。
(うるさいっ!)
延々と回り続ける自身の無駄な思考を、ただ一言で掻き消した。今はただあおいの捜索に全力を挙げること、それが最優先である。後悔などしていても仕方がない。
住宅街を突き抜け、川べりの広々とした場所に出る。ここから暫くまっすぐ行けば恋恋高校がある。この辺りをあおいちゃんは通学路として使っているらしく、何か手がかりがあればと思って来たのだ。しかしここまで来ると本格的に明かりという明かりがなくなり、頼りない自転車のライトだけが頼りとなる。道の途中、犬の散歩をしている人とすれ違ったが、何をそんなに必死になって自転車を走らせているのかと、不思議そうな顔をしていた。
樹だって、自分でも不思議なのだ。確かに自分の責任が重大であるとはいえ、ここまであおいちゃんの為に必死になっているのか。会って間もない女の子の為にここまで自分が悩み、そして行動しているのか。
樹は今まで、他人にここまで気を遣って野球をするということはなかった。いつも監督やコーチ、そして先輩などが先を行き、練習メニューや指導を与えてくれていた。初めからモノを与えられて、それを消化する立場だったのだ。だからよくよく考えてみれば、こうして仲間とともに一から全てを始めるということは、初めてだった。
あおいちゃんは、その最初の仲間なのである。だから絶対に見捨てはしない。自分の持ちうる知識の限りを使って彼女を故障から守り野球を続けさせてみせる。
そう思っていたのだ。
舗装された土手の上を走り続けていくと、樹は視界の隅に違和感を覚えた。土手を下った少し遠いところに、この暗い中で川べりに動くものがある。犬か何かかと思いかけたが、それにしては動きが遅い。
幾つかの憶測と疑問が沸いたが、それらは全て、ここが草野球用の河川敷グラウンドであるということを思い出した瞬間に氷解した。
同時に樹は駐輪する時間も惜しんで自転車を放り出し、土手を全力で駆け下りた。見覚えのある制服に徐々に近付いていく。
「あおいちゃんっ!!」
大声を張り上げる。あたりに反響するものは何もないが、樹の声は夜の静寂を引き裂くには充分なほどに甲高く響いた。
その声の矛先である女の子は、まるで聞こえていないようにグラウンドを黙々と走り続けている。樹は土手を駆け下りた速度を殺さずに、そのまま一息であおいの元へと駆け寄った。
遅々として走るあおいを追い越し、正面から向き合い、その両肩をつかんで顔を覗き込む。
「あおいちゃん! どうしたんだよ家にも帰らずに!」
「あ……西条君……やぁ、こんばんは」
力無く笑ってみせるあおいだったが、その視線は決して樹のものとは交わることなく、あやふやに下へと向けられていた。
「こんばんはじゃないよ!!」
樹は、語気とともに両肩を掴む握力をも強めて訴えた。
「家に連絡もしないで、女の子なのに一人でこんなところで! 何かあったらどうするんだよ! もうちょっと自分を大事に」
「西条君も、やっぱりそういうんだ……」
「えっ」
「女の子だから、女の子だからって……ボクが女の子だからって!!」
あおいは、泣きじゃくっていた。
あおいの目から止め処なく零れ落ちる涙、真っ赤になった顔。気丈なあおいが今まで押し留めてきた感情が、プライドの堰を切って一気に溢れ出していた。それらは全て、樹が初めて見るあおいの素顔だった。
「どいてよ……!」
泣いているという自覚がないのか、涙を拭おうともせず嗚咽混じりの声で言うと、あおいは樹を押し退けて再び走ろうとする。樹はそれを許さなかった。肩を掴む両手を、絶対に離さなかった。
「離して! ボクだって分かってるよ! やっぱり女の子で、皆とは体力が違うことぐらい! だから皆より走って、皆より鍛えなきゃダメなんだよ! 部活で走れない分、自分で、走らなきゃ……っ!」
あおいの運動靴はすっかり泥まみれになり、制服は触らなくても分かるほど汗で濡れていた。恐らく下校から今まで、ずっと一人で走り続けていたのだろう。暗くなって寂しくなっても、身体が疲れ果てても、強い性根と自身を急き立てる怒りの念だけでずっと走り続けていたのだろう。ただ皆と同等でありたいという想いが、あおいにそれだけの力を与えていたのだろう。
それはまさしく、あおいの野球人生そのものを象徴していた。
「……ごめんね、西条君……」
樹に肩を掴まれて立ったまま、ぽつりと言う。先ほどまでの怒りは、いくらか落ち着いたようだった。
「屋上で怒鳴っちゃって……はるかから聞いたよ、全部、ボクの身体を思ってやってくれたことだったんだって」
服の胸元をキツく握られるが、樹は何も言わなかった。あおいの俯いた顔からこぼれる雫が、上からでも見えた。
「ごめんね、こんな、こんな……馬鹿な女の子で、ごめんね……!」
樹は確かに、女の子が野球を続けていく為に必要なことを、自分なりに考えて行ってきた。
「でも、でも、ボクは皆と野球がしたかったんだよ……! ボクは無理をしてもいいから、皆と同じ練習をして……してっ……、一緒になって、野球……!」
だけどそれは、本当にあおいの為だったのか。ただ体力が男に劣るから、身体に支障を来たした場合に取り返しがつかないからと、女の子であることだけを前提に、自分の考えを押し付けてきたのではないのか。
樹は、この子の泣き顔すら知らなかった。この子がどんな子であるかも知らなかった。
それを知っているはるかの言葉も一蹴してしまった。
俺は何も分かっちゃいない。
何が愛好会のキャプテンだ。
「…………」
ぼろぼろと涙を流すあおいを、黙って胸の中に見つめていた樹は、意を決した。
一気にあおいを、自分から引き剥がす。
「……っ?!」
驚くあおいを真正面から見た後で、樹は一人猛然とダッシュした。競争者もいないグラウンドを、一人で、全力で走って周り、再びあおいの前に戻ってくる。
あおいは、事態を飲み込めずにきょとんとしている。
「……あおいちゃん……!」
ぜぇはぁと息を継ぎつつ、樹は顔を伏せたまま、あおいの両肩をまた掴む。
「一緒に走ろう!」
「え?」
「もうちょい、俺が疲れてないと、やっぱ不公平かな……!」
そういって再びダッシュ。戻ってきた頃に、あおいはいくらか笑顔を取り戻していた。
「西条君ってさ」
「……はぁ、ひぃ……なに?」
「馬鹿だよね、ほんと」
「そうだね、行くよ?」
「うん」
そして走り出す。先ほどの樹のダッシュの半分以下のスピードで、ゆっくりと。走りながら、二人はいろんな話をした。
自分の小さい頃の話だとか、小学校の給食の何が嫌いだったとか、最近のプロ野球についてだとか。他人が聞けばどうでもいいと切って捨てられそうな話を、飽きずにした。樹はちょっと、早川あおいという子を理解できた。かも知れない。
自分が行った事は、女の子に対する練習のさせ方としては間違ったものではなかったと思う。でも、早川あおいに対するものとしては、間違っていた。
樹は苦笑する。するとあおいに気付かれた。
「はぁ、はぁ、なにがおかしいのさ?」
「いや、女の子って難しいなと思ってさ」
「はぁはっ……そうだよ」
「……これからは、練習差別はなし」
「当たり前でしょ」
「その代わり厳しく行くからね」
「がってんだよ」
しばらく走って、樹は思いつく。
「ところでこれ、ゴールはいつ?」
「ゴール決めたら、面白くないでしょ」
小悪魔のような、悪戯っ気の訊いた笑みで返される。
「倒れるまでだよ」
「……がってんだ」
その後しばらく走って、どちらともなく土の上に倒れこみ、秋の満天の星空の下で、大の字になり手を繋いで寝そべった。
「あおいちゃん、制服汚れるよ?」
「いーのいーの。今日ぐらい、どうにでもなれっての」
あははと豪快に笑い飛ばしてから、あおいはふぅと息をつく。今までのように重くないその息は、すっと軽く宙に溶けていった。
「あおいちゃん」
「なに?」
「ごめんね」
「西条君が謝る必要ないって、ボクが力不足なのは事実だし……でも」
夜空を見上げていたあおいの顔が、樹の方へと向けられる。流石に涙はすっかり乾いたようだった。
「今度からは、ちゃんとボクに言ってよね。またコソコソと怪しいことしたら、今度は復讐に行くから」
「肝に銘じておくよ」
細目で睨みつけられ、洒落にならない悪寒を感じながら樹は苦笑いで返した。
「いやー、疲れたね」
「あおいちゃん、放課後からずっと走ってたの?」
「そうだよ」
「そりゃすごい」
「少しは見直した?」
「いや、かなり見直したよ」
「そりゃどーも」
時間を確認できるものはなかったが、恐らく十二時前といったところだろう。およそ勘でしかないが。
そういえば会員たちに連絡をするのを忘れていたし、あおいの家に連絡もしていない。しかもこんな深夜と言えば、高校生は立派に補導されてしまう時間帯である。何気にマズい状況であった。
ま、いっか。条例だの校則だのという堅苦しいものを、樹はその一言で片付けた。
「高校球児にあるまじき非行行為だよね」
「そうだね、でも、まぁいいんじゃない?」
あおいも同意見のようだった。
「ねぇ西条君」
「ん?」
「最近さ、はるか、変わったと思わない?」
「はるかちゃんが?」
「そ」
唐突な質問に困る樹。変わったと思わないか、と訊かれても、そもそも中学時代のはるかを知らないのであるから、何がどう変わったのか分かるはずもない。せいぜい野球の知識を覚えてくれたことや、スポーツドリンクの作り方をマスターしてくれたことぐらいしか頭には浮かばなかった。
「うーん、前より積極的に練習のサポートをしてくれるようになった、ぐらいかな……」
「うん、キミにいいところを見せようとしてね」
「マネージャーなのに?」
「……分かんないなら結構」
「意味深だなぁ」
「いや、かなーりダイレクトなつもりだったんだけど……」
あおいはむくりと起き上がって、背中とお尻についた土を払う。だが汗の染み込んだ服についた土が、そう簡単に落ちるはずもなく、ピンクの制服は背中だけすっかり真っ黒だった。靴も汚れてはいるが、こちらは運動用のランニングシューズ。後でローファーに履き替えるのだろう。
「じゃ、まだボクにも望みアリだね」
「? 何が?」
「こっちの話だよ」
樹も追うように立ち上がる。思ったよりも足は疲労していたようで、伸びる筋肉の感触がほのかに痛く気持ちよかった。
「西条君、聞こえる?」
「へ?」
「虫の声」
言われて耳を澄ますと、コオロギだかキリギリスだかは分からないが、心地の良い音色が、そこいらじゅうの草むらから聞こえてきた。必死になっていて気付かなかったが、ちょっと意識を向けてみれば確かに、何故これに気付かなかったのだという程の羽虫たちのオーケストラが、河原を舞台に演奏されていた。
「……気付かなかった」
「うん、ボクも」
虫たちの多重奏は、美しい音色となって、川とともにメロディを流していく。命を枯らす直前の求愛の音色。物悲しくはあるが、樹にはとても華やかな演奏会に思えた。
「西条君、耳を澄ませないとさ、聞こえないよ」
言葉が区切られ
「綺麗な歌も、人の気持ちも」
樹は小さく頷いた。
その後、樹は風邪をひかないようにとあおいに上着をかけてやり、家まで送った。その時すでに十二時を回っており、あおいの両親は酷く怒っていたが、樹が一緒に謝って、事無きを得た。矢部君らは十二時を過ぎた時点で一旦集合してくれており、矢部君の携帯に連絡を入れて解散を告げた。あおいちゃんの無事を聞いて、またはるかちゃんは泣き出したらしい。
自宅に帰って樹は、何にせよあおいちゃんが無事で良かったと溜め息をつき、勉強机の椅子に座り込んだ。夜中だというのにハードな運動をしたものだから、身体中が痛む。今頃あおいも、両親に説教されながらも身体が痛いと悲鳴をあげていることだろう。
あおいちゃんは、この何倍も走り、そして疲れているはずだ。樹はちょっと、あおいちゃんを過小評価し過ぎていたなと自嘲した。
机に向き直り、“野球ノート”のあおいちゃんに関するページを開く。そしてシャーペンを握り、練習メニューに付け足した。
ランニング中心
倒れるまで
一度ニヤっと顔をほころばせてから、着替えを持ってシャワーを浴びに風呂場へと行く。身体は火照っている。冷水を浴びる気満々である。
結局、あおいちゃんが男女の壁に悩まされているのもあったけど、今回越えなければいけなかったのは、自分の考え方の壁と、あおいちゃんとの壁だったのかなと、樹は振り返った。もし普通の練習に戻してあおいちゃんが故障しても、決して良くはないが、それでも彼女は後悔しないはずだ。手加減されて思い通りの結果がでないよりは、よっぽど満足するだろう。
それでいいのだ。高校野球は、そうでなければならない。皆が後悔しないような野球をさせてやるのが、キャプテンの務めなのだ。
そう自分で結論づいただけでも、今日はヨシ!
樹は満足気に一人頷いて、風呂場へと入っていった。
数秒後、冷水のあまりの冷たさに樹の悲鳴が家中に響き渡ったことは言うまでもない。