パワプロ小説 恋恋高校編   作:木和勇士

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6. 春到来

 

 

 四月。

 桜が咲き始め、野鳥のさえずりが聞こえ始め、春が到来した。

 皆独り身の愛好会員全員で無駄にはしゃいだクリスマスも、靴箱にチョコとラブレターが溢れて床にまで散乱し二条が青ざめていたバレンタインも終わり、短い春休みを挟んで、再び愛好会は学校に集結していた。

 そして今日はまさに、気持ちを新たに未来へ向かう日。新学年の新学期である。しかし学年が上がるということは、樹にとってさほど嬉しいことではない。

 高二に上がるということは勉強の(特に数学の)難度も上がるということであるし、何より受験という魔空間にまた一歩近付いたということだ。そんな語るだけ暗くなるような進級話はどうでもいい。樹が顔をほころばせて何よりも嬉しく思っているのはそう、後輩が、新入生が、男子生徒が新しく二○人も入学してきたということである。

 男子が二〇人も入ってくれば、当然誰かしら野球の経験者もいるだろう。いやいなかったとしてもこの愛好会に入ろうと思ってくれる人はいるはずである。そう考えるだけで、樹は朝からニヤニヤが止まらなかった。

 そして期待は見事に実り、一人でも入ってくれれば正式な部として発足可能なところ、なんと九人もの男子生徒が入会してくれたのである。

「まずは入会ありがとう! 俺は一応、キャプテンの西条樹。これからよろしく」

 そんなわけで、今こうしてグラウンドで新入会員の九人に向かって慣れない挨拶などしているところなのだ。

 嬉しいことは、ベンチ前で整列している九人のうち、二人は野球経験者だということである。他の七人がぎこちなく姿勢を整えているのに対して、経験者二人は慣れた様子で手を後ろで組み足を少し広げ、野球少年らしい目上の人への話の聞き方をしていた。

 経験者というのはまず、このピッチャーである手塚隆文。

「こんちゃっす! よくお調子者と言われますが、野球に対する熱意は熱すぎるぐらいに持ってますんで、俺っちの力の限り頑張らせて頂きます!」

 球速は一二五キロと高校一年生投手の平均レベルだが、本人が売りにしているのはその制球力らしく、試しに樹が構えて投球させてみたところ、確かにストレートにしろ変化球にしろコントロールは二条以上のモノが望めそうであった。お調子者と自分で言うだけあっておちゃらけた感じのする立ち振る舞いであるが、樹はむしろこういう性格が好きだ。

 もう一人の経験者はこちら円谷一義。走力自慢の二塁手で、その俊足は先ほど目の前で、五○メートルを六.〇秒で走ってもらって確認済みである。

「ども! この手塚とは中学の頃からの友達で、チームメイトです。走ることしか能がありませんが、高校ではバッティングも伸ばしていきたいので、ビシビシ鍛えて下さい! よろしくお願いします」

 円谷はお調子者ではなく、普通の野球好きの好青年といったところ。先程の手塚とは打って変わって生真面目そうな雰囲気である。

 しかし二人には共通していることがあった。それは入部、というか、入学動機である。

 何と二人とも、中学の頃からこの辺りを通学路にしているらしく、夏に河原や道をランニングして素振りに励んでいたあおいの姿を見て、その努力と姿勢に心打たれたというのである。丁度、二人して野球というものに対する倦怠感を覚えていた時期らしく、あおいは二人にとって野球を続けていこうと考えさせるきっかけになったらしい。

 そんなわけで

「あなたがあの時の人ですか! お会いできて嬉しいです! 一生ついていきます!」

「あなたがいなかったら野球の楽しさを忘れるところだったッス! 俺らも一緒に甲子園を目指します! これからよろしくお願いしまっす!」

 なんて入学早々、教室に乗り込んでくるなりあおいの前で礼などするものだから、一時辺りは騒然としたものである(ちなみにどんな権力が動いたのかは知らないが、あおいと樹と矢部と二条その他愛好会員らは、皆同じクラスになっていた)。

 そんなこんなで九人のメンバーが新たに加わり、恋恋高校野球愛好会は、ついに正式な部として、恋恋高校野球部として立ち上がったのである。

 樹が校長に活動予定書を提出し、判を貰って、顧問の先生をつけてもらった。

 その顧問の先生とは、恋恋高校養護教諭である加藤先生である。女性なのだが昔から野球は大好きらしく、好きなプロ野球チームは西武ライオンズだという。その理由は、優勝するとパル○がセールをやるからと思いっきり下心丸出しだったりするのだが。

「顧問は私、養護教諭の加藤理香よ。ま、怪我したらいつでも診てあげるから、心配せずに練習に打ち込んでね」

 直後に響くオオオオーッという歓声は多数の男子部員らのものである。加藤先生と言えば美人でスタイルもよく大人の色気に溢れる女性で、全校男子生徒の憧れの的なのだから当然だ。

 流石に養護教諭なだけはあって、スポーツ科学には造詣が深く、頼りになる人物が顧問になってくれたと樹は安心した。美人なのもまた嬉しい。

 とにかくこれで高野連にも登録できるようになり、甲子園へのキップをかけた地方予選に参加することもできる。それだけで、これまで一年間黙々と練習してきた甲斐があったというものである。あおいちゃんも、自分を慕って入学してくれた後輩がいると知ってから、俄然やる気を出しているようだった。

 そして始まる練習。樹はグラウンドを見渡した。

 全員が守備位置についたとき、ポツンと一つだけ空白があった外野。今は空白もなく、外野は外野、内野は内野でちゃんと守備練習が行えている。まだ高校の野球部としては人数も設備も全く足りていないが、それでも去年、一から始めたモノがこれだけの形になったのだ。自分が創設に携わったのかと思うと、それもまた感慨深かった。

 パシィッっとミットに飛び込んでくる速球は、あおいちゃんのように荒々しい球でも、二条のように計算し尽された正確な球でもなく、まだ硬式ボールに慣れていない感のある、一球一球丁寧に投げようとするが故の自信のなさの乗った球だ。キャッチャーが先輩でキャプテンだということで、暴投するわけにはいくまいと緊張もしているのだろう。

 十数球を投げさせたところで、樹はボールを投げ返しつつ手塚に言う。

「あんまり綺麗な球ばっかり投げないでくれよ。俺の捕球練習も兼ねてるんだから」

「え? ああ、いやっはは……んじゃ、ちょっと力を入れてみます」

 そして振りかぶる手塚。樹は、ちょっと後悔した。どうやら先程の言葉を「遠慮するな」ではなく「手を抜くな」と叱られたものと勘違いしたらしい。今の手塚のフォームは、明らかに強張っている。これではまともな球が来ないだろう。

 思うが早いか投げるが早いか、ボールが手塚の指を離れた瞬間、手塚の口から漏れる「やべっ」という小さい声。ボールの角度は、明らかにワンバウンドコースだった。

 予想通りに手前でバウンドしたその球を、樹は身体全体で覆いこむようにしてしっかりと捕球した。目の前でのバウンドに対しても目を背けずに真正面から立ち向かえるのは、小学校の頃から受けていた近距離ノックの賜物である。

「んー、ナイスキャッチ!」

 隣で見ていたらしいあおいちゃんが、冷やかし半分で言ってくる。それと同時に手塚がすいませんと叫んで帽子を脱ぎ、走ってきた。

「すいません! 俺っち、緊張しちゃって……」

「ああいや、これぐらい余裕だよ。むしろ、緊張させちゃうようなこと言った俺の方が悪かったしね。でさ、気付いたんだけど手塚はもうちょっと……」

 そそくさと投球についての指導を始める樹を見つつ、あおいは傍にいた矢部に言う。

「西条君ってさ、先生向きだよね」

「同じくでやんす」

「ところで矢部君」

「?」

「キミは新人外野指導なのになんで投手の場所にいるかな」

「そ、それは……! う、麗しの美少女あおいちゃんの傍にいて、ちょっと癒されようと思っていただけでや」

「蹴るよー? 割と本気で」

「さてノック職人のオイラの腕前を見せ付けてくるでやんす!」

 眼鏡をキランと光らせて外野へと駆けていく矢部。その背中に向けてハァと軽く溜め息などついて、あおいは守備位置についている野手一同に目を向けた。

 新たな右投げの投手、手塚を迎えた恋恋高校投手陣は、更なるレベルアップを果たしている。元々、左腕の二条に右腕のあおいと両腕のエースが揃っていた為、普通の高校と同じくらいの実力はあったのだが、ここで先発型投手の手塚が参入し、その層は更に厚くなった。二条やあおいの指示がある分、手塚の成長も早いだろう。

 あおいも、投手陣に関しては全く心配をしていない。

 問題はこの野手陣である。

 今年入学してきた野球経験者は円谷ただ一人。そして指導者としての立場に立てる二年生は、樹と矢部のみ(二条は投手陣として扱う)。他の二年メンバーも確かに一年間野球を続けてきたとは言え、まだ他人に教えることのできるレベルではない。指導者が少ない反面で、指導しなければならない人数が多いのがネックであった。

 しかも内野手の動きを熟知している樹には、捕手として投手陣の球を受けてもらわなければならないため、どうしても内野手の指導がおろそかになってしまう。一応、まだおぼつかない手つきでも二年のメンバーに指導を頼んではいるが、やはり厳しいようだった。彼らにはまだ確固とした自信がない。間違った知識を教えるのではないかという恐怖心が、二年メンバーから積極性を奪っていた。

 捕手を二条にやらせて、樹を指導に回せばいいじゃないかという意見もあるだろう。勿論それもやってみた。しかしそれだと、普段しゃがむことに慣れていない二条の足腰の消耗が激しく、また交代してあおいや手塚が座れば二条の速球をろくに捕れないという事態に陥ってしまう。その為、メニューとしては、投手陣がランニングや遠投をやっている間に樹が指導に回るというものが最適だ。

 今は円谷に内野、二条にバッティングの指導コーチをやってもらっているが、なかなか手が回らない様子。

「ちょっといい? あおいちゃん」

 背後から声がかかる。振り返るまでもなく、樹のものだと知れた。

「バッター役になってもらっていい? そこに立ってて」

「うん、いいよ」

 野手陣から目を離し、指示された通りに樹の前に立つ。なんだかんだで不安はあるが、これよりも酷い状況下で、去年はなんとかやっていけたのだ。多分今年もどうにかなるだろう。持ち前のポジティブシンキングでそう結論付けたあおいは、黙って投げられたカーブをしっかりと目で追い、軌道の先にあるミット、その主である樹を見つめる。

「ん? 何? 捕り方でもまずかった?」

「いーや、別に」

 悪戯っぽく笑って見せる。ようやく、野球部って感じだ。とにかく楽しければなんでもいい。

 これから始まる野球部の、部活としての新しい日々。不安はあっても、楽しさの圧倒的に勝る。

 期待に胸躍らせつつ、樹やあおいは以前と変わらぬ国語の授業中、新しい“野球ノート”の作成に励むのだった。

 

 

 

「やれやれ、ですわ……」

 二年に上がったということで、学校内での肩書きも少しは上がり、乙女倉橋彩乃はついに生徒会役員を務めることとなっていた。会長から指名されたような正式なものではなく、完全な立候補制の、いわゆる庶務。つまりは雑用係である。普段は誰もやりたがらない役職なので、こうしてすんなりと立候補者が現れたことはありがたいと先生らから感謝された。

 なんのことはない。こんなこと、未来の生徒会長となるためならばお安い御用である。こうして先生は勿論、他生徒からの支持を常に向上させておくことが重要なのだ。

 とはいえ趣味にテニスを嗜む程度の身体に、ダンボールや書類をあちらこちらへ持っていくこの労働は辛いものがある。

 一時間ほど働き通しており、そろそろ一息入れたくなってきたところだ。

 ふぅという小さい溜め息と共に手近な椅子に座り込むと、彩乃はハンカチで額と首筋の汗を拭った。こういうとき、長い髪というのは邪魔で仕方がない。

 憧れの人の、好みの髪型さえ分かればすぐにそう整えるのに。思いながら再び溜め息をついて、彩乃は窓の外を見やった。

 樹とは、あれからろくに話もしていない。話す機会があっても、そこを自ら退いてしまう自分がいた。あちらにしてみれば、あれはただ数学の問題を教えてもらったというただそれだけのことなのだろうが、こちらにとっては一大事だった。あの日は結局ピアノの稽古に遅刻し、母との約束も破る形になってしまったのだが、それでもとても幸福感に満ちていた。翌日も、その翌日でさえ、脳裏には彼の顔が焼きついていた。

 だから怖くなったのだ。もし彼に想いを悟られ、拒絶され、距離をおかれてしまうことが。もしそんなことになるぐらいだったら、いっそこのまま友人としての位置を保っていたい。そう願うことが、自分に、彼を避けさせた。

 本末転倒だと言われればそれまでだが、彩乃にはこれぐらいしかできなかった。もちろん、それではダメだという気持ちもある。しかし生まれて初めての一目惚れ。そして生まれて初めての恋。今まで一度も異性に慕情など抱いたことのなかった自分の気持ちに、一番戸惑っているのは他ならぬ彩乃自身なのだ。友達に相談しようにも、どう言っていいものかわからない。彩乃は、一人で苦悩する他なかった。

 五月とは言え、日は少しばかり高くなった。以前ならばもう夕闇が空を覆っていただろう時間であるが、まだ充分に、西の空は明るい。窓から差し込む夕焼けは、どこか物悲しい模様を床一面に描き出していた。オレンジ色の空間の中で、彩乃はしばし感傷的な気分に浸る。

 幼い頃は、影というもので遊ぶのが好きだった。遊ぶというより、刻一刻と変化し続けていく影というものを不思議に思い、それを眺めているのが好きだった。どうしてこうも自在に変化していくのだろう、どうして一時とそこに留めておくことができないのだろうと、飽きもせず影を見つめていたものだ。くだらない常識や知識が無かった分、見たもの全てにありのまま感動できていた。ひたすら素直だったのである。

 今の自分はどうだろう。好きな人が出来ても、様々な考えが先行して、素直さを押し殺している。バレンタインですら何のアクションも起こせず、あまつさえ会話すらしていない。こんなことで、いいのだろうか。

「倉橋さんいる?」

 生徒会の人間が、部屋の中に入ってくる。生徒会副会長を務める人物で、束ねられた長い髪に清潔感の際立つ、バレー部の主将も兼ねる背の高い女性だ。

「って、あら……? 寝てる?」

 女性が入ってすぐ窓際の椅子に目をやると、机に突っ伏した形で、探していた倉橋彩乃が寝ているのが見えた。すやすやと可愛らしい寝息を立てて寝ており、呼吸に上下する背中が子猫のように丸かった。

「疲れちゃったかなー、ちょっと仕事押し付けすぎたのかもね……えーっと」

 女性はロッカーを開け、中に入っている自分の膝掛けを取り出すと、それを彩乃の肩にそっとかけてやった。刺繍されている猫のマークが、彼女にはぴったりなように思えた。

「下校時間には起こしに来るからね」

 そう呟くと、女性は静かにドアを開けてその場を後にした。

 

 

 

「いぇぇぇやぁぁっ!」

 覇気のこもった声と共に打ち出される回し蹴り。空気を切り裂くように横一閃されたそれは、煉瓦の一つや二つは軽く粉砕してくれそうな威力に満ちていた。まともに喰らったならば、余程の喧嘩自慢でもない限り悶絶してしまうだろう。

 しかしそれを放たれた相手は、一歩身を引いて軽がるとそれをかわし、更には一瞬の隙をついて距離を詰め、回し蹴りの軸足を蹴り崩し、易々と勝利を我が物としてみせた。

 しかしそれで事が済んだわけではない。

「次、お願いします」

 畳の上に膝をつくも、すぐに立ち上がり、次の手合いを申し込む。

 年端の行った厳めしい身体つきの男と、どこか中性的な優男の雰囲気のある青年が、互いを威嚇するように睨み合う。両者の肉体の重量差は、着ている道着によって尚際立っている。

 男の繰り出した牽制の蹴りをかわして、青年が距離を詰める、先程とは逆の光景だ。青年はもらったと言わんばかりに軸足を狙い、足払いを仕掛ける。

 しかし男は軸足を使い、跳んだ。対象を見失った青年の足が虚しく空振りし、その胸に、無理やりな飛び蹴りが叩き込まれる。男は、自身の空振りさせた足をそのまま飛び蹴りへと派生させたのだ。

 身体の中心にダメージを負い、そのうえ呼吸のリズムまで乱され、青年はもはや抗う術も無くうつ伏せに倒れこんだ。

 五月も終わりに差し掛かったある日曜日の朝のこと、全てはここ、武道家二条宗次の仕切る武道場での出来事だった。

「周囲に女学生の多い環境下で、少し鈍ったのではないか。神谷」

「い、いえ……、自分の、修練が、及ばなかった所為です」

 畳の上で荒く呼吸をする神谷を見下ろすようにして、その父、宗次は厳しい表情で言う。

「情けない。お前は、私たちの反対を押し切って恋恋高校に入学したのだ。しかしそれは、自身を武道家として磨き続けるという条件の下。それをないがしろにして、野球にうつつを抜かすとは笑止」

「はい、申し訳、ありません……」

「いつまでも膝をつくな。立て」

「はい!」

 未だ収まらない動悸を抑え付け、神谷はすっと立ち上がった。

 他の門下生はいつも午後から来る予定なので、今は道場にはこの二人しかいない。日曜日の朝はこうして宗次に稽古をつけてもらうのが、神谷の日課であった。そしてここのところ武道に割く時間が激減した為、毎度のように父の厳しい檄がとんでいるのである。

「時間はまだある、こい」

「はい、お願いします!」

 再び挑む神谷だが、奮戦虚しく、やはり父の前では簡単にいなされてしまう。そもそもその身体つきを見ればどちらが勝るかは明らかだが、何よりも宗次の持つ迫力は神谷のものとはまるで違った。過去幾つもの大会や他流試合を制し、今なお己の研磨に余念のない宗次の手並みは、神谷をまるで掌の上で躍らせているかの如く鮮やかだった。

 神谷がまた畳に叩き伏せられる。

「リーチの優れた相手との戦いで、蹴りを多用する阿呆がどこにいる。重心を上げろ。懐に入ることだけを考えろ」

「はい!」

 すぐさま立ち上がり、言われた通りに拳を中心として立ち回る神谷だったが、やはり結果は同じだった。

「拳が素直過ぎる。軌道が読める。懐に入る前に蹴りを喰らうな。さっさと立て」

「……はい!」

 再度立ち向かう神谷。

「う~わ、いくらなんでもキビシすぎるでしょあのオッサン」

「仮にも二条の親父さんなんだから、オッサンはやめたほうがいいと思うよあおいちゃん」

「あっちゃー、今のキック……はるかだったら死んでるねきっと」

「変なこと言わないでよあおい……」

「うーん、オイラ見えにくいでやんす」

 そんな神谷の稽古の様子を、扉の隙間から見る野次馬が四人。言うまでも無く、樹を初めとする恋恋高校野球部の面子だ。

 たまのオフを使って二条の家にお邪魔することになったのだが、午前中は無理だと言われながらも内緒でやってきてみればこの光景である。大和撫子と言わんばかりの日本の“奥様”に出迎えられ、気分を良くしていた樹たちだったが、その奥様に息子の稽古を見たらどうかと提案された矢先にに、まさかこんな二条の日常を見せ付けられるとは思わなかった。サプライズだかなんだかで午前中にやってきたことを、樹たちはちょっと後悔した。

 常日頃から、自分の父上は厳しいだの云々と言っていた二条から聞かされていた樹たちだったが、その意味がようやく分かった。樹は、自分の持つ「父親」というイメージとは懸け離れた二条の父に、恐怖心しか持てない。

「どうした、もう終わりか軟弱者」

「い、いえ、まだ……お願いします」

 多分こんな父親だったら、俺は二日と持たないな……。

 そう思っていると、肩をちょちょいとつつかれる。振り向くと、あおいちゃんが手招きしていた。どうやらここを撤退して、家の奥へ行くことになったらしい。あおいの少し向こう側に、二条の母親とはるかが話をしているのが見える。

 素直に従ってそそくさとその場を離れる樹だったが、道場から響き渡る怒声と畳の音に、妙に後ろ髪をひかれる思いだった。

 

 

「なんで二条ってさ、野球なんか始めたんだろ」

 通された奥の広い部屋で、最初に声を発したのは樹だった。深い畳の匂いとお香の香りの染み付いた、高そうな皿やらの調度品の並ぶ部屋である。おそらく貴賓来賓をもてなす為の部屋なのだろう。そこらの高校生風情には、随分と過ぎた場所だ。

「ん? そりゃまぁ、好きだから、じゃないの?」

 座布団を枕代わりに寝そべって、足をパタパタさせながら言うあおい。

「そりゃそうだけど、あそこまで叱られて武道の稽古までさせられてるのに、なんで野球優先の生活なのかなって思ってさ……だって、大人しく毎日武道の稽古していれば、あそこまで乱暴にされずにすむのに」

 うーんと黙り込む一同。

「あ、分かったでやんす! きっと二条君は好きな女の子がいて、その子を追いかけて恋恋に入学したでやんす! そんで男子がいる部活が愛好会しかなかったでやんすから仕方なく中学からの野球を続けたに違いないでやんす!」

「論外」

「ぎゃふんでやんす」

 あおいに一言で斬り捨てられ、いつも通りねじ伏せられる矢部。

「あの堅物二条君が女の子目当てに入学なんてするはずないでしょうがもっとマシな意見」

 そうは言われても、他に考え付く事もなし。野球が好きならばもっと強豪校に入学するだろうし、女の子目当てなんて二条の性格からは考えられない。樹もはるかも、頭がオーバーヒートしていた。

「うーん、二条さんってあまり自分の事を話さないから、全然分かりません」

 はるかがぼやくその一言こそが、まさしく皆の胸中を如実に顕していた。

 常に冷静沈着、泰然として寡黙。大人のような目線を持ち、女性に免疫のない二枚目男子。それが皆の持つ二条神谷という人間に対するイメージだった。もう一年の付き合いになろうかというのに、彼は一度として「自分語り」をしたことがなく、何故恋恋に入学してきたのか、何故野球を続けているのか、その理由は未だに謎なのである。投手としての力量は樹をも唸らせるほど、しかも打撃と守備のセンスは一級品、こんな選手を強豪校が放っておくわけがない。当然推薦や監督直々のオファーだってあっただろう。それらを蹴ってまで、ましてや親の猛反対を押し切ってまで恋恋に来る理由とは、一体なんなのだろうか。

「待たせたようだな、すまない」

 各々であれやこれやと思考を巡らせている最中、襖が開いて二条が入ってくる。

 作務衣姿だった。

「冷茶を持ってきた。粗茶だが……なんだ?」

 皆の視線が、紺色の上着を羽織った二条に注目する。なんというか、高校生の、それも二枚目男子の着る物にしてはいささか似合わないもののように思えるが、これさえも二条が着れば立派に色気の香る着物になるのだなと感心したのだ。

「いやー、やっぱり顔が良いってのは得なんだね」

 しみじみと見入るあおい。二条は少し恥ずかしそうに咳払いした。二条神谷の照れた表情、写真に撮れば学校の女子に高く売れるだろう。とかそんな邪な考えが浮かんだのは樹だけの秘密である。

「二条家男子はこれが家での正装なんだ。洋服など着ていると、父上の小言が飛んでくる」

 え、じゃあオイラたちってかなりマズいんじゃないでやんすか、と矢部が意見するも、流石に来客に物を言うほど乱暴ではないとのことだった。危ないところである。

「本日は皆、よく来訪してくれた。粗末な物しかないが、歓迎する」

 きちっと正座した二条が恭しく三つ指をついて礼をする。その態度に少々戸惑った一同であったが、恐らくこれも二条家の作法なのだろうと納得することにした。

「さて、それでは何をしようか。見ての通り、我が家には特に娯楽と呼べる品がない。……普段、人の家に集まった時は何をしているんだ?」

 二条の言葉。それを聞いて皆で黙り込む。そう言えばそうだ。とりあえず二条の家に行こうと思い立って来ただけで、何をしようかとまでは考えていなかった。というか、行けば何かあるだろうと思って来たのだ。樹の感覚では、友達の家に行けばテレビゲームやトランプ、もしくは外でキャッチボールなどがオーソドックスだが、そういうものが似つかわしくない環境であることは明らかである。

 そうだなぁ、せっかくだし

「せっかくだし、二条の家でしかやれないことをやろうよ」

 つい口を突いて出てきた言葉だが、特に内容は考えていない。それがまずかった。

「例えば?」

「例えば、拳法の体験入門、とか」

 被せられたあおいの言葉に、またつい口を突いて出てきた言葉が、これだった。

「おお、それは妙案だ」

 二条が反応してから、自らの失敗に気付く。これはもしかしなくても墓穴を掘ったかも知れない。

「そうだな、日頃野球の練習だけでは培われない胆力、精神力を、武術を通じて学ぼうというわけだ。流石は西条。恋恋野球部を担う番頭なだけはある。その心意気に感服した」

 実直な二条らしく、素直に感動しているらしかった。ここで「あ、ごめんやっぱいまのなし」と言えるほどに、樹の神経は図太くない。

「善は急げという。父上に了承を頂戴してこよう。皆はここで待っていてくれ」

 拳を握り締め、颯爽と部屋を出て行く二条。が、その際に決して襖を後ろ手では閉めない辺り、流石は二条家の教育といえた。

 二条の足音が完全に遠ざかった後で

「なに言っちゃってんのさー!!」

「あいたっ?!」

 あおいの一級の飛び蹴りが樹を襲う。突然の攻撃に為す術もなく、樹は思いっきり吹っ飛んだ。調度品に傷をつけまいと上手く畳みの上で止まったのがせめてもの理性である。

「西条君キミはさっきの二条君の練習風景を忘れたわけ?! 死人がでるよマジで! キミや矢部君はいいとしてボクとはるかはどうすんのさ?! か弱い女の子二人にあんな特訓させるつもり?!」

「え? かよわグフっでやんす!!」

 矢部が横槍を挟もうとするが、挟みきる前に神速の蹴りが飛んだ。

「い、いやぁ思わず口から出ちゃったというか……」

「思わずじゃないでしょこっちは命がかかってるんだからあんなパンチやキックまともに受けてみなよ五体四肢どこが吹っ飛ぶのか分かったもんじゃないよ!」

「ぐ、ぐるじ……」

 あおいに胸倉を掴まれ、ぶんぶんと頭を揺らされながら糾弾される樹。その様子をにこにこと見守るはるかに、矢部は不思議そうに訊いた。

「あ、あれ? はるかちゃんは怖くないんでやんすか?」

 その矢部の遠慮した問いにも、やはりはるかはにこにこと答える。

「はい。今まで武道なんかに触れる機会はありませんでしたから、楽しみです」

 果たしてこの七瀬はるかという少女、肝が据わっているのか据わっていないのか。矢部が胸中で思いっきり首を捻ったころ、部屋の外から落ち着いた足音が聞こえだす。襖が開き、姿を見せたのは勿論二条だ。

「父上には快諾を頂いた。まずは昼食を振舞おう。その後男女で分かれて各々、父上と母上に学んでくれ」

 今にも樹を絞殺しそうなあおいを見事にスルーして、二条は皆に告げる。

 個人らの思いはそれぞれあるだろうが、そんなもの意にも介さず地獄への門は開かれたようだった。

 

 ちなみに昼食は炊き込みご飯のおにぎりだった。

 

 

 さてさて、普段は野球しかしていない者たちが武術の達人の技を受ければどうなるか。無論軽傷では済まない。膝を折って転がるのが関の山だろう。

 しかし勿論、技の危険性を熟知した達人がそんな危険なことはするはずもなく、樹と矢部は二条の父に習って空手の型を練習していた。

「もっと腰は落としてもらって結構。そうそう。重心は下半身に、腰で拳を突き出すのが基本だ」

 二条の父、宗次は、息子である神谷に対するそれとは全く違った態度で樹らに接している。まぁこれも当然のことである。客人にまで手荒な真似をするようでは、道場の長など務まるはずもなかろう。

「なかなか、筋がよいな。ふむ、やはり平静から運動を嗜んでいる者は飲み込みが早い」

「オイラ、格好いいキックがやってみたいでやんす!」

「焦らず。蹴りはしっかりとした型で打たねばバランスを崩す故、素人には扱いづらい代物。もう少し基礎を積んでからだ」

 優しく指導する宗次に気を許し、これでもかと付け上がる矢部を横目に見つつ、樹は苦笑しながら正拳突きを繰り返した。腰の動作に全ての基本を置くというところには、野球と武術には通じるものがある。小学生の頃からバットを振り続けている樹にとは、この腰を使って拳を打ち出すというフォームは習うに易過ぎた。

 あおいちゃんたちは別館にて、二条の母である舞衣子により、薙刀の訓練を受けている。高校生には剣道がイメージであるが、この暑さでは荷が重いだろうということで軽装のものに決まったのだ。この時点から既に精神鍛錬にはなっていないような気もするが、いつの世も女性には甘いのが常である。

「うう、あおいちゃんたちの道着姿が拝めない上に、必殺技の練習もさせてもらえないなんてつまらないでやんす」

「武道に関わっている時ぐらい、煩悩を捨てようよ矢部君……」

 樹は苦笑いしつつ、視線を別の方向へとやった。武道場の奥の方、既に道場に来訪している宗次の弟子らと組み合う、二条の方である。

 野球のような遠くまで届かせる声出しとは違い、目の前の相手を威嚇し己の呼吸を整える為に発せられる短い声。奇声と言ってもいいかも知れない。それら幾つもの声が混じり合う中に、二条は立っている。

 乱取り、というものだろう多分。とりあえず目の前にいる相手を捕まえては互いに一礼し組み手を交わし、勝ち負けを気にする前に次の相手にまた礼をするという光景がそこら中で行われている。先程、父宗次にいなされていた姿が嘘のように、二条は次々と襲い掛かってくる父の弟子らをなぎ倒していた。相手の殆どが、成人した大人であるにも関わらずだ。

「まだ神谷君にゃ勝てないか……」

「よし、今日も胸を借りるよ」

 ちらほらと、そんな話が聞こえる。やはり二条は相当な人物なのだなと、樹は改めて実感した。きっとゆくゆくは宗次ほどの実力を身に付け、この道場を継ぐことになるのだろう。だからこそ、余計に二条が野球に傾倒する理由が分からない。

「隙アリでやんす!」

「あいてっ」

 突如として放たれた矢部の蹴りを喰らって、樹はお尻を押さえ込んだ。その様子を見てフッフッフ、と怪しげに笑う矢部。

「月光戦隊オーロランの秘密格闘術を習得したオイラはもう無敵でやんす! さぁて西条君、今日が年貢の納め時でやんすよ」

「な、何がなんだか分からないんだけど……」

「問答無用でやんすっ!」

「設定ぐらい問答させてよ!?」

「うむ、武道は楽しく学べ」

 微笑ましく見守る宗次だが、樹は何やら必殺技とやらを繰り出しながら迫る矢部から逃げることで必死だった。

 そんなとき、道場の扉が音を立てず少しだけ開き、ひょこっとあおいが顔を覗かせる。

「やっほー、見に来たよ」

 良い汗をかいて一息、好奇心から男性陣の鍛えられっぷりを見物しにきたのだが、樹と矢部が妙なファイトを展開している以外に目新しいものはなかった。

「あり、予想外。虫の息かと思ってからかいにきたのに」

 こりゃ残念と呟くあおい。

「おや、恋恋の女学生の方かな」

 横から声をかけられたところで見やると、神谷の父、宗次が立っていた。先程神谷との組み手を見ていたときもさることながら、間近で見るとその体躯は山を思わせるように威圧感に満ちている。

「あ、あはは、そうです。どうも、いつも二条君には迷惑かけてばっかりで」

「いやいや、迷惑をかけているのは神谷の方であろう。あやつはまだ未熟ゆえ、心を乱すことがしばしばだ。至らぬところがあれば、是非とも指導してやってくれ」

「ははは、わ、わかりました」

 男子と話すのは昔から慣れている性分だが、目上の、しかもここまでの雰囲気を纏った男性と話すのには流石に気後れする。

 どんっ

 鈍い音が響いた。聴いた瞬間、あまりの不気味さに思わず屈んでしまうような類の音。人間の身体を本気で殴ったり蹴ったりした場合、このような音が鳴るに違いない。

「ああ!! こ、神谷君大丈夫かい?! ごめんよ!!」

 直後に発せられた大声は、道場の門下生らしい男性のものだった。顔を抑えて倒れこむ神谷のもとに、その男性を筆頭にして次々と皆が駆け寄る。

「うげっ、顔?! ちょ、二条君」

「そこに居てくれ」

 慌てて駆け寄ろうとするあおいを制して、宗次が歩き出す。丸太のような腕に前方を遮られて、無理に行くことはできなかった。

 神谷を取り囲む門下生の皆さんの騒ぎと対照的に、そのもとへと歩み寄る宗次の様子は落ち着き払っていた。

 すると突然、人だかりが割れる。その輪の中で立ち上がって姿勢を正し、宗次の方を真摯な目で見つめているのは、頬に赤い擦り傷をこさえた神谷であった。

 ただならぬ緊張感が漂い、静まり返った館内。そこにただ一つ響く、宗次の重量感ある足音。その存在感に、騒ぎの外であった樹と矢部も動きを止めて息を呑んだ。

 神谷の前で、それは立ち止まった。

「油断か、過信か」

「己が未熟ゆえです」

「行け」

「はい!」

 ただそれだけのやりとりの後で、二条は傷の手当をすることなく、道場から走って出て行った。

 あおいちゃんに矢部君を押し付けて、樹がそのあとに続いたのはほんの数秒あとのことだった。

 

 

 二条家の男は、強くなければならない。嫡男であるならば尚更だ。

 物心が付いたころには、もう道着を着て道場に正座をしていた。武道家として名高い父から昼夜問わず手ほどきを受け、いくつもの大会を制した。強さゆえに、小学生の頃から中学生たちに混ざって練習をし、試合をした。それでも勝った。嬉しかった。その所為なのかも知れない、皆、次元が違うものとして近寄ってこなくなった。友達ができなかった。

 自分の中に残る一番古い記憶は、広い父の背中だ。転んで泣いたところを諫められ、おぶさった時のあの安心感を、今でも忘れることができない。いつか自分もこんな父のような男になりたいと、切に願い、それが自分を磨く原動力となった。友人がいないことなど、そのうち気にならなくなった。

 しかしどこの世にもお節介な人間とはいるもので、こんな自分の根暗な性格が我慢ならなかったらしい者が一人、物怖じすることなく歩み寄ってきた。小学校5年の時のことであった。

「おい二条、野球部入れよ」

 部活などしていては武道に励めないと、何度となく断ったものの、その高飛車で高慢な少年は決して引くことなく、自分を野球部に誘い続けた。そのあまりのしつこさについに根負けして、仮入部という形でジャージ姿で練習に参加させてもらったのが小学校6年の春。そしてその一ヵ月後には両親に頼み込み、ユニホームを作ってもらうことになった。九人がそれぞれの役割を担って、控えの選手ですら一丸となり敵と戦う。野球の駆け引き、チームプレイの面白さに、すっかり魅了されてしまったのだ。

 友人も増え、心なしか表情も少し明るくなったことに、母は安堵していた。内心、いじめでもされているのではないかと心配だったらしい。しかし父は逆だった。野球などにうつつを抜かしておっては武道がおそろかになると、良い顔をしなかった。だから武道に手を抜くわけにはいかない。勉学もまた然りだ。野球を続けるためには、父の期待にも応えなければならない。二条の家を継ぐ者として相応しい実力を維持し続けなければならない。

 中学生となり、相変わらず野球を楽しみ続け、三年を迎えたとき、高校受験を考え始めた。自分を野球の世界に引きずり込んだ張本人は、その野球の実力を認められ推薦が決まった。かくいう自分にも推薦の話は入ってきていた。しかし決断できずにいた。高校ともなれば、その先の進路というものも徐々に見え始める時期である。果たしてこのまま野球を続けてよいものなのかどうか、もういい加減に、武道と勉学に専念してはどうなのか。迷えば迷うほどに、出口のない迷路の奥へと入り込んだ。

 そんな中学三年の夏、この土手で、彼女と出会った。

 二条はひりひりする頬を風に晒しながら、道場からのランニングを切りやめ、土手の道の上で立ち止まった。

 すぐ左下を見下ろせば河川敷の野球場があり、前には車一台が通れる程度の幅の道が長く延びている。

 そう、今から二年ほど前、ある夕方のことだ。

 部屋で一人悩むことをやめ、気分転換に散歩をしていたところ、この土手で、座り込んで休憩をしている女の子を見つけた。制服姿の女の子だったならば素通りしただろう。しかし興味を引いたことは、その女の子が野球のユニホームを着ていたことだった。

 平素よりあまり女性とは接点がないため、女の子との話し方は分からない。だが不思議と、その女の子に対しては、驚くほど素直に言葉が出ていた。

「野球を、嗜んでおられるのですか」

「え? ああ、やっぱり不思議かな?」

 唐突に後ろから声をかけたというのに、女の子は驚きもせずに応答した。

「女性が野球とは、珍しい」

「んー、皆そう思うだろうけどさ」

 その後に、彼女が見せた笑顔は、恐らく一生忘れられない。

「楽しいからね」

 その瞬間、自分が今まで悩んできたことを一言で崩壊させられた。

 地域硬式リーグに所属する唯一の女の子が、恋恋高校を志望しているらしい。その噂を聞いたとき、恋恋高校を受験することを決めた。

「彼女がいなければ、自分は楽しさを忘却するところだった」

「いきなり言われてもなぁ……」

 どうやらこちらの気配に気付いて、二条は話しかけてきたらしい。が、そのあまりに掴みどころのない話題に、樹は困惑した。

「何故にここまで」

「部員の世話を焼くのはキャプテンの務めだからね。それに、二条と話すいい機会だと思ったし」

 二条は何も言い返さずに視線を遠くに戻すと、ぽつりぽつりと話始めた。

「自分は野球を続けていくことに、疑問を覚えたことがある。救ってくれたのが、彼女だ」

「……あおいちゃん?」

「そうだ」

 気だるい午後の時間もそろそろ終わり、あと二時間もすれば陽がかげるだろう。暖かい陽気に包まれながら、二条と樹はその場にぺたりと座り込んだ。

「大した言葉ではなかったのだろう、だがそれは自分にとって衝撃的だった」

 樹は無粋に口は挟まず、二条の口から語られる彼の過去を聞いた。それはひたすら野球にだけ打ち込んできた樹には到底理解できそうもない、二条の家に生まれた者だけが持ちうる皮肉な悩みであった。

「入学した後、彼女は自分のことなど憶えてはいなかった。行きずりの人間の事など、忘れて当然だがな。……それでも自分は忘れられなかった。今も網膜には、彼女の笑顔が焼き付いている」

 両親の猛反対を押し切っての入学であったことは聞いていたが、この分だと、相当な苦労を強いられたに違いない。詳しい事情は語らないが、二条の瞳からは、その辛かった過去が読み取れた。

「彼女の役に立ちたい。あの迷いの中から自分を救ってくれた彼女に何か、恩返しがしたい。いつしか、そう思うようになった」

 二条はじっと、川の流れを見つめている。春の陽に照らされた水面がきらきらと光り、その傍らに息づく草花が心地良く揺れていた。

「それが、自分が恋恋に入学し、今尚野球を続ける所以だ」

 そう言って二条が何かを思い描くように目を閉じた後、樹は小さくくすりと笑った。

「ん? どうした?」

「いや、二条がようやく自分のことを話してくれたなぁって思ったからさ、それと」

 一呼吸置いて、樹も川の流れへと目をやった。

「やっぱりあおいちゃんは凄いなーって、思った」

 二条とほぼ同じ理由で恋恋に入学し、野球部に入った者がいる。円谷と手塚だ。あの二人も、野球に迷っていたとき、ひたすら練習に打ち込むあおいに姿に心打たれたと言っていた。早川あおいという人間の姿に人生を変えられた人間が、三人もいる。とても素敵で、凄いことだと思った。

「だから自分も、彼女に負けぬよう日々精進する。……つもりだったのだが、あれしきのことで集中力を欠くとは、自分もまだまだだな」

 そう言って頬をさする二条。あれしきのこと、とは、恐らく先程のあの顔面直撃を喰らったことを言っているのだろう。確かに、あれだけの実力を持った二条が、普段から相手にしている門下生の皆さんを相手に遅れをとるとは考えにくい。何か一瞬の集中力の途切れが、運悪く訪れたのだろう。

「そういえば、そうだよね。傍から見てても二条の強さはわかったのに、なんで顔に当たるんだろう?」

「いや、それがだな」

 二条は恥ずかしがるでもなく、慌てるでもなく、いたって平静な声の調子で、衝撃的なことを言ってのけた。

「彼女がこちらを見ていると分かったとき、妙に気になってな。常に横目で彼女の存在を確認していたら、失態を犯すことになってしまった。……情けない」

 恐らく、二条は今まで恋愛というものを経験したことがないのだろう(樹も言える立場ではないが)。百人が聞いて百人ともが認めるような恋のサインを、唯の一寸の惜しげもなく口にしているということを、本人は自覚していないようだった。

 しかし、うん、二条もちゃんとした男子高校生だったんだなと、樹はむしろ安心した。

「西条」

「ん、なに?」

 すっと二条が立ち上がるところを、見上げる形で樹は返した。

「このことは他言無用だ。信頼できるお前だからこそ話した」

「隠すようなことじゃないよ」

「二条家の嫡男は、他人に相談をするほど、弱くあってはならん」

「強くなろうとしてる人間はさ……」

 樹も立ち上がり、視線を二条に合わせる。

「強いか弱いかで他人と自分を見るようになっちゃうよ。それじゃ楽しくない」

 しっかりと目を見て、言った。

「弱さを見せ合って、得られるものもあるんじゃない? 強さじゃなくて、もっと別のね」

「友情か」

「真顔で言われると結構恥ずかしいんだけどなぁ……」

 頭を掻き、苦笑い。内心、樹は嬉しかった。今までは捕手として球を受けてはアドバイスをし、部活の延長の話しかろくにしなかった二条との距離が、ようやく縮まった気がしたのだ。

「二条」

「なんだ」

「お互い頑張ろう。行こうね、甲子園」

「承知」

 やりとりの後で、走り出す。どこまで行くのかはしらないが、二条のランニングに、樹は付き合うことにした。

 投手と捕手、決して近付いてはならない十八メートルの距離。

 今日、樹はそれを、ようやく友達として踏み越えた。

 そんな気がした。

 

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