一番セカンド円谷 二番センター矢部 三番レフト黒田 四番キャッチャー西条 五番ファースト二条
六番サード藤木 七番ショート岩谷 八番ライト宮岡 九番ピッチャー早川
確認の為のオーダーが淡々と告げられた後で、加藤監督がパンっと両手を鳴らした。
「いよいよ本番よ、行ってらっしゃい!」
ハイッ! と威勢の良い声を皆が上げ、キャプテンである西条を取り巻き円陣を組む。
「全イニング、全力っ! いくぞおおおおおおお!」
おおおおおおお!!
勝つぞぉっ!
おっしゃあっ!
球場にサイレンが鳴り響き、主審がプレイボールを告げた。
時は六月初旬。
全高校球児の目指す聖地、夏の甲子園。その地方予選。全国各地で戦いの火蓋は切って落とされ、四〇〇〇校を超える高校が、聖地への切符をかけて熾烈な生き残り合戦を繰り広げる。全国の野球ファンが最も盛り上がる二ヶ月間の始まりであった。
そしてその灼熱の旋風は、今年から恋恋にも舞い込むことになる。
私立恋恋高校。昨年度から男子生徒の受け入れを開始した元女子校で、裕福層の女生徒が多く、規律正しく大人しい校風である。スポーツに関しては女子ソフト、女子テニスの強豪校であり、過去幾つもの大会で好成績を残している。しかし高野連には今年になってようやく登録がされたばかりであり、野球部と言っても、数少ない男子生徒が集まってようやく形になった、とても部活とは言えない愛好会程度の存在である。
という世間の風評を鵜呑みにした相手校は、ことごとくその考えを後悔することとなった。
第一試合 私立ブロードバンドハイスクール戦 6-0 完封勝利
第二試合 極亜久高校戦 4-1 勝利
そして第三試合
「頑張ってあおいー!」
七瀬はるかの声援を背中に受け、あおいは渾身のストレートを放った。
相手のバットがボールを弾き、痛烈なライナーとなって一塁線を襲う。
それを二条が颯爽と捌いた。
ゲームセットの声が響き、あおいが高々と拳を突き上げた。
そよ風高校戦 5-4 勝利
あれよあれよという間に勝ち上がり、気付けばベスト8進出となっていた。
自分達のあまりの躍進っぷりにチーム一同驚愕していたが、何といっても一番驚いたのは樹である。確かに野球部を旗揚げしたときは甲子園に行きたい、地区大会で少しでも勝ち抜きたいと願い、常々そう思って練習に取り組んできた。しかしまさかここまで早く成果が出るとは思いもしなかった。
だがそれは、樹がただ自分のチームを過小評価していただけに過ぎない。もともと実力はあったチームなのだ。二条と早川という両腕のエースの存在、そして中継ぎの手塚、俊足打者円谷の加入、アベレージヒッターの矢部。そして四番の西条。控えめに言っても、チームの要は他のチームよりも勝っていた。
そして来週はいよいよ、地区の強豪パワフル高校との試合である。自室のベッドの上で、樹は何度もそれを反芻した。夢にまで見た甲子園が目の前まで迫っているのである。これが興奮せずにいられるだろうか。
野球の試合の八割は投手の調子で決まり、打撃と守備で二割が決まる。今までの試合は投手に依存した戦いだったが、相手がパワフル高校ともなればそうはいくまい。ひょっとすると二条と同レベルの投手だって出てくるかも知れない。他の野手の力も、平均値で見れば確実にあちらの方が上だ。
しかし樹はまったく不安には思わなかった。野球の試合に潜む魔物は、そう簡単に勝ち負けを決めない。投手の調子も野手の実力も、時には圧倒的な点差でさえひっくり返してしまうものがある。それが勢いとムードだ。
恋恋野球部の士気は絶頂である。誰もが、できると信じて疑っていない。もちろん樹もだ。
明日からは、この勢いを止めないように、放課後の練習に特に気合を入れなければ。それにはまず健康第一。
深呼吸をして、目を閉じる。刹那にあおいの顔が浮かんだ。
「皆で、行こうね……」
甲子園に。
「どうしてですかっ!!」
バンッ! と机を殴る、もとい叩く音が部屋に響く。かつてこの部屋の中で、ここまでの大声を上げた人間がいただろうか。
恋恋高校校長室。壁に歴代校長の写真が飾られ、幾つもの表彰状やトロフィーなどが鎮座する由緒ある部屋で、校長と理事長を相手に、加藤理香は憤慨していた。教師としてではなく、野球部の監督として。
「出場停止?! どうして?! どうしてあの子らが?! 設備も少ない中で練習して、ベスト8まで勝ち残ったあの子らが?! どうしてですか?!」
恋恋高校の甲子園予選への、これ以降の出場を停止とする。それが、高野連の規定外である女性選手の早川あおいをメンバーとして使用した、恋恋高校野球部に対する、連盟側の処分だった。
「落ち着いて下さい、加藤先生。我々も抗議はしましたが、アチラの決定ではどうしようもないのです」
申し訳無さそうに言う校長だが、それで理香の怒りが晴れるわけもなかった。今一度机を叩き、続ける。
「確かに、事前に規定を調べなかったこちらにも非はあります! でもおかしいですよ! どうして女の子だということだけで、差別されなくてはならないのですか! 間違っています!」
その理香の憤りを諫めるように、理事長が横から口を挟んだ。
「お気持ちは分かります。誰だって、生徒の可能性と人権を侵害されて、いい気分なはずがない。……しかし社会で生きていくにはルールがあります。これが高野連のルールだというのなら、我々は従う他、ないのですよ……」
だったらそのルールの根本から抗議すればいいじゃないですか! その言葉を、理香は飲み込んだ。これは不毛な言い争いである。目の前に不満をぶちまけたところで、現実は何も変わりはしない。理香は一度大きく息を吸い込むと、一歩下がって気持ちを落ち着けた。理香の言葉を浴びた校長と理事長が、唇を噛むようにして俯いている。教育者として、自分と考えは同じようだ。違うのは立場である。
「その……不幸中の幸いというか、規定外選手である早川あおいを起用しないのであれば、次回からの予選出場は認めるとも通達がきております。ですから、今回のトーナメントは、諦めて下さい」
規定外選手。そうか、あの子はそういう扱いなのか。
「分かり、ました。……ですが……」
いつも窓から見ていた、あの誰よりもひたむきに、一生懸命に努力する少女は、存在すら認めてもらえないのか。
「私には、あの子たちに伝える勇気がありません……」
そう言い残して、理香は校長室を出た。電灯の明かりもろくについていない、薄暗い廊下にドアを閉める音が反響する。
理香は鉛のように鈍く重い気持ちを胸に抱えながら、薄暗い廊下を歩いた。気の利かないことに、いつも校長室や職員室付近で騒いでは怒られている女生徒らが、今日は一人もいなかった。理香の足音だけが、カツンカツンと無機質に鳴る。
歩き、歩き、歩くと、遠くから声が聞こえてくる。彼らが入学した去年の春から、恋恋のグラウンドに響き始めた新たな声。去年は保健室の椅子の上で、そして今年からは、ベンチに腰掛けて聞くことが多くなったこの声。
誰かが声を出すと、その息が尽きる頃に誰かが続き、その声が消えかけるとまた誰かが続く。決して声を絶やすまいとするチームワークが、この声の奥底には流れている。それが最近になってようやく分かった。
歩くほどに、その声は近付いてくる。この廊下がずっと続けばいい。永遠にあそこには到着しなければいい。そう思った。
ふと気付いた理香は、慌ててトイレへと駆け込んだ。ポケットからハンカチを取り出して、目元を拭う。一番辛いのは彼ら生徒たちなのだ。せめて教師は毅然とあらねばならない。泣いては駄目だ。泣いては……。
その後、とにかくその涙が枯れるまで、理香はトイレに篭もっていた。
ようやくグラウンドに到着したのは、三十分以上経ってからだった。
こちらの姿を確認すると、皆が眩し過ぎるほどの、素敵な笑顔で、挨拶と共に駆け寄ってくる。
そこから先は、もう思い出したくもない。
恋恋高校野球部の、あまりに短過ぎる夏が、終わりを告げたのだった。