パワプロ小説 恋恋高校編   作:木和勇士

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8. 早川あおい

 七月になり、世間はいよいよ本格的な夏を迎えようとしている。来るべき夏休みを心待ちにしているのは、小学生も高校生も変わらない。今年に流行るのはどんな水着なのだろう。朝のテレビに出てきていたファッションデザイナーの方の話を信じるならば、今年はおしとやかなパレオが“来る”らしい。理由は簡単で、夏に放送されるドラマのヒロインが、作中で着るからとのことだ。

 恋恋高校に甲子園予選への出場停止処分が言い渡されてから、二週間が経つ。予選での奮闘、そしてベスト8が白紙になってしまったのは残念だったが、それ以外は皆、いつも通りの生活をしていた。特に塞ぎこんで落ち込むということもなく、いつも通りに昼休みは屋上に集まってだらだらして、放課後はしっかりと部活に精を出す。まるであの出来事は全て夢だったのだと言わんばかりに、皆、普通に過ごしていた。

 それは、早川あおいも例外ではない。

 自分さえグラウンドの土を踏まなければ、次回からは予選への出場が認められるという。その言葉を聞いたとき、心に浮かんだ感情は、怒りでも悲しみでもなく、ただ安堵だった。自分さえ我慢すれば、皆はいままで通り高校野球として部活をやっていけるのである。不思議と悔しさも沸いてこなかった。恐らくこれまでの苦悩の中で、涙はすっかり枯れてしまったのだろう。あまりに落ち着いている自分の態度に、あおい自身も驚いた。

 というより、今までは自分の中での葛藤と戦ってきて、自分の不甲斐なさに憤っていたものの、連盟から直接拒絶されたということで諦めがついたのかも知れない。どう足掻いて性別の壁にしがみついたって、ルールから拒絶されている以上は仕方がない。

 授業中の窓際の席で、窓の外を流れていく雲を見つめながら、あおいは頬杖をついていた。英語の授業は好きなのだが、なんとなく、今は聞く気にならない。

 悔しさも悲しさも沸かず、あおいの中に残った感情は、空虚。頑張る目標が目の前からすっかり消え失せてしまった所為で、何をするにも身が入らなくなってしまった。考えるのは、ひたすら野球のことばかり。今もスポーツバッグの中には、使い込んだグローブが詰め込んである。放課後に練習があるのだから、当たり前だ。

(試合に出られもしないくせにね……)

 気の利いた飛行機の一機も飛ばない空。おまけに入道雲の季節にはまだ早く、今にも消えそうな薄れた雲がいくつか浮かんでいるだけの、味気ない空であった。

 この空の下、どこかで、今も誰かが野球をやっているのだろうか。ぼーっと見ていると、今にもカキーンという小気味良い音が聞こえてきそうであった。

 教師が黒板に書いた文字を片っ端から消し始める。これ以上書くスペースがなくなった為だ。まだノートには何も写していないが、まぁいいだろう、後であの子に見せてもらえばいい。

 あおいは溜め息をひとつ吐くと、視線を窓の外からノートに移した。しかし書き始めたのは英文ではなく、ただ一言の日本語である。

 野球

 それは、あおいの胸中全てを象徴していた。

 

 

「でも、私びっくりしちゃった」

「んー、何が?」

「あおいが、意外と落ち込んでないなって」

「いやまぁ、流石にここまでやられれば諦めもつくって」

 七瀬邸のはるかの部屋で、ベッドの上に仰向けに寝っ転がり、漫画など読みつつ家主よりもリラックスした格好であおいはクッキーを頬張っていた。一方のはるかはと言えば、机に向かって日記帳など開いている。小学生の頃から未だに続いている彼女の日課だ。

 本日は日曜日で、部活は休み。いつもなら朝からグラウンドに集まり練習しているところだが、皆は気にしていなくともやはり重いことがあったからという理由で、樹が設けたものだった。

「はるかって少女漫画好きだよねー。もっとこう読んでてわくわくするようなものないの?」

「あ、それなら、ベッドの下の引き出しにクッキングパパが入ってるよ」

「……わくわくするかなぁーそれ……」

 はるかの部屋は広く、また窓も大きいので風通しも良い。一人娘にこんな大部屋を与えて良いのかと、一般的な価値観を持った人間なら文句をつけてきそうなぐらいであるが、この屋敷の総面積と総部屋数を知れば何も言えなくなるだろう。今はすっかりと慣れてしまった(少々慣れ過ぎているが)あおいと言えど、中学の時、初めてここを訪れたときはあまりの次元の違いに肩身が狭かったものである。

「あおいは、これからどうするの? やっぱり、皆と一緒に練習するんでしょ?」

 日記帳にペンを走らせながら、はるかが訊いてくる。クッキーを咀嚼し、少し窓の外を見ながら考えた後で、あおいは返した。

「ううん、しない」

 その一言がよほど意外だったらしく、はるかは手を止めてこちらを振り返ってきた。無言で「え?」という疑問を投げかけてくる。

「試合もないのに練習するのもなんかねー、未練がましいというか何というか。だったらいっそ、他の皆の役に立つように、マネージャーでもやってみようかと思ったわけ」

「え、あおいが?」

「うん、今までずっとはるか一人に押し付けてきたしね。……実はもう、西条君と加藤先生には伝えてあるんだ」

「えぇ?! 何で私には相談してくれなかったの?!」

 はるかはますます身を乗り出した。勿論この反応は、あおいの想定の範囲内である。

「はるかは絶対に『まだまだ頑張るべきだ』って背中押してくれるでしょ? そうなると、ボクはもっとずっと悩むことになってたと思うんだ……。だから、これはボクが一人で考えて出した結論」

 そう言われると、はるかは何も言えなくなる。確かにはるかは自分でも、その自覚はあった。あおいがマネージャーをやるなんて言い出したら真っ先に止めるだろう。でもまさかそれが余計にあおいを苦しめることになるだなんて思いもよらない。もしや今まで自分が言ってきたあおいへの励ましの言葉は、全て彼女を追い詰めるものだったのだろうか。

 そうやってマイナス思考に陥り始めるはるかのことも、やはりあおいはお見通しだった。

「もちろん、はるかの応援はとっても嬉かったよ。ただ、ボク自身が信念っていうか、絶対続けてやるんだって考えがなかったから、結果として迷い続けちゃっただけ。だからほら、もう、そんな暗い顔しないの!」

 言いながらのそっと起き上がり、やれやれといった顔ではるかを抱きしめる。というより、抱きついた。互いの肩に顔を埋めて体温と感触を伝え合うコミュニケーション、女の子同士の特権だ。

「どうあっても、ボクがここまで頑張ってこれたのは、はるかのお蔭なんだからさ。感謝してるよ。ありがと、はるか」

「……うん」

 弱々しく呟くはるかが、なんだか可愛かった。しっかりと抱きしめていた身体を離し、あおいはベッドに腰掛けた後、寝転ぶ。天井を見上げながら言う。

「ボクは野球をやることに、なんていうか、使命感みたいなものも感じてたんだ。支えてくれる人の為にやらなくちゃいけないって。今度は、支える側に回ってみようと思っただけだよ。ボクが野球を好きなことは変わらないから」

「うん……そうだね」

 声は小さいものの、それは心からの肯定だ。あおいには分かる。そして、得てしてこういった真面目な雰囲気なときほど七瀬はるかをからかいたくなるのが、悲しきかな早川あおいの性格であった。

「はるかもさ、マネージャーやってると楽しいでしょ?」

「うん、楽しいよ。私は身体が弱いけど、こうやって皆の役に立ってることが、凄く嬉しい」

「西条君もいるしね」

「え」

 そのたった一言で顔をかーっと真っ赤に上気させて言葉に詰まる七瀬はるか。放っておくと頭から湯気が出てきそうな程に染まる頬が、見ていて面白い。そしてその後の慌てっぷりもまた、なかなかなのだ。

「いや……! その、あのね! それは理由の、ほんの一部で、あのえっと、あの、だからえっと、うん、み、皆の役に立ってるって実感が第一で、だからその、西条さんはその、ほんの一部で」

「あ、やっぱりそうなんだ」

 実は薄々は感付いていたが、はるかが樹を慕っていると裏付けを取ったのはこれが初めてである。丁度良い機会だからとちょっとカマをかけてみたのだが、案の定、純粋なはるかはあっさりと転んでくれた。

 本人もそれに気が付いたらしい。しまった、という顔をした後で、今度は怒ってくる。

「も、もう! あおいー!」

「あはは! いいじゃんいいじゃん。別に誰にも言わないって!」

「だからって、恥ずかしいものは恥ずかしいの!」

「ごめん、ごめんってば! あはは! ごめんごめん!」

 じゃれるように取っ組み合い、ベッドの上を転がりまわる。それは友達というより、さながら仲の良い姉妹のようだった。

 ところで、あおいがマネージャーになろうと決心した理由は、選手としての道を諦めたということの他に、実はもう一つある。だがそれをはるかに言うという気にはなれなかった。親友であるにも関わらずというよりは、親友だからこそである。

 なにせそれは、はるかがマネージャーを楽しんで続けている、ほんの一部の理由と、全く同じなのだ。

 恥ずかしくて、言えるはずがなかった。

 

 

 

 やってみると意外と大変。それがマネージャーの仕事である。何せ練習そのものに関する以外のことは、殆どしなくてはならないのだ。ベンチ周りの掃除からスポーツドリンクの用意、ボールの数を数えて確認したりバットを磨いたり白線を引いたり、そして野球ノートの書き込みを行ったり。実際目の当たりにして右往左往したあおいは、今までこんな激務をずっとはるかが一人でこなしていたのかと感心するばかりだった。

「言っちゃ悪いことだけど、あおいがマネージャーをやってくれるようになって、随分助かってるよ。本当にありがとう、あおい」

 練習開始までの準備とお世話を終えた二人がベンチで一休みしているところ、はるかの方が嬉しそうに話しかけてきた。慣れない活動に妙な疲れを覚えたあおいは、肩で息をしながら返答する。

「い、いやいいっていいって……それにしてもはるか、アンタ凄いね、キツくないの?」

「うん、もう慣れちゃったから」

 はるかは身体が弱いはずである。なのにどうして自分よりバテていないのだろう。ああそうか、あれは嘘なのか。と、そんなことを乱暴に思ってしまうあおい。

 マネージャーになって気付いたことは、この仕事が思いのほかきついということの他にも、まだ幾つかある。

 例えば樹がキャプテンながらに、いつの間にかボール拾いや草むしりをしていたり。例えば樹が昼休みにこっそりボール磨きやベンチ周りの掃除をしていたり。例えば樹が練習後、一人でグラウンドに戻ってきて整地をやり直していたり。そんなことが、裏方に回って、視野が広くなったおかげで分かってきた。全てが樹絡みなのは仕方がない。一度惚れてしまえば後はこんなもんである。

 あまりよろしくない話ではあるが、恋恋に入学して良かったと思うことは、大好きな野球をやれたということよりも、樹に会えたということのほうが大きい。多分彼がいなければ野球部はここまで成長しなかっただろうし、何より自分はもっと早くに挫けていた。

 よく、女の子ながらに野球を続けたことを凄いだの、強い子なんだね、だのと褒められることがあるが、それは間違いだ。別にあおいが強かったわけではない。むしろ弱かった。何度も弱音を吐いて挫折しかけた。でもその度に持ちこたえてこれたのは、他でもない、支えてくれる人が傍にいたからだ。いつもあおいの投げる球を全身全霊で受け止めてくれて、それが真剣に投げた球ならばどんな悪球にも文句を言わずに喰らい付いてくれる。それが愚痴や弱音であっても同じ。そんな頼もしい人がいたからだ。

 パシッと爽快な音が響く。マウンド上から二条が投げたボールが、樹の構えるミットを射抜いた音だ。一球一球丁寧に捕球するその後姿を、あおいはボーッと眺めていた。

 分かっている。あの真摯な姿勢が、自分だけでなく、野球に打ち込む全ての人間に向けられたものだということぐらい。だからこそその姿勢には価値があるのだということぐらい。分かっている。つもりだ。それでもどこか、あおいは今の二条を羨ましく思っていた。

 樹と、ただ廊下ですれ違うだけの関係だったなら、すぐにでも告白できただろう。でもそれだとそもそも恋は生まれなかったわけで。そして恋が生まれた今、告白なんかしたら結果を問わず絶対にチームの雰囲気に影響が出る。自分一人の身勝手な行動の所為で、チームに迷惑をかけるわけにはいかない。

 野球における男女の性差という檻からは解放されても、早川あおいには、まだ葛藤が付きまとうのであった。

 

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