パワプロ小説 恋恋高校編   作:木和勇士

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9. 恐怖合宿

 一ヶ月以上が、何事もなかったかのように過ぎた。

 

 さて、健康な高校生諸君の夏と言えば、果たしてどのようなイベントがあるだろうか。

 夏祭り、花火大会結構。友人宅でのお泊り会もある。バイトや旅行に費やすのも悪くない。部屋にこもってゴロゴロ寝てさえいなければ大概有意義というものだ。

 そして、先輩後輩が、普段の堅苦しい関係を脱ぎ捨て、いっそう簡単に親睦を深めるにはどうするのが最適だろうか。携帯でメールアドレスを交換し、日がな一日メールのやりとりをするのも良いだろう。電話で喋るのも良い。だがそれは所詮、間に電波を介在させた関係である。それだけで親密になることはまずあり得ない。メールで百通やりとりをするぐらいなら、一度昼食を一緒に食べたり、街へ出かけて遊んだほうがお互いを深く知れ、仲は深まる。

 そして何より、楽しく合宿なんかすれば申し分ない。

「とゆーわけで恋恋高校野球部、第一回夏のお泊り大会ー!!」

 あおいの音頭に続いたワーという歓声は、半分棒読みだった。二条が無表情なまま鳴らした一つのクラッカーが、パンという音を虚しくたてて散る。

 世間様は夏休み。あらゆる部活の大会が激化し、家庭のパパたちは家族サービスに追われててんてこ舞いな季節である。蝉の声もうるさければ、どこでもお構い無しに現れる蚊の軍勢に辟易する季節。

 そんなレジャーシーズンのある日、午後八時を回ろうかという頃、恋恋高校のグラウンドには野球部の面々が円になっており、その中心には焚き火が赤々と燃え盛っている。近くにテントが張られているゆえキャンプファイヤーと称したいが、そう呼ぶにはいささか小さ過ぎた。諸事情あって夏の大会がお流れになってしまった恋恋高校野球部は、たまの気分転換にこうしてキャンプなどやろうという話になったのである。発案者は言うまでもなく、マネージャーに転向した今でもそのお祭り好きは変わらない早川あおいである。

 このように私服で皆が集うことは滅多にないことだろう。そんな普段とは違う環境が、また皆の新鮮味と親近感を高めるのに役立つのかも知れない。

 私服姿の珍しいあおいが、デニムと半袖のシャツの格好で叫ぶ。

「みんなー! 盛り上がってるかー?!」

 オーという歓声。これも半分は棒読み。

「みんなー! ドキドキしてるかー?!」

 オーという歓声。以下略。

 ちなみに歓声の内わけは、半分が初めての展開に興奮気味の一年生と無邪気な七瀬はるか、そしてもう半分は、またあおいちゃんの暴挙につき合わされるのか、そしてどうせ合宿なら海にでも行けよと既に疲れている二年生の諸君である。

「まぁ、犯罪してるわけでもないし、確かに親睦を深めるにはいいかも知れないけど。……うーん、大丈夫かなこれ」

「自分は問題無い。彼女が実行を唱えれば、協力は惜しまん」

 同意を求めて二条にボヤいた樹だったが、見事に対立されてしまった。惚れた弱みというやつか。二条の心の広さには、毎度毎度感心するばかりである。

 しかしかく言う樹や他の部員らも、乗り気でないわけではない。むしろ一年生とより打ち解ける為にも合宿という案には賛成だったし、場所が学校のグラウンドということも、安全面から見て良いと思った。あおいちゃんもたまには良いことを考え付くものだと思ったものである。それが二日ほど前のことであった。

 今ここに来て樹らが気付いたことは、グラウンドの近くには、至極当然で当たり前の話だが、普段使っている校舎があるということである。それも夜の。薄気味悪い影を忍ばせた、時折吹く風で庭木を不気味に鳴らす校舎全体が、さぁ肝試しに使ってくれたまえと言わんばかりにずっしりと鎮座しているのだ。どうしてこんな簡単な事に気付かなかったのだろうかと、樹たち二年生は本気で後悔した。

 面白いモノ好きなあおいちゃんが、ここで何もしでかさないわけがない。

「皆でお泊り会なんて小学校以来です。なんだかわくわくしますねー」

 二年生の殆どがこれからの展開にどう対処しようかと悩んでいる中で、一人はるかだけは幸せそうだった(ちなみにはるかだけ何故かいつもの制服姿だったりする)。

 しかしそんな絶望的状況下で、ちょっと救いになっていることがある。それは

「高木さーん、テントの張り方はこれでいいかしら」

「ばっちりです先輩! あ、でもちょっと隙間があるかな……。明け方はかなり冷えますから、隙間は内側から荷物で塞いどいて下さい」

 てきぱきと指示を出して、ソフトボール部のテントを組み立てているのは、語らずとも高木幸子その人であった。高校に入るまではガールスカウトに所属していたらしく、あっという間に三つのテントを完成させた手際は見事というほかにない。

 なんと野球部と同じくして、女子ソフトボール部も遅い新歓キャンプをやるらしいのだ。当初は練習以外に何も夏の予定は立てていなかったらしいのだが、昨日あおいが幸子にキャンプをすることを話したところ、本日突発的にやることに決まったという。それでも部員の半数ほどが集まったというのだから、もはやその瞬発力には敬服するほか無い。ともあれ、恐らくあおいちゃんよりも自制心に長けているだろうリーダー的な存在である幸子やその他女子ソフトボール部の面々がいることは、多少なりとも安心できた。

 しかしその女子の殆どが二条目当てで集まっていることもまた事実。

 そんなわけで女子ソフトボール部の皆さんの好奇の目線から逃げるように、いつもの泰然として動じずといった様はどこへやら、二条は常に矢部や樹の後ろに居るのだ。こちらの二条も普段は見られない私服姿。何の変哲も無いシャツにベストとジーンズだが、美男子が着れば何でも似合うものである。

「二条君も大変でやんすね」

「そうだね、できれば代わってやりたいよ」

「心遣いに感謝。が、出来れば、もう少しばかり感情を込めて言ってくれ……」

 ほっとけば涙のひとしずくでも流しそうな二条をそっと棒読みでいたわってソフト部の方を見やると、こちらも女性用ジャケットに黒めのジーンズパンツがよく似合う、ソフト部リーダー高木幸子がこちらへと走ってきていた。

「おっす、んじゃ、今日は一緒にキャンプさせてもらうから、よろしく頼むね。西条」

「あ、こちらこそよろしく。高木さん」

 恭しく一礼する樹に、幸子は思わず笑ってしまう。実は樹は、あの時はお互いに清々しかったとは言え、因縁の試合で自分が決勝打を打ってしまったことにちょっと気後れを感じていたりする。

「高木でいいって、同学年なんだから」

「いやー、どうも女の子と話す時はこんな調子でさ、勘弁してよ」

「だらしないなー、彼女とかいたことないの?」

「あいにく、縁がなくて」

 ハハハと笑って答えた瞬間だった。

 キュピン――!

「え、あれ?」

「ん? なに、アタシの顔、なんかついてる?」

「いや、今なんか目が光ったような……」

「目ぇ? ちょっと、光るってアタシお化けじゃないんだからさ」

「ああうん、そうだよねごめん。疲れてるのかな」

「しっかりしてよ、野球部キャップ。んじゃ、アタシは向こう戻るから」

「ああうん、わざわざどうも」

 また軽く一礼して、幸子を見送る。

 その足取りが妙に軽いことに、気付いた人間はいなかった。

 

 

 

 夕飯は勿論、キャンプの定番であるカレー。樹とあおいが持参してきた大鍋で作ったもので、カレーというものはこうして一度にたくさん作った方が美味しいものである。そんななか、ご飯を炊くには設備が物足りないという意見の元、ご飯だけは近場に自宅がある者数名に持ってこさせた。本格的なんだかどうだか分からない、いい具合に中途半端なキャンプである。しかし楽しければそれで全て良しというのが、皆さん共通の声だ。

「いやーオレっち、夏の合宿が学校なんて正直どうかと思ってましたけど、やってみると楽しいですねー!」

「企画してくれた先輩方に感謝ッス!」

 一年生の面々は皆喜んでくれているようで、その点に関しては樹も満足だった。あとは、暴君早川あおいが、何もやりださないことを祈るだけである。

 が、そんな願いはかくも儚く、およそ三秒ほどでへし折られてしまった。

「はーい皆! ちょっとちゅーもーく!!」

 カレーを食べる手をとめ、スプーンを高く掲げてあおいが立ち上がった。何だ何だと一斉に視線を向ける女子ソフト部の皆さん及び野球部の一年生ら。残る野球部二年生諸君は「ついに来たか」と身構えている。矢部が一人「あ、あれは幻の第三十四話の変身ポーズでやんす!」とかなんとか呟いていたがさっぱり分からないことなので無視した。

「それでは、今からキャンプ恒例の肝試し大会をやっちゃうよー! はるか、持ってきて!」

 あおいが呼びかけるや否や、テントの中からはるかが何やらごそごそと、両手に乗るくらいのダンボール箱を、二つ持って出てきた。上の部分には人が手を通せるほどの丸い穴があいている。一目でくじ引き箱だと分かった。

「じゃ、今からこれでペア分けするからね」

 突然の“ペア”という言葉に、ざわつき始める一同。そこを制したのは、あおいではなく幸子だった。

「あー、まぁ普通に肝試しとかしても面白くないでしょ? ここは、野球部とソフト部のお互いの親睦を深めるって事で、男女のペアになってもらうことにしたんだ」

 かと言って夜の校舎で男女のペアは如何だろう、という意見を、皆の視線から受け取る幸子。

「心配は要らないと思うけど、男子の野郎共はウチの女子に手は出さないように。悲鳴が聞こえたらダッシュで行って半殺しにするんでよろしくね」

 にこやかな笑顔とともに言ってくる幸子に、男子部員らは少なからず恐怖した。下心の有無を問わず、なんとなく、幸子の言葉には背筋がぞっとしたのだ。

 ひとまず皆が落ち着いて、反対意見も収まってきたところであおいが説明し始める。

「えっと、ルールは簡単。そこの非常口から入って、反対の校舎にある二年D組の教室に入り、ボクの席を座席表で確認した後、席から教科書もしくはノートを各組一冊ずつ持ち帰ること。なければロッカーを探してね。質問はあるかな?」

 すかさず手を挙げて質問する樹。

「はい、あのさ、ざっと見回しただけでも十七組ぐらいできそうなんだけど、そんなに教科書とかあるの?」

「多分大丈夫だよ。結構置いてるから」

「あのさ、それって単に置き勉を回収させたいだけなん……」

「はい他に質問はー?」

 見事にスルーされてしまう樹。割と今回の肝試しの核心をついた質問だったようだ。

 すっと挙がった手は、二条のもの。

「非常口は……開錠されているのか?」

 まさしくそれはここにいる皆の胸中を代弁していると言っていいだろう。大型連休中の、それもまだ女子校の名残の強い学校ともなれば、鍵のチェックは相当厳しい。当然、事務員の方や保安の方々が見回って、施錠の有無は再三確認されているはずである。無理にこじあけようものなら、警備会社からガードマンが飛んでくるだろう。

 そんな皆の心配をよそに、あおいがポケットから取り出したもの、それは――

 チャラッ

 明らかに意味ありげな鍵だった。樹が頭を抱えてあおいに語りかける。

「あおいちゃん」

「ん? なに」

「自首しよう」

「いや別に盗んだわけじゃないよ」

 盗んだわけでもなければ、どうして事務室に厳重に保管されていなければならない校舎の鍵が、こんな一生徒の手元にあるのだろうか。

「いやこの前の登校日にね、来てた先生に非常口から石鹸とかの運び込み手伝わされてさ、先生は用事があったみたいで、じゃあ運び込み終わったら鍵は事務室に返しといてって言われてたんだけどね」

「忘れてたんだ」

「うん、鍵掛けるだけ掛けといてそのままポケットに入れてたらさ。そんで一昨日、洗濯機の中で発見したんだよ」

 えっへん! と言わんばかりに胸を張って威張ってみせるあおいに、樹はもはや何も言わなかった。多分、言っても自分の常識は通用しないと、そう悟った。

 かすかな希望を持って女子ソフト部のほうを見やると、部員の方々はもしや二条と一緒になれるかもと胸を躍らせ、幸子に至っては普通に楽しそうにしている。最初は幸子に自制心とあおいの諫め役を期待していた樹だったが、どうやらこれは完全に読みを誤った。どうやら、あおいが二人に増えただけのようである。

 もういいや、諦めよう。今を楽しもう。うんそうだ。それが最善に違いない。と、樹はもう考えることを放棄した。

 しかし、この夏の湿っぽい空気の中、時折吹く風が木々をゆらし、不気味な影を作る。そんな中で見上げる校舎……。幽霊なんてありえない、という常識を身につけているとはいえ、この雰囲気には恐怖せざるをえなかった。煌々と燃える大きな焚き火の明かりだけが、グラウンドの暗闇の中であやしく揺らめいている。

「というわけで、早速ペア分けするよ。箱ここに置くから、男子はそっち、女子はそっちね」

 流れ流れに列になり、一人ひとり、運命のクジを引いていく両部員たち。

(感覚を研ぎ澄ませオレっち! 早川先輩を引き当てるんだ!)

(早川先輩にいいところ見せるッス!)

(可愛い子ならオールOKでやんす)

(可能な限り、自分に興味を示さぬ方を……)

(……もうどうにでもなれ)

 男子一同がそれぞれの思惑を胸にクジを引いている最中、女子の方では、表向きは平和なものの、胸中では男子以上の願いと祈りが渦巻いていた。

(二条君カッコイイー!)

(二条君が来ますように、二条君が来ますように!)

(ああ、神様どうか二条君とペアになれますように!)

(もし二条君と一緒になれたら暗がりにもたれこんで●●●とか×××を……!)

 これはもう仕方のないことだろう。ペアともなれば抱きつき放題手を繋ぎ放題で、女子の皆さんからすれば二条が隣に来ればそれだけで大満足というものである。殆どの女子の頭の中は、目の前にいる二条神谷のことで一杯になっていた。

 しかし物事には例外というものが必ず存在するもので、数名だけは、二条のペアを願ってはいなかった。

(このために肝試しを提案したようなもんだし……大丈夫だよボク、落ち着いて狙え……!)

(正直言って、アタシは男に告白する勇気なんてない。だからこそ、ここで決めなきゃ、後がない……!)

(わ、私みたいな引っ込み思案が、手を繋いだりするなら、こういった機会しかないです……神様……!)

 三人連続して並んでいるものの、誰もお互いの考えのシンクロには気付いていない。

(ボクに……)

(アタシに……)

(私に……)

 燃え上がる闘志が、三人の目に宿る。

(西条君を!)

(西条を!)

(西条さんを!)

 そして気になる結果は……。

 

「なんでアタシがお前とペアなんだよ」

「か、神様の悪戯でやんすよ! 頼むからそんな怖い目で睨まないでほしいでやんす!」

 高木幸子&矢部明雄ペア

 

「よろしくお願いしますマネージャー先輩! なーに、オレっちがいたら百人力ですんで安心して下さい!」

「う、うん、よろしくね、えんたに君」

「せ、先輩、あの、オレっちは手塚でして、あいつはツブラヤっていうんですよ」

 七瀬はるか&手塚隆文ペア

 

「……自分では不服だったか?」

「いーや別に。いーよいーよどーせこんなもんでしょ」

「……陳謝する」

 早川あおい&二条神谷ペア

 

「あ、どうも円谷っていいます、よろしく」

「あ、はい、こちらこそよろしく」

 円谷一義&名も無き女子ソフト部員さん

 

 そして肝心の樹はというと、

「……」

 ハズレ、とただ一言だけ書かれた紙をもって立っていた。

「あのー、あおいちゃん、これってどういうこと?」

「……あっちゃー、なるほど、よりによって西条君が引いちゃったんだ」

 男子部員と女子部員の数が釣り合わない為に作った苦肉の策だったのだが、思わぬところで策士が策にハマってしまったというわけだ。あおいは精一杯の後悔をするとともに、仕方なくハズレの意図を伝えた。

「えっと、ハズレを引いちゃった人は、頑張って一人で入ってもらうことになるんだよね……男子と女子の比率が合わなくてさ、ごめんね」

「え、そうなの? いやまぁ、それならそれでいいんだけど……」

「あ、ちょ、ちょっと待った!」

 怖いけど仕方がないと、樹が納得しかけたその時、唐突に幸子が静止をかけてきた。

「あ、あのさー、モノは提案なんだけど、アタシ実はかなり怖がりでさ、男がコイツだけじゃ頼りないから、出来ればこっちに付いてきて欲しいなぁとか思ったりするんだけど」

「聞き捨てならないでやんす! オイラのどこが頼りないと」

「いややっぱアンタも怖いでしょ、ね?」

 最後の「ね」の部分で、幸子の目つきがギラリと変わる。うるせぇからちょっと黙ってろ邪魔だカスという言葉がひしひしと、その鋭い眼光から伝わった。

「ここここ怖いでやんすオバケは怖いでやんすオイラじゃきっと頼りないでやんすできれば樹君についてきて欲しいでやんす」

 矢部は本気で怯えている為(ただしオバケに対してではない)、ヘタな演技をしてもらうよりもよかった。

「あ、そうなの? じゃあありがたく入れてもらおうかな……」

「ちちょ、ちょっとダメだよ!」

 ひとまず事態が収拾しかけていたところだというのに、今度はあおいが待ったをかけてきた。

「一応、ほらルールだからさ! 可哀想だけど、西条君には一人で行ってもらって……あ、でもどうしても幸子が矢部君じゃ不安だっていうなら、ほら、二条君貸し出すよ! 文武両道の鉄人なら安心だよね。代わりに、ボクが西条君と組むからさ」

「い、いや、それならあおいが二条と二人の方が、こう、安全性にバラつきが出ないんじゃないかな。うん、そのほうが絶対にいいよ」

「え、遠慮しなくっていいって、ボクはこう見えても怖いの平気な方だから、西条君ぐらいがいれば丁度いいんだ」

「ア、アタシもまぁ、二条が必要なくらい怖がりってわけじゃ」

 本人達はお互いの腹の内を知る由も無く、乙女の言い合いというか、小競り合いは暫く白熱する。他のペアの方々は、それぞれのコミュニケーションを図ることで精一杯で、この小さな熱戦にはあまり注意を傾けてはいないようだった。

 約一名を除いて。

「あ、あのー、私も怖がり、だからその」

「安心して下さいよマネージャー先輩! 先輩は、オレっちが命に代えてもガードしますから!」

「あうう……」

 参戦できない気弱さを憎く思いながら、はるかは二人の戦いを遠巻きに見ていた。

 結局十分ほどで結論は着き、やはり樹は一人で行くということで落ち着いたようだった。

 

 

 

 五分おき程度に校舎の中へと入ってゆく、表情のぎこちないペアたちを見送りながら、樹は必死に頭の中でシュミレーションをしていた。今はもう二十一世紀である。オバケや超常現象が出たり起きたりということは全く持って考えられないが、それでも怖いものは怖いのだ。いくら普段から親しんでいる学校といえど、真夜中に、それも一人で入るともなれば怖さは激増である。いかに怖くなく、多少遠回りでもできれば明るいルートを通る為、樹は思考を巡らせていた。

 順番的に自分の二つ前である、高木幸子と矢部明雄ペアが校舎へと入ってゆく。ということはあと十分程度で自分の番が回ってくるということである。時間が近付くにつれ、緊張が高まってくるのが自分でも分かった。

(どうしよう……今更怖いとかなんとか言えるわけないしなぁ……)

 ちらりと周りを見渡すと、周囲のペアたちもやはり同じか、会話はすれど顔はどこか引きつり心なしか怯えているようだった。一人ヘラヘラしている手塚は別格だろう。オバケ屋敷とかに嬉々として入っていくタイプだ、きっと。そんな手塚が横にいるからか、はるかも意外に落ち着いているようだった。

(……やっぱ怖いって)

 吐いた溜め息すらも、あっという間に夜の闇に呑まれていった。

 

 

 さて樹がそう気を落としている時に、矢部は校舎の中で焦っていた。

 気を紛らわすために“鋼のカブトロス”を熱唱していた最中、なんと相棒であるはずの高木幸子の姿が見えなくなってしまったのだ。確かにあまり性格の怖い人は勘弁でやんすとか思ってはいたものの、実際にいなくなられるととても困る。

「た、高木さーん……どこ行っちゃったでやんすかー?」

 小さく声を上げて探すものの、ただ暗い廊下に声が虚しく反響するだけで、返事はない。

「これってもしかして神隠しってヤツでやんすか……も、もう夜でやんすよ! 夕方じゃないでやんす! どっかの蝉が鳴く頃じゃないでやんすよ!?」

 消えてしまった相方、その謎は尽きない。もしこの世に本当に神隠しなるものが存在するのなら。矢部の頭の中で、どんどん不安と恐怖が膨れ上がっていく。

 人間とは、とかく「もしも」を考えたがる生き物である。まさかありえるはずがない、でも、もしも、もしかして……一旦考え始めると止まらなくなる負の思考が、徐々に冷静さを食い荒らしていった。

「あ、あわわ……どうすればいいでやんすか、どうすれば……」

 疑心暗鬼という言葉がある。今まさしくその言葉の通り、矢部には、向こうへと続く廊下の暗闇が、永遠に抜け出せぬ迷宮への入り口のように思えた。

 そんなとき、背後に気配を感じる。

「っ!!」

 振り返る間もなく、突然視界が真っ暗になった。

 そして直後に轟音が響いたかと思うと、矢部は意識を保つことが困難になり、そのまま意識を混濁させて気絶してしまった。

 倒れこんだ矢部を見下ろして、暗い影は一度ニヤりと笑う。そして矢部の身体を引きずり、近場の男子トイレに放り込むと、影はその場から走り去った。

 全ては一分にも満たない出来事。

 影が立ち去った後には、頭に金バケツを被せられ、ホウキで思いっきりぶん殴られた、矢部の哀れな死体が転がっていた。

「う、うーん、で、やん、す……」

 

 

 矢部がそんな目に遭っている頃、樹は回ってきた順番に逆らうことも出来ず、胸に大量の不安を抱えて校舎の中へと入っていた。壁についている電気のスイッチをオンにしたい気持ちでいっぱいだったが、それはルール違反らしく、そんなことをした日にはあおいからお咎めを受けることになるので、ギリギリ残った理性でその衝動は抑え込んだ。

 しかし一歩また一歩と歩く度に足音が反響する暗闇というものは、かくも恐ろしいものなのか。ギリギリで残った理性を保つことすら難しい。

「か、駆け足で過ぎていくー季節と風のなかでー……♪」

 歌など歌って気を紛らわせようとするも、一人だとどうも気は晴れないものである。

(はぁ……まぁ、皆が楽しければそれでいいんだけど、かと言って俺がこんな目に遭うのもなぁー)

 目標である二年D組までは、まだあと五分ぐらいかかる。普段のようにすいすい行ければ問題はないが、何分足元も暗く、なにより足が少し震えており駆け足もままならないのだ。

 特にこれだ。階段。

 上に上がったところに何があるのか見えないという不安と、その先に見える踊り場の窓から覗く真っ暗な外が、よりいっそう恐怖感をかきたてる。これぞ肝試しの醍醐味であるが、野球で勝負に持ち込む度胸はあっても、こういった肝っ玉は小さいのが樹であった。

 つい抜き足差し足忍び足で上がってしまうのは、何故だろう。

(早く駆け抜けちゃえば……怖さもきっと減る……うん、そうだな)

 そう思うや否や、樹は一気に足に力を込め、階段のステップを駆け上がった。踏み出すことを躊躇われただけで、案外、一度走り出すと足は軽く動いた。タンタンタンと勢いよく上る。

(よし、大丈夫!)

 と、思いかけたその時だった。

 目の前に突然、一つの影が現れる。

「え?」

「え?」

 夜の階段に響く、間の抜けた二つの声。それが響き終わる前に、声はそのまま絶叫に変わる。

 衝突したのである。とても物理的な意味で。

 階段の上から駆け下りて来た物体と、階段を駆け上ってきた物体。衝突すればどうなるか。位置エネルギーだの質量及び重力だのと、物理の専門家であれば様々な単位と用語を駆使してどうなるかを説明をくれるだろが、要は一言でまとめるととても簡潔にすむ。

 つまりは転げ落ちるのだ。

「きゃああああああ?!」

「わぁぁあああああ?!」

 現れた人影と真正面から衝突した樹は、くんずほぐれつ階下まで転がった。途中で見えた両親の笑顔や幼い頃の遠足の風景などは、多分走馬灯というヤツだろう。

 ドタっという音と共に着地。思いっきり背中から落ちた所為か、全身がくまなく痛い。だがその分衝撃が分散して、局所的な痛手を負わなかったようである。

 そこまで分析し終えたところで、樹は疑問を覚える。やけに身体が重いのだ。ぎゅっと瞑っていた目を開けると、暗くぼやけた視界の中に、髪の毛のようなものが映る。

 というか髪の毛だった。

「あいててて……」

 小さい声したと同時に、その髪の毛がもそりと起き上がる。

 目が合った。高木幸子と。

 

 目が合った。西条樹と。

「……あれ? 西条……?」

「た、高木、さん?」

 お互いに声に出したところで、気付く。顔が近い。恐らく距離十センチといったところ。身体に至っては、倒れこんでいるのだから勿論全身で密着している。外気の温度が低い所為と、お互いに軽装ということもあって体温が生暖かく混ざり合う。おまけに転がる者はワラをも掴むのが反射というもので、ほとんど抱き合っている状態だ。控えめに言っても破廉恥である。

 そんな状況に彼氏なんて作ったこともない幸子と、彼女なんていたこともない樹が耐えられるはずもなかった。

「きゃああああああ?!」

「わぁぁあああああ?!」

 再び絶叫して飛び退き、距離を取る。暗いので確認はできないが、恐らくお互いに顔は真っ赤を通り越して赤いだろう。

「あああああのごめんその俺が前方不注意だったばっかりにえっとあの本当にごめん!!」

「いいいいやあのアタシこそよく考えもしないで階段下りてたからごめん!!」

 そりゃ確かに、校舎に入るなり矢部を暗殺して「はぐれてしまった」という言い訳を用意して二階で西条を待っていたのは幸子の方で、待てど暮らせどやってこない西条を驚かしてやろうと出向いたのも幸子の方である。本来ならば向こうだけが驚くのが筋だろう。だが幾らなんでもこんな展開はあまりに予想外だった。

(やっちゃったよ西条の上に倒れこんじゃったよ思いっきり胸押し当ててたし迷惑なヤツだなんて思われたらどうしようああーくそアタシってば間が悪すぎるよ!)

 謝りついでに一気に後悔が襲い掛かってくる。嫌われたかもしれないという不安が怒涛の波となって頭の中を埋め尽くした。しかしこのまま黙っていても印象は悪くなるばかりだろう。そう判断した幸子は、決死の思いで言葉を繋いだ。

「あ、あのさぁ矢部、そう、矢部知らない? さっきまで一緒だったんだけどはぐれちゃってさ。うん、それで探しに来たんだけど――ッ!」

「あ、大丈夫?!」

 言い終える前に、幸子は右の足首に痛みを感じて膝をついた。すかさず手を貸してくれた西条には悪いものの、すっかり座り込んでしまう。時間が経つほどに痛みが増してくる。どうやら先程階段から転げ落ちた際に挫いたらしい。自分で触診してみたが、まだ腫れてはいなかった。

「ああ、うん。平気平気。ちょっとヒネっちゃったみたいでさ、大丈夫だよ。ハハ、まだ歩けるし」

 片足で立ち上がった後、幸子は両足で立って強がってみせた。実は割と痛い。体重をちょっとかけると関節が潰れてしまいそうになる。しかし、今でも負けん気だけは男勝りを自負できるぐらいだ。表向きを平気そうに取り繕うのは、幸子の特技である。

 しかしそんな表面は軽く見破られていたのか、もしくはただの過ぎたお節介なのか、西条がこれを放置してくれることはなかった。

「座って」

「え? ああ、だから大丈夫だって」

「いいから座って!」

 強い語気で西条が言う。こうも言われてしまっては流石に立ち続けているわけにいかず、幸子は大人しく従うことにした。

「ちょっとごめん、触るけど許してね」

 西条が右足に触れる。ちょっとドキっとしたが、捻挫が痛いためあまり嬉しくはなかった。

「ここ押さえると痛い?」

「いや……そこは別に」

「ここは?」

「そこも別に……」

「曲げると?」

「あいててててて!」

 一通りのチェックを終えたのか、西条が手を離す。ちょっと残念だった。

「剥離骨折まではいってないみたいだ。関節包にちょっと無理がかかっただけかな。軽い捻挫でよかった」

 ふぅと息を吐いてひとまず安心した様子の西条。しかしそこでこちらが立ち上がろうとすると、これはしっかりと制してきた。

「ああ、立つのはちょっと待って。捻挫は捻挫なんだから、安静にしてないと」

 そう言うと西条はこちらへ背を向けて座り込む。

「はい、いいよ」

「はい……って、え?」

「背負うから、おぶさって」

 西条のいきなりの行動に、思わず幸子は目が点になってしまった。

 おぶさるということは、つまりおんぶされるということで、おんぶというのは一方の人間がもう一方の人間を背中に背負うということで、つまりこの状況では幸子が樹の背中に乗っかるということである。そんな当たり前のことを一つ一つ確認しなければならないほどに、幸子は頭の中が真っ白になっていた。

「怪我人は遠慮しないで、早く」

 その一言でハっと我に返って、それでも多少焦ってはいたが、幸子は樹の肩に手を乗せた。

「……お、重いから、気をつけて、な」

「伊達に鍛えてないから大丈夫だよ」

 徐々に体重を預けようと思っていたものの、ズキリという痛みが足首を襲い、幸子は一気に倒れこんでしまった。どさりと全体重を背中に受けても、樹の姿勢は揺らがない。

「……大丈夫、だった?」

「捕手はしゃがむのが仕事だからね。よっと」

 すっと立ち上がる樹。そして幸子の体重などまるで意にも介さない様子で、改めて階段を上り始めた。流石に軽快に駆け上がるようにはいかない。のっしのっしと足場を確かめるようにして、暗がりの中を上っていく。

 幸子はなんだか申し訳ない気持ちになった。

「なぁ、西条」

「ん?」

「……悪い」

「気にしないでって。でも、なんで階段下りてきたの?」

 まさか、西条を待ち伏せする為に矢部を気絶させてやってきたなんて言えるはずもない。しかしここでまた嘘をつくことは、更に幸子に罪悪感を募らせた。

「いやその、矢部とはぐれちゃってさ……探してたんだ、あいつを」

「え、そうなの? まいったなぁ、矢部君も怖がりなのに……」

 溜め息をつく西条に、幸子はまた話しかけた。

「……お前ってさ、モテるんじゃないの?」

 その質問に、西条は苦笑する。

「どうしたの突然に」

「いやだって、真面目……だしさ、その、怪我人にも優しいし……」

「それって、実はあんまりモテる要素じゃないんだよね」

 西条はハハハと笑う。

「俺は真面目っていうか、なんだかな、野球に対して素直でいたいだけだよ。だから女の子と付き合ってる余裕もなかったんだけどね」

 階段の踊り場を過ぎて、もう一つ階段が見える。一旦深呼吸してから、西条はまた上り始めた。背にした窓から覗ける外は、不気味にひっそりと夜の闇をたたえている。でも、最高の安心感を手にしている幸子には関係がない。

「怪我をしている人は、そう、ほっとけないよ……本当に、駄目になっちゃうかも知れないから」

 薄ら笑いを崩さなかった西条だったが、その言葉の中に隠れている憂いを、幸子は聞き逃さなかった。しかし今ここで訊いてよいものなのかどうか、その判断ができなかった。

 幸子がそうしてやたら色んなことを考えては悩み赤面していようとも、そんなことは知らず樹は黙々と階段を上り廊下を歩いた。他人に触れていること、そして誰かを助ける為に動いているということ、この二つが、樹に安心感と気丈さを与えているのだ。

 ちょっと違和感を覚えたことは、背負っている高木が変な格好でいることだ。楽にしておけばいいものを、わざわざ背筋を伸ばして体重を身体のほんの一部に預けている。

「あのー高木さん、無理にキツい体勢とらなくてもいいよ……?」

「あ、ああいや、アタシはその、別に、何でもないから、うん、気にしないで」

 幸子の胸は、結構大きい。具体的な数値化は憚られるが、少なくとも、体育や部活の着替えのたびにからかわれるぐらいはある。こんなもの運動には邪魔なだけだし、肩も凝るばかりで不要なのだが、勝手に成長するものは仕方がないのだ。

 自分自身コンプレックスを持っているこれを、樹に押し当てるような真似が出来るはずもない。先程、不意に倒れこんだ時でさえ焦ったというのに。

「あ、あのさ、本当に重くない? 無理だったら降ろしていいから」

「怪我人は余計なこと考えない」

 一言で説き伏せられる。

 階段を上り終えた樹は一旦ヨイショと幸子を背負い直すと、再び歩みを進め始める。コツコツと廊下を歩く音が一人分響く。さっきまでは怖かった暗闇が、今では少し、開けて見えた。樹の背に乗った幸子は、気恥ずかしくもあり、情けなくもあり、しかしなにより嬉しかった。

 一目惚れなんてものを信じるつもりは毛頭なかったが、あの日、渾身のストレートを打たれた瞬間に見えた彼の輝かしい表情が、忘れられない。自分に恋なんてものには無縁だと思っていたが、気が付けば授業中、見上げた虚空に彼の顔を描いている自分がいた。彼氏を作ったことを自慢している友人を小馬鹿にしていたが、いつの間にか朝起きたとき、そろそろ彼も起きただろうかと考える自分がいた。

 ソフトボール部と野球部の、同じグラウンドで行われる別々の練習。そっと背中を見つめていたことを、彼は知らない。他の野球部員が練習している隙にひっそりと草むしりをしたり、キャプテン自らボール拾いに駆け出す姿を、自分はちゃんと見ていた。

 憧れていた背中が、こんなにも近くにある。

 幸子はなんだか照れくさくなって、誰にも見られていないのにそっぽを向いてしまった。樹の背中を見るのが恥ずかしくなったのである。

「あの、高木さん」

「んえ、ええ?! な、なに?!」

 誰にも見られていないのに慌ててしまう。

「ちょっとごめん、とても言いづらいんだけど」

「うん」

「休憩させて……」

「あ、わ、悪い!!」

 幸子の承諾を得たところで目の前の教室に入り、樹は片膝をついて丁寧に幸子を椅子に下ろすと、自分も近場の椅子に腰掛けた。本当は天上の電灯も点けたかったが、ルールはルールであるし、何より駆けつけられて変な疑いをかけられるのは御免だった。

「はぁ、俺もまだ鍛え方が足りないかな」

「ごめん、アタシ、重くて……」

「いや階段をのぼったのがキツかっただけだよ。人の体重ってこんなもんでしょ。男子より楽だったしね」

 練習には、二人一組を作って外野のライトからレフトまで、交互にお互いを背負いながら往復するというメニューがある。いつも高校生男子同士で背負い背負われしている樹からすれば、いくら普通の女子に比べて筋肉がついているとは言え、幸子の体重は背負うに容易かった。

 光がろくにない教室。その机の上で両腕を組み、顎を乗せる。昼寝にでもしゃれ込もうかという格好だ。一人で居たならば物陰の全てに怯えるところだが、今は隣に誰かが居る。しかし安心感はあるものの、どこか物寂しい。人の感情はその場の雰囲気に左右されるもので、樹は根拠もなく、なんとなく心細かった。

 その所為だと、思う。

「中学の時さ」

 気付けば、昔語りを始めていた。

「友達が故障したんだ。ピッチャーで、肘を壊した」

「え……?」

 幸子が口から漏らしたのは、何についての疑問符なのだろうか。樹が突然話し始めたことそのものについてか、またはその内容についてなのか。

「中学の、一年の時、才能のある奴でさ、新人戦は絶対に登板できるくらいのピッチャーだった。春の試合は絶対に他のチームを圧倒してやるんだって、俺と二人で意気込んで、冬の間、投げ込みをした。ずっとした。練習はマラソンばっかりだったから、練習が終わってから、ずっと」

 とても弱く、儚げな目。それが、今の樹に対する幸子の印象だった。いつもの気丈さが欠片も感じられないその目は、後悔とか悲しみを超えた、もっと空虚なものを映しているように思えた。

「『なんか今ピリっとした』って、笑ってたんだ。あの時は。……俺も、おいおい大丈夫かよなんて言って、真面目に考えなかった。それからも直球、カーブを投げた。その次の日、そいつは学校を休んだ。風邪でもひいたのかなと思ったんだ。でも違った。朝、肘に激痛があって整体院に行ったんだって、聞いた」

 まるで嘲笑するかのような語り口調。樹の目が見ているのは、過去だ。この虚ろな目を、幸子は知っている。

「目標持って努力した先が故障なんてふざけてる! って当時は思ったけどさ、違うんだ。努力の仕方がマズかっただけなんだ。監督たちがマラソンばっかりさせていたのは、俺たちをただシゴいてたわけじゃない。故障しやすい冬の時期は投げ込みや素振りを控えて、ランニングで身体作りをさせてたんだ。俺はそれに気付けなかった。一人のピッチャーの可能性を、完全に潰してしまったんだ」

 幸子は黙って聞いていた。生半可な気持ちで相槌を打つことは、とても失礼なことのように感じたからだ。他人が聞いてうんうんと頷けるような、軽い話ではない。それは、この目を見れば分かる。今の樹は、あの時の自分や、早川あおいと同じ目をしていた。

「結局そいつは陸上部に行っちゃってさ、俺が謝ったら、誰の責任でもないって言ってきたんだ。いっそ責めてくれたら楽だったのにね。そういう奴だったんだ。俺は自分を責めたよ、どうしてもっと気をつけなかったんだって」

 時間の流れが遅い。暗い教室では、壁にかけられた時計の針も見えなかった。しかし今は時間などどうでもいいというのが、樹と、幸子の本音だ。

「だからさ、俺が他人の怪我に敏感なのは、優しいから、とか、親切だから、とかじゃなくて、自分が不安なだけだよ。もう自分の目の前で可能性を潰す人は、出したくない」

 以前、樹から熱中症について諭されたことがある幸子は、そのことや、この捻挫の処置についての合点がいった。怪我や身近な病気に関する知識が深かったのは、彼の過去に暗いものがあったからだろう。色々な怪我に接するたびに、調べ増えていった知識に違いない。

「だから、高木さんの捻挫だって放ってはおけなかった。お節介だったかも知れないけど、ごめん」

「……お節介じゃ、ないって。ありがとう。アタシ、ガサツだからさ、放っておかれたら、あのままどんどん歩いちゃってたよ、うん」

 咄嗟に頭を下げてお礼を言う。すると、樹は小さく苦笑いを返してきた。

「はは、そう言ってもらえるとありがたい。……いやさ、変な話してごめん、俺もたまには、誰かに寄りかかりたくなるんだ」

 ハァと溜め息をついて樹は俯いた。高校に入って、いや、このことを他人に話したのはこれが初めてかも知れない。他人に話すような話題ではないと胸中に封印し続けてきたものなのだが、どういうわけか話したくなったのだ。疲れているのか寂しかったのか、いずれにせよ場の雰囲気というものに流されて口を開くと碌な事は言わないものだなと実感した。

 シーンとした静寂。

 うわやっちゃった、と思った。

 自分で作っておいてなんだが、樹はこういう雰囲気は好きではない。さっきまでの落ち着いた心境が嘘のように、今度は冷や汗などかきはじめる。しまったなちょっと喋り過ぎたなそりゃ事実は事実だけどやっぱ他人に言うことじゃなかったよねああ思慮の至らない俺ってば馬鹿だなホントっていうかこの話を他の人にされたらどうしようこりゃ恥ずかしいな、と一度思い始めると、不安が止まらなくなる。とりあえず取り繕おうとして樹は口を開いた。

「あ、あのさ、この話だけど、話半分に受け取ってもらえるととてもありがた」

「ア、アタシは!」

 直後に被せられる幸子の言葉。それだけならまだしも、突然立ち上がったりしたものだから余計に驚く。足首の痛みなど気にも留めずに、幸子は両足を踏ん張って立っていた。

「た……高木さん……?」

「アタシ、には、いつでも寄りかかってきていい。さ、支えてやるよ! いつでも! 不器用だけど、相談事とか、アタシはその、慣れてるからさ! うん!」

 緊張の極致で語るその頬が、リンゴのように真っ赤に上気していることに、樹は気付かなかった。暗い部屋ではいた仕方がない。

「た、高木さん、ちょっと足首はだいじょ」

「だからその、アタシと……」

 何が言いたいのか、それは嫌というほど自分で分かっている。だからこそ、一番の言葉を選ぶのに戸惑った。

「私はっ……!」

 すぅと息を吸い込み。

「私と……っ! 私と付き」

「ワッ!!」

「うわっ!」

「キャーっ!!」

 女、高木幸子の一世一代の告白劇は、突如上げられた早川あおいの奇声によって、儚くも未完のまま終わったのだった。

 

「いやね、誰かが教室にいるなーと思ったら、なんていうかさ、やっぱ驚かしたくなるじゃない」

「一握りの人だけだと思うよそれ」

 二条と一緒に左右から幸子に肩を貸して歩きつつ、樹は溜め息と共に言った。

「すまないな、制止しようと思ったのだが、時既に遅かった」

 ちっとも申し訳なさそうになく、苦笑しつつ二条が返答してくる。ちなみにもう“お題”である早川あおいの机の中身はゲット済みであり、今は帰路についているところだった。そして樹が確認したところ、机とロッカーを見る限り、夏休みの課題を解くのにどうしても必要な参考書の類が残っていたので、やはり置き勉を回収させるためというのが、この肝試しの裏の主旨らしかった。言うとまた制裁が下りそうなので、口には出さなかったが。

「二条に責任は無いよ」

「あ、なんだよそれ、二人してボクを悪者みたいに」

「悪者だよ、おかげで寿命が縮まったしね」

「あーあー、情けない。こんな肝っ玉の小さい男子が四番打者だなんて」

「どんな打者でもビーンボールには驚くよそりゃ」

「同じく」

「あ、二条君まで。ボクとペアのくせに」

 そんな他愛ない話をする皆の中、幸子は黙って樹と二条の肩にもたれていた。しかしこうしてみるとやはり男性陣の力は凄まじい。二人も揃えば、幸子の体重などたちまち浮かしてしまうようで、もはや自分で足をつくのはちょっとバランスをとるためにだけという程度である。

 それはさておき、幸子は正直、どんな話題を話していいか分からなかった。そりゃ乙女心というものを考えれば、さっきまで告白しようと考えていた男子が今まさに自分の右側に密着しているのだから、言葉が口から出なくなるのは至極当然というところだろう。

 一人だと怖く、二人だと少し安心というこの暗い廊下も、四人で歩けばもはや怖いものなしで和気藹々としたものだった。しかしそれでも二人でいた方が良かったと幸子が思うのは、これもまた当然のこと。

「でもさ、なんで幸子と西条君があんなトコに居たの? 確か幸子は矢部君とペアだったはずだよね」

 どこか不機嫌そうなあおい。怪我をしていることは先刻告げたのだが、どうしてこうなったのかは伝えていなかった。が、本当の事を伝えるわけにもいかない。

 ところが、幸子が訳を話そうとすると、それよりも早く樹が話し始めた。

「矢部君とはぐれちゃったみたいでさ、探してる最中に俺と会って、そのとき階段から転げ落ちたんだ。捻挫してたから、俺があの教室まで運んだんだよ」

「ふーん」

 要求通りに訳を話したはずなのだが、お気に召さなかった様子。相変わらず不機嫌そうに口を尖らせているあおいを見た樹と幸子は顔を見合わせて、アイコンタクトで以って思案した。結果、幸子が素直に謝ることに決した。

「ごめんね、アタシがヘマした所為で迷惑かけちゃって。悪いのはアタシだから、西条は責めないでやって」

「う……いやまぁ、そういう意味じゃないんだけどさ……」

「如何なる時でも他人をいたわる事を忘れない、西条の姿勢は評価出来るものだと思うが」

「だからー、そういう意味じゃないんだって……」

 モジモジと言葉を濁すしぐさには、いつものハキハキしたあおいらしさがなかった。その理由は、恐らく本人しか知らない。

 どきどきわくわくが詰まった夏の合宿、肝試し。深まった仲もあり、あと一歩で実ったかもしれない恋もあり。短いようで長かった変なイベントはようやく収束へ向かう。幸子はなんだか申し訳なくなって、感謝を述べた。

「西条」

「ん? なに?」

「ありがとな、いろいろ」

「こちらこそ。イレギュラーのおかげで楽しかったしね」

「あはは」

 その様子を見て、面白くないという顔の者が一人。

「……ボクも捻挫してみようかな……」

 ぽつりと呟いたその一言を、聞き取れた者はいなかった。

 

 

「ところで高木さん」

「?」

「何か忘れてない?」

「え、何かあったっけ?」

「いや、思い出せないなら、その程度のことだろうからいいんだけど」

 

 その十数分後、肝試し最後の組が校舎に入った際、とてつもなく恐ろしい体験をしたという。

 その者達が言うにはなんでも、トイレ付近から謎のうめき声が聞こえたとのこと。その声は「~~はどこだ、~~はどこにいった」という意味の言葉を、しきりに叫び続けているのだとか。

 この話は噂好きの女生徒らの間で長きに渡り語り継がれ、後に成立する恋恋七不思議の一つ「どこださん」として恐怖の対象になるのだが、それはまた別の話。

 

「ここどこでやんすかー、高木さんはどこいったんでやんすかー、誰か助けてほしいでやんすー」

 気絶から目覚め、夜中のトイレで泣き続ける矢部の声は、ただ虚しく響いていくだけだった。

 

 

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