御坂美琴は、自分の目の前で展開された光景を信じることができなかった。
鉄橋で上条に説教され、操車場へと向かっていた彼女。すでに時刻は八時四十分を回っていて、実験が開始されていることは明らかだった。最初は素直ではなく拒否の意思を見せていた美琴ではあるが、時刻を確認すると血相を変えて上条と共に走り出したのだ。さすがに、佐倉が死ぬという事態だけはなんとしても避けたかったのだろう。
およそ二十分ほどの道程を全速力で走り、ようやく操車場へと到着する。無我夢中で駆け抜けたために息が苦しい。酸素を求めて両肩が大仰に上下していた。隣では上条が同じように肩で息をしている。
「はぁっ、はぁっ……よし、急ぐぞビリビリ!」
「えぇ。早くしないと、佐倉が――」
上条の呼びかけに、分かっていると応答しようとした矢先、
――――パァン、という乾いた音が、操車場に木霊した。
『ッ!』
突然聞こえた効果音に、二人は思わず全身を硬直させる。
空気を直接叩いたようなその音は、どんな素人が聞いたとしてもすぐに正体を掴むことができるだろうものであった。テレビや映画でしょっちゅう耳にする、メジャーな音。
……銃声だ。
(もしかして、あのバカ……!)
嫌な予感が脳裏をよぎる。頭に浮かぶは憎たらしい黒髪のスキルアウト。思い込んだらなりふり構わず一直線に突き進む愚かな友人が、銃で撃たれる映像が鮮明に浮かぶ。
以前『妹達』の実験を目の当たりにしていたからかもしれない。血を流し、臓器を零した佐倉の死体が嫌というほどはっきりと想像できてしまって、美琴は無意識のうちに拳を握り込んでしまう。
「今の銃声……まさか佐倉が――――って、おい! ビリビリ!」
やけに冷静に状況を判断している上条に構うことなく、美琴は音源の方を目指して走り出した。すでにスタミナは尽きかけていたが、そんなことをいちいち気にしているほど、今の彼女に余裕はない。
一方通行の能力によるものなのか、無残に破壊されつくしたコンテナの残骸の間を駆け抜けていく。
操車場の総面積のおよそ半分を占めるコンテナ群。数を数えることも煩わしいほどの量のそれらは、一つの例外もなく破壊され尽くしていた。……佐倉への心配が、さらに募る。
(私が行くまで死ぬんじゃないわよ、佐倉!)
切実に彼の生存を願いながら、彼女は駆ける。
まだ知り合って数週間ほどしか経っていない彼ではあるが、友人であることに変わりはない。たとえ付き合いが短かろうが、性別が異なろうが、佐倉望は彼女のれっきとした友人だ。それは間違いない。
まだ話したいことは沢山ある。
今回のお礼も言わなくてはならない。
彼の無謀さを説教してやらなくてはならない。
彼に対する怒りや感謝は尽きることはなく、彼と共に明日を過ごしたいという思いは募るばかりだ。
(佐天さん達と一緒に買い物行くんだからね!)
数日前に佐倉のいないところで勝手に佐天が提案した約束だ。本人不在のまま承諾してしまったが、彼の何気にお人好しな性格上断ることはあるまい。何気に、美琴自身も楽しみにしていた。
そんな約束を思い浮かべながら走り続けていると、ようやく開けた空間に辿り着く。視線の先の光景をマトモに確認することもせず、美琴は耐えられなくなったように叫んだ。
「佐倉!」
――――御坂美琴は、目の前で起こった出来事を信じることができなかった。
まず彼女の視界に入ってきたのは、全ての色素を失った白髪の青年だ。全体的に華奢なイメージを抱かせる彼は、身体中に切り傷を負いながらも全身から膨大な密度の殺気を放っている。姿を見るだけで鳥肌が立ち、歯の根が噛み合わなくなる。
学園都市最強の超能力者、一方通行。最強の名を欲しいままにする彼は、普段の彼からは想像できないほどの傷を全身に負った状態で足元の『何か』を何度も何度も踏みつけていた。
次に目にしたのは、彼が踏みつけている物体。
ヒトガタの何かが二つほど折り重なっているそれは、踏まれるたびに苦悶の表情を浮かべ、苦痛の呻き声を漏らしている。
茶色の短髪に、軍用ゴーグル。上に来たサマーセーターはあちこちが破れ、プリーツスカートも土で見るも無残に汚れている。
どこか無機質な瞳には痛みのせいか涙が溢れ、彼女が激痛に耐えていることが容易に想像できた。
目鼻立ちの整った顔は、美琴が毎朝鏡で見るものと酷似している。……というか、瓜二つだ。
『妹達』計画の産物。御坂美琴のDNAマップを利用して生み出された体細胞クローン。それが彼女だった。
……だが、クローンであり感情がないはずのミサカは、今目の前で何かを庇いながら必死に一方通行の攻撃に耐えている。華奢で、防御力なんてロクにないであろうその身体で、なんとか何かを守り抜こうとしている。
釣られるようにして、美琴の視線が下へと動く。
――――赤い、液溜まりが広がっていた。
どこからかとめどなく溢れてきている赤の中心には、先程のミサカともう一人の人影。
クセのない長めの黒髪。布地の大半が黒く焦げ付いているワイシャツ。黒の学生ズボン。
普段ならば健康的な色を浮かべているはずの四肢は生気のない土気色で、とても生きているようには思えない。
いつもならば黙ることはなく四六時中言葉を発しているような『彼』は、一方通行に踏まれながらも一言たりとも言葉を漏らす気配はない。
……最悪の光景が、目の前に広がっていた。
(……ぁ……あぁ……!)
「オラオラァッ! 人形みてェに寝そべってンじゃねェよ雑魚がァッ! テメェにはしっかり仕返ししねェと俺の気が収まらねェンだからよォ!」
「ぐっ……大丈夫、ですか……佐倉、望……!」
「テメェもモルモットの分際で鬱陶しィンだよ三下がァ! 大人しくソイツ引き渡して無様に殺されりゃイイだろォが!」
「断わり、ます……! と、ミサカは全力で拒絶の意を示します……!」
「チッ、ゴチャゴチャ言ってンじゃねェぞ人形の分際でよォ!」
「う、ぁ……!」
一際強くミサカの背中が踏みつけられ、彼女はたまらず声にならない叫びを上げた。すでに内臓に支障が出ていてもおかしくはないほどのダメージを負っているが、それでも彼女は耐え続ける。
目の前で繰り広げられる一方的な暴力に、美琴の中で何かが崩れようとしていた。この数日間見てきた地獄の集大成が、今彼女の中で形作られていく。
無表情ではあったが、好奇心の塊で自分のアイスを勝手に食べたミサカ九九八二号。
佐倉達といたときに姿を現し、無慈悲な言葉を浴びせてしまったミサカ一〇〇三一号。
研究所に忍び込んだ際に戦闘した、アイテムと名乗る暗部組織。
毎回常に死と隣り合わせであった彼女。そんな美琴の中で少しづつ溜まり続けていた感情……怒り、絶望、悲しみ。普段の彼女があまり表に出すことはないマイナスの感情が、佐倉達を目の前にして風船のように急激に膨張を始めた。
彼らを助けなければ。一方通行に殺される前に、何としてでも。
しかし、彼女の想いとは裏腹に身体は動くことを拒否し続ける。怒りが臨界点に到達し、一刻も早く一方通行をぶん殴りたいのに、一度彼の恐ろしさを経験してしまったからか、足が完全に竦んでしまっていた。
(こんな、時に……!)
つくづく、自分の弱さが嫌になる。
学園都市に七人しかいない超能力者と謳われていても、自分は所詮無力な女子中学生なのか。大切な友人一人さえ守ることができない、そんな非力な子供でしかないのか。
悔しさのあまり拳を握る。恐ろしさのあまり肩が震える。
いくら強大な力を有していようと、彼女はあくまで一中学生に過ぎない。そんな彼女が、化物を相手にして自由に行動の意志を選択できるとは到底思えない。
(チク、ショウ……!)
無力な自分に歯噛みする。もうどうしようもないのか、と絶望に浸りかけた彼女だったが。
「佐倉達から離れろ、この三下がぁあああああああああああああああ!!」
隣で突然放たれた雄叫びに、思わず顔を上げた。
怒りを露わにしているツンツン頭の少年は、決して最強の能力者などではない。
複数人相手の喧嘩では逃げの姿勢を貫くし、降ってくる瓦礫をぶち壊すこともできない。
勉強なんて得意ではないから、この夏休みはほぼ毎日補習の嵐だ。単位が危ない悪友のスキルアウトと共に、先日も肩を並べて教室に閉じ込められていた。
彼には能力というものはない。あるのは奇妙な右手と、絶対的な信念だけ。
彼はただ、自らの内から湧く感情に従って、真っすぐに進もうとしているだけだ。
「……あァ?」
不意に放たれた罵倒ともとれる叫びに、一方通行は不機嫌を隠すことなく声の主である上条に視線を移す。
人も殺せそうな視線で上条を睨みつけると、殺気を滲ませた声で問いかけた。
「……誰に向かってモノ言ってンだよ、テメェ」
他者を完全に見下した声だった。自分以外はすべて雑魚で、万人を三下としか思っていない強者の声だった。
自分に意見した無礼者に怒りをぶつけ、すぐにでも命を刈り取らんばかりに殺気をぶつけていた。
――――しかし、上条当麻は怯えない。
今まで培ってきた信念、正義への執念、他者を救うことへの異常なまでの執着心が彼を支える。友人を、大切なクラスメイトを手にかけた一方通行への怒りを糧に、上条当麻は頑なに吠える。
「いいから……ゴチャゴチャ言ってねぇで佐倉達から離れろっつてんだよ! 聞こえねぇのか三下ぁ!」
「……面白ェ」
上条の叫びに、心底楽しそうに口元を歪ませる一方通行。久しぶりに活きのいい獲物を見つけたと言わんばかりに舌なめずりをしている。これからこの雑魚がどういう動きを見せてくれるのか、心の底から楽しみにしているような笑みを浮かべる。
……そして、一方通行が動いた。
「そンなに離れて欲しィってンなら、しっかりキャッチしろよヒーロー?」
『!!』
小馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、一方通行は倒れたままの佐倉とミサカを同時に
既に抵抗する力も残っていないのか、二人は蹴上げられたまま上条達の方へと吹っ飛ばされてくる。まったく力の入っている様子の見えない佐倉達は、頭を下にして砂利の地面へと落下していく。
一方通行が取った予想外の行動に、二人は慌てた様子で地を蹴った。上条は佐倉を、美琴はミサカをそれぞれ両腕でなんとか受けとめる。
「……っ、ぅ……」
「あ、アンタ! 大丈夫なの!?」
「ぉ……お姉、様……?」
いきなり現れた、本来ならばこの場にいないはずのオリジナルに抱きかかえられているミサカは戸惑いと驚きの混ざった声を漏らす。痣だらけの顔を必死に上げてなんとか美琴の顔を見ようとするが、予想以上に痛みが蓄積しているのか上手く身体を操れないようだ。
こんな状態にも関わらず、この子は佐倉を守ろうとしていたのか。
無謀とも思える行動に冷や汗が流れる。同時に、先程まで指一本動かせなかった自分の愚かさに怒りを覚えた。
ミサカを抱えたまま悔しそうに下唇を噛む美琴。そんな彼女の元に、血みどろの佐倉を抱えた上条が近づいてきた。
「さ、くら……?」
彼の惨状を改めて確認し、信じられない……信じたくないと言った様子で美琴は目を丸くする。
右胸の辺りに、半径一センチほどの風穴が開いていた。先ほどから大量に流れている血液はそこから溢れているらしく、シャツも胸を中心にしてより濃く汚れている。
上条はそんな彼を美琴の傍に寝かせると、一方通行の方へと向き直った。
「……御坂、佐倉を頼む」
「え……?」
「佐倉を連れて物陰に隠れてろ。後は、俺がやる」
「で、でも、それだとアンタが――――」
「二度は言わないぞ、御坂」
「っ」
愚かにも自分で戦うと言い出した上条を止めようとするが、彼の強い口調に思わず黙り込んでしまう。反論は許さない。そう言わんばかりの勢いで、上条は美琴に命令する。
「このままそいつらをここに置いていたら巻き添えになっちまうかもしれない。流れ弾が飛んできてお陀仏なんてことも十分あり得る。せっかく助けたのに、そんなことになったら目も当てられないだろ?」
「それは……」
「それに、お前が手を出しちまうと実験が中止されなくなるかもしれない。これは、無能力者である俺が一人で倒すことに意味があるんだ。分かってくれ、御坂」
「…………」
どうしても考えを改める気はないらしい上条を見上げ、そして傍らで虫の息である佐倉を見やる。
この馬鹿は大した力もないくせに、自分の為に命を投げ出した。絶対に勝てるはずはないと分かっていたのに、彼は決して
かつて佐倉の部屋で美琴がとりつけた約束を、佐倉は愚直にも守ってしまった。そして、こんな状態にまで陥ってしまった。
(私の、責任だ……)
無責任なことを言ってしまった、と今更ながらに後悔する。自分はどれだけ愚かな約束をさせてしまったのだろう、と過去の自分を責めたくなる。
こんな自分に、何かができるとは思えない。
『妹達』の誕生のきっかけを作った上に、友人が死地に赴く原因を生み出してしまった自分に、いったい何ができるというのか。
「……分かった、わ」
――――何が超能力者だ。こんなに苦しんでいる人がいるのに、何もできないくせに。
悔しさを涙に変え、怒りを嗚咽に変えながらも、美琴は佐倉を背負い、ミサカの肩を支えてその場を後にした。無造作に転がっているコンテナの裏を目指して、ゆっくりと足を動かしていく。
「おいおい、三下一人で俺様とやろォってか? これはまた随分と嘗められたモンだなァ」
「……ごちゃごちゃうるせぇんだよ」
挑発を繰り返す一方通行に、上条は強い意志の灯った双眸を向ける。
己の武器は右手だけ。特殊な装備なんてものは持っていない。最強の能力に対抗できるような、素晴らしい策があるわけでもない。
それでも、上条当麻は前に進む。己の内から湧いてくる感情に従って、ヒーローの道を突き進む。
「覚悟しろよ最強。てめぇが抱いているチャチな幻想を、俺が今日この場でぶち殺してやる!」
これまでいくつもの幻想を殺してきた最弱の右手を強く握り、上条当麻は大地を蹴った。