死せざる少女の人形歌劇《グランギニョル》   作:ナナヒカリ

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影の森の前奏曲《プレリュード》

 籠った土の匂い。植物、動物の死骸の腐敗臭。湿ついた雨のかおり。そして、微かに血の匂い。

 さわさわと葉の掠れる音。ざわざわと枝の揺れる音。枝から水滴の落ちる音。自分の靴が落葉の積もった腐葉土を踏みしめるザクザクという(あしおと)。そして獣の、駈ける音、うなり声、獲物を捉えて引き裂く音。

 太陽は見えない。何重にも渡った枝と厚い雲に覆われ。以前にそれを見上げたのはいつだったか。前にも後ろにも木々が立ち並ぶばかり。既に方向感覚は麻痺している。生き物の姿はない。ただ音のみで動物がいることは分かる。ねじくれた木は、油断しているとその尖った枝の尖端でこちらの目を抉ってきそうだ。

 

 タラブヘイムの貴族家の三男であるベルンハルト=グリュンヴァルトは道を急いでいた。エッセンからの帰路、森の中を抜ける道が2つに別れたあの場所で自分が間違えたことは分かっていた。道が段々先細りになり、やがて森に完全に飲み込まれた時点で戻るべきだったのだ。しかし彼は自分の勘を信じ、今や引き返す方向すら分からない場所へと踏み込んでいた。

 彼は貴族にしては華美過ぎない服装と手荷物、そして剣のみを持って旅をしていた。グリュンヴァルト家は慣習法の多い土地タラブヘイムならではの法律貴族である。エッセンには当地の法律の収集の目的で訪れたが、彼自身の嫁探しも兼ねていた。彼は自分がグリュンバルト家のやっかい者である事実を自覚し、早く一人立ちしたいと願っていた。年の離れた兄達に疎まれるのはもうこりごりだ。

 

 突然頭上でバタバタという羽音がした。見上げると木の合間から蝙蝠が一羽飛び立つところだった。蝙蝠はせわしなく翼をはためかしながらベルンハルトの目前へと降り、そのまま木々の合間を低く飛んでいった。

 大きな蝙蝠だ。ベルンハルトは少しその蝙蝠に興味を抱いた。まだおそらく昼頃なのに巣から出ているのも珍しい。もっとも太陽は厚く黒々とした雲に覆われている。蝙蝠が夕暮れと勘違いするのも無理はない。

 

 ベルンハルトは特に理由なく蝙蝠の後を付いて行った。ひょっとするとどこかに導いて行ってくれるかもしれない。

 彼は首を振って自分のロマンチックな妄想を否定した。馬鹿馬鹿しい。蝙蝠が道を教えてくれるなど、あるものか。大体ただでさえ自分には愚かしい想像に陥る癖があるのだ。今回のエッセン行だってエッセンほどの辺境の都市なら美しく貞淑でたおやかな、例え将来性のない貴族の三男坊であろうと嫁いでくれる箱入り娘がいるのではないか、という自分の妄想から始まったのだ。法律の収集は上首尾に終わったが、だれも実入りのない結婚には乗り気ではなかったではないか。

 そして何よりベルンハルト自身もエッセン人の田舎っぽい陰気さにうんざりしたのだった。幻想は打ち砕かれた。

 

 蝙蝠はあまり早くも遅くもなく一定の速さで飛んでいる。ベルンハルトは大した苦労もせずに追いかけることができた。

 黒い影は右に左にとユラユラ動きながら全体として一つの方向へと進んでいる。また一雨くるかもな。ベルンハルトは思った。荷物は先程のにわか雨を吸い込みずっしりと重くなっていた。一休みしたかった。蝙蝠の巣の洞窟でもあれば好都合だ。

 

 鬱蒼と繁っていた木々がまばらになった。もしかすると開けた土地に出られるかもしれない。

「ッ」

 油断していると尖った枝に肌を引っ掻かれた。布地が裂け、彼の柔白い皮膚から赤い血が流れた。ついてない。

 

 不意に視界が開けた。

 始めに目に入ったのは蔦の絡まったアーチ。古びてはいるが朽ちてはいない。そしてその奥の館が目に飛び込んでくる。

 古いライクランド様式の館だ。おそらく100年以上前に建てられたと思われる。窓は広く、深紅の煉瓦が特徴的だ。庭園が隣接しており、フードを被った庭師らしき影が立ち働いているのが見える。奥には離れがあるようだ。それはまさしく一流のライクランド貴族の屋敷だった。

 しばし見惚れていたベルンハルトは思い直した。しかしここは西の果てオストマルク選帝侯領だ。ライクランドに行くには、彼の故郷タラベックランドを越え森を抜けなければならない。考えられるとすれば、ライクランドの大貴族の別荘というところか。こんな辺鄙な土地に別荘を持っているほどなのだから余程大金持ちで財産が有り余っているのだろう。今の時期なら宮廷は忙しいだろうから、いるのは管理人か。どちらにせよ身分を明かせば一夜の宿は貸してくれるだろう。

 

 ベルンハルトは一歩を踏み出した。不意に頭に浮かんだライクランド貴族の令嬢との恋という考えを、強く打ち消す。まったく俺はこれだから。兄達を見るがいい。夢など描かず、家業の為に忙しく働いている。次兄も同じタラブヘイムの身分相応の貴族の娘と結婚した。現実を見ろ。大体格式高く傲慢で誇りばかり強いと評されるライクランドの貴族が、自分のようなタラブヘイムの三男坊の為にわざわざ嫁いできたりするものか。エッセンがタラブヘイムと比べて田舎なように、大都市タラブヘイムだってライクランドの帝都アルトドルフに比べれば田舎の家畜小屋なんだ。

 

 アーチをくぐり白い石の敷き詰められた小道を通った。これまた古く分厚いオーク材の扉の前に立ち、萎びた手の形をしたノッカーを鳴らした。このノッカーは大分不気味だ。おおかた持ち主の趣味が倒錯しているのだろう。

 扉がゆっくりと開いていった。古いだけあって蝶番は軋み、地の底から響くような深くそれでいて刃の様に鋭い音が響いた。

 

 扉が開けば、目の前には幼い少女が一人。なぜか扉を開けたであろう召使いの姿はない。

 長い襞のついたスカートを両手で持ち上げ、舞台の開幕のように一礼する。

 

「ズィルヴァニアファミリーへようこそ」

 

 幼子特有のまだ邪念のない透き通った声を玄関に響かせると、どこの貴族社会に出しても恥ずかしくない一礼が嘘のように両手を広げて快活に飛びついてきた。

 

「ねぇっ、『お兄さま』って呼んでもいいかしら?」

 少女は膝に抱きつくと上目遣いで聞いた。ベルンハルトは狼狽して取り乱した。

「すまない、僕は……」

「知ってるわ! お客さまでしょう?」

「そうなんだ。道に迷ってしまって、森の中で……」

「蝙蝠に会って案内された、とか?」

「なんで分かるんだい?」

 ベルンハルトはビックリして尋ねた。

「だってその蝙蝠、あたしのペットだもの」

「……ああ、なるほど」

 ベルンハルトはようやく合点がいった。蝙蝠のペットとはおかしなものだとは思ったが。

 

「ええと……それで宿を貸してもらいたいのだけれども、君のお父さんやお母さんは……?」

 ベルンハルトがそう言った時、頭上から低い声が聞こえた。

「君、そこで何をしているんだね?」

 奥の階段を上がった踊り場にいつの間にか一人の男性が立っていた。幾分略式だが、その服装と立ち居振舞いは紛れもなく一流の貴族のそれだった。顔は影になってよく見えない。

「お客さまよ、お父さま」

 少女が叫んだ。

「タラブヘイムのベルンハルト=グリュンヴァルトと申します。道に迷ってしまい、失礼ですが一夜の宿をお貸し願うわけには参りませんでしょうか?」

 ベルンハルトも声を張って意図を伝えた。

「勿論構いませんよ。ベルンハルト殿。私はボリス=フォン=シュヴァルツトーア。この家の主です。どうぞ一晩と言わずご用の済むまで当家にご滞在下さい」

 ボリスと名乗った男は深いバリトンで答えた。そして奥の間へと消えた。

「後ほど晩餐にご招待しましょう。他の家族の紹介もそこで」

 

 ベルンハルトは狐につままれたようにその場に立ち尽くしていた。

「ふふふ。お客さま、こっちよ」

 少女が手を引いて促した。

「あ、ああ」

 ベルンハルトは少女のなすがままに付いていく。絵画や彫刻の並ぶ部屋や廊下を幾つも通り過ぎて案内されたのは豪華な一室だった。シーツまで引いてある。ほこりまで払っており、つい先程掃除したかのようだ。

「ここがお客さまの部屋よ!」

 少女が精一杯両手を広げて部屋を紹介する。なるほど、調度品は豪勢だ。色は深紅と黒が基調のようだ。唯一気になったのは窓が鎧戸になっていることだった。

「客室にしては豪華だね」

「だって『お客さま』のためですもの」

「え?」

「それより、さっき言ったこと覚えてらっしゃる?」

「『お兄さま』のことかい? なんで僕をそんな名で呼びたいの?」

 ベルンハルトは笑いながら聞いた。

「ごっこ遊びよ。退屈しのぎの、ごっこ遊び。この館にいる間、お客さまはわたしの『お兄さま』になるの! どう?」

 ベルンハルトは笑った。笑いながら少女の頭に手をのせた。

「そんなことなら全然構わないよ。僕の『妹君』はなんて名前なんだい?」

 

 少女はニンマリと笑った。

「エムシェレよ、お兄さま。エ・ム・シェ・レ。」

 そして両手を広げ、クルクルと回った。スカートがふんわりと広がった。踊り終わるとまたも膝に抱きついた。

「ありがとう! わたしの遊びに参加してくれて! お兄さまはいい人ね」

「1つ教えてくれないか? 君達はここに住んでいるのかい?」

 ベルンハルトはエムシェレという変わった名前の少女に訊いた。

「ええ、そうよ。わたしたちはここに住んでいるの」

「じゃあ、君達はなんで……」

「あ、お兄さま! 血が出てるわ」

 エムシェレがベルンハルトの二の腕を掴んで言った。確かにさっき木の枝で引っ掻いたところだ。エムシェレは、ベルンハルトが止める間もなく赤い血を流す傷口に口をつけた。

「な、駄目だろう! そんなことをしては!」

 ベルンハルトはついエムシェレが自分の本当の妹かのように叱りつけてしまった。瀉血という治療法があるように、血は汚れているものだと彼は信じていた。

 エムシェレはそれには耳を貸さず、口の端についた血を舌で綺麗に舐めとった。

「ごちそうさま。それでなぁに? お兄さま」

「いや……」

 ベルンハルトは少女の無垢な笑顔に拍子抜けしてしまった。

「いや、君達の家族はなんで……」

 

 

 

「なぜ当家がここに居を構えているか、ですか?」

 エムシェレに呼ばれて出席した夕食。長い卓の末席に座ったベルンハルトは上座のボリスに尋ねた。

「ええ。見たところ四方を森に囲まれているようですし、色々とご不便も多いのではないですか? 差し支えなければお聞かせ願いたいのですが」

「特に理由はありませんが……中央の社交界はなにかと……息苦しいところがありまして、こうしてある種の隠遁生活を送っております」

「なるほど」

 ベルンハルトにはその気持ちはよく分かった。連日連夜の舞踏会に晩餐会、演奏会に会食と止まるところを知らない享楽。二流貴族のベルンハルトですらうんざりするほどであるのに、おそらく最上位の貴族とおぼしき目の前の男が社交界のあれこれを厭い都を逃げ出したとて何の不思議があろうか。もっともそういう貴族の話をベルンハルトは聞いたことはないが。

 

 晩餐の席には屋敷の主ボリス=フォン=シュヴァルツトーア伯爵にその娘エムシェレ、エムシェレの兄という細面の美男子、白く透き通る肌をした黒髪の姉と、さらに青白く血管すら透けて見えそうな伯爵夫人がいた。他に何人か家族がいるらしいが事情があって出てこれないらしかった。

 限りなく生に近い、汁のしたたる肉を食べ、真っ赤なワインを飲みながらベルンハルトは他の者たちが食べる量が明らかに少ないのを怪しんでいた。食べているのは彼と、豊かな金髪を肩に垂らしたエムシェレだけだ。そして、彼はもう一つの事実に気がついた。薄暗かった邸内に比べ燭台の灯りに照らされた食卓は明るく、彼には容易に見てとれた。全員の肌の色が病的なまでに白いということを。ただしこれも例外はエムシェレだ。彼女の肌だけはきれいな飴色に染まっていた。生粋の帝国人ではないのかもしれない。

 彼がエムシェレから視線を上げると彼女の兄と目が合った。その男は鋭い眼差しでベルンハルトを睨んでいた。

 

 その夜、部屋でベルンハルトが横になっていると扉を叩く者がいた。

「お兄さま、あたしよ」

 開けるとエムシェレがそこに立っていた。紅いドレスを着て。

「どうしたんだい? こんな夜遅くに」

「お話をして欲しくて」

 エムシェレは微笑んで言った。

「眠れないの」

 

 うーん、とベルンハルトは唸った。彼自身は法律の条文はともかく騎士物語や英雄譚を好んで読むような人間ではなかった。残念なことに当代流行りの戯曲も知らない。

「じゃあ僕のつくった話でいいかい?」

「ワーイ」

 エムシェレは手をぱちぱちと叩いた。トトトと部屋に駆け込み、寝台のシーツの上に腰かける。

「ね、お兄さまも座ってお話しして」

 ベルンハルトはエムシェレがポンポンと叩いた場所に腰を下ろし、おもむろに口を開いた。

 

「昔々、あるところに美しいお姫様がいました。

名前は……そう、『エムシェレ』といいいました。

エムシェレ姫はお城の高い高い塔に、たった一人で住んでいました。毎朝起きると姫の枕元にはホカホカのパンと瓶に入ったミルクが置いてあり、昼にはケーキ、そして夜にはソーセージにひき肉と野菜の入ったシチュー、赤ワインが食卓の上に載っていました。それは姫と城にかかった『魔法』のためだったのです。姫の住む塔は高く、誰も訪ねて来はしませんでした。

 

ある朝、姫は思い立って城の外へ出ようと決心しました。塔の長い長い階段を下りるけれどもいつまで経っても下に着きません。しまいに疲れて眠りに落ちてしまいました。

それもその筈、城にかけられた『魔法』のせいで姫は外に出られなくなってしまっていたのです。その『魔法』は、エムシェレ姫の美しさを妬んだ隣国の魔女がかけた呪いでした。『魔法』がかかっている間、姫はずっと城の中に閉じ込められてしまうのです。そしてそのまま、姫の美しさに気づく者が誰もいない世界で生きていかなくてはならないのでした。

 

姫は城の外に出ようとあれこれ方策を巡らしたけれども、決して外に出られることはありませんでした。姫はその日がいつか来るだろうと期待していたけれども、結局来ないのでしまいに深く悲しんでしまいました。

姫はある日、悲しみがあまりに深くなってしまったので、塔の窓から身を投げ出してしまいました。姫は風をきって落ちる間、ずっと泣いておりましたが、不意に羽ばたきの音を聞いて泣き止みました。それは城の塔の屋根に巣をつくった蝙蝠でした。蝙蝠は必死にその小さくか弱い羽を動かしながら姫に喋りかけました。

『エムシェレ姫はわたしの様な蝙蝠にまで毎朝パンの残りをくださいました。そのご恩は忘れません。どうかわたしの羽を掴んでください。きっと姫と一緒に飛んでみせましょう』

姫は蝙蝠の思いに打たれて、蝙蝠の羽の先の細い指を握りました。

その途端、光が溢れ、姫は気を失ったのです。

 

目を開けると、そこは住み慣れた城の中。がっかりして横に目を向けると、そこにいたのは美しい青年。華麗な服を着こなしております。青年は口を開き、エムシェレ姫に喋りかけました。

『わたしはあの蝙蝠、そして隣国の王子です。魔女に魔法をかけられ蝙蝠に変えられ、城の屋根で過去を忘れて暮らしていたのですが、あなたと手を繋いで元の姿に戻ることができました』

エムシェレ姫は自身にかけられた『魔法』も解けていることに気がつきました。もう城の外に出ることは自由なのです。しかし彼女はもうそれを望みませんでした。

姫は隣国の王子とともにいつまでもいつまでも幸せに暮らしたとさ」

 

 ベルンハルトは語り終えた。横を向くとエムシェレが無表情で座っていた。しまった、とベルンハルトは思った。馴れない物語なんぞするから、面白くなかったのだろう。

 エムシェレはギギギっと横を向き、そのガラス玉のような大きな目で彼を見つめた。口を開くと赤い舌が見えた。

「とおぉぉぉーーっ、ても面白かったわ」

 ベルンハルトはエムシェレの言葉を聞くと、突然体がこわばるのを感じた。汗が一筋首を流れた。心臓の音が耳元でやけに大きく鳴り響いていた。

「オヤスミのキス」

 エムシェレは彼の首筋に唇を押しつけ、そのまま数秒固まったかと思うと猫のような敏捷な動きで部屋を出ていった。バタンと音をたててドアが閉まった。不意に痛みを覚え首に手をやると、指先に微かに血がついていた。

 

 

 

 

 

 

 










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