死せざる少女の人形歌劇《グランギニョル》   作:ナナヒカリ

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夜の館の遁走曲《フーガ》

 

 

 ベルンハルトは一人毛布の上で震えていた。寒い。確かに寒い。だがそれだけではない。それだけが止まない震えの原因ではなかった。

 そろそろエムシェレが夕食を呼びに来る時間だ。それまでに立ち直らなければ()()()()()

 

 ──しかし、()()は。

 

 吐きたかった。腹の中身全てをぶちまけたかった。それを我慢した理由は薄汚い自尊心だけだった。

 

 ──()()()()()が何故。

 

 ベルンハルトの震えは収まらなかった。いつまでも、彼は毛布の上で自身の身体を抱きながら震え続けていた。

 

 

────────────────

 

 

 彼には自身の叫び声は聞こえなかった。

 

 したがって背後の人物に気づくこともなかった。

「お前がエムシェレが言っていたベルンハルトという人間か」

 ベルンハルトは不意に声をかけられ慌てて振り向いた。心臓は早鐘を打ち、口はパクパクと必死に空気を取り込もうとするも、その努力空しく肺は空気の受け取りを拒否している。限界一杯まで見開かれた眼球で、目の前の人間──否、それは明らかに人間では無かった──を見つめた。『死』を意識した。

 その人(?)物はまさに『死』の体現者と呼ぶべき風貌をしていた。眼窩は夜の闇のように黒々と淀み、その中から紅い光が彼を射竦めた。紫色の皮膚はゆったりとしたローブから覗く、骨ばった手足にピッタリと貼りつき、さながら生ける骸骨のようであった。

 

「……ん。お前は()()()()()()()()のか」

 男──それが生きた人間の男とするならばだが──はベルンハルトの姿を見てそう口にした。勿論気が動転しているベルンハルトには何を言っているのか分からない。

 ベルンハルトは背中を巨大なガラス瓶に密着させ、そろそろと入ってきた扉に近づいていった。手を伸ばしてノブを握ろうとした。

「まぁ待て。折角来たんだ。もう少しいるといい」

 男は砂地の砂利を思わせる独特のしゃがれ声で言った。その言い方はむしろ楽しげですらあった。

 

 とんでもない!!

 

 ベルンハルトは勇気を振り絞り叫んだ。

「ば、馬鹿な! あなたは、ここで何の研究をッ、いや、『これ』は、あなたはッ!!」

 

 彼は吐き気と戦いながら、『その言葉』を絞り出した。

 

 

"死霊術師"(ネクロマンサー)じゃないか!!」

 

 

 死体を弄ぶ妖術師は混沌の黒魔術師の次、いやそれと同じくらいに人々に忌避される存在である。当然のことながら、東部ではなおさら。

 いや、忌避で済めば儲けものだろう。魔狩人(まかりうど)に禁書を所持していたり、死体を使った実験を行っているところを見つかれば火炙りの刑は逃れ得ない。当たり前だ。そう当たり前だ。魔狩人の職務とは帝国(エンパイア)をその内部から瓦解させる混沌教団、異端の信徒、そして『魔女』を根絶やしにすることなのだから。

 それはタラブヘイムだけではない。帝国全域で死霊術(ネクロマンシー)の研究は死罪である。知識は制限されるべきものだ。有用か無用か、それどころか正しいか間違っているかすら関係は無い。

 民衆の支配に不必要なものは、すべからく『悪』なのだ。それが"力"の原因になるならなおさらである。

 

「こ、この死体は何なんだッ!? ば、場合によってはッま、魔狩人に通報しなくてはならないッ!」

 ベルンハルトは叫んだ。声は裏返り喉はかすれた。上階の者達に聞かれるかどうかなど考えなかった。彼は今やタラブヘイムの教養ある法律貴族の一員ではなく────

 

 ────只の臆病な帝国の一市民だった。

 

「クックックッ」

 男はそんなベルンハルトを前に心の底から可笑しくて堪らない、という風に笑った。笑い声すらもザラザラとした雑音が混じる。笑う骸骨という不気味な光景にベルンハルトは戦慄した。

「お前は──クックッ──正気で言っているのか? ククッ──()()に魔狩人が来ると、そう……本気で?」

 ベルンハルトは息を呑んだ。

 そうだ。この森の中に"法"は無い。"法"の守護者も、遵"法"の徒も。ここは無法の地だ。誰も"法"を、自分を守らない。

 

「!」

 ベルンハルトは男の不意を突いて扉へと駆け出した。ここから早く逃げ出さねば! ノブに手をかけた。

 ツッ! 動かない!? 何故? 鍵穴もないのに!

 ベルンハルトは手元を見て恐怖した。

 

 彼の右腕には男の干からびた手がシッカリと絡みついていた。いつの間に掴んでいたのか全く見えなかった。男の手はその細く今にも折れそうな外見と裏腹に、万力のような力でベルンハルトの腕を押さえつけていた。

 その時ベルンハルトは微かに異臭を感じた。

「もう少し見ていくといい。決して損はさせないとも。約束しよう」

 そう言うと男はベルンハルトが手に持つ蝋燭を音も立てずに奪いとった。いや、抜き取った? ──なにしろ速すぎて目に映らないのだ。何をしたかなど分かるわけがない。

 

 男がベルンハルトの手を引いて歩き出した。抵抗しようにも、両手で引っ張っても足をつっかい棒にしても男の腕はびくともしなかった。

 男はベルンハルトの抵抗を意に介さず喋りだした。

 

「俺の名はフランキスクス。エムシェレに言われると彼女の"祖父"なんだそうだ。()()()()()とは言え失礼な話だ──失敬。お前には何のことだか、()()分からないんだったな」

 まただ。

 ──彼女の兄ということになっている。

 どういうことだ? 何なんだ、()()()は。

 

 フランキスクスは先ほどベルンハルトが目にしたガラスの容器の前で立ち止まった。蝋燭でガラス瓶のラベルを照らす。

「この少女は流行り病で一家の大黒柱を失い、食いつめたところを俺が拾った。放っておけば一家全員餓死だっただろう。薬液に漬けてあるから簡単には腐らない。安らかな死を前にしたこの至福の表情。実に美しいとは思わないか?」

 ウットリとした眼差しで、薬液の中で浮かぶ目を閉じた少女の裸体を見つめていた。気色悪いにもほどがある。

「浮き出た鎖骨、あばら、恥骨。人体の美しさが凝縮されている。若いから皮膚のたるみもない。完璧な状態だ。髪の色は亜麻色、瞳の色は(ブルー)。もっとも閉じていては見えないが。これほど見事なサンプルを手に入れたことは運命に感謝している。一部の同族と違い俺は()()()を至上命題にしている。主に人体の構造と美的観点の関係から研究を行っている。エムシェレから聞いた。お前は俺の『研究』に興味を持っていたそうじゃないか。折角だ、案内してあげよう」

 ベルンハルトはほとんど聞いていなかった。偏執的な狂人の発想だ。今の話ではこの男が、この少女を殺したということではないか。

 

 フランキスクスは既に次の人体(サンプル)へと話を移していた。

「これは、今の少女の母親。死ぬなら親子揃ってがいいと泣いて懇願されてたのでな。美しさという点では娘に及ばないが、研究価値は高い。どうかね。解剖した脳を見るのは初めてかね? 実験の際には()()()()()()()()から生体の反応が見れて実に助かった。後の処理で苦悶の表情は消してある。天界を想う安らかな表情と着色して本来の色合いに近づけた淡黄色(クリーム色)の脳が綺麗だろう。死霊術(ネクロマンシー)を愚かな迷信と思わないで欲しい。少なくとも俺のは科学であり美学だよ。下世話な連中は墓を掘り返して無惨な姿の標本(サンプル)を手にいれるが──いやはや、美しさを理解しない無学の徒のやることだ。大目に見てやってくれ」

 男は今度は一体の小さな骨格標本の前で立ち止まった。

「これが彼女の弟。さすがにいい骨格をしている。勿論内臓は別に保存してあるがね。しかし、これほどの美しい骨格でも労働で歪んだ跡が見られるのはやるせないな。帝国の醜い実状だよ。醜い支配者は美しさを理解しない。いや、理解する目を持たない。審美眼を持たない連中の政権などこんなものだ」

 

「さて、ここからが目玉だ。先ずは筋肉の標本だ。皮膚を()()剥いでおいてからでないと姿勢(ポージング)を決めるのに時間を使えない。彼は元々スターランドの近衛連隊の大剣部隊にいたのだそうだ。確かに前腕部と肩の筋肉が強く発達している。優れた見本だ。脂肪が少なく人体の理想形に近い」

 

「これは開腹した内臓の標本だが、まあこれはいいか。目新しいこともないし。この男は元々俺の弟子だったが、貴重な著作を持ち逃げしたので()()なった。あまり出来のいい生徒ではなかったし、()()なってからの方が俺の研究の役には立っている。見せしめのためもあって敢えて苦悶の表情を残しているのだが、これはこれで味があっていいと思わんか?」

 

「この標本(サンプル)は凄いぞ。()()()()()()()()()()()()()()()ことで製作した『血液標本』だよ。葉脈のように輝く血管が美しいだろう? しっかり毛細血管まで浸透している。これによる知識とその効用は凄まじいよ。現在のように"ダハール"を死体に無闇に注ぎ込むのではなく、血液網を利用することでより効率的に人体の各部位に"ダハール"を行き渡らせることが出来るようになる。もっとも()()()()には向かないが、それは問題ではない。俺の造っているのは単なる人間の模造品(ゾンビ)ではない。完璧なる()()()()()()なのだから」

 

 ベルンハルトは聞いてはいなかった。一刻も早くここから逃げ出したかった。ここは()()()()()()()。こいつは何も感じないのか? こいつの『自称美術品』から溢れ出る芬々(ふんぷん)たる悪臭を。死臭……腐爛臭……違う、何だこのイヤな臭いは。

 

「ここで俺は自分の研究の一部を著作に纏めている。もちろん俺も『皮剥がれ男』といった伝統的な死霊術(ネクロマンシー)の書物は持っているが、もうそれらは古臭い。分かるか? 時代は変わっているんだよ。経験主義は捨てて理性的なものへと変わる時が来たのだ」

 

 なぜ分からない?

 こいつは、なぜ自分の臭気に気づかない?埃の積もる地下室に籠って、一番時代に取り残されているのは自分だというのに。

 臭い。早く、早く出たい。

 

「も、もう結構です……立派な、研究作品でした……」

 

「そうか、お前もそう思うか。そうだろう、そうだろう。俺が低俗な同族とは違うことが分かっただろう」

 

「ええ……ですから、一つだけ。エムシェレはよく()()に来るのですか?」

 

 フランキスクスは嬉しそうに笑った。薄汚れ、黄ばみ、欠けた歯が、ほとんど存在しない唇の隙間から垣間見えた。

「エムシェレか。エムシェレはよくやってくれている。研究に集中したい俺の為に()()を用意してくれるのだからな。胸の脂肪と化粧にかかずらう彼女の血族どもに比べれば余程有意義な人生だと思うぞ」

 ベルンハルトは黒々と澱む口とその中でどす黒く光る赤い舌から目を離した。

 

「そうですか……ではわたしはこれで。夕食に呼ばれておりますので。……興味深い研究でした」

 フランキスクスは案外あっさりと手を離してくれた。歩き去るベルンハルトの背後から声が追ってきた。

「見せていない標本(サンプル)はまだまだあるのだよ。いつでも来たまえ。君にならいつでも研究を披露しよう」

 

 誰であろうと研究を聞いてくれるのなら『お前』から『君』に格上げか。馬鹿馬鹿しい。露悪趣味にもほどがある。

 扉を閉めながらベルンハルトは思った。──二度と地下になど来るものか。しかし、気色悪い。エムシェレはいつも自分がいないときに食事を運んでいたのだろう。なぜ秘密にしていた? 俺の部屋と繋がっているんだぞ! あの化け物の地下室と俺の部屋が!

 

 そうだ。なぜ今まで思わなかったんだ。帰ろう。タラブヘイムへと。出来るだけ早く、明日にでも。森を抜ける道を聞いて、こんな異常な屋敷とはおさらばだ。都市に着いたら魔狩人に話さねば。全て焼いてもらう。少なくともあの狂った化け物だけは。

 

 階段を昇りきり、部屋へと帰ってきたとき、不意に我慢していた吐き気と悪寒に襲われた。激しい不快感。ベルンハルトは毛布の上に突っ伏し、手足を抱えた。

 

 

 

 

 

 ────いつまでそうしていたか。

 

「どうしたの? ()()()()?」

 

 ベルンハルトはビクリと震え、振り返った。

 エムシェレが閉じた扉の脇に立ち、微笑んでいた。いつもなら、心なごむ風景の筈だ。しかし、今のベルンハルトには彼女すら恐怖の対象として映った。

「……いや、何でもないよ」

 

 エムシェレは音も立てずにベルンハルトの傍に近寄ると囁いた。

「何だかとっても具合が悪そう。まるで()()()()()()()()()()みたい」

「…………君は知っていたのか?」

 

 エムシェレはフフフと笑うと蒼白のベルンハルトの顔の前でニッコリと笑った。

「なにを? ──ねぇ、それより」

 

 

「──そろそろ夕食の時間よ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無理をおして出席した晩餐では、とても食事する気にはなれず、僅かに口につける程度で済ませた。

 

 食後、ボリスが満を持した風に口を開いた。

「もう、今日で一週間になりますな」

 ベルンハルトは慌てて切り出した。

「それなんですが、いつまでもご厚意に甘えている訳にも参りませんし──」

 

「あなたには、いつまでもこの屋敷に居て頂きたい」

 

 

 

 ベルンハルトは驚きで目を見開いた。

「……え?」

 

 ボリスは顔色を変えずに言い添えた。

「つまり、私の娘の一人を貰って頂きたい」

「……エ、エムシェレをですか?」

 ボリスは快活そうに笑った。もっともベルンハルトにはそれは過剰な演技に見えたが。

「まさか! 年の差があるのは貴族の結婚には珍しくないと言え、そうではありませんよ。姉のフロレンティーナの方です」

 

 今までほとんど会話したことのないエムシェレの姉が、人形のような白い顔で笑みをつくった。

「宜しくお願い致します。ベルンハルト様」

 きっとベルンハルトの顔には『絶望』が貼り付いていたことだろう。

「……し、しかし、わたしはタラブヘイムの子爵家の、それも三男ですよ。とても貴家のご息女とは釣り合いが……」

 

「いいのですよ! ()()()()()は! ……私はあなたの人柄や品格を見込んで言っているのです。勿論持参金も付けさせて頂きます」

 

「で、でしたら、このことを是非郷里の両親に伝えなくては……」

 

「それは、手紙を出しましょう。辺鄙な土地でも定期的に配達人は来るのですよ。召使いに持たせても宜しい。出来るだけ早い時期に式を挙げたいのですが」

 

 ベルンハルトは混乱の余り、思考が出来なくなっていた。──何故、何故俺なのだ?何故俺がこんな目に会う? おかしい。異常だ。全てが、常軌を逸している。早く、早く出ていきたい。

「す、すみませんが急な話ですので一晩ゆっくり考えてみませんと……」

 

「答えは決まっているのではないのですか?」

 

 ベルンハルトは俯き、言葉を絞り出した。

「…………少し気持ちを整理させて下さい」

 

「……そうですか。では一晩待ちましょう」

 ベルンハルトは退席した。去り行く彼の後ろ姿を、卓につく他の5人は食い入るように見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベルンハルトは決心した。

 

 ──今夜の内にこの屋敷を抜け出そう。それしかない。それしか、彼らから逃れる方法はない。

 荷物を手早くまとめた。来たときとほとんど同じ、剣を持ち帰るか少し悩んだ末、それを腰に差した。そういう事態は全力で避けたいが、場合によっては使わなくてはいけないかもしれない。

 

 

 ──コンコン。

 

 ノック音。

「入ってもいいかしら?」

 エムシェレだ。勿論予想の範囲内だが……困ったな。

「あ、ああ……もちろん」

 

 扉が開き、少女が顔を出した。笑顔が眩しかった。汚れのない無垢な笑顔。できれば曇らせたくはなかった。

「あら、お兄さま、帰り支度?」

 ベルンハルトは一拍置くと、エムシェレの小さな肩を掻き抱いた。そのまま、少女に言い聞かせるように言った。

「すまない、僕はどうしても今夜帰らなければいけなくなってしまった。でも君たち家族の好意は忘れないよ。さよなら」

 

 エムシェレはベルンハルトが喋り終えてからもずっと黙っていた。暫くしてポツリと一言。

「…………離して」

 ベルンハルトはエムシェレを抱いた手をほどくと、一歩後ろに下がった。少女の顔を見ると、案に相違して涙は流していなかった。彼女はただ、俯きながら唇を噛み締めていた。長い金髪が顔にかかり、表情は窺い知れなかった。

 その時、ベルンハルトは場の"空気"が変わったのを感じた。

 顔を上げた少女の顔はただただ"凄艶"の二文字が相応しかった。それは今までベルンハルトがエムシェレに感じたことのない"女"の顔だった。

「どうしても、行くの? わたしをここに置いていって? "王子さま"は"お姫さま"と一緒にいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもお城の中で幸せに暮らすんじゃないの?」

 

 ベルンハルトは心臓が脈打つのを感じた。エムシェレの異国風の飴色の肌をこれほど魅力的に思ったことは初めてだった。動揺を気取られぬように敢えて落ち着き払って答えた。

「それはお話の中だけのはなッ!?」

 ベルンハルトが言い終えることが出来なかったのは、エムシェレが不意にベルンハルトを押し倒したからだった。膝を押されたベルンハルトはベッドに尻餅をつき、はからずも顔の高さがエムシェレと等しくなった。エムシェレは艶かしく腕をベルンハルトの首に絡ませると、膝の上にベルンハルトと向かい合うように股を開いて座った。

「ここは『お話の中の世界』よ。最初にそう言ったでしょう? 『ごっこ遊び』だって。この屋敷にいる限り、あなたはわたしの『お兄さま』でい続けるのよ。でも、そうあなたが望むのなら『旦那さま』にしてあげてもいいわ」

 

「わたしの『人形劇』の『王子さま』として──未来永劫、ずうぅっと」

 

 エムシェレが話している間、ベルンハルトは全く動くことが出来なかった。まるで──魔法にでもかかったかのごとく。ただ息をし思考するだけの──人形のごとく。

「……ここは、君を中心とした世界だったんだね」

 なんとかベルンハルトは言葉を紡ぎだした。エムシェレは笑う。

「そうわたしの、わたしのための世界。でもあなたには、幸せになって欲しい。お願い。望みのモノは何でもあげるわ。お金も富も美しい女(フロレンティーナ)も、力も若さも、永遠も。だから、この屋敷に一生いて。庭より外には一歩も出ないで。わたしの『お兄さま』になって。『わたし』を愛して」

 エムシェレは懇願した。目に涙を浮かべて。

 

 ベルンハルトは沈黙した。

 脳裏にタラブヘイムのグリュンヴァルト家の家屋敷が浮かんだ。自分を邪険に扱う兄たち。あからさまに邪魔者扱いする両親と召使いたち。愚劣な貴族どもに無知蒙昧な平民たち。そして、何の力もない自分。

 

 

 

「…………分かった。君の『お兄さま』になろう。……では、誓いの『キス』をしてくれないかな?」

 

 

 

 エムシェレの顔がパッと輝いた。

「ありがとう! やっぱり『お兄さま』は良い人だったのね。もちろんよ。ご褒美にキスをしてあげましょう」

 エムシェレはさらに腕を強く絡ませると、ベルンハルトにしなだれかかった。互いの鼻息が聞こえるほどの距離で、エムシェレは妖艶な目付きでベルンハルトの目を見つめながら、ゆっくりと顔を寄せた。ベルンハルトの耳元では心臓が激しく高鳴っていた。形のよい赤い唇がベルンハルトの口に覆い被さった。

 唇と唇が触れ合う瞬間、ベルンハルトは相手の唇を思いっきり強く噛んだ。

 

「ツッ!!?」

「離してくれッ!!!」

 

 ベルンハルトはエムシェレの小さく軽い体を突き飛ばすと、ベッドの側の荷物をひっ掴み、部屋を走り出た。

 エムシェレは開け放たれた扉を眺めながら、唇に流れる血を舌で舐めとった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おかしい。

 何かがおかしかった。

 俺はなぜあんな年端もいかない少女に欲情した?

 支離滅裂なことを喋り、最後には……。

 意味がわからない。俺は異常性欲者ではないのに。

 

 ベルンハルトは廊下をひた走っていた。他の一家にバレてしまうかもしれなかったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。

 頭にあるのは疑問、ただそれだけ。

 

 考えてみれば、変な話だ。なぜ俺は初対面の見ず知らずの少女をあそこまで信用した?突飛な願いまで聞いて。突飛と言えば、あの子、初めて会ったとき……

 

 

 ──ズィルヴァニアファミリーへようこそ。

 

 

 ベルンハルトの脳内を電撃が走った。

 足がもつれ、勢いよく転倒した。擦った膝に鋭い痛みがはしった。しかし、立ち止まるわけにはいかなかった。それは命取りだ。もしも……もしも、今ベルンハルトが思った『あること』が事実だったならば。

 

 俺はなぜ今の今まで気がつかなかった? 気に止めなかった? 思い出さなかった?

 

 疑問符が噴出した。自分の愚かさを呪いたかった。いや、それは本当に『愚かさ』だけの故なのか?

 呪縛が解けたかのようだった。ここに来てからずっと滞っていた思考が流れるように動き出した。

 

 なぜ俺はこの屋敷の不可思議な家族を──ものを食さない人間たち、暗闇で剣技を磨く男、自分のことを『兄』だと言う少女、死霊術を研究する不気味な男──彼らを疑いこそすれ、直ぐにでも逃げ出そうとしなかったのか。それは俺自身に何らかの"術"がかけられていたからではないのか。俺が思った『あること』が事実ならば、全ての疑問に一応の回答は出る。

 

 

 そもそも彼女が言ったズィルヴァニアという土地の名──

 

 ──それはスターランド選帝侯領東部の土地の総称。かつてのズィルヴァニア選帝侯領の名残。今彼がいる大いなる森(The Great Forest)の一部死の森(Dead Wood)とはスタール河を挟んで対岸に位置する。帝国市民がその名を聞いて思い浮かべる事柄はただ一つ──

 

 ──不死者(アンデッド)──

 

 ──かの吸血鬼伯爵(ヴァンパイアカウント)フォン=カーシュタイン一族が帝国に反旗を翻した土地。

 

 ──常に霧の立ち込める痩せた耕作地には襤褸をまとった小作人が転々と住み着いている。彼らは今でも"真の主"に仕えているのだとか。

 

 ──ズィルヴァニアにまつわる陰惨な話には枚挙に暇がない──

 

 ──月の初めには村から必ず一人の子供が姿を消す。村人は知っている。その子が二度と戻らないことを。

 

 ──太陽が沈むと住人はなにがあろうと決して家の外には出ない。だからといって、彼らが一晩を無事に過ごせる保証もないのだが。

 

 ──ズィルヴァニアにはモール神の神殿は存在しない。死者を不用意に守護することで、"領主"の機嫌を損ねないためである。聖的な保護を受けられない住人の肉体は"頃合いを見計らって"は墓から這い出すのだ。

 

 ──帝国の徴税吏でさえ二十人からなる兵士の小隊を伴ってでないとズィルヴァニアには赴かない。それはズィルヴァニアが帝国内部の"治外法権"区域であるという印象を強めている。

 

 なぜ俺はそんな不吉な土地の名を聞き流した? あの時から既に俺はおかしかったのだ。今なら分かる。ここから逃げ出さなくてはいけないということが。

 

 

 ベルンハルトはようやく一週間前に自らが訪れたホールへとたどり着いた。扉へと急いで駆け寄った。

 扉を引き、呆気にとられた。

 扉は開かなかった!

 脱力した一瞬後、彼は狂ったように扉を叩き始めた。押しても引いてもビクともしない。

 今までこの扉に鍵がかかっているのを見たことがなかったから、てっきり鍵はかかっていないものと思い込んでしまっていた。

 

 扉が使えないとなると、どこかの部屋の窓か。しかし、ベルンハルトが知っている全ての外に面した部屋の窓は固定された鎧戸だった。壊すにしても時間がかかる。

 ──どうする? どうする!?

 

 

 

「そこにいたのか?」

 

 人の声に振り返ると、ジルベールが二階の手すりからこちらに身を乗り出していた。警戒するベルンハルトにジルベールは叫んだ。

「こっちだ! 早くしろ」

 

 ベルンハルトが逡巡したのは一瞬だった。どっちにしても捕まるのなら、少しでも逃げ出せる確率が高い方を選ぶべきだろう。たとえそれが罠の可能性があったとしても。

 ベルンハルトは急いで目の前の階段を駆け上がった。ジルベールは既に扉の向こうへと消えている。二階に辿り着き、扉を開けると、右手にジルベールが立っていた。

「付いて来い」

 有無を言わせない口調でそう言うと先頭に立って走り出した。なかなかに速い。急いで追いかけながらベルンハルトは叫んだ。

「お前は吸血鬼(ヴァンパイア)なのか!?」

 ジルベールの答えは簡潔だった。

「そうだ」

 

「なら、なぜ俺を助ける!?」

 ジルベールは走りながら答えた。

「俺には出来ないからだ!」

 

「何がだ!?」

 

()()()から逃げることだ!」

 ベルンハルトの脳内で一つのピースがはまった。

「あの女……エムシェレのことか!?」

 ジルベールは苦しげに呻いた。

「……そうだッ」

 

 ジルベールはベルンハルトが以前見つけたタペストリーのある部屋に入った。二人は迷わずタペストリーを捲って下を潜った。

「皮肉なもんじゃないか」

 ジルベールは自嘲の笑みを浮かべた。

「孤高で誇り高い筈の吸血鬼(ヴァンパイア)が同族に囚われているとは」

 ベルンハルトにはジルベールの言う意味が分からなかった。

「……どういうことだ?」

 暗闇を手探りで歩きながら、ベルンハルトは聞いた。前方のジルベールは足音からすると闇の中にも関わらず迷いなく進んでいた。

「俺達もお前と同じということさ」

 ジルベールは歩きながら答えた。

 

「俺達はエムシェレによって集められた『家族』なんだよ」

 

「違いはただ一つ、俺達は吸血鬼(ヴァンパイア)で、お前が人間だということだけだ」

 ベルンハルトは容易には信じられなかった。そもそもが常識に反している話だ。

「何を言ってる? あんな子供がか?」

 

「外見だけならな」

 ジルベールは吐き捨てるように言った。

吸血鬼(ヴァンパイア)は老化をしない。あの女は俺達の中では一番の長命だ。定命の者達には考えられないほどの時間を過ごしている。最も長命のエルフに比肩し得る長さだ」

 ベルンハルトにはまだ実感が伴っていなかった。

「お前はどうなんだ? 同じ吸血鬼(ヴァンパイア)なんだろ?」

 ジルベールは嘲笑った。

「俺か? 俺はせいぜい200歳の若僧さ。この家の中で一番若い」

 ベルンハルトは呆気にとられた。

「200歳!? この家は何年前からあるんだ!?」

 

「俺が知る限りこの屋敷が建てられたのは180年ほど前だ。俺がこの屋敷を訪れたのが100年前、その時には既に今の『家族』は全員揃っていた」

 

「お前たち全員が吸血鬼(ヴァンパイア)なのか? 全員があんな小さい女の子一人を恐れ従っていると言うのか?」

 

「最初の質問の答えは是だ。後者に関しては正確に言えば、違う。あの女の『母』と『姉』の二人は元々あの女が"血"を分け与えた、いわば『娘』であり忠実な『手駒』だ。あの女が半分イカれても付き従うほどのな。俺とボリスはあの女の力を恐れているが、フランキスクスは研究以外に興味がないようだ。化物(イーノク)に関しては俺は何にも知らん。あの女が昔から連れて歩いているようだが、どんな気紛れだか」

 

 ジルベールは前に見た演武の部屋を通り過ぎ、別の通路へと入っていった。ベルンハルトは話し続けるジルベールに耳を傾けていた。

「俺がこの屋敷を訪れたのは、強大な吸血鬼(ヴァンパイア)がいるという噂を聞いたからだ。当時は今より若かったからな。血気にはやり自分の力の限界を知らなかった。今じゃ後悔してるが。とにかく、俺は囚われあの女の"思うがまま"ということだ」

 

「今俺を逃がしているのはエムシェレに逆らっていることにはならんのか?」

 ベルンハルトは疑問に思い、ジルベールに尋ねた。

「この程度なら『妹を嫌うお兄さま』の範疇なんだよ。あの女は"役"を重視してる。こっちがそれを逸脱さえしなければ、あの女も『妹』の枠内で動き、こっちのある程度の自由は保証されているんだ。もっとも俺があの女に剣を向けるといった"『家族』の範疇を越える行為"を行えばどうなるかは分からんがね」

 

「……どうなるんだ?お前の剣術なら勝てるんじゃないのか?」

 

「馬鹿を言うな。俺の剣術は"人ならざる者"を斬るようにはつくられてない。あくまでも人間と闘うためのものだ」

 

「じゃあどうして剣術を磨いているんだ? ここから逃げ出すためじゃないのか?」

 ベルンハルトは畳み掛けた。ジルベールは沈黙した。

「……違う。単純に"することがない"からだ。無限とも言える時間を生きる俺達は人間より遥かに"退屈"を恐れる。不死の超人になってなお何かにすがらねば生きていけないんだ。……あの男(ボリス)もそうだ。名高いフォン=カーシュタインという姓を持ちながら、ここでは薔薇を育てることのみを生き甲斐に命を(なが)らえている。あの愚か者(フランキスクス)は言うに及ばず、ここでは誰もが自分だけを見て生きているのだ。ある意味俺達(ヴァンパイア)らしい生き方なのかもしれないな。他人には我関せずを貫ける」

 

「それに、逃げ出すことなぞ出来はしない。俺達は人間の血を摂取しなければ約一週間で死に至る。この深い森の中で人間の血を手に入れる方法は、森を徘徊するフランキスクスの出来損ない(ゾンビ)共が捕まえてくる人間しかいない。……気づいたか。そう、お前みたいな人間のことだよ。とにかく、ここから抜け出して、森を脱出出来るかは分の悪い賭けだ。それに後ろ楯のない吸血鬼(ヴァンパイア)は直ぐに人間に狩り殺される。ズィルヴァニア方面はフォン=カーシュタインの縄張りで下手に入っても殺される相手が変わるだけの話だ。どうだ? 吸血鬼(ヴァンパイア)の世界も案外世知辛いものだろう」

 

 道は階段になり、壁を手探りで進むベルンハルトはどうしても遅れがちになった。ジルベールの姿は闇の中でほぼ見えない。ベルンハルトは疑問を暗闇に向かってぶつけた。

「だが、じゃあエムシェレがそうまでしてお前たちをこの屋敷に繋ぎ止める理由とは一体なんだ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗闇から声が聞こえた。

「そのままの理由だ。あの女は1500年生きてようやく『家族』が欲しくなったのさ」

 後は無音。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 








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