レンズ越しのセイレーン【完】   作:あんだるしあ(活動終了)

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 愛していました 世界が壊れるその日まで


Ready4-2 ペイト/グッバイ

 

 ノヴァがユリウスとの間に一人の娘を儲けて、5年が過ぎた。

 

 5年の間に世界は大きく変わった。

 

 瘴気汚染と、それによる人間の「物体化」。クランスピア社のさらなる台頭。エレンピオスとリーゼ・マクシアの抗争。

 

 だが、どれもノヴァたちの生活には波風をもたらさなかった。それらに触れる時があるとすれば、アルヴィンが、山奥にいる自分たちの家に食糧や生活用品を届けに来たついでに、世間話をする時くらいだ。

 一人娘のユースティアは、アルヴィンをいたく気に入っていて、「世間話」を目を輝かせて耳を傾けていたが。

 

 そのユースティアが5歳の誕生日を迎えた日の深夜、ユリウスはノヴァに告げた。

 

 

「明日からユースティアの『訓練』を始める」

「はい――」

 

 事ここに至って、ユースティアを引き取らせてくれ、と願うノヴァではない。伊達に5年も連れ添っていない。

 

 ユリウスの根幹の冷たさはちっとも変わらない。ここでノヴァがユースティアを連れ帰ろうものなら、例えノヴァであっても殺して奪還していくだろう。

 

「今日までユースティアを育ててくれてありがとう。君には感謝してもしきれない。あの子がこんな世界にあってまっすぐで人らしい心を持てたのは、君のおかげだ」

「そんなことないです。あたしは普通の母親がすることをあの子にしただけです。それにあたしもあの子から色んなことを学びました。本当に……あの子を産んでよかった」

 

 充実した5年間だった。

 

 ユースティアは一般の赤ん坊より比較的大人しく、注いだ情愛の分だけ応えようとする健気な気質だった。

 言葉を教えれば噛んでも間違っても言えるまで四六時中練習した。

 笑いかければ極上の笑顔で笑い返し、丘の造花を差し出した。

 寒い日は二人でケープにくるまって灰色の雪を見ながら、お互いのカップのココアを飲ませあいっこした。

 

 もう5年。――ノヴァにとってはあまりに短い歳月。これからあの子が羽化して、一人前の少女になるまで見守りたかったのに。

 

 

 

 

 夜が明けて、ノヴァはまとめた荷物を持って家の玄関を出た。

 

 ユリウスが見つけてきた非汚染区域の山の中。丘の上には年中通して花が咲いているが、全て生花ではないから枯れも生え変わりもしない。ジオラマの中のような穏やかな空間ともお別れだ。

 

 

 外に出たノヴァを、ユリウスとユースティアが見送りに来た。

 

「俺の時間はこの先ずっとルドガーのために使う。だが――俺の心は、永遠に、君のものだ」

 

 ノヴァは笑いたいのか泣きたいのか分からない気持ちで、夫の胸に身を寄せた。

 

「最後まで、ヒドイ、ひと――――確かに、頂きました。すてきな餞別をありがとう、あなた」

 

 次いでノヴァは、行儀よく自分の順番を待っていたユースティアを力いっぱい抱きしめた。

 

 ユースティアももぞもぞと動いて、とにかく1cm²でも多く母とくっついていられる位置を探している。

 何て愛らしく、愛おしい生き物だろう。

 

「それじゃユースティア、かーさま、行くね。とーさまの言うことちゃんと聞いて、いい子で暮らすのよ」

「かーさまは?」

「麓の街に戻るだけだから。大丈夫。時々会いに来るから、ユースティアも会いにいらっしゃい。いつかあなたの伯母さん、紹介してあげる」

「ユースティアにおばちゃまがいるの?」

「そうよ。かーさまのお姉ちゃん。他にも昔の友達とか。ユースティアを楽しませてくれる人ならいっぱい心当たりあるんだから。だから、しばらくの間、バイバイね」

「わかった。ユースティアはかーさまとバイバイして、とーさまの言うこと聞いていい子にする」

「えらいわね。いい子。大好きよ、あたしたちのユースティア」

 

 最後にもう一度だけ。ノヴァは愛する人との愛娘を強く抱いた。

 

(さよなら。私の愛する人たち)

 

 …………

 

 ……

 

 …

 

 街に戻ったノヴァは、ヴェルの家に転がり込んだ。

 

 片割れはポーズでも怒るだろうと予想したのに、何も言わずにノヴァとの同居を受け入れたものだから、ノヴァのほうがぽかんとした。

 

 ――それから10年経った今もノヴァが非汚染地区に住めているのは、ヴェルの恩恵だ。ヴェルがクランスピア社で高い地位にあるから、唯一の家族のノヴァも非汚染区居住の優先権を得られる。

 

 

 ある日のことだった。ノヴァはマーケットで買った安全な食材を詰めた袋を抱え、家路を急いでいた。

 

(早く帰って夕飯の支度しないと、ヴェルの仕事終わっちゃうよ)

 

 

 そんな何の変哲もない一日の終わり。

 天地がひび割れて、崩れ落ちた。

 

 

(――ああ)

 

 ノヴァはその場に立ち尽くした。力が抜けた腕から袋が落ちて、いずこともなく消えていった。

 

 無くなった天を仰ぎ、涙を一粒だけ落とした。

 

 

 ――夫と娘がついに遂げたのだ。

 

 

 刹那のエアポケットの中で、ノヴァはあの日のように思いきり娘を抱き締めたいと願った。




 【ペイト】
 説得の女神、結婚の女神、アフロディテの従者。

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