長いイントロダクションを経て、ようやくルドガーたちは参道に足を踏み出した。
渓谷に挟まれた道は、たまに褐色の葉を茂らす樹があるくらいで平坦だった。だが、いざ霊山の登山を始めると、その険しさに大きく苦しめられる者がいた――エルだ。
「エル、しんどいならしんどいって言わないとダメだろう」
「ヘーキだし! このくらい、どうってことないもん!」
これで何度目か。適当な岩に座って休みながらも、エルは気炎を吐くのをやめない。だが、顔色の青さも汗も荒い息遣いも、エルの疲労の度合いを強く主張している。今までも休めとルドガーたちは言い聞かせたが、エルは大丈夫の一点張りだった。
(エルなりに俺たちに迷惑かけないようにって頑張ってるのは嬉しいんだけど、だからってそれに甘えきってちゃエルが倒れかねない。この子は8歳の女の子なんだ)
水分補給を終えたエルに、ルドガーは背を向けてしゃがんだ。
「……なに?」
「ここからは俺が負ぶってく」
「だ、だめだよ!! エル、ひとりで歩けるし!」
「そんなこと言ったって、俺たちのペースで歩くのキツイんだろ。だから俺がエルを背負ってく」
「や……ヤダ! そんなのハズかしい!」
「恥ずかしいって何だよ。子どもなんだから素直に甘えとけ」
「コドモ扱いしないでー!」
「どっからどー見ても子供が言うなっ。――エル、別に俺はお前を責めて言ってるわけじゃない。ただ、エルに具合悪くなったり、足痛めたりしてほしくないんだ。心配して言ってるんだ。それでもだめなのか?」
「う…ぅう……だ、って…ずっと、ルドガーの背中、ぴっとり…くっついて…」
エルはもじもじと答えを渋る。押してダメなら引いてみるか。ルドガーは心を鬼にした。
「あんまりしんどいなら、レイアかユティに付いててもらってここに残ってもいいんだ。ここまで俺の都合で引っ張り回してきたけど、よく考えたら危ないって分かってるとこまで連れてくのはおかしいもんな」
「あ…」
エルの両の翠が見捨てられることへの恐怖でざあっと染まった。まずい、と気づいた時には遅かった。
「……分かったよ。ルドガーはエルがジャマなんでしょ!? じゃあエル下で待ってるから! 行ってらっしゃい!」
「エル、待ってくれ! そういう意味じゃない!」
エルは坂の傾斜に任せて登山道を駆け下りる。ルルもエルに従って走る。ルドガーはレイアたちにこの場にいるよう言い置き、慌ててエルを追いかけた。
大人と子供の足だ、じきに距離は詰められる。そう楽観視していたところで、
「っ、きゃあああああ!!」
エルが岩の突起に躓いた。坂道降下の勢いもあって、エルの体は派手に宙に舞った。
「エルっっ!!」
「ナァ~!!」
――あんな下らないことで口ゲンカなどしなければ。後悔がルドガーの頭に滲んでゆく。
地面に落ちて壁面を派手にスライディングするしかなかったエルは――
ちょうど山を登って来ていたアルヴィンとユリウスの内、ユリウスが逸早く状況を理解して、彼女をキャッチしたことで難を逃れた。
エルが助かった。ルドガーは気が抜けてその場にしゃがみ込んだ。
「エル!」
気を取り直し、ユリウスによって地面に下ろされたエルにまっしぐらに駆け寄った。
どこも壊れていない。無事だ。ルドガーは心から安堵した。
「で……どんな状況だこれ」
追いついた男たちの内、アルヴィンが低く呟いて、ようやく騒ぎは収拾した。
「まったく! こっちは1分1秒でも惜しいってのに。そういう段取りは先にしといてよね!」
先頭を行くご立腹ミラをレイアが宥める。
エルの件については、ルドガーとアルヴィンが交替で肩車をするという形で決着がついた。二人の男による肩車はユティにばっちり激写されたがそれは余談である。
「さっきはごめん。邪魔じゃないから。俺、エルがいないとすごくダメな男だから。でもエルに辛い思いさせたくなくて、空回った。ごめんな」
「ん、しょうがないからゆるしてあげる。今回だけだからね…………えっと、98、99、100! アルヴィン、コータイだよ」
「はいよっと」
ルドガーが屈むと、エルはルドガーの背をずぞぞぞと滑り降りた。見てみたい、と思っていると背後でシャッター音。ふり返り、ルドガーはこっそりユティに親指グッのポーズを送った。ユティも同じしぐさで応えた。彼女のこういうノリのよさは大好きだ。
「ナァ~」
地面に降りたエルに対し、ルルが寄ってきて心配げな声を上げた。エルは「ダイジョウブ」と答えながらルルを撫でた。そこでふとエルは何かに気づいたように顔を上げた。
「ねえ。ルルの飼い主ってルドガー? それともメガネのおじさん?」
「ナァ~?」
ルドガーとユリウスは顔を見合わせた。ルルの単位は「我が家の猫」だったので、どちらが明確に飼い主かなど考えたこともなかった。なかったのだが。
「もちろん俺だよ。面倒見てんの俺だからな」
「やっぱり! ルドガーに一番懐いてるっぽいもんね」
第三者からも支持を得た。ルドガーはユリウスを見てにやっとした。あからさまな挑発に、ユリウスもカチンと来たらしい。
「それは違うぞ。ルルがルドガーに懐いてるのは、エサを作ってくれてるからだ」
「うわユリウス大人げね」
「前提から崩しに来たっ」
「だがルルなら、エサ代を出している真の主人が誰なのか分かっているはず……いや、損得を越えた真心で繋がってるはず! そうだろ、ルル!?」
「そんなことないよな!? 仕事で全然いない兄さんより、飯やって遊んでやってブラシかけてやってる俺のが飼い主らしいよな、ルル!?」
兄弟に詰め寄られてルルは縮こまる。
「んー。ぶっちゃけ、ルルはどっちが好きなの?」
「ナァ~♡」
ルルはごろごろとエルにすり寄った。エルはぱぁっと頬を染め、ルルを抱き上げた。
「エルが一番だって!」
「毎日欠かさず猫じゃらで遊んでやってる恩を忘れたかーっ!」
「ルル……お前もか」
兄弟は怒りと嘆き両方のリアクションを呈した。ミラが溜息をついた。
「あほらし」
「まあそう言いなさんな、ミラさんや。本人ら的には重要な問題なんだからさ」
「誰が主人かなんて動物のほうが決めることでしょ。現にこの辺の動物たちは、どれも昔出てった私の巫子に侍ってたわよ」
「巫子ってイバルだよね。出てっちゃったんだ……じゃあその動物たちの世話はミラがしてるの?」
「まさか。獣の野生は人間には縛れない。それぞれ森や山に散っていったわ」
「それ、賛成。ワタシも、動物さんのお家は樹で、土で、水で、空だと思う」
「初めてあなたと意見が合ったわね」
「合ったね」
――おしゃべりが絶えなかったのは、きっとみんなが現実から目を背けたかったからだ。
霊山頂上に到着すればミュゼを――
世界を滅ぼす。抽象的すぎてどう背負い、贖えばいいか分からない事象を前にするのを、誰もが潜在的に恐れていた。
だが、彼らの舌が停まらないように、足もまた止まることはない。幾度休憩を挟もうが、魔物と戦おうが、進み続ければいずれ――ゴールに着いてしまうのだ。
C7で分史ミラと分史ミュゼのやり取りの時、ルドガーとユリウスにパンしてたのがとても印象的でした。あれはこういうことじゃないかと作者は思っております。