ユティはふり返る。お手伝いさんがドアを開けて、一人の老人に道を譲った。側頭部だけに白髪が残った禿頭、黒いサングラス。
(あのおじいちゃんが、お前のご主人様?)
(ニャー♪)
アルヴィンが立ち上がる。ユティも立とうとしたが、白猫が膝に載っていてきなかった。
「勝手に上り込んですみません」
「いえいえ。我が家の猫を連れてきてくださった方々ですな?」
「はい。『ユルゲンス=アルフレド商会』のアルフレド・ヴィント・スヴェントです。あちらはユースティア・レイシィ。お会いできて光栄です」
アルヴィンとマルクスは和やかに握手を交わしてから、それぞれソファーに座った。お手伝いさんがマルクスの分のお茶と茶請けを置いて出て行った。
ユティの膝に陣取っていた白猫が起き上がった。白猫はユティの手を一舐めすると、正面に座るマルクスのもとへ行って足にすり寄った。
「おお、ユリウス。やっと帰って来てくれたか」
「一度はご依頼通り『デイリートリグラフ』の記者が見つけたんですが、当方のミスで逃がしてしまいまして。お届けするのが遅れてしまいました。本当に申し訳ありません」
アルヴィンが殊勝に頭を下げた。ユティも真似をする。
(商談中のアルおじさま、カッコイイ。役得)
「束縛される生活がイヤで逃げ出したらしいですよ。動物の生態に詳しい知り合いが言ってました。たまには自由にさせてやったほうがいいかと」
(イバルの獣隷術でって言わない辺りは、さすが。エレンピオス人には馴染みのない、もしくは忌避されうる技術を無暗に口にしない。彼はエレンピオスとリーゼ・マクシアの距離感を心得てる)
「そうでしたか……すまなかった、ユリウス。これからは自由に出歩いていいよ。ワシのもとに帰ってきてさえすれば、な」
白猫はご機嫌な鳴き声を上げた。
「いやはや、お恥ずかしい。猫だけが生き甲斐の年寄りなのですよ。20年ほど前に娘二人を立て続けに亡くして以来――」
「ご愁傷様です」
「孤独な年寄りですが、わずかばかりの資産もコネクションもあります。お礼を差し上げましょう」
「いえいえ、結構ですよ。そういうつもりで来たんじゃありませんから」
「そういうわけには。そういえば貴方はご自身の商会をお持ちとか。どうでしょう、謝礼の代わりに一つ商売の話でも」
アルヴィンとマルクスの商売談義が始まった。アルヴィンとユルゲンスの「リーゼ・マクシアとエレンピオスの架け橋を目指す」という社訓(?)が慈善事業に通じるところがあったのか、話は弾んだ。
ユティは話の切れ目を見つけるべく、耳を研ぎ澄ませていた。
そして来たその瞬間、この席で彼女は初めて声を上げた。
「その猫を見つけてくれた人から、伝言を預かってきました」
ひとつ、深呼吸をする。叶う限り、ユリウスが言葉に込めた想いがマルクスに届くよう願って。
「『心配をかけてすまない。あなたの孫は元気でやってる』」
マルクスが大きく息を呑んだ。
「なに? じゃあこいつ見つけたのって、マルクスさんのお孫さん!? ……偶然ってこえー」
「ワタシも今日しみじみそう思った。――マルクスさん」
すっく。立ち上がり、カメラを持つ。上からの視点で、サングラスの奥の彼の目がどこかユリウスに似ていると気づいた。
「ワタシ、趣味で写真をやってるんです。マルクスさんさえよろしいのでしたら、一枚撮らせてくださいませんか。
ユティは頭を下げる。マルクスがまじまじとユティを見ているのを感じる。
「……分かりました。こんな老いぼれの写真でよければ何枚でも撮りなされ」
「ありがとうございます」
ユティはアルヴィンを見下ろした。
「少し時間かかると思う。レイアへの報告、お願いして、い?」
「言ってなかったのかよ! それじゃレイア、ずーっと一人で猫探ししてたってことか?」
「――――」
「あー、分かった分かった! 責任持って報告しといてやるから、無言で凹むな」
アルヴィンはマルクスに断り、GHSを取り出しながら応接間の外へ出た。しっかりとそれを見届けてから、ユティはカメラを構えた。
マルクスが足元で寝ていた白猫を抱き上げる。
「あの人から聞きました。昔、執事さんをしてらしたって」
シャッターを切る。まずF値を最大にしてクリアに。
「そこまで話されましたか……はい。ユリウス様がお生まれになる前から、ユリウス様の生家で娘たち共々働かせていただきました」
「ユリウス、こうも言いました。俺の気持ちを分かってくれたのは爺やだけだった、って」
「そうですか…ユリウス様がそんなことを…」
「若い頃のあの人に理解者がいてくれて、よかった。ずっとひとりぼっち、じゃなかったんだって分かって、ワタシも嬉しいです」
シャッターを切る。今度はF値を手動にして、あえてバックをボカした。
「……お嬢さん、あなたは一体」
ユティはシャッターから指を外し、カメラを下ろした。
そして、困惑するマルクスに対し、ただ、微笑んだ。
こうしてユティとアルヴィンはマルクスの屋敷を後にした。
「レイア、涙声だったぞ。後でちゃんと詫びの電話入れとけよ」
「ごめんなさい」
ドヴォール駅の駅舎に入る。大勢の利用客と、アナウンスの反響で、構内はひどく騒がしい。
「ねえ」
「何だ」
「家族、いる?」
「自称親戚ならたーくさんいるぜ。おたくは?」
ユティは無言で首を振った。アルヴィンはそれ以上尋ねて来なかった。代わりにぽつっと「俺もだ」と答えた。
トリグラフ行きの列車がホームに走り込む。列車に乗る直前、ユティは一度だけふり返った。
(猫ユリウスと一緒に、いつまでも元気で長生きしてね。ひいお祖父ちゃま)
3-2から分割しました。
【アキレウス】
①ホメロスの叙事詩『イリアス』に登場するトロイヤ戦争最大の英雄。赤子の頃に冥界の河に浸かって不死身を得たが、かかとだけ河に浸かりそびれてその部位が弱点となる。
②のふくらはぎの下方からかかとの骨の策上の腱。①の神話からアキレス腱の名が付けられた。